連  載  小  説



一年間のプロローグ


− 彼 女 と お 嬢 様 の 愛 の 物 語 −



■  3  ■




 季節は巡る。
 山は色合いを増し、風は時の歌を伝える。
 せせらぎの中に新たな息吹を感じる。春を。



 明日、彼女は旅立つ。



 夜はまだ若く、彼女自身も若かった。
 されど夜の吐息は果てしなく甘いのに、彼女の心は例えようもなく苦い想いで一杯だった。
 どれだけ多く抱きしめたのだろう。
 どれだけ強く抱きしめたのだろう。
 黒髪の奥にある少女の香りを、この先何度思い起こす事だろう。
 これが眠れぬ最後の夜になるのだろうか。
 否、と彼女は想う。

 彼女は少女を愛していた。
 この屋敷を。ご家族を。
 彼女は少女を愛している。



 だ か ら こ そ 、 こ こ を 去 ら ね ば な ら な い 。



 一生をさなぎのままで過ごす蝶などいない。
 羽ばたいてこその蝶なのだ。
 彼女は考える。私自身がさなぎの殻で、殻の役目は今宵で終わり。
 美しく空に舞うその姿を、心の中で何度も何度も夢想する。

 やがて少女は淑女となり、この屋敷を継ぐだろう。
 そこには新たな家族がいるはずだ。
 屋敷の主たち。
 その中に、一介の使用人の居場所は無い。

 この一年で、少女は見違える程に美しくなった。
 もはや少女とは言えないかもしれない。
 社交の場では若い貴族たちの話題の中心となるだろう。
 あらゆる喝采とすべての賛美を、少女は受ける資格がある。

 その一方で。
 少女が実は、未だに聖なる弓で魔物狩りをしている事を彼女は知っている。
 馬屋の裏には的があって、そこで弓の練習をしている事も。
 山道を行く時は、ドレスのすそを短く結んでいる事も。
 気に入らない家庭教師のお茶にバッカスの毛を入れた事も。
 小物入れにヘビの抜け殻をしまっている事も。
 風呂で泳ぎの練習をしている事も。
 夜中に用を足す時は、私の作ったクマの縫いぐるみを一緒に連れて行く事も。

 どれもこれも、みんな私とお嬢様だけの秘密だ。

 涙は、あの山の向こうに捨ててこよう。
 そして新たな道に思いを馳せよう。
 最高に楽しい事、お腹の底から笑う事、凍り付く程怖い事があったなら、いつかそれをお嬢様に伝えよう。
 お嬢様が本物のレディーになる頃、そして素敵な若者に巡り会う頃、私は祝いの言葉と共にそれを伝えに帰るのだ。
 お嬢様の家がここなら、私の家だってここのはずだ。

 人はいつか故郷に帰る。
 それは私も同じ事。







 夜――。
 星空が山を包む頃。
 見回りと称して、あの衛兵の青年がやって来た。
 またあいつか。彼女は思った。
 最近は三日に一度くらい来る。
 衛兵が暇なのは良い事だが、あいつ、ちゃんと仕事をしているのか?
 まあ、ここで説教をしても仕方がない。それに今宵は最後の夜だ。こちらは色々と準備もあるのだ。
 あいつがそれを知らない訳が無い。
 だが、あいつの顔をもう見られないとなると、多少は付き合ってやる事にやぶさかではない。
 どうせ数分で帰るだろう。いつものように。

 しかし今宵は何か、思い詰めたような節があった。
 悩み事でもあるのだろうか。
 私にはそれが何かまったく想像できないが、私で良ければ話すがいい。
 なるべく短時間でな。



 彼は言った。
 真っ直ぐ彼女の目を見据えて。



 「お前が、好きだ」







 その瞳に曇りは無く、その言葉に嘘は無かった。
 彼女にはそれが分かった。

 だから彼女は応えた。


 「うん」

 「愛してる」

 「そうか」

 「ずっと前から」

 「そうか?」

 「そうだ」

 「知らなかった。すまない」

 「いや。だが今、知ったな?」

 「ああ」

 「今の気持ちを聞かせてくれ」

 「まず、なぜ私がお前に愛されるのかを知りたい」

 「それに答えられたら、俺はたぶん教祖になれる」

 「つまりそれは、分からないという意味か?」

 「そうだ。でも愛してるのは本当だ」

 「うん」

 「他に何かあるか?」

 「驚いている。それと、どうすべきか思案している」

 「そうか」

 「私は明日ここを出る」

 「知ってるよ」

 「だから、残念だがお前の気持ちには応えられない」

 「それも知ってる」

 「待て、それはおかしいぞ。私の返答を知っていたなら、愛してるなど――」

 「なんで言っちゃいけない?」

 「それは――」

 「俺が勝手にお前を好きなんだ。それを伝えておきたかった。それだけだ」

 「そうか・・・」

 「じゃ、腹を冷やすなよ」

 そう言って彼は立った。
 その背中がとても晴れやかに見えた。



 総合的に考えれば、彼はいわゆる失恋というものをしたのである。
 文献から察するに、失恋とは非常に痛く、切なく、そして苦しい事のはずである。
 されど彼の背は晴れやかである。
 これは如何なる作用によるものだろうか?

 そして彼女は不意に思い出す。
 ここに来てからの毎日。
 あの炊事場で、馬屋で、裏門の手前で見かけた青年の姿。
 ふと頭に手を伸ばせば、セピアの髪留めが今でも髪を飾っている。

 シロツメクサの髪飾りを編んだ時。
 お嬢様に、その対価を要求したか?


 この時彼女は。
 生まれて初めて、「相手に起きた事を、自分の身に置き換えて考える」という論理の飛躍を学んだ。
 次の段階に進化したのだ。
 そして電光のように駆け出した。







 待ってくれ、と叫んだ。
 馬たちが驚いていなないた。この際構うものか。
 青年は立ち止まり、呆けたような顔で彼女を見た。
 彼女は再び叫んでいた。

 いつか必ず私は帰る。
 ここに帰って来る。
 だがそれは、ここにお嬢様がいるからだ。
 私が愛しているのはお嬢様ただ一人なんだ。
 そんな私を愛してはいけない。
 そうすれば、お前はきっと傷付いてしまう。


  それは・・・。嫌だ。

  なんだか分からないけど嫌なんだ。

  私はお前に・・・。



 お前に、傷付いて欲しくないんだ。


 真っ直ぐに、彼は彼女と向き合った。
 そして言った。

 お前の言う愛って奴に、もし。
 お嬢様が応えてくれなかったら。
 ・・・その時はどうする?

 彼女は答えた。
 それは関係ない。
 私はただお嬢様の事を――。

 そして。
 木彫りの人形が服を着て歩いているような彼女、人間に似せて「創られた」彼女でも。
 さすがに気が付いた。


 真の愛とは対価が無意味となるのだ。
 そしてどのような可能性が示されようと、それを尊重し受け入れる行為なのだ。
 私がお嬢様に対してそうするように。
 ただ唯一、その対象に確実な危機が及ぶと判断される時のみ、それを拒絶できるのだ。
 私がそうしたように。

 私の契約は一年間だ。
 しかし、この愛に対する誠意の契約に期限は無い。
 それは未来への道標であり、それがあるからこそ私は生きていけるのだ。
 という事は。


 「お前は、それでいいのか?」

 彼女は問うた。

 青年はただ無言で微笑んだ。

 そうか。

 そういう事、なのだな。


 私は今日、彼のおかげで大切な何かを学べた。
 そして彼もまた、この一年間で大きな変化を遂げたらしい。
 私にとっての彼はただの一人の衛兵。それに変わりは無い。
 おそらくずっとそのように接するだろう。
 それは何一つ彼の愛に応えるものではないが、元来愛とはそういうものなのだ。
 だから私はいつ何時ここへ帰って来ても、今まで築き上げた日常だけは守りきると誓おう。


 私は変わるけど、私は変わらないよ。


 この瞬間。
 合っているのに間違っている問題。
 間違っているのに合っている問題。
 これら矛盾を孕むあらゆる何かと、ずっと付き合って行くのだという確信が彼女の中で芽生えた。
 それこそが彼女の旅の目的なのだと。

 契約が終わるから屋敷を追い出されるのではない。
 新しい何かを見つけるために、みずからの脚でこの屋敷を出るのだ。
 肌身離さず持ち続けている「どんぐり」を、しっかりと握った。
 これは私の宝物だ。その意味を探しに行こう。

 彼とは握手をして別れた。



 ・・・はずだったのだが、いきなり腕を引かれて抱きしめられた。

 そして、唇を奪われた。







 口付けを、された。


 キスを――。


 キス・・・。


 ・・・・・・・・・・・・・・・。


 ・・・・・・・・。


 ・・・反射的に肘をぶち当ててしまった。


 完璧に入った。
 あの大男が宙を舞い、石畳に転がった。
 一瞬、何が起きたのか分からなかった。分からなかったが、えらい事をしてしまったのが分かった。
 そして、えらい事をされてしまったのも。

 慌ててその体を抱き起こす。
 鼻血が出ていた。
 平謝りに謝ったが、突然そういう事をするこいつも悪い。
 彼も苦笑いをしている。
 今のは見事だった。次に会ったら、まあ何だ。組み手でもするか。
 そう言って微笑んだ。
 馬鹿、と彼女は応える。

 お嬢様が、ずっとここにいるように。
 俺もここにいる。
 だから、帰りたくなったらいつでも帰って来い。
 そして、時々でいい。
 俺の事も思い出してくれ。

 それだけ伝え、後ろ手に手を振り去って行く。
 その背に向かって言った。



 忘れられるか。馬鹿。



 人を、愛するという事。
 それに答えられたのなら、私だって教祖になれる。
 だが今言えるのは、誰にだって人を愛する事ができるという事実。
 そして、それがどんな矛盾を孕もうと。
 人はずっと人を愛し続ける事ができるのだ。
 それが分かった。


 小さくなって行く彼の背中に、心の中で礼を言った。


 もう、この夜に感傷は無いよ。
 ありがとう。







 朝が、来た。
 旅立ちの日に相応しい快晴だった。

 料理長からは、かなりの量の干し肉とジャガイモを貰った。
 それより嬉しかったのは、木苺のジャムの作り方をメモしてくれた事だった。
 夏になったら早速試そうと思った。

 馬屋の長からは、方位磁針などの旅の小道具を貰った。
 本当は馬も付けてやりてぇけどな、と笑っていた。

 衛兵長からは、立派な弓矢をいただいた。
 建前は衛兵たち全員からとの事だったが、誰がメインの贈り主かは全員が知っていた。
 その贈り主は顔が腫れていたものだから、夜這いに挑戦して返り討ちになったと噂になっていた。
 ・・・馬鹿。
 特に訂正する気もなさそうだ。私は笑顔でこれに応えた。

 家政婦たちからは前日までに、寝袋やら何やらを貰っている。
 年配の家政婦にはよく「女の子らしくしろ」と言われたが、それを実践する機会が今後あるかどうかは分からない。
 ただし、もう人前で肌を晒すような真似はすまい。

 家庭教師の詩人からは、この地方や近隣国の描かれた地図を何部かいただいた。
 そして耳元で「あの茶の事は水に流そう」と囁かれた。
 バッカスの毛入りの茶の事だ。さすがに何度も頭を下げた。

 そのバッカスは、何やら長い棒をくわえて来た。
 お嬢様秘蔵の武器コレクションの一つだろうか。
 これで魔物どもを快刀乱麻にしろ、という程度の意味であろう。
 頭を撫でてやると、腹も撫でろと要求された。

 そして旦那様と奥方様から贈られた、体にぴったりと合った皮の鎧がある。
 次の仕事に就く際、威力を発揮するであろう紹介状もいただいた。
 勿体無いほどの路銀も持たせてくれた。

 私には、親は無い。
 創られた存在だから。

 でも。
 こんな方々が私の親だったら、私の人生はさらに素晴らしいものになっていたかもしれない。



 そして。

 お嬢様は・・・。



 蝶のように美しい、深く赤いドレスに身を包んでいた。
 まるで絵本から出てきた妖精のようだ。
 けれどもそれは現実で、なぜならその瞳もドレスと同じ色をしていたからである。
 ああ。どうか泣かないで。
 あなたが泣けば、きっと私も泣いてしまうから。

 白いテラスをそっと越え、精一杯の微笑を浮かべながら歩み寄る淑女。
 この瞬間まで丸一年間、私の世界の中心だった人。
 そして今日からも。ずっと。

 駄目。泣かないで。

 お嬢様の手には、いびつで不恰好な草の塊が握られている。
 輪のような形に編みこんだ物体――。
 ああ、これはシロツメクサだ。
 という事は、この妙な形のものは、たぶん花輪の可能性が高い。

 きっと一所懸命に編んだのだろう。
 シロツメクサの茎をひとつひとつ織り込んで、ゆっくりゆっくり、何度も確かめながら編んだのだろう。
 私がお教えしたとおりに。
 不器用で短気なお嬢様が・・・。

 ・・・泣いては駄目。
 今日は門出の日なのだから。


 いつも助けてくれたお礼に、これを授けます。
 そう言って渡してくれたこの花輪は。
 全部が――。



 すべてのシロツメクサが、四つ葉のクローバーだった。



 ああ。駄目。止まって。あと少しだけ。

 ・・・そうなのだ。
 あんなにも我慢が苦手なのに。
 何でもすぐに投げ出してしまうのに。

 本当に必要な時は、それが「できる」のだ。
 お嬢様は。

 一体。
 どれだけ山を探し歩いたんだろう。
 どんなに時間がかかったろう。
 こんなに多くの四つ葉のクローバーを。
 ひとつひとつ。
 私が。
 私が先に泣いたら駄目なのに――。


 
 お嬢様が、言った。




「   大   好   き   、   だ   よ   ・   ・   ・   」





 もう駄目だった。
 抱きしめ合って、泣いた。
 ぼろぼろ泣いた。
 私も。私も大好き。
 絶対帰ってくるから。
 涙が止まらなかった。
 声を出して泣いた。
 ずっと。ずっと大好きだから。

 もう淑女でもお嬢様でもなく。
 従者でも使用人でもなく。
 ただの女の子として、泣いた。







 門を出る時。
 一度だけ、彼女は屋敷を振り向いた。

 少女は、彼女に贈られた大きなタペストリーを広げていた。

 山々の緑。
 白いテラス。
 そして中央には、まるで妖精のように美しい女性がしっかりと織り込まれている。
 背に蝶の羽根を広げ、慈愛に満ちた笑みを投げかける・・・。少女の「未来」。



 いや。

 淑女の「今」が、描かれていた。







 そして時は流れ・・・。







 「名は、マルティナ。マルティナ・ル・ヴェリエ・・・」

 むさ苦しい酒場の奥で、むさ苦しい男たちを前に。
 彼女は立ち、何やら自己紹介をしている。

 「私にできる事は・・・」

 そう言って周りを見回す。
 上座には、がっしりとした男。
 そして下座にやや華奢な男が座っている。
 たまたま行く先が同じというだけの、なんちゃって三人パーティー。
 キャラバンの男衆を前に、どうやら護衛の仕事を請け負っている最中である。

 彼女は当惑していた。
 自身を売り込むなど初めての経験だったからである。
 緊張した時の癖で、頭の髪留めをそっと触る。
 そこには乾燥させたクローバーの茎――あの時の花輪の、現在の姿――が結んである。
 昼夜を問わず被っていたので、残念ながら数日でほころびてしまった。
 もちろんすべて回収し、押し花として持ち歩いている。
 その一部を髪留めに結んであるのだった。

 「・・・その、この男程には・・・。筋力は、無く・・・」

 上座の男を見て、言った。

 「彼のように、魔法を使う事も・・・。できない・・・」

 下座の男を見ながら言った。
 同席しているパーティーの二人は頭を抱え(仕事がかかっているので当然である)、キャラバンの連中からは野次が飛んだ。
 おいおい姉ちゃん。
 しっかりしろよ。
 じゃあ何ができるんだ。

 「何が・・・。と言われても・・・」

 助けを求めるように周囲を見渡した。
 すると、厨房の奥でコソコソと動く影を見た。
 ゴキブリだ。
 ほとんど視線を動かさず、無意識にフォークを投げた。

 「その、私は・・・。特に・・・」

 男たちの首の間を瞬時にすり抜け、フォークは見事にゴキブリを突き刺した。

 「これと言って・・・。何の能力も・・・」

 壁に突き刺さったそれを見て、その場の全員が息を飲んだ。

 「持っていない・・・から・・・」

 瞬間、店内は喝采に包まれた。

 彼女自身は何も分かっていなかったが、なぜかキャラバンの仕事を引き受けられる運びとなった。
 外の世界での彼女の初仕事は、こうして幕を開けた。







 彼女は創られた存在である。

 その彼女が今、新しい物語を創り出す。

 未来に向かって。







<  完  >








 そういうわけで完結です。
 わずか3話しかない割にえっらい長期に連載してしまいました。
 反響次第では、彼女たちのその後を書くかもしれません。

 「百合」というジャンルは非常に多岐に亘るようで、今作みたいな身分差のあるお話にも傑作が多いそうです。
 ぶっちゃけ全然ユリユリしている訳じゃなくなっちゃいましたけど、個人的には「献身」というワードが身分差モノには不可欠であると考えます。
 単なるステレオタイプのお嬢様とメイドでは無い、そういう感じを目指してみました。
 主人公は高潔な騎士みたいな役どころですが、それともまた違うテイストになった気がします。
 MVPには衛兵の青年を推したいですね。出す予定なんか全然無かったですし。

 彼女たち全員が幸せになれる未来を、どうか信じてください。
 いつかまたここで出会える時を願いつつ。
 ご意見、ご感想、お待ち申し上げます。

 TRPGしたいですね(笑)。











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