〜ヤクルトスワローズ編〜


 1970年代   〜好選手続出〜

   国鉄時代から、広島と同様弱小の代名詞とされたスワローズでしたが、獲得する外国人選手たちは、なぜか優良
  選手が多かったのも事実。この70年代も、積極的に外国人選手を補強しましたが、どれも使える選手ばかりでした。
  スワローズにとって70年代とは、初優勝するその時まで、着々と力を蓄えていった時期でもありました。
  ……まあ、とんでもない例外もいましたけど(^^;)。


  デイヴ・ヒルトン(Dave Hilton)

    阪神タイガース80年代編を見よ。


  チャールズ・マニエル(Charles Manuel)


    近鉄バファローズ80年代編を見よ。


  ロジャー・レポーズ(Roger Repoz)

    64年にヤンキース、66年アスレティックス、67年エンゼルスの後、3A。73年にライオンズ入りする。
   188センチ88キロの巨漢選手で、長打力を売り物としていた。しかし、太平洋クラブに入団し、開幕早々
   に右膝骨折という重傷を負う。なんとかリハビリしながらゲームに出ていたが、成績はパッとせず、後遺症
   が出るのではないかという懸念もあって、あっさり一年で解雇された。そこをヤクルトに拾われ、日本に慣れ
   てきたこともあって、開花した。持ち前のパワーに加え、堅実さも身につけて、ライオンズ時代には及びも
   つかないような成績を残していく。75年にはベスト9にも選出され、ヤクルトというよりリーグを代表する選手
   に成長していった。

    筆者などにとっては、中日・マーチンと並んでこのロジャーも、典型的な「外国人選手」としてのステレオ
   である。左打ち、大振り、一発長打、そして大柄な白人選手。これである。ロジャーはさらに髭もじゃだった
   から、余計にそう感じたものだ。左打席に構えると、左肘を思い切り立てたフォームから長打を放った。
   守備はまずい、肩はない、で、打つだけの選手ではあったが、当時のヤクルトには貴重な戦力だった。
   なお、ライオンズ時代の登録名はレポーズ。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ロジャー 左左  外 73 太平洋  66  186  25  41  30   12   26  41   4 .220
      74 ヤクルト 106  354  55  82  54   25   53  81   5 .232
      75  〃 123  448  63 131  70   27   58  83  10 .292
      76  〃 120  434  79 119  81   36   69  85   3 .274
      77  〃 111  365  52  96  55   22   38  70   1 .263
   計        5    526 1787 274 469 290  122  244 360  23 .262

  ジョセフ・ペピトーン(Joseph Pepitone)

    62年、名門ヤンキースでメジャー昇格を果たすと、70年にアストロズ、カブス、73年にはブレーブスで
   プレーし、通算219本塁打を放った強打者。獲得に成功したスワローズは信じられぬ思いだったが、同時に
   「これで優勝はいただき」と浮き立った。王以上とも言われたその打力の陰に、トラブルメーカーという別称
   があったことをスワローズは知らなかったのか。

    とにかく日本野球を舐めきっていて、まるで練習しない。あそこが痛い、風邪をひいたと言っては練習を
   サボるのが日常。もともと契約で揉めて見捨てられ、日本へ渋々やってきたというのが実情らしい。これ
   では好結果が出るわけもあるまい。
    来日したのは73年6月だが、離婚問題が持ち上がったとして、いきなり7月に帰国。ちなみに球団に
   は断っておらず、つまりは無断帰国である。8月になってようやく戻ってきたかと思えば、今度は「アキレ
   ス腱を痛めた」として、わずか7試合に出ただけで9月に無断帰国。これでは話にならないと思うが、2年
   契約で翌年も継続。しかしながら一向に来日しない。これにはさすがに球団も激怒する。
   挙げ句、とうとう夫人と離婚し、今度は慰謝料問題が持ち上がり、元夫人に提訴される有り様。ここで
   ペピトーンは、「メジャーで働いて慰謝料を支払いたいのに、日本のアトムズが契約を解除してくれない」
   と、無茶苦茶を言い出す始末。ペピトーン自身は、アトムズと契約したまま慰謝料の支払いを延ばしたか
   ったらしいが、怒ったヤクルトが解雇、その旨をアメリカの裁判所に通達して、彼と縁を切った。

    野球から足を洗ったあともトラブルだらけで、85年にはコカイン不法所持、拳銃不法所持で逮捕。92年
   には暴行障害で逮捕、95年は飲酒運転による交通事故を起こして、これも逮捕。ロクでもない人間だった
   わけである。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ペピトーン 左左  一 73 ヤクルト  14   43   1   7   2    1    6   7   0 .163
      74  〃   0    0   0   0   0    0    0   0   0  −
   計         2     14   43   1   7   2    1    6   7   0 .163

  ジョン・スコット(John Scott)

   74、75年パドレス、77年にブルージェイズに行ったあと3A。79年に来日する。
  187センチ79キロという、実にスリムで脚の長い黒人選手だった。俊足で守備も良く、センターの守備範囲は
  セントラル1と謳われた。当然のように79年、80年はダイヤモンドグラブを受賞している。打率はそこそこだっ
  たものの長打力は抜群で、来日初年度から打点、本塁打ともにチームトップだった。特にすごかったのが5/22
  〜5/27の期間。この年の第8節だったのだが、この間にヤクルトは6試合行い、スコットは5試合連続を含む
  8本塁打を記録したのだ。5/27は甲子園での阪神Wヘッダーだったのだが、この2試合で4発放っている。
  2試合とはいえ1日4ホーマーで、しかも、ソロ、2ラン、3ラン、満塁と、サイクル本塁打になっているのがすごい。
  第一試合で8打点、第二試合4打点で、1日12打点。この年のスコットは28ホーマーだが、この8節だけで
  全シーズンの1/3以上のホームランを量産していたことになる。

   残念なことに、81年5月26日の阪神戦で、外野フェンスに激突するファインプレーを見せたが、そのせいで
  大怪我を負ってしまい、そのままシーズンを棒に振ってしまった。よほど重傷だったのか、そのシーズンでクビに
  なってしまったのは惜しい。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
スコット 右右  外 79 ヤクルト 112  434  72 118  81   28   31  84  19 .272
      80   〃 123  449  63 120  69   16   33  70  20 .267
      81   〃  44  127  18  27   9    4    7  18   3 .213
  計      3   279 1010 153 265 159   48   71 172  42 .262