〜近鉄バファローズ編〜


 1980年代   〜涙の初優勝〜

   知将にして闘将・西本幸雄の熱血采配で、死に体のバファローズが息を吹き返しました。12球団で唯一、優勝経験
  のない弱小とバカにされ続けていたファンたちが溜飲を下げる日がとうとうやってきたのです。若手とベテランがうまく
  かみ合い、戦力も整ってきました。そして夢の優勝へ。そんな中、バファローズの中核となるべく入団してきた外国人
  選手たちの活躍を思い起こしてください。


  ベンジャミン・オグリビー(Benjamin Oglivie)

   71年にレッドソックスでメジャー昇格。レギュラーのスペアとマイナーのエレベーター選手だったが、74年にタイガース
  へ移籍して運が開けた。75年にレギュラーを獲得し、78年にはブリュワーズへ移籍、81年に本塁打王となった。
  82年にはWシリーズにも出場している。来日したときにはもう38歳で盛りを越え、ポンコツをつかまされたかと思ったが
  「腐っても鯛」を地でいく選手だった。
   さすがにパワーは衰えを見せていたが、柔軟性に富んだ打撃術は「さすが」の一言で、バファローズの望んだ一発
  長打こそ少なかったものの、2年とも3割を打って存在感を見せつけた。188センチ77キロの大柄な黒人選手だったが
  悪い意味での威圧感はまるでなく、温厚な紳士であった。日本選手のような激しいトレーニングはしなかったが、合理
  的な練習や謙虚な姿勢、試合での闘争心など、学ぶものは多かったはずだ。物静かで人格者な彼を見て、筆者は
  かのアルトマンを思い出した。

選手名 投打 守備 所属 試合 打 数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
オグリビー 左左  一 87 近鉄 110  413  62 124  74   24   41  64   5 .300
      88  〃 114  392  61 122  17   22   54  39   1 .311
 計      2   224  805 123 246  86   46   95 103   6 .306

  ローレンス・ウルフ(Laurence Wolfe)

   77〜78年ツインズ、79〜80年レッドソックス。その後マイナーで燻っていたところを、82年に近鉄入り。
  181センチ80キロと、さほど大柄ではなかったが、ガッチリとした筋肉質が印象的な白人選手だった。腕っ節が強か
  ったが、思いのほかブリブリと振り回すタイプではなかった。それでもパワーは折り紙付きだったから、まともに当たれば
  スタンドまで楽々と持っていった。チャンスに強く、4月に6ホーマーしたが、そのうち4本が3ランで「ミスター3ラン」など
  と呼ばれていた。5月にも3発放ったが、ウルフが日本投手に慣れる前に日本の投手が彼の弱点を見抜き、以後は
  サッパリ打てなくなってしまった。シーズン後半はベンチ・ウォーマーになることも多かったが、とにかくフォークなどの
  落ちるボールがからっきし打てなかったのでは致し方あるまい。

選手名 投打 守備 所属 試合 打 数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ウルフ 右右  一 82 近鉄  88  272  22  61  45   14   28  62   1 .224

  デビッド・グリーン(David Green)

   81年にメジャー(カーディナルス)昇格し、翌年にはWシリーズにも出場している。84年が最盛期で、シーズン15
  ホーマーを放っている。翌年にジャイアンツに移籍。86年、バンボ解雇に伴い、契約ギリギリの6月30日に来日、
  バファローズ入りした。187センチ87キロ、アフロに鼻髭のごつい黒人選手だった。持ち前の長打力を生かし、7月
  末から8月にかけて8ホーマーしてみせるなど、一時は4番も務めた。が、調子の波が激しく、確実性に乏しかった
  ため、ベンチとしては使いにくい部類の選手ではあった。さほど悪い成績でもなかったが、中途半端なままこの年限り
  で解雇された。なお、87年にはカーディナルスに復帰している(もっとも控えだったらしいが)。

選手名 投打 守備 所属 試合 打 数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
グリーン 右右  外 86 近鉄  67  226  32  61  39   10   22  60   2 .270

  マーク・コーリー(Mark Corey)

   79年にオリオールズでメジャー昇格、81年までそこで過ごし、84年に近鉄入りする。マネー&デュランの退団騒ぎ
  からシーズン途中の入団となる。6月に行われた入団テストでは場外級の当たりを連発し、「これは掘り出し物」と
  首脳陣を喜ばせたが、やはり練習と実戦は違ったようだ。日本投手の繰り出す数々の変化球に面食らい、自慢の豪打
  もすっかりなりを潜めてしまった。打撃投手が投げるような素直なストレートには滅法強かったが、とにかく変化球、それ
  も外へ逃げるスライダーや落ちるタマがさっぱり打てなかった。これでは日本球界で通用するはずもなく、ベンチを温め
  る日が続き、コーリー本人も顔がげっそりするほどに悩んでいたようだが、対処することはできなかった。

選手名 投打 守備 所属 試合 打 数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
コーリー 右右  一 84 近鉄  31   79   8  17   8    3   11  24   0 .215

  リチャード・デュラン(Richard Duran)

   マイナーのみでメジャー経験なし。83年、メキシカン・リーグで首位打者を獲って、84年にバファローズ入りする。
  190センチ97キロのメキシカン(でもカリフォルニア出身なんだよね)。がっしりした体つきに似合って、なかなか
  パワーもあり、4月だけで7ホーマーしている。13安打で14打点だから、それなりにいいところで打ってはいたので
  ある。が、如何せん率が低すぎた。それでも、チームとしては、慣れてくれれば活躍するのでは、という期待もあった。
  同時に来日したマネーを師と仰いだのはいいが、マネーが騒ぎを起こして退団すると、「ならオレも」と言って一緒に
  退団してしまうのはどうかと思う(^^;)。

選手名 投打 守備 所属 試合 打 数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
デュラン 右右  外 84 近鉄  24   69   9  13  14    7   13  12   0 .188

  ドナルド・マネー(Donald Money)

   68年にメジャー昇格以後、16年間に渡ってメジャーで活躍し続けた。人間的にも紳士で、非常に真面目な人柄
  だったらしいのに、いったい何の間違いでこうなってしまったのだろうか。
   実力、実績通りに、日本でも開幕から大活躍。ホームラン、打点ともにチームになくてはならない4番打者として
  認証された。パワーヒッターではあるが、大振りするわけでもなく三振は少なかった。選球眼もよく、四球をよく
  とっていた記憶もある。ところが彼は、球団とファンに厭な思い出のみを残して帰国することになる。

   球場のロッカーが狭く、汚い。トイレが不潔。球団気付のマンションが狭くて汚い。家族がホームシックになった。
  これらを理由にして、彼は5月7日に突然帰国、そのまま退団してしまった。確かに、言い訳じみて聞こえるところも
  あるにはあるが、実際、藤井寺や日生は、そう言われても仕方がないくらいに環境が悪かったのは事実であろう。
  マンションについても、マネーは前の年にテリー・リーがいた部屋に入居させられたらしいのだが、前の住人が独身
  だったのに、マネーは家族持ちである。やる気があったマネーは家族も連れて来日したのだ。単身赴任ではない。
  テリー・リーには問題ない部屋でも、妻に子供もいたマネー一家では、狭く感じられて当然であろう。おまけに、
  テリー・リーは、噛みタバコの汁をところかまわず吐き散らしたらしく、床と言わず天井と言わず、噛みタバコの染み
  だらけだったらしい。おまけにペットのハムスターを放し飼いにしていたようで、あちこち糞だらけという惨状。なぜ
  球団はきちんと清掃してから引き渡さなかったのだろう?? いずれにせよ、居住空間としては最悪だったらしく、
  これですっかり奥さんがまいってしまったらしい。そりゃそうであろう。それまではメジャーのスターとして立派な豪邸
  に住んでいたのだから。
   これに加えて、前述の球場設備のひどさも相まって、マネーは激怒したというよりもガッカリしてしまったらしい。
  すっかりやる気を失って、意気消沈、そのまま帰国というのが本当のところのようだ。我が侭言ってごねてたわけでは
  ないらしい。これには裏もあって、どうも球団と代理人の交渉で、細かい条件まできちんと煮詰めなかったらしく、
  ここまでひどいとは思ってもみなかったようだ。

選手名 投打 守備 所属 試合 打 数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
マネー 右右  一 84 近鉄  29  100  17  26  23    8   25  10   0 .260

  テリー・リー(Terry Lee)

   メジャー経験はなく、テストで入団した。しかし思ったより早くチャンスが到来、マイクの故障で1軍に引き上げられた。
  この好機を逃さず、テリー・リーは初ホームランを満塁弾で飾る華々しいデビューををした。さらにその後も連続ホーム
  ランしてのけ、結局3打席連続本塁打という派手なこともやった。こりゃあすごいと4番を任され、一ヶ月で10ホーマー
  する大活躍を見せたのだが、惜しいことに右肩を脱臼、そのままシーズンを終えてしまった。しかしケガ前の成績は
  抜群だしなぜ1年で見限ってしまったのだろう? ケガがよほど悪かったのだろうか??

選手名 投打 守備 所属 試合 打 数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
テリーリー 右左  一 83 近鉄  44  144  22  46  29   10   12  38   1 .319

  パトリック・ドッドソン(Patrick Dodson)

   80年のドラフト6位でレッドソックス入り。86年にメジャー昇格したが、基本的には3Aクラスの選手だった。
  バファローズには89年に入団。192センチ100キロの巨漢だったが、思いのほか柔らかい打撃で、ホームラン
  こそなかったが、そこそこ投球に合わせていた。悪くない選手だったが、その後のリベラの入団で2軍落ち、
  再び1軍に昇格することはなかった。

選手名 投打 守備 所属 試合 打 数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ドッドソン 左左  一 89 近鉄   6   16   1   5   1    0    5   4   0 .313

  ジャーマン・リベラ(German Rivera)

   83年にドジャース昇格、85年アストロズを経て89年にバファローズ入りした。開幕後の4月12日に来日し、
  先に来日していたライバルのドッドソンを押しやってスタメン入り、ホームランを連発して4番に座った。やや確実性
  に欠けるきらいはあったが、思いのほか三振が少なく、場面に合わせたバッティングが出来たので、ベンチとして
  も重宝した。結局、ほぼフルシーズン活躍し、89年度のリーグ優勝に大きく貢献している。日本シリーズでも1発
  スタンドに放り込み、5打点を挙げる活躍をしてのけた。しかしながら29歳と若かったこともあり、本人がメジャーに
  希望を持っていたらしく、近鉄の契約更新の話を蹴って帰国した。

選手名 投打 守備 所属 試合 打 数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
リベラ 右右  一 89 近鉄 123  473  70 123  79   25   46  69   4 .260

  リベラ・トレス(Rivera Torres)

   75年にエクスポズでメジャー昇格後、ツインズ、ロイヤルズなどを経たが、結局3A落ち。日本からかかった
  オファーに飛びついたプエルトリカン。178センチ87キロのがっしりした筋肉質で、その長打力に期待が集まった。
  同僚のデービスとともに猛牛打線を背負って立ち、31ホーマーを放って気を吐いた。31発放ったにしては打点
  が少ないが、これは4番のデービスが塁上の走者を大掃除してしまうことが多かったため、ホームランしてもソロ
  が多かったせいによる。いずれにせよ、いてまえ200発打線の中核として働いた。打率が低いマイナスはあった
  が、それ以上に一発長打の魅力と、デービスへの援護射撃が大きかった。後ろにバンボが控えているために、
  相手投手は無闇とデービスを敬遠できなくなっていたのである。
   翌年も活躍を期待されたが、どうしたことかサッパリ。持ち前の長打力が失せた上、三振ばかりが増えた。
  率も一向に上がらずということで6月で解雇されてしまった。新外国人のグリーン獲得に目処が立ったこともある
  のだろうが、一年目の活躍を考えるともったいなかった。

選手名 投打 守備 所属 試合 打 数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
バンボ 右右  外 85 近鉄 117  405  60  99  69   31   53  91   8 .244
      86  〃  41  136   9  31  17    6    9  29   0 .228
 計      2   158  541  69 130  86   37   62 120   8 .240

  イザーク・ハンプトン(Isaac Hampton)

   74年にメッツ、75年にはエンゼルスに移った。近鉄入団後は主に外野と一塁だったが、エンゼルス時代は捕手を
  していた。第三の外国人選手として、開幕後に近鉄入りしたが、主軸に期待していたライアンが不振でいちはやく
  チャンスが巡ってきた。このデビュー戦初打席でいきなりホームランしてナインや相手チームの度肝を抜くと、続けざま
  にもう一発スタンドに叩き込むという鮮烈な印象を残した。「これは」と思った首脳陣は、5試合目から早くも4番に据え
  た。長打力はなかなかあったものの確実性に欠け、その辺りが一年でクビという理由になったようだ。182センチ83
  キロの、黒豹のような黒人選手で、動きも俊敏、脚も速かった。もうちょっと様子を見てもよかったのではないか。

選手名 投打 守備 所属 試合 打 数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ハンプトン 右右  外 81 近鉄  72  226  35  52  32   15   24  66   5 .230

  マイケル・エドワーズ(Micheal Edwards)

   77年にパイレーツでメジャー昇格、78年にアスレティックスへ移籍し83年にバファローズ入りした。近鉄にとっては、
  過去にも一度獲得を目指したものの断られた経緯もあり、念願が叶った格好になる。178センチ70キロの俊敏な黒人
  選手で、チームは大石大二郎との1,2番コンビを期待した。しかし実力の方は今ひとつで、同僚のハリス、テリーリー
  との競争に敗れ、1軍と2軍のエレベータ選手となってしまう。長打より巧打を期待したのは確かだが、小柄な大石より
  も見劣りするバッティングパワーではどうにもなるまい。率は低くなかったが、貢献度はあまり高くなかった。

選手名 投打 守備 所属 試合 打 数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
マイク 右右  外 83 近鉄  53  158  21  46  10    1    6  18   8 .291

  クレイグ・ライアン(Craig Ryan)

   メジャー経験のない29歳。190センチ90キロの巨体で、そのパワーはかのマニエルにも劣らないとの評判だったが、
  実態はひどいものだった。マニエルより上だったのは守備だけで、それも大したことはなかった。おまけに、何を勘違い
  していたのか、妙にプライドが高くナインにとけ込めない。いい加減うんざりしていたところで右肘を故障。仕方ないので
  ファームで調整するよう指示するとこれを拒否。さすがに呆れた球団は、この時点(6月)で解雇した。

選手名 投打 守備 所属 試合 打 数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ライアン 右左  外 81 近鉄  30   71   8  17  14    4    5  10   0 .239

  リチャード・デービス(Richard Davis)

   77年、ブリュワーズに昇格すると、79年には12本塁打してレギュラー入り。81年にフィリーズ、82年ブルージェ
  イズ、パイレーツと渡って31歳で来日した黒人選手。189センチ90キロの筋肉質で、全身これバネのような精悍な
  タイプだった。例のマネー&デュランの代わりとしての入団だったのだが、それがバファローズ球団史に残るような
  大活躍をしたのだから外国人選手はわからない。脂の乗りきった時期での来日だけあって、レギュラー入りを保証され
  たような日本では活き活きとプレーした。初年度はマネーらが帰国したあとの6月来日だったにも関わらず、すぐに
  日本野球に順応し打ちまくった。打率.310は、中距離打者として期待されていただけあったが、78試合で18ホー
  マー、45打点という成績は期待以上であり、首脳陣を喜ばせた。
   黒い主砲の実力は翌年一気に開花した。ほぼフル出場の128試合で.343,40ホーマー、109打点は立派に
  マニエルの穴を埋めたと言っていいだろう。この年はベスト9に最多勝利打点のタイトルも獲得した。翌年も.337、
  36本塁打、97打点と打ちまくり、先年の成績が決してフロックでないことを証明して見せた。もはや近鉄不動の4番
  打者として君臨していたが、87年は故障が絡んで試合数が減った。それでも安定して高レベルの数字を残したのは
  さすがに実力者だ。

   この年は西武・東尾修投手が投じたビーンボールまがいの内角シュートに激怒し、マウンドの東尾に殴りかかる
  乱闘を演じた。東尾の方も気が強いから黙って殴られているわけもなく、マウンドに仁王立ちして黒い疾風に立ち向か
  ったものの基礎体力や筋力が違いすぎる。殴り返すどころか、必死に身を守るので精一杯。数発デービスにぶん殴ら
  れてしまう。もちろんこれはデービスの暴力行為が悪く、出場停止と罰金刑が処せられたが、反面、デービスの行為
  に快哉を叫ぶ選手もいたことは明記しておこう。コントロールの良いはずの東尾なのに、やけに死球が多かったのも
  事実だからだ。

   そのデービスの野球人生が暗転するのは88年。警視庁が捜査していた大麻事件でデービスが連座していることが
  判明、球団、ファンともに仰天した。もっとも、外国人選手や在日外国人たちの間ではうすうす知られていることだった
  らしい。現役選手が警察に逮捕されるという不祥事に球団も対応に苦慮したが、事が麻薬絡みではどうしようもない。
  その時点での自由契約はやむを得なかったろう。救いがたかったのはデービス自身に、あまり罪の意識がなかった
  ことだろう。彼を弁護するとすれば、欧米諸国では大麻はドラッグ扱いされず、罪にはならない国も多いから、ということ
  もある。が、日本でプレーする以上は日本の法律を守ってもらうのは言うまでもない。実力的には抜きん出ていただけ
  に惜しい選手ではあった。

選手名 投打 守備 所属 試合 打 数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
デービス 右右  一 84 近鉄  78  287  42  89  45   18   24  28   0 .310
      85  〃 128  472  88 162 109   40   59  52   1 .343
      86  〃 122  451  83 152  97   36   58  57   3 .337
      87  〃  91  341  44 115  49   16   42  39   2 .337
      88  〃  42  152  16  46  22    7   13  19   2 .303
  計       5    461 1703 273 564 322  117  196 195   8 .331

  ヴィクター・ハリス(Victor Harris)

   72年のレンジャースを皮切りに、カブス、カーディナルス、ジャイアンツ、ブリュワーズと、ほぼ2年ごとにチームを
  渡り歩き、近鉄に落ち着いたのが81年。180センチ75キロと日本人と変わらぬ体格だったが、スラリと足が長い
  のが印象的だった。スイッチヒッターで、身体の割りにはホームランも多かったが、思ったよりバッティングは荒かっ
  た。率は低かったが、予想に反して長打力もあり、そこそこ勝負強かったので、バファローズとしては願ったり叶った
  りだった。もともと俊足だったから盗塁も積極的に行なった。まだ31歳だったから、このまま日本野球に慣れていけ
  ば充分主力打者へなるべき選手だったはずだが、運はハリスを裏切った。81年、ドラフト1位で入団した大石大二
  郎のために二塁のポジションを明け渡すことになったのである。これがどの程度ハリスのテンションに影響を与えた
  のかはわからない。わかっているのは、それ以降のハリスの成績が目に見えて落ちてきたということである。
   82年にはホームランが9本と半減、83年にはさらに半減してわずか4本にまで落ち込んだ。大石大二郎は球団
  史に残る名二塁手ではあった。しかし彼の成功の裏にはハリスの屍があったのだ。

選手名 投打 守備 所属 試合 打 数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ハリス 右両  二 81 近鉄 124  447  58 120  74   22   46  44  13 .268
     外 82  〃  81  294  51  80  35    9   47  51  10 .272
      83  〃  75  227  27  45  23    4   30  42   6 .198
  計       3    280  968 136 245 132   35  123 137  29 .253

  チャールズ・マニエル(Charles Manuel)

   69年ツインズ、74年ドジャースと渡って76年に日本行きを決意、ヤクルトに入団した。193センチ91キロという
  巨漢は、赤ら顔に縮れた赤毛で「赤鬼」とニックネームされた。中途入団した初年度こそ日本野球に苦しんだが、
  翌年にはすぐに順応した。文字通り丸太のような腕っ節から打ち出される強烈な打球は、美しい放物線を描いて
  スタンドへ飛び込んだ。前年、.243で確実性に欠けると批判されたが、この年は堂々の.316。もちろん、持ち前
  の長打力を活かしたホームランも一気に増え、42ホーマーと文句のない数字。打点97も充分に合格点である。
  マニエルの打撃に乗せられるように、万年Bクラスのスワローズも、この年は2位に躍進した。そして79年。赤鬼の
  バットからは好調に本塁打が量産され、ともにクリーンアップを組んだ大杉勝男、杉浦亨の豪快なバッティングも
  あり、ヤクルトは球団史上初の優勝、そして日本一に輝いた。ところが、このマニエルが出されてしまうのである。

   マニエルにとっては青天の霹靂だったろう。自他共に認める、チームの主砲だったのだ。確かに広岡監督の言う
  ことにも一理あった。優勝したとはいえ、スワローズには左腕投手が足りなかった。だから神部年男投手との交換
  トレードが完全に間違っていたとは言わない。確かにマニエルは打つだけだった。まるで鈍足であり、肩もなかった。
  もちろん守備も悪かった。「やつがセカンドランナーの時は単打じゃ絶対に帰れない。しかも、二塁に走者がいて
  やつの前に打球が飛べば、必ず生還させられる。こんなつまらん野球はない」。広岡監督はそう言った。それは
  わかる。では、彼がマークした40本塁打、100打点はどう埋めるのか。広岡監督は言った。「やつがひとりで敵
  にやってる点もそれくらいあるさ」。こうしてマニエルは近鉄へ移籍した。

   マニエルは激怒し、また失望したが、このトレードは彼にとって正解だった。失敗したのは広岡ヤクルトだった。
  マニエルを出したスワローズは、前年の日本一から奈落の底へ落ち、マニエルを獲得した近鉄は初のリーグ優勝
  を遂げたのだ。マニエル自身、肩も守備も悪いことは承知していたから、指名打者という働き場所は理想的だった。
  彼は得意の打撃に専念できた。そしてここでも爆発的な長打力を見せつけたのである。しかしここで彼は悪魔に
  魅入られることになった。
   問題の試合は79年6月9日、藤井寺球場でのロッテ戦。5回、打席に入ったマニエルに、マウンドの八木沢荘六
  投手はそのアゴにボールをぶつけたのである。一瞬、静まりかえり、異様なざわめきが起こるスタンド。マニエルは
  アゴを押さえ込み、必死でその苦痛に耐えていた。駆け寄るバファローズナインたちも青ざめている。白球を顔に
  受けた赤鬼は、そのまま病院へ直行した。医師の診断は、下顎の複雑骨折で全治二ヶ月の重傷。前期優勝をかけ
  てひた走っていた近鉄ナインは、その報に悄然とした。

   ところが彼は、赤鬼のあだ名に恥じることなく、人間離れした回復力を見せ、わずか14試合を欠場しただけで
  1軍復帰してしまったのである。アメフトのフェイズガードをつけたヘルメットをかぶり、ファンを驚かせたが、帰って
  きた彼を見て涙ぐんだ選手もいたとか。彼が本当にバファローズナインになった瞬間だったろう。もっとも、「人間離
  れした回復力」と先述したが、彼も人間だった。実は回復していなかったのである。マニエルの骨折は、複雑骨折
  というよりも粉砕骨折といった方がいいくらいで、折れた骨を金属でつなぐというよりも、バラバラになった骨を金属
  ベルトでまとめて、なんとか顔を形成していた、というのが事実らしい。実際、マニエルの退院直後の写真を見ると
  下顎の部分がほとんどなくなっているようにすら見える。医者と友人たちは言った。「無茶はするな。まだ完治には
  ほど遠いんだぞ。これでまた顔や頭に死球を喰らえばもちろん、何かのショックで顔を強く打つようなことがあれば
  細かく粉砕された骨片が脳に達する危険もある」と。「野球に命を懸ける必要はない」と。
   しかしマニエルは言い返した。「俺はバファローズのナインだ。今年は初優勝のチャンスなんだよ」。そしてこうも
  言った。「ニシモトは俺を必要としているんだ。彼の期待に応えたいんだ」と。彼は敢然と、そして堂々とスタジアム
  へ戻っていった。そして前期の残り試合、後期、プレーオフ、日本シリーズと、主力打者として打線の中核を為して
  いった。この年、日本一もタイトルも逃したものの、見事MVPに選出されている。80年は優勝こそ逃したものの、
  本塁打、打点と二冠を獲得した。81年にはスワローズに復帰したが、もはや全盛期の活躍は望むべくもなかった。
   日本で実績を残したマニエルは、そのまま現役を引き、指導者の道を歩んだ。A、2A、3Aの監督を勤め、メジャー
  の打撃コーチをやった後、念願の監督になっている。

選手名 投打 守備 所 属 試合 打 数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
マニエル 右左  外 76 ヤクルト  84  263  28  64  32   11   32  54   1 .243
      77  〃 114  358  70 113  97   42   56  60   3 .316
         78  〃 127  468  85 146 103   39   48  80   1 .312
      79 近 鉄  97  333  69 108  94   37   67  62   0 .324
      80  〃 118  459  88 149 129   48   59  66   0 .325
      81 ヤクルト  81  246  28  64  36   12   32  42   1 .260
  計        6    621 2127 368 644 491  189  294 364   6 .303

   ライス(Woolsey Rice)

    メキシカン・リーグ出で、アメリカでのプロ経験はない。86年の4月にテストを受け合格、5月3日に入団した。
   190センチ82キロの、大柄ではあったがスリムな23歳の投手だった。球団としては2,3年かけて育てるつもり
   だったから、鍛えるつもりで2軍にした。ところが、メキシコではローテーション投手で投げていたせいか、こうした
   バファローズの扱いに不満タラタラ。日本のプロではまだとても通用する実力ではなかったが、当人は練習、練習
   の毎日に嫌気が差していたらしい。2軍戦に投げるほどの力もなかったようだが、野球漬け生活にウンザリしたと
   7月6日に帰国してしまった。無論、そのままクビ。

選手名 投打 所属 試合 回 数 完投 完封 四死球 三振 失点 自責点 防御率
ライス 右右 86 近鉄   0  0  0  0.0   0   0    0   0   0    0   −