スト生という制度が昔はあった。ドラフトでの指名選手数が増加したこと、また逆指名
制度が普及したこと、あるいはアマ球界との関係もあり、この制度は廃止になった。今でも
    テストを行なっている球団もあるが、ここで合格した選手が出た場合、球団はドラフトで
    指名することによって入団させることが可能になる。

     さて今回の表題である養成選手とはなにか?
    時は昭和11(1936)年、中日ドラゴンズの前身、名古屋軍発足の年。大東京軍(現
    巨人)、大阪タイガース(現阪神)次ぎ、3番目のプロ球団となった。が、まだまだ職業
    野球黎明期、「野球を職業にするとは」という偏見の目もあり、選手集めには苦労した。
    さらに翌年には総監督の河野安通志が主力選手を引き連れてイーグルスに移ってしま
    ったのである。

     ただでさえ選手が足りない名古屋軍は困った。そこで思いついたのが、好素質と熱意
    を持った全国の野球少年を募り、自らの手で鍛えて将来の主力選手に育てよう、という
    プランである。
     このテストで合格したのが西沢道夫。当時まだ14歳だったが、少年野球チームで
    エースを張っていただけあって、実力十分で難なくテストには合格した。が、まだ14歳
    である。さすがに他球団やナインたちにはばかられるということで、メンバー登録はされ
    なかった。しかし、西沢の進境著しく、翌年には選手登録されたわずか15歳である。
    以降の活躍は、「こんな選手がおりました」の西沢道夫の項を参照のこと。
     西沢が大成功だっただけに、この制度を続けるかと思われたが、時代が悪かった。
    以後、日本は戦争の道を歩み、球団経営も難航し、うやむやになってしまう。

     そして昭和38(1963)年、西沢の夢ふたたび、ということで、養成選手制度を復活さ
    せよう、という方針が決まった。ドラゴンズ初の永久欠番選手にまで成り上がった西沢
    にあやかろうと日本全国の中学生を対象に募集し、数名が選抜され、3名が採用された。
    松本忍、森田通泰、杉斉英はいずれも15歳で、ポジションは考えず、基礎・基本から
    徹底的に鍛えようということになった。

     厳選された素材だけに、才能だけでなく根性も備わっており、3人とも地元名古屋の
    中学校に転校して、授業が終わるとチームの練習に参加した。翌39年には中原薫、
    40年には金富泰洋が加わり、都合5名になった。

     しかし現実は厳しかった。左利きだった松本は投手となり、昭和41〜44年までの
    一軍通算成績は53試合に登板、4勝7敗に終わった。杉は内野手として育ったが、
    昭和41〜43年までの3年間でわずか7試合に出場、4打数無安打でプロ生活を終え
    ている。他の3人はファーム暮らしを抜け出すことは出来なかった。

     昨今の逆指名ドラフトや、法外な契約金を受け取る選手たちを見ていると、なぜテスト
    制度がなくなってしまったのか、養成選手制度を復活させる球団はないのだろうか、と
    ため息をついてしまう。そういえば、カープの大野や阪神の掛布もテスト生上がりだった
    よなあ。


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