連 載 小 説
一年間のプロローグ
− 彼 女 と お 嬢 様 の 愛 の 物 語 −
この作品は、テーブルトークRPG(TRPG)の『ソードワールド2.0』における【ルーンフォーク】をキャラクター造形の骨子に使用させていただいております。
当然そんな設定はおろか、テーブルトークそのものを女子会か何かと勘違いされているような一般の方でも問題なく読める作品に仕上げてあります。
問題があればそれは私の責任であって、角川ホールディングスやらダイスの出目には一切の責はありません(後者についてはあんまり強く言えませんが)。
■ 1 ■
彼女は創られた存在である。
その銀色の髪はセピアの髪留めで彩られ、そこに乾燥したクローバーの茎が結んである。
腰の皮袋には路銀が入っているが、それと共に長さ0.8インチの「どんぐり」が一つだけ入れられている。
いずれも彼女の宝物だった。
髪留めとクローバーは貰いもので、彼女にとっては一番大事な人からのプレゼントだった。
弓を手にするたびに。
山の空気を吸うたびに。
そして春から夏にかけ、甘酸っぱい木苺の実を口にするたびに。
鮮明に彼女は思い出すのだった。共に過ごした大切な時間の事。
本当はもう一人の人物が深く関係しているのだが、彼女から見ると深い関係でも何でもないのであった。
残念ながら。
そしてどんぐりは、なぜ宝物なのか彼女にも分からない。
別に特別なものではない。その辺に落ちている、何の変哲もないごく普通のどんぐりである。
彼女の旅は、この二つ目の物品が「なぜ宝物なのか」を――。知るためのものでもあった。
彼女にとっての最初の「意味ある」記憶は、今まさに眼前に広がるこの美しい庭であった。
さらには、その先に見える大きな白亜の屋敷。
振り向けば、そこは広大な針葉樹の森である。
山の空。はるか遠くを飛ぶオナガのつがい。
風の渡る音。
草木の歌。
朝露の香り。
そして白いテラスを飛び出し、元気いっぱいに駆け寄る少女がいた。
真っ赤なドレスを着た少女。
この少女こそ、彼女の世界の中心である。
この瞬間から向こう一年間。
少女のためだけに生きる事こそ、彼女に与えられた天命であった。
それは感情にあらず。
無償の献身が愛なら、彼女は愛の権化である。
されども、彼女は少女に対する特別な感情など無かった。
ただそう創られていたから。
だから、彼女はそのように生きた。
鈴のように、流れる小川のせせらぎのように朗らかな少女の声。その笑顔。
それは彼女における酸素であり水であり、また電力でもありガソリンでもあった。
さらには、何よりも効く万病の薬であると同時に劇薬でもあり、どこへでも行ける夢の翼であると同時に彼女を縛り付ける鋼鉄の鎖でもあった。
彼女は、生きるために少女に尽くさなければならなかった。
それは幸でも不幸でもなく、ただの事実である。
彼女はその事について特に考査しなかった(できなかった)。
金属バットが必ずボールを打つとは限らない。人の頭だって殴れるのである。
そしてその事に関して、当のバット自身は特に何も思う所はないのであった。
彼女は器用だった。
よく草木を結んでは、花輪や楽器、小さな動物たちを作った。
余った布を継ぎ足し、馬の毛やワラを詰めた縫いぐるみ作りも得意だった。
お針子や職人の手先を観察すれば、素直にその通り手先を動かせるという特技があった。
その特技は弓術などにも応用できたので、屋敷ではそこそこに重用された。
また彼女はその性質上、じっくりコツコツ作業するのに向いていた。
その気になれば何時間でも単純作業ができた。
何もせずに休むよりは、少しでも手を動かした方が合理的だ。彼女は常々そう考えていた。
暇な時間にタペストリーを作ったり、ブックカバーを縫ったり、竹籠を編んだりするのが日課だった。
そして彼女はタフだった。
男連中に負けないくらいの荷を持ち、街から屋敷への山道を一度も休まずに歩いたりした。
水汲みや薪割りも黙々とこなした。
決して文句を言ったり、弱音を吐いたりはしなかった。
そういう風に創られてはいなかったからである。
だが、彼女は実直すぎた。
人の言葉の裏というものを想像する事ができなかったのである。
命じられた事を常に100%遂行しようとする彼女の実直さは、時に周囲の笑いのタネとなった。
皮肉や揶揄も、額面どおりに受け取ってしまう。
必要がない限り、嘘もつかない。
悪い意味で純粋なのであった。
それでもなお、彼女は聡明だった。
勉強が好きで、知識が増える事に何よりの喜びを見出していた。
二度同じ失敗をしなかった。
新たな経験は何でも記憶し、次の機会に生かした。
皮肉や揶揄についても、その意味を問い質せるまでになった(自分から言うまでには至らなかったが)。
この屋敷で、彼女は確かに進化したのだ。
されども、ずっと変わらない事もあった。
それは他でもない彼女自身である。
これは彼女が変わる物語。
また同時に、彼女が変わらない物語である。
屋敷にはパイプの煙をこよなく愛す旦那様がいて、おとなしく控え目な奥方様がいた。
彼らには三人の子供がいた。三人とも女の子だった。
長女と次女はすでに嫁に出ていたので、屋敷の跡を継ぐのは必然的に三女である上記の少女となる。
よって屋敷では、かなり控え目な表現で言うところの「お転婆」なその少女が、両親から(これも控え目な表現で)人として許されるギリギリのレベルまで溺愛されつつ暮らしていた。
主人たるその家族とは別に、屋敷には多くの使用人、料理人、衛兵、家政婦などがいた。
馬車を引く何頭かの馬や、荷物運びのポニーもいた。
また少女の前では千切れんばかりに尻尾を振るが、少女の姿が見えなくなった途端にテコでも動かなくなるバッカスという名の白い老犬がいた。
そして、そこには彼女も。
彼女自身の序列はもちろん屋敷のご家族よりずっと下で、使用人の中でも一番下で、さらには犬のバッカスよりもはるかに下の地位であった。
例えば、荷を引くポニーを見た少女が「可哀相だ」と言うので、その荷物を半分ほども持たされた事まであった。
少女から見た彼女の地位はその程度である。
要するに、ポニーなどよりも確実に下に位置していた。
彼女はそれを疑問に思わなかったし、不条理だとも考えなかった。
そのように考える事が出来なかったからである。
彼女の仕事は多岐に亘った。
時には屋敷の戸締りをし、時には広間の模様替えに駆り出された。
衛兵たちに混じって弓を構える事もあれば、雨どいを修理したり、馬の体をわらで拭いたり、街まで使いに出たりもした。
そしてもちろん、少女のお守りもした。
それは四つんばいになって馬の真似事をする仕事であったり、ビリヤードのキューでチャンバラをして最後には切られる仕事であったり、その際に折れてしまったキューについて旦那様の前で土下座をする仕事であったりした。
それらのどの仕事においても先輩たちがいたのだが、彼女が屋敷に来ると同時に(知らない間に)彼女にすべて引き継がれていたのであった。
また時おり、冒険と称して山に入る事もあった。
山には恐ろしい魔物や猛獣がおり、迷ったら生きては帰れない。
そんな話を聞いたが最後、その魔物や猛獣とやらをひと目見るまで、絶対に少女の心は折れないのであった。
もちろん本気で山に深入りしたら、上記のごとき結末が待っている。
だから彼女は思案し、屋敷から徒歩で半時間ほどの炭焼き小屋をベースとした。
小屋の周囲を適当に歩く分には安全である。
しかし道は獣道、昼なお暗い森の中とあって、雰囲気だけなら吟遊詩人でも納得のチョイスであった。
そこでは少女こそが魔物を狩る勇者であり、彼女はその従者で、犬のバッカスは白馬となった。
つまり屋敷の中と同じである。
真っ直ぐな木の棒は聖なる剣に、戸板は聖なる盾になった。
彼女はお供をしながら好物の木苺をたくさん摘み、少女のためにはシロツメクサの茎で器用に花輪を編んだりした。
また変な形のキノコを集めさせられたり、蛇やカエルを捕まえさせられたり、猛獣の鳴き真似をさせられたりもした。
彼女は、それを苦行だとは考えなかった。
彼女は創られた存在だが、苦痛や疲労を感じないわけではない。しかし彼女にとっては苦行でも何でもないのであった。
彼女における苦行とは、生命活動が停止するか否かのギリギリのラインの先にある。
よって、そのラインより髪の毛一本分でも手前であるなら苦行とは認識しない(できない)のであった。
つまるところ、彼女はデジタルなのである。
使用人にも様々な人間がいる。
彼女ほど多彩な仕事をこなす(押し付けられる)人間こそ少ないが、それぞれの分野で専門的な仕事に日々従事している。
その中に若い衛兵がいた。
大柄で朴訥な青年であり、剣の腕は確かだが、それを抜く所など想像できないほどの優しい性格をしていた。
彼女が青年と最初に言葉を交わしたのは、屋敷に来て五日が過ぎた辺りでの事である。
それは初春の頃。
からりとした陽気に花の香り立つ朝だった。
彼女が庭の花壇の水やりをしていると、大量の焼きレンガを台車に乗せて運ぶ青年がそこへ通りかかった。
彼女が普段どおりに挨拶をすれば、青年はご丁寧に台車から手を離し、極度に緊張した様子で彼女に対して敬礼をした。
彼女は敬礼をされるような立場にはない。
それに、なぜこの人はこれほど緊張しているのだろう。
顔が高揚しているし、なぜか目を逸らしている。
彼女にはその理由がまったく分からなかったが、こうして言葉を交わす以前から、この青年が自分をちらちらと観察している事は気付いていた。
そして青年にとって不幸な事に、彼女は素直だった。
だから彼女は聞いた。正面から。
先日は炊事場で、その前は馬屋で、その前は裏門の手前であなたを見かけたが、なぜかすぐにその場を離れてしまった。
いつも私を注視していたようなので、何か話があるのなら――。
最後まで言う前に、青年は重い台車を引いて飛ぶように退散してしまった。
その意味をよくよく考えてみたのだが、ついぞ彼女に答は出せなかった。
そんな事がありながらも。
半年ほど経った頃には、お互いを呼び捨てにするだけの距離には落ち着いていた。
敬語を使う間柄ではなくなったとはいえ、相変わらず青年は、彼女をまるで腫れ物のように扱っていた。
彼女の観察力は完璧である。
反面、想像力や関連を類推する能力に関しては、ほぼゼロと言ってよかった。
そのように創られてしまったから仕方がない。
青年が挑むべき山は標高こそ低いが、壁面がすべて垂直に等しかった。
山というより単なる四角い建造物である。デジタルに。
そして今は秋。
彼女が屋敷にいられる期間の半分を過ぎてしまった。
彼女の契約は一年間であり、延長はできないのである。
それは少女の問題であった。
少女はいつまでも「少女」のままでいるわけにはいかず、いずれは淑女になるための大切な教育が待っているのだ。
その時に必要なのは、遊び相手ではなく知識と経験を持ったプロの教育者である。
創られたばかりの彼女に居場所はないのだ。
よって。
青年が想いを遂げるための時間も半分を過ぎてしまった。
わずか半年以内で、人形に感情を植え込まなければならないわけである。
あるいは同じ期間内で、猿に言葉を教えないといけないのだ。
垂直の壁が日に日にオーバーハングしてくる絶望を青年は味わっていた。
この頃になると。
青年の彼女への想いを知らない者は、屋敷内では彼女を含めてわずか一人しかいなくなっていた。
例えば少女の場合、かなり初期から青年の気持ちに感付いており、面白半分(全部)に色々と画策してくる事がままあった。
彼女は何を命じられようが一切の呵責を感じ(られ)なかったが、青年は別であった。
そう。まだ10代の少女よりも、この青年の方がはるかに純情だったのだ。
そして相手は彼女である。
誰も悪人でない所が余計に悲しい事実であった。
ある日の朝。
意を決した表情の青年に誘われ、何やら布の袋を渡された。
彼女が何かを問う前に、ぶっきらぼうに「開けてみろ」と言う。
開けないと腰のナイフで喉でもかき斬るのではないか。そんな表情の青年の前で、彼女は言われた通りに袋を開けてみた。
それは、この地方では珍しい、べっ甲細工の髪留めだった。
薄いセピア色が陽光に映える。
たまたま街に行商が来ていたらしく、そこで購入したという。
やけに「たまたま」を強調するなと感じながら、彼女は一番興味のある事を聞いた。
「で、価格は?」
青年は毒虫を1ダースほど奥歯ですり潰したような顔をし、そういう事は聞くものじゃない、と言った。
彼女はなおも訪ねた。
「しかし、価格が分からないと払えないじゃないか」
青年の周囲の空気が急に薄くなったように見えた。
これは売るわけじゃない、お前にその――、と言おうとして口ごもった。代わりにただ「違う」とだけ言った。
彼女は考えた。
これは女物だから、論理的に考えて青年が自分のために購入したものではない。
同じくこれは女物だから、必然的に誰か女性のために購入したものである。
そして、これを私に見せた。
結果は明らかである。
「つまりこれは、贈り物だな?」
医者が必要なくらいに青年の顔が赤くなる。
怒っているのだろうか。いや、これはおそらく照れているのだろう。
私に正解を言い当てられたからだろうか?
「では、改めて礼を言おう。ありがとう」
今度は矢でも射られたかのような顔をする。何をそんなに驚く事があるのだろうか。
ともかく、お嬢様もきっとお喜びになられるだろう。
彼女にその理由は分からなかったが、少女にたっぷり数十秒は笑われてしまった。
そしてなぜか、髪留めをこちらの頭に付けられた。
お前の方が似合うから、以後お前が使うのじゃ。ほら、よいか? 見せてみよ。うんうん、よう似合っておる。
鏡を見ながら彼女は思った。
論理的に考えれば、これは物品の譲渡に当たる。
すなわち、お嬢様は残念ながら、この髪留めをお気に召さなかったという事だろうか。
少々あの衛兵が可哀相な気もするが、お嬢様がここまでお笑いになられたのだ。
よほど珍奇なデザインに見えたのだろう。
されどなぜか、青年は逆に喜んでいるように見えた。
お嬢様もご機嫌のようだ。
そして私自身は。
・・・ふむ。
そこまで妙なデザインだろうか?
確かにお嬢様の、あのカラスの濡れ羽色の美しい髪には似合わないかもしれない。
その点では、彼のセンスはあまり誉められたものではない。
されども。
こうして鏡に映して見れば、ふむ。それほど悪いデザインではないように見える。
いや実のところ、かなり上物である。
私の銀色の髪には良く映えている。
という事は、要するに。
残念ながら衛兵は、この私の髪を基準に髪飾りを買ってしまったと結論される。
まったく残念だ。
残念なのは彼女の頭の方なのだが、結果として彼女と青年は適度に仲良くやっているようである。
こんな彼女でも、やがては青年の気持ちに気付く日が来るかもしれない。
されどそれはまた別の話である。
時は多少前後し、ある夏の朝。
屋敷の守衛の一人が、少女のためにおもちゃの弓矢をこしらえた。
もちろん少女は本物の弓をご所望だったが、それ以上に守衛が自分の首を所望した事による折衷案であった。
その瞬間からわずか半時間で、使用人たちのほぼ全員が弓矢の犠牲となった。
ちなみに彼女は一番最初の犠牲者であり、いつものように一番おもしろ味のない犠牲者でもあったのだが、なぜか復活を許された。
それは慈悲深い少女の温情により、この神が与えたもうた聖なる長弓について、その矢を回収しては少女に手渡すという大切な仕事を仰せつかったからであった。
この日。
彼女は最初の致命的なミスをした。
昼食の時間が迫る頃。
聖なる弓の一撃から逃れていたのは、バッカス他の動物たちを除くと、いよいよ旦那様と奥方様のみとなった。
ここで踏み止まるような少女ではなかった。
何しろ、どれほど酷いいたずらをしようが、少女の代わりに怒られる係がいるのである。
この屋敷において少女を止められるのは、食欲と睡眠欲を除くと「さらに上の娯楽」のみであった。
そして彼女は畏れ多くも、旦那様を少女の前におびき出すという大役を授かった。
よほどの人格者でも急所を狙って殴るレベルの背信行為である。
だが彼女は従った。
疑問を感じず、その先に来るものを正確に予期しながら、それでも断るという選択肢は思考の外なのであった。
せめて急所は守ろう、くらいにしか考えなかった。
そして彼女は旦那様に告げた。
「あちらの奥に、お嬢様が隠れておいでです。旦那様を玩具の弓で射る予定ですので、どうかお受けになってくださいませ。もちろん威力の程は玩具ゆえタカが知れておりますが、念のため急所だけはお守りに・・・」
最後まで言う前に、少女による背後からのスワンダイブ式ミサイルキックが炸裂した。
その理由が彼女には解らなかった。
戸惑いながら、完全にへそを曲げてしまった少女の後を追った。
彼女にとって二度目の、そして取り返しの付かない致命的なミスは、この後すぐに訪れる。
あの日以来。
少女から見た彼女の地位は、ポニーの下から、そのポニーが産出する肥料に似た黒い物体のさらに下へと降格された。
屋根の修繕をすればハシゴを取り外され、床掃除をすればバケツをひっくり返され、風呂に入れば服を隠された。
彼女は羞恥心というものを頭では理解していたが、それは感情ではなく知識の問題であった。
だからタオルを体に巻きつけたままの格好で少女を捜しに行き、それを奥方様と近隣の貴族連中に目撃されるという大事件が起きてしまった。
彼女はもちろん、来客に対し最敬礼をもって応えた。
2秒後には家政婦たちの手で部屋から担ぎ出されたのだが、さすがの彼女も今回だけはその原因が解った。
おそらくは、自分が服を着ていないからであろう。
そう考えるのが論理的であり自然である。
ともかく、そんな状態でも最善は尽くした。彼女はそう思っていた。
彼女はその性質上、神という存在を信じる事は出来ない。
しかしこの世に神は確実に存在する。
なぜなら、廃棄処分を免れたからである。
「あの屋敷には、頭のおかしな使用人がいる」。
そんな噂を立てられた貴族は、その出所をマントル層の付近まで埋めてしまうのが常である。
彼女が埋められたのは馬小屋の外れにある小さな一室で、元来そこは馬の飼料を保管しておく場所だった。
中にはペラペラの紙よりも多少はマシな(つまり厚紙程度の)毛布が一枚、ほやの壊れたランプが一個あった。
以上、この先彼女が生きるべく設えられたすべてであった。
屋敷には一歩たりとも入る事を禁じられた。
食事は裏手から取りに行くか、自炊する事が求められた。
風呂は馬用の井戸を使用する事となった。当然、冬場でも水の温度は外気温とさほど変わらない。
そこでの彼女の仕事は、ひたすら馬とポニーの世話をする事。
そして主人たちが馬車で外出する際には、自身の姿を井戸にでも沈めて、絶対に主人たちの目に入らないようにする事だった。
彼女はようやく、人前で肌をさらす事の重大さを学ぶ事ができた。
これが羞恥心というモノなのだ。
知識が増えた事に純粋な喜びを感じ、彼女は安心してタペストリーの作成に戻った。
常人から見れば異常に太平楽な考え方だが、彼女にとっては普段通りなのである。
何しろこれは苦境でも何でもない――命があって、横になれる空間があって、屋根がある。
これ以上のものを彼女は基本的に必要としないのである。
ただ一つを除いて。
そう。
彼女は、少女に会うのも禁じられてしまったのである。
何も苦境ではないはずなのに。
満ち足りているはずなのに。
なぜ、自分は眠れないのか。
なぜ、こんなに胸が苦しいのか。
美しい夜の虫の合唱を。
壁に揺れる淡いランプの光を。
さらさらと揺れる風の香りを。
降り出した夏の雨の匂いを。
なぜ今、私一人だけで感じているのか――。
この蒸し暑い夜気よりも、埃だらけの空気よりも、ごわごわした石造りの床よりも。
答の出せない、その難問の方がよほど彼女には辛かった。
自分が今感じている「痛み」について適切な語句を考えているうちに、小屋で最初の朝を迎えた。
これが彼女にとって最初の眠れぬ夜となった。
そして、これが最後ではなかった。
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