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久欠番という制度自体は、私はあまり好きではない。その選手を称えるという趣旨は
わかるが、その背番号を受け継いだ選手がどんな活躍を見せるのか、という楽しみの方が
大きいと信じるからだ。
さて永久欠番というと、巨人の長嶋茂雄や王貞治が有名だが、他球団にもいるので
ある。今回紹介する西沢道夫の線番号15は、ドラゴンズ初の永久欠番となった。
この西沢、養成選手という制度でドラゴンズに入団する。昭和11(1936)年のことだ。
この時、西沢わずか14歳。抜群の成績でテストをパスしたのだが、他球団やナインたち
の手前、この年はメンバー登録されず、試合出場はなかった。だが、西沢の成長は球団
首脳の予想をはるかに越えており、翌年には投手として選手登録された。若干15歳の
少年である。なお、この時の背番号は5だった。
しかしながら、ベンチ入りはしたものの、12年には出場機会なく、先輩たちのプレーを
じっくり観察するにとどまる。
西沢が頭角を表すのは昭和13年から。この年の6月26日、後楽園球場で行なわれた
阪急戦に登板、1失点に抑えて初勝利を飾った。なんと16歳である。松坂真っ青(^^;)。
その翌年には6勝を挙げて着々と成長し、15年には20勝9敗という好成績でエースに
のし上がった。18歳。
西沢の名が一躍全国に広まったのは昭和17年5月24日に行なわれた試合だろう。
記録マニアなら誰でも知っている、かの延長28回というプロ野球記録に投げたのだ。
この試合、戦時中ということもあって決着がつくまで強行される予定だったのだが、日没
コールドで4−4の引き分けに終わる。特筆すべきは、大洋・野口、名古屋・西沢両投手
ともに完投していることだ。後日、西沢は「涼しかったし、あと5〜6回は投げられた」と
言っている。恐ろしいばかりのスタミナである。
西沢はこのあと、7月18日の阪急戦ではノーヒットノーランを達成しているが、通算成績
は59勝65敗で終わっている。これは、途中、兵役あり、職業野球中断ありというアクシ
デントに加え、過酷な練習と登板過多で肩にヒジを傷めてしまい、投手生命が途絶えてし
まったためだ。しかし、西沢の才能は投手だけにとどまらない。その非凡なバッティング・
センスを見込まれ、打者に転向した。
ドラゴンズに復帰した昭和24年には554打数171安打の.309、37本塁打、114打点。
翌25年には562打数175安打で.311、46本塁打、135打点という素晴らしい成績を
挙げている。この25年には、シーズン満塁本塁打5本というプロ野球記録も打ち立てている。
試合数の多いメジャー・リーグでも、シーズン満塁本塁打の記録は5本だから、西沢の記録
のすごさがわかろうというもの。
昭和27年には待望のタイトル(首位打者、打点王)を獲得、29年の優勝時にも.341と
うちまくって、不動の4番として活躍した。昭和33年で引退したが、この年は本塁打こそ2本
と衰えたものの、375打数103安打の.275で打撃ベスト10の8位にいた。余力を残して
の引退だったのだろう。球団は西沢の功績を称え、背番号15を永久欠番とした。
その後、指導者としてドラゴンズに復帰、監督を3度つとめたが、監督としては成功したとは
言えない。が、その人柄の良さで、フロントではなく選手たちから渇望されて監督に就任する、
ということもあった。
いずれにせよ、ドラゴンズ史上最高の打者という評価は変わらない。
通算打撃成績。実働18年で1456試合、5035打数1464安打.291。188本塁打、
823打点。天性の長距離ヒッターで、長く、グリップの細いバットを愛用した。市販のバットの
太さに満足出来ず、バットを買うと自分でガラスの破片を使って、丁寧にグリップを削って、好み
の細さにしていた。オールスター戦で巨人の川上哲治一塁手が、この西沢のバットを見て呆れ
た。「よくこんなバットで打てるもんだ。ワシなら折ってしまうよ」
西沢はホームラン打者ではあったが、ミートも抜群に巧かったのである。