連 載 小 説
一年間のプロローグ
− 彼 女 と お 嬢 様 の 愛 の 物 語 −
■ 2 ■
運命は残酷だが、その仕事ぶりは完璧である。
しとしとと降りしきる雨のように、日々はいつの間にか山々の色合いを変えて行く。
その一粒一粒は吐息のように儚くても、黒々とした夏の土から少しずつその熱気を奪っている。
霞の先に秋が見える。
しかし彼女の心の霞の先には、いっこうに何ものも見えては来ないのであった。
お嬢様は今、一体何をしておいでだろう。
日に千回は考える。
きっと、家政婦の用意した服が気に入らないと言って駄々をこねている頃だろう。
それとも、大広間の階段の手すりを滑り降りようとして、使用人を青ざめさせている頃だろうか。
ちゃんと歯は磨いただろうか?
髪に櫛は通しただろうか?
そんな事を考えている。いつも。
そして彼女はこうも考える――。
私は、お嬢様の・・・。何なのだろう。
警護係?
確かに旦那様からはそう言い付けられている。
だが真の警護係なら、警護対象をドラゴンの出る(というお話の)深い森になど連れては行くまい。
お目付け役?
奥方様にはそのように言われた。
だが本当のお目付け役というものは、その対象が家政婦のタンスにこっそりバッタを仕込むのを手助けしたりはしないだろう。
教育係?
家政婦の婦長にはそれを期待されている。
だが教育する立場の者が、その対象を背中に乗せて四つんばいになった上、鞭で尻を打たれたりはしないだろう。
遊び相手?
あの若い衛兵はそう評していた。
これが一番近いかもしれない。だが、これを否定すべき根拠が二つある。
まずは互いの身分である。この私がお嬢様の遊び相手などとは恐れ多い。何しろ私はポニーの糞よりも下の身分なのだ。
そして、私を評した青年自身の問題がある。あいつは私と話す時だけ、なぜか目を逸らす癖があるのだ。
「相手の目を見て話せない奴は信用するな」と婦長に言われた事がある。悪い奴ではないのだが。
裏庭で偶然見つけた、四つ葉のクローバーをいじくりつつ、なおも彼女は考える。
私は、お嬢様の・・・。
その時。
朝靄を、突然の吼え声が引き裂いた。
声の出どころを探る。
すぐに見付かった。それは山から響いていた。
勇猛なる勇者様の乗馬にして、目を離せばテコでも動かないはずの老犬バッカスが、彼女に向かって必死に吼えているのだった。
彼女の姿を認めた瞬間、バッカスはきびすを返して山へと消えた。
彼女は四つ葉のクローバーを投げ捨て、走った。
柵を軽々と跳び越え、昼なお暗い山道を平地に勝るスピードで駆け上がった。
あのバッカスが。
少女のいない所で、これほど吼えた事はない。
ただの一度も。
・・・あのバッカスが、私を頼っている。
そして少女の姿はない。
彼女の背に冷たいものが奔った。
それは降り続く雨が招いた事故だった。
その一粒一粒は吐息のように儚くても、少しずつ土を穿ち、山を削りつつあったのだ。
それは炭焼き小屋の近くで顕著だった。
地盤が緩み、周囲の古木が倒壊したのだ。
そこに刻まれた祝福の言葉と共に。
そう。
結界が破れたのである。
人が築いた世界と、人が踏み入れてはならない世界。
それを隔てる結界が。
彼女の顔を何かがかすめた。
それが矢だと気づく前に彼女は見つけた。
森の深部で次の矢をつがえる醜悪な小鬼の姿。それが二匹。
そして、その傍らに伏せる赤いドレスの・・・。
視界がすうっと遠ざかる。
世界は白い闇に包まれたようだった。
すべての物事がゆっくりと過ぎ、逆に五感は張り詰めた糸の様に研ぎ澄まされた。
お 嬢 様 が 。
お 嬢 様 が 。
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
叫んでいた。しかしその叫びは聞こえず、代わりに自分の鼓動がひどく遠くから聞こえてきた。
矢が、見える――。
黄色い、何かの動物の骨で作られた矢尻が、ゆっくりと近付いてきて右の肩口に触れた。
それが服に穴を穿ち、皮膚を突き破って、じわじわと肉の奥に刺さってきた。
痛みは感じなかった。
左側の小鬼に何か白いものが飛びかかった。同時に右側の小鬼の傍らに伏せる赤いドレスが動き・・・。
少女の、唇が告げた。
た
す
け
…
世界は動き出した。
気付けば小鬼に飛びかかっていた。
めちゃくちゃに殴った。
殴った。
殴った。
肩から矢を生やしたまま殴った。
小指と薬指を骨折したまま殴った。
ずくずくの赤い肉が地面にめり込むまで殴った。
噴水のように温かい水が噴き出した。
それでも殴った。
殴った。
殴り続けた。
ふと、手を止めた。
背中に違和感がある。
何か冷たい、氷のようなものが背中に触れている。
手を触れると、それはナイフの柄だった。
どうやらそれは、自分の背中から生えているようだった。
ゆっくりと、立ち上がる。
振り向いた。
そこには小さな、怯えきった小鬼が一匹いて、腰を抜かしながら後ずさっている最中だった。
何か叫んでいるが、とっくに耳など聞こえなくなっていた。
近くにはバッカスがいた。
頭から血を流し、脚にも怪我を負っているようだが、小鬼に向かって健気にうなり声を上げていた。
ふと見ると、足元にはあの聖なる武器があった。
かがんで手に取った。
怯えていた小鬼はようやく立ち上がり、震える脚で脇目も振らずに遁走を始めた。
それを追おうとバッカスも吼えるが、深い傷のせいでその場にしゃがみ込んでしまう。
脚には矢が刺さっているようだ。
彼女は余計な痛みを与えないよう一気にその矢を引き抜き、再び立ち上がった。
小鬼はどんどん離れて行く。
彼女は少女の聖なる宝物をしっかりと持ち、バッカスの血で染まった矢をそこに番えた。
静かにそれを引き絞る。
数を数える。一、二、三。
小鬼は今や尾根に辿り着こうとしている。
あらゆる気配、あらゆる音が絶えた。
無――。
一切の静寂の中で、彼女の心が張り詰めた弦に触れる。
その点のような背に向け、彼女は射た。
きらめく矢が山に吸い込まれた。
それは風を切り裂き――。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 。
一瞬だけ、谷に落ちるその姿が見えた。
世界に色が戻った。
最初に見たのは、赤。
小鬼どもの穢れた血の色ではない。
高貴な、ビロードのように美しい赤。
そこに少女がいた。
ただ目を見開きながら。
放心したような、呆けた顔を彼女に向けていた。
指が白くなるまでぎゅっと握った籠の中には、溢れんばかりの黒い果実がぎっしりと入っていた。
彼女はそれを見た。
それは――季節外れの「木苺」だった。
それは、彼女の大好きな果物だった。
そしてそれは、一日で集められる量ではなかった。
ここ数日、雨の降りしきる暗い森の中で。
季節外れの黒い果実を。
ずっと、ずっと。
少女は捜し続けていたのだった。
そう、彼女のために。
自分のせいで屋敷を追われてしまった彼女のために。
一介の使用人に過ぎない彼女が、あれだけの騒動を起こしても解雇されずに済んだ理由は。
少女の口添えのおかげだった。
少女の必死の説得によって、彼女はお払い箱にされずに済んだのだった。
何よりも、誰よりも、少女自身が彼女と一緒にいたかった。
離れたくなかったのは、少女も同じであったのだ。
だから今日も。
逢えない彼女を想い、バッカスと共にせっせと果実を集めた。
彼女の喜ぶ顔が見たいから。
彼女には、たくさん悪い事をしてきた。
ひどい事もたくさんした。
だってそうすれば、私の事を一番気にしてくれるから。
私の事だけ見ていて欲しかったから。
ようやく彼女はすべてを知った。
あの夜の胸の痛みも理解できた気がした。
同じだったのだ。少女も自分も。
されど、彼女にはまだ仕事が残っていた。
彼女でなければできない仕事が。
そのために彼女はここにいる。
彼女は少女の。
私は、お嬢様の・・・。傍に立つ者。
彼女はそれをした。
パン、と乾いた音が響いた。
籠は転がり、中身の果実が地面に散らばった。
平手だった。
彼女が平手で少女の頬を張ったのである。
山は危険だと何度も言ったはずだ。人が踏み入れてはならない場所もある。一歩間違えば命を落としていたのだ。絶対に一人で山に行かないと約束しただろう。
・・・などと言うつもりだった。言わねばならないはずだった。
言えなかった。
言えずに、なぜか涙が溢れてきた。
まったく理由が分からなかった。
止められなかった。
悲しくて、苦しくて、嬉しくて、泣いた。
少女も泣いた。大声で泣いた。
ごめんなさい、と言っていた。
何度も謝りながら泣いた。
彼女もぼろぼろ泣いた。
泣きながら少女の体を抱きしめた。
雲が霧になり、そして風が晴れ間を運んできた。
山間の深い森の中、傷付いた二人はいつまでも深く抱きしめ合い、いつまでも泣き続けた。
この日。
彼女はついに、使用人のランクから外される事となった。
少女にとっての屋敷の人間は3種類いる。
自分の家族とそれ以外、そして彼女だ。
とても大切な人だから。
だから、彼女の部屋も馬屋の端から屋敷内に復活した。
ただしその事に気付いたのは、医師による彼女の手術が終わってからだった。
季節は秋になっていた。
そう。時は巡る。
泣き声も笑い声も風の彼方に響かせながら。
ようやく包帯が取れる頃。
彼女の周辺では、いくつかの変化があった。
例えば少女である。
いよいよ本格的な教育というものが始まったようだ。
あれからすっかり隠居を決め込んだバッカスの頭を撫でながら、隣室にいる少女の事を想った。
いずれ少女ではなくなる日のために、今から準備をしている少女。
今日は確か、詩についての勉強の日であったはずだ。
街から来た桂冠詩人は、いかにも学者然とした白髪の老人だった。
確かに詩には詳しいだろうが、10代の女性に関しては怪しいものだ。そう彼女は考えた。
少女のなけなしの忍耐力もそろそろ限界のはずである。
彼女はそっと立ち上がり、新しい茶を煎れるために部屋を出た。
庭には旦那様がいた。
庭木の先で紫煙をくゆらせつつ、はるか山々の夕霧を臨んでいた。
彼女は深く頭を垂れ、静かに回廊を進んだ。
そこで呼び止められた。
庭に出てみると、秋から冬にかけての準備に忙しい山々の空気が、屋敷全体を包んでいるかのようだった。
彼女と似た背丈のモミが並ぶ庭では、丸々としたイワヒバリが遊んでいた。
風には秋の香りが含まれている。
そして彼女はヒバリについて、この距離なら弓ではなく投げナイフでも仕留められると考えていた。
台無しである。
風情も何もないが、少女が絡まない場合における彼女の情緒はせいぜいこの程度なのであった。
旦那様は言った。
この土地を開墾し、この庭を造り上げたご先祖様の話。
彼女はあと3分聞いたら逃げ出そうと考えた。
背後から銃で撃たれても仕方のない行為である。
そんな彼女の態度を見抜いたのか、旦那様は上着のポケットを探り、何か小さなものを彼女に見せた。
1個のどんぐりである。
この荘厳な屋敷よりも、この広く美しい庭よりも。
子供の頃に集めた、この小さなどんぐりに比べれば。
何の事はない。
どんな富も、これには敵わんのだよ。
即座に彼女は答えた。それは間違いです。お屋敷全体の価値をまず土地と建造物とで考査するに――。
台無しである。
旦那様はその指の一本を彼女の唇に当てただけで、彼女を黙らせてしまった。
そして彼女にどんぐりを握らせた。
私の本当の宝物は、この中に詰まっているのだよ。
そしてそれは、もう永遠に手に入らないものなのだ。
いずれ君に・・・それが分かる日が来れば良いが。
彼女は困惑した。
旦那様の言っている事が矛盾を孕みすぎているので、何一つ理解できなかったからだ。
そんな彼女に旦那様は言った。
「1羽半のニワトリが、1日半で1個半の卵を産むとしよう」
「はい」
「9羽のニワトリは、9日で何個の卵を産む?」
即座に彼女は答えた。
「54個です」
それは正解だった。
しかし、それに正解してはいけなかったのだ。
旦那様は天にも届くような大笑いをしながら、彼女の頭をくしゃくしゃにした。
君はそれでいい。それでいいのだよ。
そして、上機嫌で屋敷へと去った。
後に残された彼女は、痺れを切らした少女の怒号が響くまでの約10分間、その場でずっとフリーズしていた。
合っているのに間違っている。
間違っている事が正しい。
これは一体、どういう事なのだろう?
この問題は、今でも彼女を悩ませている。
今は流浪の彼女、その原点がここにあるのだった。
<次回に続く>
―――Isaac Asimovに捧ぐ―――
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