いこと更新しない間、けっこうメールで督促されました(^^;)。「教えて!野球」が、それ
なりに好評で、私自身、けっこうノッて書いているので、そっちにかまけてしまいました。
    その反省も含めて、今回は番外編です。

     ということで、今回は選手ではなく監督にスポットを当ててました。三原脩と言えば、
    知る人ぞ知る大監督。なにも私のページで取り上げるまでもない、超有名な監督なのです
    が、うちのページはけっこう若い読者も多いようですので、「こういう監督もいたんだよ」と
    いう意味でも、書いてみたいと思います。
     ここで取り上げる以上、在り来たりな監督論を書いても仕方がないし、だいいち、そういう
    文章なら今までにも様々出版されています。そこで、このコーナーで取り上げるに相応しい、
    ユニークな行動や指揮について記載してみましょう。当時、スポーツ紙記者たちは、「ネタが
    なくなったら三原監督」と言い合っていたそうです。
     わかりやすく箇条書きで行きます。

     この三原さん、そもそもは巨人の選手で内野手として活躍、主将を務めています。その後、
    巨人の監督としても辣腕を振るい、1リーグ時代の昭和24年には見事に優勝させています。
    しかしながら、セ・パ分裂後の翌年には優勝を逃し、さらにシベリアから水原茂が帰国した
    こともあり、解任されました。それからは、西鉄、近鉄、大洋、ヤクルトで監督を務め、巨人を
    ライバル視して対抗しました。西鉄監督時代には昭和31年から巨人を日本シリーズで3回
    続けて破り、溜飲を下げました。一部に、水原との不仲も伝えられましたが、裏では親交が
    あったことがわかっています。

 1.ポカリ事件
   昭和24年の話。この年に発生した別所投手引き抜き事件もあって、巨人−南海戦は因縁
  のカードとなっていた。そんな中、4月12日から始まった後楽園球場での3連戦、いやがうえにも
  盛り上がり、1戦2戦と両軍選手が興奮するプレーが続出した。そして問題の3戦目。4−0とリード
  した巨人は9回表、南海の猛攻を受ける。無死から連打を浴びせ、飯田徳治の本塁打を含め、一挙
  に3点を返し、なお無死1塁。ここで打者の岡村俊昭が一塁ゴロを打つと、一塁走者の筒井敬三は
  併殺を逃れるため、二塁ベースカバーの白石敏男遊撃手に抱きついてしまう。白石は激怒し、両者
  小競り合い。たちまち両軍ベンチ総出となった。ここで登場したのが三原監督。止めるのかと思いき
  や、なんと筒井をいきなり平手でひっぱたいたのである(^^;)。南海の山本(鶴岡)一人監督が
  割って入り、大きな乱闘にはならずに済んだ。三原監督によると、筒井は1戦2戦でのトラブルでも
  先頭に立って抗議していたため、いい加減ハラが立っていたそうで、「最初から殴るつもりだった」
  と言っている。知将の一言では片づけられない一面を見る思いがする。
   なお、この件で三原は無期限出場停止処分を受けるが、7月21日付で解除された。

 2.捕手5人衆
   昭和30(1955)年、西鉄監督時代の話。9月16日、川崎球場で行なわれた毎日戦でのこと。
  この試合で三原監督は、なんと捕手を5名も起用している。今でもそうだが、通常、ベンチ入り
  している捕手はせいぜい3人がいいところである。
   このゲーム、西鉄先発の捕手は正捕手の日比野武だったが、5回裏の攻撃の際、代打が起用
  されたため、控えの後藤順二郎がマスクをかぶった。さらに、その後藤も、8回の攻撃で代打を
  出されたため、その裏の守備から和田博実が入った。9回の攻撃で、その和田にも代打が出た
  ために、今度は八浪知行が守備につく。しかし、この八浪は打撃妨害をやらかすなど、ミスを連発
  したため、次に大和田明が受けることなった。これで都合5名の捕手登場である。
   5名も捕手をベンチ登録したのかというと、実はそうではない。八浪などはミスを犯しているが、
  実のところ、彼の本職は外野手であり、捕手として出たのはこの試合が最初で最後だったのである。
  さらに大和田も本職は外野手である。三原監督としては、来シーズンへの布石としてテストしてみた
  ということだったのだろう。

 3.1イニング5投手リレー
   昭和34(1959)年、西鉄監督時代。5月30日、平和台球場での大毎戦。7回表、大毎の攻撃、
  この回先頭の葛城隆雄右翼手がレフト前にヒットすると、三原監督は先発の島原幸雄投手をあき
  らめた。登板したのは桑原庄治だったが、続く田宮に一塁内野安打を許したため、すぐに降板。
  次にマウンドへ登ったのは若生忠夫で、若生は矢頭高雄を三振に切ってとった。次は左の荒川博
  だったことから、三原監督は左腕の阿部八郎を投げさせた。対抗して大毎も右の代打・佐々木信也
  を起用したが、初球をを打ってショートフライに倒れた。ここでまたしても投手交代で、河村英文
  投げることになった。河村は代打の坂本文次郎を四球で歩かせたが、植村義信を一塁ゴロに仕留
  めて事なきを得た。これだけの投手リレーが成功したのは極めて珍しい。

 4.26名出場
   昭和35(1960)年、この年に大洋監督に就任し、前年度最下位だった大洋を見事に優勝させ、
  おまけに日本シリーズでも4連勝して日本一になっている。その年に、こういう面白いことをやってる
  んだね、このおじさん(^^;)。
   言うまでもないが、プロ野球でベンチ入り出来る選手数は25名である。従って1試合に出場できる
  選手も25名のはずなのだ。そこを26名使うというのが三原流。
   実は当時、5月1日から9月15日までは25名までしか出場できないが、それ以外の期間であれば
  45名の選手登録内であれば何人出してよい、というルールがあったのである。そこで9月19日の
  阪神戦(川崎球場)でそれをやった。これだけ選手を使ったのに、いわゆるアテウマは2人おらず、
  24人をグラウンドに出したことになる。
   よく考えれば、別に30人使おうが40人出そうがかまわないはずであるが、1人オーバーの26名
  にしたというのが面白い。

 5.アテウマ7名
   昭和37(1962)年9月22日。川崎球場での中日戦。この試合で、なんと7名のアテウマを使って
  いる。先発メンバーでそのまま出場したのは、3番の近藤和彦と、投手の秋山登だけ。あとの7名は
  すべてアテウマ。消化試合ならではかも知れないが、これで勝ってしまうのが三原監督のすごい
  ところ。

 6.1番打者・投手
   昭和46(1971)年8月22日、神宮球場でのヤクルト−大洋戦。ヤクルト監督に就任していた
  三原監督が、また奇策をやってのけた。なんと1番にピッチャーの外山義明を起用したのである。
  1回表の大洋の攻撃を無失点に抑えた外山はその裏、休む間もなくトップバッターとして打席に入る
  ことになる。結果は大洋・平松政次に抑えられて一塁ゴロ。そのまま2回のマウンドに登ったものの
  大洋打線の餌食になり、この回でKOされた。以後、三原監督も、この種の起用はしていない。
   外山はもともと打力もあり、しばしば代打にも起用されていたのだが、さすがに先発投手として
  投げ、主軸を打つというのは重荷だったのだろう。ちなみに、三原監督は近鉄監督時代に、永渕
  洋三外野手を投手にも起用し、同じようなことをやっている。永渕は打者として開花し、首位打者も
  獲得し、晩年には代打の切り札になっている(水島新司「あぶさん」のモデルとして有名)。


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