〜阪神タイガース編〜


 1980年代   〜混沌の時代、そして神様降臨〜

   カオスでした。もうとにかくとっかえひっかえ。ちょっとケガをした、使えないとなればすぐにクビ。そして
  新たに獲得する。使い捨ての時代だったのです。タイガースのために来日した外国人選手たちにとっては
  受難の時代でした。そんな中、神様がやってきました。その神様は、長年バカにされ続けてきた虎党に
  救いの手をさしのべたのです。彼の名は…。


  デイヴ・ヒルトン(Dave Hilton)

   ヤクルトファンには思い出深い、初優勝の使者である。広岡政権下で獲得された二塁手だが、パドレス
  時代はサードだった。ショートには広岡秘蔵っ子の水谷がいたが、セカンドの渡辺進は、打撃は魅力だった
  が守備が粗い。守れて打てるセカンドを、という要望に応えてやってきたのがヒルトンだ。当時28歳、脂が
  のりきっている選手である。

   とにかく練習熱心で、オープン戦からバリバリ打って、開幕後は不動のトップバッターとして活躍した。
  独特のクラウチング・スタイルから飛ばすライナーにスワローズファンは酔った。1番としてはあまり脚の
  ある方ではなかったが、その分、一発長打の魅力もあり、走者を置いても勝負強かった。
   1年目から日本野球に順応し素晴らしい成績を挙げたが、2年目は低迷した。ヒルトン自身が昨年の
  成績で特権意識を持ち出したとか、それが原因で広岡監督と衝突したなどの話しも伝わるが、詳しいとこ
  ろは定かでない。スワローズ自体が思わぬ不振に陥ったため、その詰め腹を切らされるという面もあり、
  わずか2年で退団することになる。

   そこに目をつけたのが、廃品利用したいタイガース。実績十分なヒルトン、それこそ垂涎だったろう。
  もっとも、ヒルトンの獲得には、当時のブレイザー監督の意向もかなり働いたことは言うまでもない。
   この年の阪神は、ドラフトの目玉・早稲田大の岡田彰布三塁手を補強した。が、サードには昨年、本塁打
  王を獲った看板打者の掛布雅之がいる。入団時の約束で、岡田にはポジションを与えねばならない。
  そこで岡田は、本人了承のもとセカンドへコンバートすることにした。
   こうなると、あぶれるのがヒルトンなわけだ。

   ブレイザー監督は面白くない。これでは何のためにヒルトンを獲ったのかわからないし、所詮、岡田は
  ルーキーだ。チームが勝つためには、実績もあるヒルトンを使う方がいいに決まっている。故にブレイザー
  は、球団の意向に関わらず、ヒルトンをメインに使うつもりでいた。
   今度は球団が困る。岡田の約束を反故にすることになるし、そうじゃなくても六大学のスター・岡田を
  スタメンで使うことによって観客数の大幅増大も見込めるのだ。多少、打てなくたって岡田を使うべきだ。
  当然、ブレイザーとフロントが衝突する

   シーズンが始まると、ブレイザーはヒルトンを使う。フロントは岡田を使うよう迫る。もちろん、この紛争は
  ヒルトン自身も知ることになる。これでヒルトンが開幕からいきなり打ちまくれば、フロントの雑音も小さく
  なるのだろうが、そううまくはいかず、つまづいてしまう。フロントは、ここぞとばかりに「それみたことか、
  岡田を使え」と、ボリュームを上げる。ブレイザーは無視する。
   業を煮やしたフロントとブレイザーが本格的にぶつかり、頭に来たブレイザーは辞任し帰国の道をとる。
  自分を庇護してくれたブレイザーがいなくなり、ヒルトンも阪神での野球に絶望する。そしてブレイザーと
  前後して、5月に退団、帰国してしまうことになる。
   これで岡田が打てなければフロントは笑い物だったところだが、発憤したのか岡田が頑張り、.290,
  18ホーマーを放って、見事に新人王を獲得した。

   さて、帰国したヒルトンは、しばらく3Aでプレーしたあと引退し、1Aの監督を勤めた後、ツインズのスカ
  ウトをやっていた。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ヒルトン 右右  二 78 ヤクルト 128  501  76 159  76   19   55  75   6 .317
      79  〃 105  399  59 103  48   19   26  65   1 .258
      80 阪神  18   71   8  14   4    0    4  12   0 .197
   計        3    251  971 143 276 128   38   85 152   7 .284

   ブラス・ボウクレア(Bruce Boisclair

    ヒルトンが帰国してホッとしたフロントだが、現場はそうも言ってられない。守備位置はともかく、
   彼の打棒は必要不可欠だったからだ。そこでヒルトンの穴を埋めるべく、新外国人選手を獲得した。
   今度はバッティングしないように外野手を、という条件つきだ。
    そんな中、急遽入団したのがメッツにいたボウクレアである。

    左打ちではあったが、打力ではとてもヒルトンに及ぶものではなかった。それでも、人材不足気味
   だった外野を守っていただけに、起用される機会は多かった。打率も長打力もパッとしなかったが、
   貴重な左の外野手だし、日本に慣れれば成績も上がると踏んだ球団は、翌年も契約を望んだ。
    しかし、ボウクレア自身はまだ28歳だったこともあり、メジャーに未練があるとして再契約には応じ
   なかった。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ボウクレア 左左  外 80 阪神  80 177  19  44  26    8   24  55   2 .249

   ポール・デード(Paul Dade)

    再契約するつもりだったボウクレアに振られてしまい、新たな外国人外野手を探すことになった。
   見つけたのは30歳の黒人選手・デードだ。彼は70年のドラフトでエンゼルスに1位指名された
   ほどの選手で、その後、インディアンスとパドレスに移籍している。右ヒジの古傷が気がかりだが、
   完治しているという本人の弁を信用するしかなかった。

    長打力というよりもシュアな打撃と走塁がウリだというので、1番もしくは2番に据えることを予定
   していたのに、これが打てない。守備はそこそこだが、期待の打撃がこれではしかたがない。困った
   なあと首脳陣が頭を抱えていると、今度は再度右ヒジの痛みを訴え、欠場する有り様。
    検査したところ、完治までにかなりの時間がかかるということが判明、7月中旬に解雇された。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
デード 右右  外 81 阪神  37 114  15  25   5    1   10  24   3 .219

   ダグ・オルト(Daug Ault)

    デードとともに入団したのがオルト。レンジャース、ブルージェイズに在籍した外野手だ。デードが
   俊足好打なら、こちらオルトは一発長打を期待された。

    成績を残していたにも関わらず、なぜかフル起用されることは少なかった。にも関わらず、3割をクリア
   し、ホームラン18本は立派である。確かに規定打席には届いていないが、それは起用法の問題で
   あろう。少なくとも、ケガがちのデードよりはずっと使いでがあったし、来季以降の活躍も十分に期待
   出来たはずである。タイガースが期待していたのは、掛布に続く長距離砲だったのはわかるが、もっと
   出場機会を与えていれば20本くらいはラクにいったろうし、実際、長打率も5割を超えている。つまり、
   一発長打の役割は果たしていたと言ってもいいのだ。おまけに3割打っている。なにが不満なの?(^^;)

    なるほど、最初は思うように打てなかった時期もある。ファンも失望したが、その後の活躍ぶりに、
   「おると(オルト)おらんでは大違い」ともてはやされた。
    なぜこの選手が1年でクビにならねばならないのか。心ある阪神ファンを嘆かせたものである。
   「これ以上、どうすればいいの?」とは、オルトが帰国するときの最後の言葉だったという。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
オルト 左右  外 81 阪神 102 326  39 100  59   18   18  60   2 .307

   ダン・ゴンザレス(Dan Gonzales)

    オルトは打っていたが、途中退団したデードの代わりが欲しい、ということで連れてきたのが
   元タイガース(デトロイト・タイガースね)のゴンザレスだ。左打ちのパンチ力はなかなかありそうだ
   ということで、首脳陣の期待も高まった。ゴンザレスがひょうきんで親しみやすい性格だったことも
   あり、すぐにナインとも馴染んだ。「団 権三」と漢字のニックネームももらって悦に入っていた(関係
   ないけど、外国人選手って、漢字で自分の名前書いてもらうと喜ぶ人、多いよね(^^;))。
    これなら大活躍、と思ったのだが…。

    ケガである。いきなり左足首を捻挫したかと思えば、今度は左足の靱帯損傷と連発。1軍に登録
   するどころではなく、ファームで調整するしかない。しかし捻挫に靱帯を痛めたわけだから、これは
   けっこう長引いてしまう。ようやく試合に出られるようになったのが9月の下旬。このデビュー戦
   で、いきなりホームランしたものの、いくら何でも遅すぎる。クセになりそうな左足の故障も怖いので、
   タイガースはこの年限りで彼を整理した。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ゴンザレス 右左  外 81 阪神   9  23   3   4   3    1    0   5   0 .174

   キム・アレン(Kim Allen)

    オルトほどの選手を「長打力が足りない」という理由で切っていたのに、この年に獲得したアレン
   は、まったく異質な選手だった。80年にマリナーズに昇格したが、それまでは3A暮らし。ただ、そ
   の3A時代に盗塁王を獲得している俊足選手だった。それはそれで良いのだが、「長打力が欲しい」
   という希望はどこへ行ったのか(^^;)。

    とはいえ、3A時代にタイトルを獲った脚は伊達でなく、初年度から22盗塁を記録する。これで
   フルシーズン働いていれば日本でもタイトルが獲れたかも知れないが、レギュラーとして定着する
   までには至らなかった。理由は打力不足である。率を見れば、さほど悪くもなかったが、打席でも
   迫力に欠け、今ひとつ頼りにならなかった。それに、この程度の打力であれば、まだ若手を育てた
   方が将来のためと踏んだ面もあるだろう。一応、2年目も契約して様子を見たが状況は変わらず、
   そのまま解雇と相成った。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
アレン 右右  外 82 阪神  78 254  40  66  16    3   25  22  22 .260
      83  〃  47 127  24  35  10    2   13   8  12 .276
 計      2   125 381  64 101  26    5   38  40  34 .265

   グレッグ・ジョンストン(Greg Johnston)

    本当にわからない。アレンという俊足好打の選手を獲ったのなら、もうひとりは長打を売り物に
   する選手を入団させるものと思っていたら、二人目もまったく同じタイプだった。ジョンストンは、
   スラッとした白人で脚が長く、やはり脚力自慢の選手だった。まったく、あれほどホームランにこだ
   わったのは何だったのか(^^;)。

    で、ジョンストンの方はオープン戦からさっぱり打てず、開幕一軍入りすら果たせなかった。
   徐々に調子を上げて、4月中にベンチへ戻ってきたものの、気分屋だったのか好不調の波が激しく、
   猛打賞を続けたかと思うと、パタッと打てなくなるなど日常茶飯事で、首脳陣にとっては使いにくい
   こと甚だしかった。
    それでもアレンよりは打力もあり、左打者の利点もあったので、出場機会は多かった。
   もっとも、それでも成績はこの程度。脚の方も自慢するほどではなく、その粗っぽいバッティングは
   相手投手の好餌とされた。結果的には、これならアレンの方がマシ、ということでジョンストンの
   方は1年でお払い箱となる。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ジョンストン 左左  外 82 阪神 104 347  40  89  37   10   17  47   4 .256

   スティーヴン・ラム(Steven Rum)

    当時、1軍登録可能な外国人選手は2名だった。が、支配下選手内には3名まで許可されていた。
   しかし、1軍では2名しか出せないので、どの球団も2名雇うのが普通だった。そんな中、阪神は、
   70年代後半から前年までにかけての、外国人選手獲得失敗に懲りて、保険の意味でもうひとり
   獲ることにしたのである。そこで加入したのが26歳のラムだ。

    そういう意味で獲得したのだし、ラム自身も焦りはなかったろう。ところが、思ったより早くチャンスが
    訪れる。デードが古傷を悪化させ欠場、そのまま退団する。さらに穴埋めに獲ったゴンザレスまで
    不振とケガで1軍に上がれない有り様である。
     しかたない、ラムを使おう。そのための選手だ。首脳陣はそう考えたろう。

     で、まあ、これが大したことはなかった(^^;)。もともと補欠以上の意味合いはなかったのだから
    ある程度仕方ないだろう。チャンスは巡ってきたが、思うような成績は残せなかった。普通に考えたら
    阪神なら1年でクビの成績だが、どうせスペアである。来年も保険の意味で置いておこうか、年俸
    も大したことないし(^^;)ってなもんだろう。
     しかし2年目はほとんど出番はなかった。なぜなら神様が入団してきたからである。もはや彼の
    出番はなかった。この年限りで解雇。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ラ ム 左左  外 81 阪神  57 171  21  46  15    4   17  34   1 .269
      82  〃   7  12   1   1   1    0    3   0   0 .083
 計      2    64 183  22  47  16    4   20  34   1 .257

   スティーヴ・ストローター(Steve Storoughter)

    ラムは実力不足で解雇したが、ラムのような選手は必要だと、タイガースは認識していた。登録した
   外国人選手のケガや思わぬ不振対策の保険という意味だ。そうしてストローターはマリナーズから
   入ってきた。186センチ85キロのガッチリした体からの長打が売り物だった。

    阪神の思惑通りアレンが骨折(いや別にタイガースがアレンのケガを望んでいたわけではないだ
   ろうけど(^^;))し、ストローターを1軍に引き上げることにした。このチャンスに、ストローターは打撃
   でアピール、一ヶ月半ほどの間に5ホーマーを打ち込んだ。悪くはなかった。
   が、ここでアレンが復帰してしまう。ストローターはファームに落ちるしかない。まだチャンスはあるだ
   ろうと思った。

    しかし、もうチャンスはなかったんだなあ。アレンが無事にシーズンを過ごした、というのではなく、
   投手陣の不振が深刻になり、外国人投手を獲得することが決まってしまったからだ。外国人選手枠
   の問題で、新外国人投手との契約が結ばれると、ストローターは退団を余儀なくされた。わずか2ヶ月
   にも満たない活躍期間だった。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ストローター 右左  外 83 阪神  28  87  13  24  12    5    4  13   0 .276

   リチャード・オルセン(Richard Olsen)

    打線強化もいいが、阪神はそれ以上に深刻な問題を抱えていた。投手不足である。60年代の
   投手王国も今は昔。タイガースは打つだけのチームに変貌してしまっていた。となれば、困った時の
   外国人頼み。投手を補強しよう、ということになる。そういう話はこれ以前にも出ていたのだが、どの
   球団でも外国人投手に泣かされていた。つまり、ロクな投手がいなかったのである。メジャーでも
   投手は不足していたわけだ。
    しかし阪神にはバッキーという偉大な先人もいた。夢よ再び、ということだろう。

    とはいえ、選考には時間がかかり、入団したのは7月になってから。不振を極めていた投手陣の
   補強となるべく1軍登録され、先発のマウンドに登った。速球、変化球、コントロール。どれをとって
   も凡庸だった。抑えに回したこともあったが、これも危なっかしいし、本人も望んでいなかった。

    オルセンが調子を取り戻す前に、不振だった日本人投手団が立ち直ってきてしまった(^^;)。
   しまった、早まった。ストローターを切るんじゃなかった。と、ほぞをかんでも後の祭り。まあいい、
   投手なんか何人いたって困らない。もう1年置いておこうとなったが、翌年は今年よりさらに悪かった。
   実力的に苦しかったのだろう。当然のようにこの年で解雇。
    その後オルセンは、セミプロのイタリア・リーグで89年まで現役を続けたという。

選手名 投打 所属 試合 回 数 完投 完封 四死球 三振 失点 自責点 防御率
オルセン 右右 83 阪神  13  4  2  1  66.6   1  0  26  40  29  26 3.51
    84  〃  29  2  8  0  98.6   0  0  57  57  58  51 4.65
  計    2    42  6 10  1 165.3   1  0  83  97  87  77 4.19

   ランディ・バース(Randy Bass)

    タイガースファンにとっては、忘れようにも忘れられない神様。それがバースにふさわしい称号
   だろう。1985年の優勝は、掛布、岡田、真弓と日本人選手も頑張ったが、バース抜きではあり得
   ないものだったことは万人の認めるところ。
    地元のオクラホマ大を出たあとプロ入り。メジャー昇格は77年のことだ。以降、ツインズ、ロイヤルズ、
   エクスポス、パドレス、レンジャースと渡り歩く。マイナー9年間で本塁打王を4度も獲得するなど長打力
   は抜群で、打率も高かった。メジャー昇格後も4番を任されてホームランを連発することもあったが、
   レギュラーが復帰したり、自らが不振に陥るとあっさりスタメンから外される日が続く。そこに飛び込んで
   来たのが日本のタイガースからのオファーだ。

    初年度はシーズン途中の来日で、いきなり35ホーマー。打率.288も悪くない。にも関わらず、
   この成績でバース解雇の話もあったというから、阪神というところは恐ろしい(^^;)。規定打席内での
   本塁打率はリーグ最高で、マイナー時代を彷彿とさせた。
    翌年は3割をクリアしたものの、ホームラン、打点ともに成績を落とした。が、万事控えめでチーム
   メイトとトラブることもなく、首脳陣の言うこともよく聞いた。

    彼が本領発揮するのは3年目以降になる。前2年でも十分に合格点を与えられる成績だったが、
   85年の結果はそれを吹き飛ばした。なんと三冠王を獲得してしまうのである。実際、他球団から見れ
   ば凄まじいほどの打棒を奮い、あのダメ虎を優勝にまで導いてしまったのだ。20世紀内に阪神
   優勝はない、というのが一致した見解だったから(^^;)、これには多くのファンが度肝を抜かれた。
    またこの年は巨人・王のもつシーズン55本塁打記録を打ち破るチャンスだったが、バースにとって
   の不幸は、チーム最終2連戦が巨人戦だったことだ。初戦の巨人先発・江川卓は堂々とバースと
   勝負して、ファンはもちろんバース本人やタイガース内からも喝采を浴びたが、最終戦はひどかった。
   オール敬遠。5打席20球すべてボールである。言うまでもないが、その時の巨人監督は王である。
    この件に関してのバースのコメント。「残念だが、まあいいさ。140試合で55ホーマー(王の記録)
   と、130試合で54ホーマー。どっちが上だと思うかい?」

    86年は、若手を積極的に起用するという吉田監督の方針の方針に対し選手が反発。ほぼ空中
   分解に等しい形で吉田政権が崩壊する。バースも、苦楽をともにした仲間が干されるのに我慢で
   きず、首脳陣批判を行った。これが最後には響いたのかも知れない。
    さてバースの成績の方だが、この年も冴え渡り2年連続三冠王という途方もない記録を作る。
   打率に至っては.389と、未だにセントラル記録。4割打者誕生かと大騒ぎになった。

    87年は3部門ともに成績を落としてしまうが、これは今までの成績が飛び抜けてよかっただけの
   こと。.320、37ホーマー、79打点なら文句のつけようもない。しかし、前年までの驚異的な打棒
   に慣らされたフロントには不満だったかも知れない。
    そして88年。開幕後1ヶ月、率こそ残していたが、肝心の本塁打、打点が今ひとつ伸びない。
   打席で集中できなかった。理由があった。長男の病気である。

    水頭症という、頭部に水がたまる難病に罹った愛息のことを気に病んでいたのだ。そしてとうとう
   開頭手術を行うことになり、バースは帰国を申し出る。チーム状態があまりよくない時だったから
   球団としては不満だったが、功労者でもあるしゴネられて退団ということになったら目も当てられない。
   認めることにした。帰国は5月14日。

    手術は終わったが予断を許さないということで、バースはアメリカに残った。面白くないのは吉田
   監督のあとを受けた村山監督だ。1ヶ月たっても戻って来ないというのは、村山監督にとって信じら
   れない。即刻戻るよう再三促すがバースは首を縦に振らない。業を煮やした村山監督は、「バース
   がダメなら早く新しいのを獲れ」と新外国人選手獲得を示唆した。
     結局、6月27日、古谷球団代表が監督の意向を汲んで、バースに電話で解雇を通告する。
   これにはバースも激怒する。これは不当解雇であることをマスコミを通じてアピールし、さらに子ども
   の病気に関して、家族の医療保険は球団が全額負担という契約になっていたのに、球団はまった
   く負担していない。もしこのまま医療費を出さない気なら告訴する、と息巻いた。彼は期限を1ヶ月
   とした。

    慌てた球団は7月7日に古谷代表を渡米させ、バースとの交渉に当たらせた。しかし、裏では
   バースに代わる新外国人選手ジョーンズとの仮契約を行わせたのだ。おまけに、阪神がバース
   に提示したのは「一切、払わない」だったから、これでは話がまとまるはずもない。

    実はタイガースは、バースが帰国した時点で切るつもりだったという話もある。そこで、5週間後
   には来日することという覚え書きをバースとの間に交わした。これは、5週間じゃ戻って来られない
   だろうと踏んだ上でのことだ。バースもこれには気づいて、期限ぎりぎりになって「日本へ戻る」と
   阪神へ連絡。どうせクビにするつもりだった阪神は慌てる。そこで電話での解雇通知になった、と
   いうことらしい。だからバースはその後医療保険問題などで大ゴネした、というわけだ。
    言葉通り来日したバースは、阪神側の対応を非難する。覚え書き通りだ、ということだろう。
   今度は阪神が困る。おまえがちゃんとしないからだ、と古谷代表を責める声もあった。そして彼は
   7月19日、ニューオータニの屋上から身を投げてしまうことになる。バースとは家族ぐるみのつき
   合いだったそうだから、その悩みたるや舌筆に尽くしがたい。

    バースもこれにはショックだったろう。そのまま帰国し、現在に至る。今は、兄とともに故郷オクラ
   ホマで5万坪の敷地をもつバース牧場を経営している。
    ちなみに、本当はバースではなく「バス」と発音するのが正しい。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
バース 左左  外 83 阪神 113 371  69 107  83   35   44  57   0 .288
      84  〃 104 356  57 116  73   27   47  64   1 .326
85  〃 126 497 100 174 134   54   70  61   1 .350
86  〃 126 453  92 176 109   47   84  70   2 .389
87  〃 123 453  60 145  79   37   64  70   1 .320
88  〃  22  78   9  25   8    2   13  15   0 .321
 計      6   614 2208 387 743 486  202   322 337   1 .337

   ルパート・ジョーンズ(Ruppert Jones)

    実に不幸な選手と言わざるを得まい。なにしろ、かのバースの後釜として入団してきたのだ。
   生半可な成績じゃ、ファンもフロントも許してくれない。3割30本など当たり前、というのが実感だった
   ろう。このジョーンズ、左打ちの黒人一塁手で、マリナーズを皮切りに6球団を渡り歩いた。バース問題
   が悪化し、解雇やむなしとした時に、転ばぬ先の杖で交渉したのが彼である。
    故人の古谷代表が、バースと交渉するウラでジョーンズとの仮契約を結んでいる。結果としてバース
   退団となったので、これは無駄にならずに済んだ。

    周囲の厳しい目を感じていたかどうかはわからないが、このジョーンズ、どうにも粗っぽくていけない。
   それこそ毎試合のように三振を繰り返し、それでもブリブリ振り回すスタイルは改めなかった。こういう
   打者は、コントロールの良い日本人投手にとってはお得意さまで、いいようにあしらわれた。
    結局、前任者バースの成績には遠く及ばず、1年で退団する。

    なお、このジョーンズ、ひょんなことで日本球界に名を残している。今でこそ珍しくはなくなった
   背番号ゼロだが、ジョーンズは日本初の背番号00をつけている。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ジョーンズ 左左  外 88 阪神  52 169  19  43  27    8   10  51   4 .254

   リチャード・ゲイル(Richard Gale)

    85年の優勝は、猛虎打線におんぶにだっこで達成したものだが、投手陣でも頑張った選手はいた。
   この年入団したゲイルはローテーションの中心として投げ抜いた。このゲイル、メジャーでも立派な
   成績を残している。78年に3Aからロイヤルズに昇格すると、いきなり14勝を挙げてエース格となる。
   2年後には優勝に貢献、ワールド・シリーズでも先発している。が、その後は鳴かず飛ばず、1年ごと
   にチームを移ることになった。そんな中、タイガースからオファーがあり入団する。31歳の時だ。

    198センチの長身から投げ下ろす速球には威力があり、大きなスライダーもよく切れた。
   ただ、好不調の波がやや激しく、打たれる時はあっさり降板し、かと思うと立ち上がりからものすごい
   投球を展開しシャットアウト、なんてこともよくあった。

    初年度から先発の中心で活躍、チーム最多の13勝を挙げて、阪神優勝に大きく貢献した。日本
   シリーズでも2勝をあげるなど、アメリカのWシリーズで活躍できなかった鬱憤を晴らした。
   ただ、活躍したのはその1年のみ。翌年は、キャンプの頃から「オレがエースなのだから当然開幕に
   投げる」などと発言するなど、やや思い上がったところが多かった。フタを開ければ5勝10敗の体たらく
   で、あっさりこの年で解雇となる。
    85年も13勝したものの、防御率は4.30と悪く、どうみても打線の助けで勝ったと判断せざるを
   得ない。事実、翌86年も似たような防御率だが、85年ほど打線が奮わなかったためか大負けして
   いる。
    帰国後はレッドソックスや3Aでコーチを務めている。

選手名 投打 所属 試合 回 数 完投 完封 四死球 三振 失点 自責点 防御率
ゲイル 右右 85 阪神  33 13  8  0 190.6   4  2   84 126  99   91 4.30
    86  〃  27  5 10  0 161.6   2  1   53 102  91   82 4.56
  計    2    36 18 18  0 352.3   6  3  137 228 190  173 4.42

   マット・キーオ(Matt Keough)

    ゲイルは1年のみの活躍だったが、それでも慢性投手不足のタイガースにとっては印象深かった。
   またどこかに拾い物の好投手がいるのではないか。そういうことで連れて来られたのがキーオだ。
   77年に大リーグ昇格すると、80〜82年まで3年続けて2ケタ勝利を記録する。83年途中でトレード
   され、以後3球団を転々。87年にタイガースと契約する。

    85年の優勝以降、一転して低迷した阪神において3年連続2ケタ勝利は立派。エース不在の投手
   陣の中、ひとりで屋台骨を支えた感もある。なるほど負け数も多いが、これはダメ虎打線の援護が
   なかったためである。初年度はともかく、2年目、3年目の防御率は2点台である。
    ゲイルよりははるかに安定しており、首脳陣も安心してマウンドに送れた投手だった。特筆すべきは
   コントロールの良さで、四球はかなり少なかった。

    外国人砂漠(^^;)の阪神、それも投手で4年も在籍したのは大したものだが、実はマットの父親も
   日本でプレーした選手なのである。親父の方は68年の1年間のみ南海ホークスに在籍した。
   打率は低かったが、17本塁打は、その年のホークスで野村に次ぐ成績だった。恐らく、来日する前に
   父親のアドバイスもいろいろあったのだろう。日本では極めて珍しい外国人選手の親子鷹だ。   

選手名 投打 所属 試合 回 数 完投 完封 四死球 三振 失点 自責点 防御率
キーオ 右右 87 阪神  27 11 14  0 168.0   6  2   48 119  79   71 3.80
    88  〃  28 12 12  0 179.6   7  1   45  97  65   55 2.76
89  〃  28 15  9  0 201.0   8  1   41 110  90   83 2.72
90  〃  24  7  9  0 129.6   1  0   57  72  80   72 5.00
  計    4   107 45 44  0 678.3  22  4  191 398 314  281 3.73

   セシル・フィルダー(Cecil Fielder)

    バース、ジョーンズの後を受けて入団したフィルダー。85年にメジャー昇格、ブルージェイズ入りした
   が、毎年のようにトレードされ5球団を転々。チャンスもロクに与えられない環境に嫌気のさしていた
   フィルダーは、阪神からの話に飛びついた。
    188センチ101キロ。ガッチリした体格の黒人選手で、そのパワーが期待された。が、フタを開けて
   ビックリ。オープン戦での成績は、なんと14打席で10三振。これにはフロントも首脳陣も、怒る前に
   失望した。早速、フィルダーの後釜探しが始まる(って、早ぇよ(^^;))。
    クビも間近だった3月中旬のオープン戦。姫路で行われたオリックス戦で、彼は2打席連続のホームラン
   を放って見せた。なるほど、パワーは見かけ倒しでもなかったようだ。もしかしたら、これから日本投手に
   慣れるかも知れないし、もうちょっと様子を見るか、ということになる。結果的にはこれが大正解。

    オープン戦で、日本投手の変化球の多さとコントロールの良さを知ったフィルダーは戦術を修正。
   阪神の期待するホームランよりも、鋭く振ってライナーを打つことにしたらしい。これが実って、大活躍と
   なる。フィルダー自身は一発狙いじゃないとしても、あの腕っ節でスイングし、まともにボールを打てば、
   日本の狭い球場ならラクにホームランである。チャンスに好打し、面白いようにスタンドへ叩き込んだ。
    この成功は、フィルダー自身のやる気の問題でもあった。自分の力を信じていたフィルダーにとって、
   5年間のメジャー生活は鬱屈したものだった。ところが日本へ来たら、毎試合出場できる。ナインたち
   もいいやつばかりだ。充実していたのである。

    フィルダーは、打率.302、ホームラン38本という素晴らしい成績を残した。試合数が少ないのは、
   9月のゲームで、三振したことに怒り狂い、思わずグラウンドに叩きつけたバットが跳ね返り、右手小指
   に直撃、骨折という、なんとも情けない故障をしたためである(「自分が悪いのに、オレのせいにするな」
   と、バットが怒ったのかも知れない(^^;))。
    すっかり気を良くしたフィルダーは、当然、来季もタイガースでプレーすることを希望していた。無論、
   この成績なら阪神としても解雇する理由はない…はずだった。ところがフィルダーの耳に気になる情報が
   入る。スワローズを自由契約になった本塁打王のパリッシュがタイガースへ移籍するというのだ。
   パリッシュはファーストである。ならフィルダーはどうなる?

    不安に駆られたフィルダーは、帰国後、代理人を通じてメジャー球団と交渉、阪神を退団してデトロイト
   タイガースへ入団することになる。先手をうったというわけだ。
    まあ、タイガースサイドはフィルダーが退団したからパリッシュを入れたと言っているが、それならなぜ
   フィルダーがそのまえにパリッシュ入団を知っていたのか不明である。いずれにせよ、この選択は大失敗
   だった。パリッシュは入団したその年の途中で退団。一方、フィルダーは…みなさんご存じの通りの活躍。
    デトロイト1年目の開幕戦から4番(!)に座ったフィルダーは51ホーマー、132打点で2冠。翌年も
   44ホーマー、133打点で2年連続2冠である。ちなみにその翌年も打点王を獲っている。
    どう考えても選択ミス。年齢的なことを考えても、パリッシュよりはフィルダーであろう。あのまま彼を
   残していれば、バースに続いて三冠王を獲れた可能性は高かったはずである。
   返す返すももったいない。タイガース・フロントに先見の明がないのは、ドラフトやFAの度重なる失敗で
   わかってはいるが、中でもこの失敗は本当に大きかった。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
フィルダー 右右  外 89 阪神 106 384  60 116  81   38   67 107   0 .302