〜日本ハムファイターズ編〜
1970年代 〜ファイターズ誕生。チーム低迷、助っ人混沌〜
名門・東映から日拓ホームを経て、チームを引き継いだのは食品メーカーの日本ハムでした。
個性派フライヤーズの印象を一新すべく、積極的に補強を重ねましたが、なかなか思うようにいかずに
チームは低迷します。「パシフィックのお荷物」と屈辱的な呼ばれ方までされました。四苦八苦のチーム
事情、そこに呼ばれた助っ人たちはどうだったのでしょうか。
モートン(Wycliffe Morton)
タイガース、ブリュワーズ、エンゼルスを経てフライヤーズ入り。現役大リーガーとの触れ込みだったものの
来日したモートンはその時点で39歳。ロートルもいいところである。それでもメジャー経験も長く、希望通りの
長距離砲ということで、東映も大いに期待した。のだが。
やはりというか、これがサッパリ。速球に強いはずだったが、どうもそれは5年以上前の話だったようで、
まるでダメ。おまけに脚は遅いわ、守備もまずいわ、まったくいいところなし。挙げ句の果てに、本人もやる気
はなかったようで、やれ脚が痛い、腰が重い、肩がおかしい等々、あれこれ言い訳して練習や試合をさぼる
ことも多かった。
代理人の触れ込みなどアテにならないという教訓のような選手だった。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
モートン | 右右 | 外 | 70 | 東映 | 48 | 81 | 4 | 14 | 5 | 3 | 12 | 13 | 0 | .173 |
ロバート・クリスチャン(Robert Chiristian)
40歳手前のポンコツだったモートンに懲りた東映だったが、今度獲得したのは26歳のクリスチャン。
しかも前年までホワイトソックスでプレイしていた、まさにバリバリのメジャーリーガーである。年齢的にも
伸び盛り、なぜ彼くらいの選手がわざわざ来日したのか不明である。
いずれにしてもフライヤーズ首脳陣の期待は大きく、3番・張本、4番・大杉、5番にクリスチャンという
強力なクリーンアップが組めるとほくそ笑んだ。
若いだけに積極的なプレーで応じ、1年目はほぼフル出場を果たした。打率、本塁打ともに、さほど悪く
はなかったが、東映からすれば物足りない数字だったかも知れない。個人的には、打点もさびしいかなと
思うが、これは4番の大杉がホームランで掃除してしまったあとの打席も多かったということもあるだろう。
2年目にはその成績も若干下降し、その年限りで日本から去った。
まだ若いし、これから先も長く日本で活躍できるプレイヤーだと思うが…。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
クリスチャン | 右右 | 外 | 71 | 東映 | 125 | 463 | 42 | 127 | 59 | 16 | 20 | 30 | 2 | .274 |
72 | 〃 | 107 | 295 | 37 | 72 | 31 | 11 | 27 | 30 | 6 | .244 | |||
計 | 232 | 758 | 79 | 199 | 90 | 27 | 47 | 60 | 8 | .263 |
ジム・レドモン(Jim Redmon)
もしかするとクリスチャンが切られたのはその年限りで東映が身売りしたからかも知れない。
それはともかく、新生・日拓ホーム・フライヤーズは新たな外国人選手を加入した。メジャー経験はない
マイナー出の襲撃手・レドモンである。入団交渉に手間取り、来日したのはシーズンに入ってから。
故に、監督・コーチにはレドモンの力を確認する機会はなかった。
そんな不安をよそに、レドモンは初出場の試合に代打で登場、見事にヒットを放ってみせた。
さらに、2打席目になる初のスタメンでなんとホームランを打ったのである。首脳陣は大喜びだったが、
実は活躍はここまで。
元来、バッティングは得意でないらしく、長打力はないし、率も上がらない。結局は7番や8番あたり
の打順に落ち着くことになる。眼鏡をかけた理知的な風貌で、おとなしい性格だったらしい。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
レドモン | 右右 | 遊 | 73 | 日拓 | 73 | 230 | 23 | 56 | 24 | 5 | 6 | 22 | 5 | .243 |
マイク・ケキッチ(Mike Kekich)
日拓ホームは結局1年しか(正確には11ヶ月!)しかもたなかった。当初は、曜日毎にユニフォームを
替えるなど(つまり7種類のユニフォームを着こなしたのだ。7色のユニフォームと呼ばれたりした)やる気
満々に見えたが、1年でじゅうぶんに宣伝効果はあがったとして、さっさと身売りしてしまった。
その新チーム・日本ハムファイターズに加わった新外国人はマリナーズから来た右腕投手のケキッチ
だった。もっとも、前期のシーズン(当時、パシフィックは2シーズン制をとっていた)には間に合わず、後期
に入団した。1敗したあと3連勝して、これは使えると思ったのもつかの間、それ以後9月まで8連敗を記録
する。彼も日本のストライクゾーンにとまどったらしく、制球難で苦しんだ。おまけにリーグ最多の5つのボーク
を記録(後期しかいなかったのに、である)するなど散々だった。
選手名 | 投打 | 年 | 所属 | 試合 | 勝 | 敗 | S | 回 数 | 完投 | 完封 | 四死球 | 三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
ケキッチ | 左右 | 74 | 日本ハム | 18 | 5 | 11 | 0 | 122.3 | 9 | 0 | 91 | 90 | 60 | 56 | 4.13 |
ローレンス・スノー(Lawrence Snow)
練習をサボるとかダラけたプレーをするとか、極端になると勝手に帰国してしまうような素行不良外国人
選手もけっこういた。だが、このスノー(バールとも呼ばれたらしい)に勝る(劣る?)ものはいないだろう。
66年にメッツ傘下の1Aに1年だけ在籍したことがある。その後はユタ工大のピッチングコーチを務めたり
していた。そこを辞めると今度は貿易会社に勤務、その仕事で来日することになる。物見遊山気分だったの
だろうが、74年の2月に、ものは試しとばかりにファイターズのキャンプ地でテストを受けてみると、これが
見事に合格。あっさり前職を辞めて入団することにした。若いし、そこそこ球威もあるということで、育てる
つもりで獲得したのだろう。
敬虔なモルモン教徒で、非常に真面目ということだったが、4月に初めての給与をもらうと、その翌日から
いきなり連絡が取れない。練習にも来なければ宿舎にもいない。あれこれ手を尽くすものの、結局所在不明
ということに。諦めた球団はリーグへ届け出て、スノーは無期限の失格選手ということに相成った。後日、
アメリカに帰国していることが判明、三原脩球団社長は「人はみかけによらんですな」と言ったとか。
1軍はもちろん2軍の成績も当然なく、出生年月日も不明なら写真も残っていない。
選手名 | 投打 | 年 | 所属 | 試合 | 勝 | 敗 | S | 回 数 | 完投 | 完封 | 四死球 | 三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
スノー | 右右 | 74 | 日本ハム | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | − |
テレンス・レイ(Terrence Ley)
ヤンキースに在籍したことはあるが、登板はトータルでわずか9試合。それでも左腕不足に悩むファイターズ
にとっては贅沢も言っていられない。入団は74年の後期シーズン。ケキッチとはヤンキース時代からの同僚
で、セット入団だったのだ。
成績的には、ケキッチの方がまだマシだったし、初登板時にはなんと3つものボークを犯すなど大雑把と
いうか意地っ張りというか、使いづらい投手だったのではなかろうか。にも関わらず、ケキッチは解雇された
がレイは2年目も契約したものの、やはり成績は鳴かず飛ばず。
選手名 | 投打 | 年 | 所属 | 試合 | 勝 | 敗 | S | 回 数 | 完投 | 完封 | 四死球 | 三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
レ イ | 左左 | 74 | 日本ハム | 13 | 3 | 2 | 0 | 43.3 | 0 | 0 | 34 | 30 | 17 | 16 | 3.35 |
75 | 〃 | 11 | 2 | 3 | 0 | 55.3 | 0 | 0 | 50 | 47 | 30 | 29 | 4.75 | ||
計 | 24 | 5 | 5 | 0 | 98.6 | 0 | 0 | 84 | 77 | 47 | 45 | 4.10 |
ジョージ・カルバー(George Culver)
1年で見限ったケキッチに代わりに入団させたのがカルバー。インディアンス他5球団に在籍したメジャー
の投手ではあった。後期からの入団で、初登板のゲームでは7イニングのロングリリーフをこなし、初勝利を
ものにしたものの、結局それが唯一の勝ち星となる。四死球も多く、スピードもない。これでは日本でも通用
しないだろう。
選手名 | 投打 | 年 | 所属 | 試合 | 勝 | 敗 | S | 回 数 | 完投 | 完封 | 四死球 | 三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
カルバー | 右右 | 75 | 日本ハム | 9 | 1 | 4 | 0 | 36.0 | 0 | 0 | 26 | 15 | 31 | 26 | 6.50 |
ゲーリー・ジェスター(Garry Jestadt)
東映時代の遺産を吐き出したため、残った選手たち、それも内野陣は小粒ばかりだった。そこで主力に
ということで引っ張ってきたのがパドレスからやってきたジェスターだ。183センチ83キロというガッチリ
した体つきの大型内野手で、ファイターズでは主軸として期待していた。
ところが、フタを開けてみるとこれが正反対。打撃面でからっきし頼りにならない。この辺の選手になると
筆者にも憶えがあるのだが、今回記録を調べてみてシーズン109本もヒットを打っているのを知って驚いて
いる。ジェスターはそんなに打ったかなあ? 反面、あまり期待されていなかった守備の方が評価された。
とはいえ、ハムとしてはバッティングを期待したのであって、打順8番の打率.242ではお話にならな
かった。ということで、この年で切られるのだが、やはり内野不足に悩んでいた大洋に拾われた。
ショートの山下大輔と組んだ鉄壁の三遊間を期待されたが、ゲーリー本人は評価の低い打撃面を気にして
か、安定していた守備にもほころびが目立つようになった。ホームランだけは前年の倍増になったが、ウリ
の守備が破綻し、打率も下がっては解雇も仕方ないかも知れない。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
ジェスター | 右右 | 三 | 75 | 日本ハム | 130 | 451 | 34 | 109 | 45 | 9 | 17 | 45 | 2 | .242 |
ゲーリー | 76 | 大 洋 | 126 | 437 | 41 | 103 | 37 | 18 | 41 | 46 | 1 | .236 | ||
計 | 256 | 888 | 75 | 212 | 82 | 27 | 58 | 91 | 3 | .239 |
ウォルター・ウィリアムス(Walter Williams)
この選手も印象的だった。ヤンキースから引っ張ってきたウィリアムスだ。身長168センチ84キロという
黒人選手。アメリカでは「ノー・ネック(首なし)」ウィリアムスと呼ばれていた通りの猪首が特徴的だった。
小柄に見えたが筋肉の固まりで、グラウンドを駆けるその姿はまるで豆タンクそのもの。
その体格からして、パワーに欠け、鈍重なのではないかと思われたがまったく逆。その腕っ節からは
20本以上のホームランが生み出され、脚もそこそこ速く俊敏だった。
一発長打のミッチェルとシュアなウィリアムスは絶妙なコンビだった。長打力こそミッチェルに譲るものの、
確実性や勝負強さはウィリアムスが上。真剣なプレーぶりだったが、それが剽軽に見え、ファンの人気者
でもあった。76年にはオールスターにも出ている。
77年限りの在籍2年で解雇となったが、もったいない選手だった。まだイケただろうに…。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
ウィリアムス | 右右 | 外 | 76 | 日本ハム | 122 | 494 | 62 | 141 | 57 | 23 | 23 | 17 | 12 | .285 |
77 | 〃 | 117 | 458 | 62 | 123 | 65 | 21 | 19 | 37 | 10 | .269 | |||
計 | 239 | 952 | 124 | 264 | 122 | 44 | 42 | 54 | 22 | .277 |
ロバート・ミッチェル(Robert Mitchell)
前出のウィリアムスと名コンビを組んだのが、このミッチェル。197センチ91キロ、足が長く、どちらかと
言えばひょろっとしたイメージがあった。70年ヤンキース、71年から75年まではブリュワーズに在籍した
大リーガーである。
初打席でいきなりホームランしたり、78年に選ばれたオールスター戦でも、これまた初打席でホームラン
するなど、長打力には魅力十分だった。1年目は粗っぽさばかりが目立ち、売り物の本塁打も同僚ウィリア
ムスに並ばれ、打率は遙かに届かなかった。三振の多さにも疑問がもたれたが、20発はクリアしていること
だし、来季以降も様子を見ることとなる。そしてそれは成功した。
翌年以降も三振が減ることはなかったが、持ち前の長打力は存分に発揮した。2年目の77年はパシフィック
の本塁打部門2位。1位はロッテのリーだったのだが、これが34ホーマーだった。一方のミッチェルは32発
なのだが、実は雨天ノーゲームで2本も損している。これがなければリーと同数で、キングを分け合って
いたはずなのだ。ちなみにこの年はシーズン158三振で、これは当時の日本記録だった。
3年目は彼自身最高の成績を残した。36ホーマーもさることながら、93打点は立派である。率も.274
を残し、十分に満足のいくシーズンだった。相変わらず三振は多かったが。
最後の年になった79年は、打撃三部門すべてで成績を落としてしまい、この年限りで整理された。
なお、在籍した4年間すべてで100三振以上を記録している。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
ミッチェル | 右右 | 外 | 76 | 日本ハム | 107 | 401 | 61 | 98 | 66 | 23 | 33 | 121 | 8 | .244 |
77 | 〃 | 128 | 482 | 70 | 117 | 75 | 32 | 40 | 158 | 9 | .243 | |||
78 | 〃 | 128 | 470 | 71 | 129 | 93 | 36 | 36 | 122 | 3 | .274 | |||
79 | 〃 | 111 | 365 | 53 | 85 | 60 | 22 | 42 | 122 | 2 | .233 | |||
計 | 474 | 1718 | 255 | 429 | 294 | 113 | 151 | 523 | 22 | .250 |
ジーン・ロックレア(Gene Locklear)
ウィリアムスの後釜として、29歳で来日したのが元ヤンキースのロックレアである。ちなみに、ここまで
で、やけにヤンキース出の選手が多いとお思いの方もおられると思うが、これは当時、ファイターズがヤンキ
ースと業務提携を結んでいたため、選手を紹介、提供してもらえたという事情がある。
で、このロックレア、一発長打を見込める選手、という触れ込みで入団している。ウィリアムスを切ったのも
どうやらそういうことらしい。しかしながら、100試合以上に出場しながらわずかに8ホーマーではお話に
ならず、率も打点も低空飛行で使い物にならなかった。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
ロックレア | 右左 | 外 | 78 | 日本ハム | 108 | 354 | 40 | 85 | 38 | 8 | 18 | 54 | 4 | .240 |
サミュエル・ユーイング(Samuel Ewing)
78年はマイナーだったが、77年まではブルージェイズでレギュラーだったユーイングがファイターズ入り
した。ウィリアムスを解雇してまで入団させたロックレアがまるでスカだったので、今度はヤンキースに
頼らず球団が探し出してきたのだ。やはり長打力を売り物としていて、日本なら30発は固いと思われて
いた。
が、やはりダメだった。いや、ダメというほどではないし、前年のロックレアよりはずっとマシだったと
思うのだが、チームの評判は芳しくなかった。なにせ守備がお粗末で脚もまったく遅いのだ。なら指名
打者で使いたいところだが、ここはミッチェルの指定席。つまり、打撃はそう悪くはないが、スタメンでは
非常に使いづらい選手だったということだ。
ホームランは期待したほどではなかったが、打率はそこそこ残しているし打点もさほど悪くない。
ミッチェルをこの年で切るのだったら、ユーイングを残して指名打者にするのも手だと思ったが、結果として
はそうならず、ミッチェル同様、この年限りでお払い箱となる。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
ユーイング | 右左 | 外 | 79 | 日本ハム | 119 | 416 | 41 | 119 | 65 | 15 | 29 | 77 | 2 | .286 |