〜横浜ベイスターズ編〜


 1970年代   〜暗澹たる低迷期〜

   名将・三原脩を擁して念願の初優勝、そして日本一を成し遂げたのが1960年でした。しかし、その知将
  にして若手選手をうまく育成することが出来ず、またそうした新戦力を獲得するだけの財力、魅力に欠如して
  いたホエールズ。ここから苦難の歴史が始まります。
   本拠地・川崎球場は古くて狭かった。ユニフォームはオレンジに緑の組み合わせという、派手と言えば派手、
  サイケと言えばサイケなものでした。しかし、ユニフォームはケバくてもチームは地味。

   それでも通好みの選手を多数輩出したのもこのチームの特徴でした。
  エースはカミソリシュートの平松政治、アンダースローの山下律夫、後年、ファイターズで連勝記録を作ること
  になる左腕の間柴。捕手にはプロゴルファー・福島晃子の父、福島久晃。一塁にはタコ足と呼ばれた柔軟な
  身体で、守備だけなら王以上と言われた松原誠。一発長打もありました。サードはかの別当薫の秘蔵っ子で
  大きな弧を描くホームランで有名な田代富雄。ショートは名手・山下大輔。
  外野には俊足で鳴らした眼鏡の巧打者・中塚政幸。シュアな打撃で首位打者にもなった長崎慶一など。
   このメンバーでなぜ勝てないのかと思われますが、いかんせん選手層が薄すぎたのが痛かった。

   そんな中、来日した外国人選手たちも多種多様でした。使える選手は非常に優秀でしたが、ダメな選手は
  とことんダメ。それでも、外国人選手獲得には定評のあるホエールズ、ファンなら一度は聞いたことがある
  選手も多いはずです。


  ジョン・セルフ(John Self)

   メジャー経験のない黒人選手。185センチ93キロの巨漢で、来日当時まだ29歳だった。大柄でパワフル
  そうに見えたにも関わらず、打撃がからっきしであった。もう既にキャンプの打撃練習で、その惨状が垣間見
  えていたため、首脳陣も半ば諦め気味だったという。しかたなく守備要員扱いで1軍には置いてもらったが、
  スタメンに顔を出すことはほとんどなく、打席に立つのも代打がいいところだった。
   5月27日の阪神戦で、ようやく3度めのスタメン出場。ただしこの時は3打数3安打と大当たりし、レフト場外
  に消える特大ホームランも放った。いくら狭い川崎球場とはいえ、推定飛距離150メートルはあったという。
  もっとも、印象的なのはこれくらいで、あとはまるきり打てない選手も逆戻り。これでは育てる楽しみもないと、
  この年で解雇。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
セルフ 右右  一 70 大洋  43  64   3  15   8    2    2  23   0 .234

  ジョン・ワーハス(John Werhas)

   前年のセルフがダメだったのはマイナー野郎だったからではないか、ということで、今度は元メジャーを
  獲ってきた(ウソ)。ワーハスは64〜67年までドジャース、67年にはエンゼルスに在籍した白人選手。
  こちらも188センチ91キロのビッグサイズで、同じように長打を期待されての入団だった。監督、コーチの
  期待も大きく、開幕戦では4番を任され、4打数2安打と結果を出してみせた。だがそれっきりで、以降は
  さっぱり打てなくて、打率は2割にも届かない。大柄な割りに振りはコンパクトで三振は思ったより少なかっ
  たが、オーバーフェンスはなく、ヒットゾーンにも飛ばなかった。
   オールスター以降、やや取り直したものの、それでも2割そこそこで、期待はずれもいいところだった。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ワーハス 右右  一 71 大洋 100 295  19  63  26    8   31  58   2 .214

  ジョン・シピン(John Sipin)

   いろいろな意味で、日本のファンに印象深かった選手。メジャーの実績は乏しく、69年にパドレスで
  68試合出場しただけ。3Aのハワイで燻っていたところを大洋が目を付けた。まだメジャーへの未練が
  残っていたシピンだが、結局お声は掛からず来日する。まだ26歳と若かったのだから無理もあるまい。

   そうして来日したシピンを見て日本のファンはびっくり。ヘルメットから盛大にはみ出た髪にモミアゲ、
  そして髭面。「うっとうしい面」のはずだが、まだ若く二枚目だったこともあり、女性ファンの受けはよかっ
  た。さらにその容貌から「ライオン丸」とも呼ばれ、子どもたちにも人気があった。
   性格的には荒っぽく、粗雑であったが、若いに似ず野球に関しては柔軟で、すぐに日本野球に慣れて
  くる。初年度から結果を出し、3割には届かないものの22ホーマー、76打点で、立派にクリーンアップの
  一角を勤めた。2年め以降も打ちまくり、打率は3割、本塁打30本前後、80打点程度の成績を毎年残し、
  大洋の巨鯨打線の中核を成した。
   シピンの凄かったのは打撃だけではなく、守備も巧かったことだろう。ダイヤモンドグラブも獲得した
  守備は、同僚の山下や、ライバルの中日・高木や広島・大下のような職人芸的なものではなく、大きく
  動き回る派手なものだったが、打球の扱いは正確だった。また、「強肩」というウリだったのも事実だった
  ようで、セカンドゴロをさばくと、一塁の松原へ剛速球で送球するのも見物であった。捕球した松原のミット
  がパチーンと痛そうに鳴っていたのが印象的だったなあ。何でも、シピンの送球を受けると左手が腫れた
  そうだから相当なものだ。なにもセカンドからそんなに速い送球しないでもよかったはずなのだが(^^;)。

   打って良し守って良しのシピンに問題があるとすれば、それは人間性だったろう。とかく我が侭で、
  若くして実績を残し、主力選手の地位を築いてしまったために、すぐにお山の大将になりたがった。
  明るい時、暗い時が両極端だったそうで、ナインたちもつき合いにくかったらしい。あまりにシピンの増長が
  目に余るようになるとボイヤーが叱りとばす。同時期の入団だが、シピンにとってボイヤーは年齢が上という
  だけではない。メジャーの実績がほとんどない彼に対し、ボイヤーはスター・プレイヤーだ。雲の上の人な
  のである。故に、監督やコーチ、果ては牛込通訳の言うことを聞かない時でも、ボイヤーにだけは頭が
  上がらない。ボイヤーに呼びつけられて注意されると、シピンはそれこそ直立不動で「イエッサー!!」と
  返事したという。

   これだけの名選手だったシピンを大洋が手放したのは、彼のお目付役だったボイヤーがコーチを辞めて
  退団し、シピンの暴走を抑えきれなくなったためだというのは確かに一理あるだろう。
  大洋を切られたシピンだったが、すぐに巨人に拾われた。まだまだ活躍出来る素生は残していたから、ここ
  でも大活躍する。ただ、守備に関しては篠塚が二塁にいたため、たびたび外野を守らされている。
   巨人に来てからは、トレードマークだったむさ苦しい髭面をきれいさっぱり切り落とし、ホエールズ時代を
  知る人を驚かせた。どうやら入団にあたって、巨人関係者から切るようにほのめかされたらしい。これは余談
  だが、大洋時代にも一度剃ろうとしたことはあったらしい。ただ、そのことを知った球団から、「今のイメージ
  が崩れるので剃らないで欲しい」と要望があったそうである。

   もっとも、髭は剃っても性格が改まるわけではない。「巨人軍は紳士たれ」の実践は不可能だったようだ。
  巨人移籍1年目に、元同僚である大洋・門田、ヤクルト・鈴木康二朗からの死球を巡っての大乱闘事件を
  起こし、すっかりファンやナインの人望を落としてしまった。成績は良かったので、首脳陣としては切るに切れ
  なかったらしい。だがこれでは打てなくなったらクビにされるのは目に見えている。案の定、3年目にケガ
  などで数字を落とすと、あっさり解雇された。
   野球選手としては文句のつけようがないプレイヤーだっただけに、30歳超えても治らなかった粗暴ぶりが
  何としても惜しかった。
   そう言えば、守備時にヘルメットをかぶってグラウンドに立ったのも日本では彼が初めてだったろう。

選手名 投打 守備 所属 試 合 打数 得点 安 打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
シピン 右右  二 72 大洋  120  448  55  125  76   22   35  75   3 .279
      73  〃  123  478  70  141  75   33   40  65   4 .295
      74  〃  115  408  65  125  73   25   60  55   6 .306
      75  〃  130  501  73  148  82   34   35  69   1 .295
      76  〃  111  424  61  130  74   30   31  76   2 .307
      77  〃  129  494  76  153  87   22   48  77   5 .310
      78 巨人  116  375  52  118  63   16   49  57   5 .315
      79  〃  117  432  70  135  74   27   43  73   3 .313
      80  〃   75  219  26   49  21    9   14  47   0 .224
   計        9    1036 3779 548 1124 625  218  355 594  29 .297

  クリート・ボイヤー(Cletis Boyer)

   メジャーでも、その守備の素晴らしさを謳われた名三塁手。6人兄弟で、全員がプロ野球入りしており、
  ボイヤーを含めて3名がメジャーに入っている。55年にロイヤルズでメジャー昇格し、59年から66年
  まで名門ヤンキースのサードを守り抜いた。67年にパドレスへ移ったが、契約でフロントと衝突し、マイ
  ナーに落とされたのが71年だった。この時、ハワイで同僚だったのがシピンである。
   もう既に34歳だったが、まだ日本で充分いけると踏んだ牛込氏に誘われ、来日する。

   メジャーの名選手だったのは確かだが、もう年齢的に苦しいのではと言われていたが、立派にボイヤー
  は日本で通用することを示して見せた。まずはキャンプでナインや首脳陣が驚かされた。かのヤンキース
  で5度もWシリーズに出場した大選手。なのに、日本式練習を厭うことはなかった。それだけではなく、
  練習前、ひとりでフェンス相手にボールを投げ続け、ゴロのタイミングを掴もうとしていた。これが毎日で
  ある。そのひたむきな練習態度、ナインに溶け込むべく見せるユーモアに魅了されるた選手たちは、その
  食事にも感心させられた。「減量する」と言って、昼食はビターの板チョコ1枚だけ。夕食も、ステーキは
  サーロインではなくヒレの赤身だけ。しかも生野菜をボール一杯食べた。断っておくが、今から30年前
  の話で、食事管理などとまだ日本では誰も言っていなかった時代である。

   こんな選手だったから、彼を崇拝するのはシピンだけではなかった。ナインは親しみを込めて、ボイヤー
  を「ティーチャー」と呼んだ。実際、そのニックネームにふさわしく、ボイヤーは教える技術も一流で、山下
  大輔、田代富雄といった若手内野手の先生役で、自分の技術を惜しみなく披露し、教示した。表面的な
  成績でなく、これだけでもボイヤーを入団させた価値が大洋にはあったはずである。

   成績の方だが、少なくとも打つ方は「そこそこ」程度だった。そもそもパワーヒッターではないのだから
  ホームランが少ないのは致し方ない。年齢的なこともあり、古傷もあったから、欠場することも多かった
  し、外国人選手という目で見てしまえば物足りなかったろう。だが、上記した通りの、目には見えない
  様々な効用があり、ホエールズは彼との契約を更新し続けた。

   それに、もともとボイヤーのウリは守備である。ファンの語りぐさになっているのが三塁線に飛んだ打球
  の処理だ。抜けるかと思われた強烈なゴロを飛びついてつかむと、片膝立ちあるいは両ひざをついたまま
  スナップスローで一塁へ送球してアウトにした。その強烈な手首と上半身に、「これぞメジャー」を証明して
  くれた。肩は決して強くはなかったが正確そのもので、安心して見ていられるプレイヤーだったろう。
  ショートの山下大輔の華麗な守備、打球をさばいて、気が付くと一塁へ正確な送球しているプレーは、この
  ボイヤー直伝のものなのである。
   73,74年と連続してダイヤモンドグラブを獲得したのも当然といったところ。ライバルだった巨人・長嶋の
  派手でカッコいい、それでいてムダで余計な動きの守備とは正反対であった。ファン受けを常に考えていた
  という長嶋とは一線を画すプレーだったが、長嶋のプレイがどうこう言うつもりはない。ただ、ボイヤーという
  のはそういう選手だったということだ。

   38歳まで現役で頑張ったが、体力的にも限界を感じて、引退を表明する。球団は、ならばコーチとして
  残ってくれと要請、そこまで見込まれたボイヤーも意気に感じて残留を決意する。山下ら若い内野手を
  育て、シピンの制御役となったのは前述した通りである。

選手名 投打 守備 所属 試 合 打数 得点 安 打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ボイヤー 右右  三 72 大洋   99  347  38   99  51   18   24  38   0 .285
      73  〃   86  306  22   69  39   14   24  43   0 .225
      74  〃  118  432  44  122  65   19   23  48   0 .282
      75  〃  116  401  38   92  63   20   22  52   1 .229
   計        4     419 1486 142  382 218   71   93 181   1 .257

  フェリックス・ミヤーン(Felix Millan)

   アメリカ国籍のプエルトリカン。プエルトリコ人といってもわかないよ、という人には、同じ大洋のポンセを
  想像してもらいたい。彼と同じ顔である(^^;)。スーパーマリオのルイージである。
  それはさておき、66〜72年ブレーブス、73〜77年までメッツで活躍した名二塁手だった。前述の、シピン
  がいなくなったため、急遽セカンドの穴を埋める必要に迫られたホエールズだが、メジャーのリストを調べて
  みると、かの名セカンド・ミヤーンがメッツとの契約を保留されている。これはどうしたことかと言うと、前年、
  二塁ベース上のクロスプレーで走者と接触、鎖骨を骨折していたのである。35歳ということもあり、高年俸
  の絡みもあって渋っていたのがメッツだったわけだ。そこへホエールズが声を掛けると、なんと譲渡しても
  よいという。メッツにトレードマネーを支払ったのだが、この際、ケガや年齢のこともあるから、初年度から
  活躍できなければメッツが返金するという項目もあったらしい。

   そんな心配には及ばず、ミヤーンは打ってくれた。元々は守備を期待していたのだが、それ以上にヒット
  を打つ技術が素晴らしかった。35インチの長めのバットを短く持って、寝かせて構える独特の打法。1キロ
  を超える重さのバットからは、長打こそ少なかったが鋭い打球がグラウンド内に飛び交った。ケガの後遺症
  もなく、自慢の守備はどうということはなかったが、2番を定位置に巧打を連発した。1年目の.287も悪く
  なかったが、2年目には.346を打って首位打者を獲得する。これは大洋球団史上初の首位打者だった。
  もっとも、安打数は前年よりも少なく、ケガで出場試合数が100もないというのは、ちょっと物足りないか。
   そして彼のもっとも素晴らしいところは三振の少なさである。3年間のトータルでわずか52三振。なんと
  6.25試合の1つしか三振しないという抜群の三振率の低さなのだ。1試合1個どころか、年間で150も
  三振する打者に比べたら雲泥である。

   筆者も好きな選手だった。筆者がまだ現役でプレーしていた時、このミヤーン打法を取り入れたことがある。
  無論、冗談半分だったが、思いの外打ちやすかったのに驚いた記憶がある。特に速球投手のストレートに
  振り遅れず、センター返しがうまく打てる打法なのだ。
   もうひとつ、今回調べていて意外だったのは、ミヤーンは180センチもある選手だったらしい。小柄で
  すばしっこいイメージだったが、そんな立派なガタイだったのか(^^;)。

   余談だが、ミヤーンのニックネームはメジャー(つまりアメリカ)でも「猫(cat)」である。これを聞いて、
  「ああ、ミヤーンの名前が猫の鳴き声に似ているからだな」と思う人がいても仕方がないが、一部書籍にも
  そう書いてあるのはいかがなものか(^^;)。猫の鳴き声が「ニャン」とか「ミャーン」というのは日本の話で、
  アメリカでは違うのだ。
   ではなぜ「cat」なのかというと、ミヤーンのすばしっこいプレーぶり(特に二塁守備)が猫のような動きだ、
  ということらしい。これは筆者の想像だが、恐らく名前が同じ「フェリックス」という猫の人気アニメキャラから
  も由来しているのではなかろうか。

選手名 投打 守備 所属 試 合 打数 得点 安 打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ミヤーン 右右  二 78 大洋  120  443  63  127  31    2   28  20   1 .287
      79  〃   98  364  61  126  41    6   27  20   2 .346
      80  〃  107  332  38   95  20    4   21  12  10 .286
   計        3     325 1139 162  348  92   12   76  52  13 .306

  ゲーリー・ジェスタ(Garry Jestadt)

   日本ハム編70年代を見よ。


  トーマス・マーチン(Thomas Martin)

   中日編70年代を見よ。


   ロバート・レイノルズ(Robert Reynolds)

    登録名「ブレット」。69年のエクスポスから始まって、ブリュワーズ、カーディナルス、オリオールズ、
   タイガース、インディアンスと、毎年のように移籍しまくっていた白人投手。折からの投手日照りの救世主
   として、77年開幕直後に来日した。「弾丸投手」の異名をとる速球投手として期待されたものの、先発
   を任された最初の2試合で文字通りの乱打される。首脳陣の期待は一気に萎み、ブレットの自信とやる気
   も喪失した。5月半ばにはあっさり解雇(^^;)。入団後、わずか44日でクビという記録だけは作った。
    大洋にハズレ外国人が少ないのは牛込渉外担当のお陰だが、その牛込さん最大の失敗作が彼だろう。

選手名 投打 所属 試合 回 数 完投 完封 四死球 三振 失点 自責点 防御率
ブレット 右右 77 大洋   3  0  0  6.3   0   0    9   6   7    6 9.00

  ダニエル・ウォルトン(Daniel Walton)

   ブレット同様、ほとんど単年単位でメジャー7球団を渡り歩いた選手。シピンに代わって開幕直後に
  来日したものの、コントロールがよく変化球主体で攻めてくる日本投手に幻惑され、スイッチヒッターの
  特性を活かせず、思ったような打棒は振るえなかった。
   筆者的にはあんまり記憶ないんだよね(^^;)。ただ憶えてるのは、ナゴヤ球場で星野仙一投手から
  代打ホームラン打ったってことくらいかなあ。たまたまTVで見てたんだけどね。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ウォルトン 右両  外 78 大洋  75 144  17  31  22    9   20  44   1 .215