『横歩三年の患い』が否定されるまで

(初手~6手目で戦型判断 コラム延長戦)

30th MAY 2021

※ 前編 ⇒ 『横歩三年の患い』の語源

●定説と疑問 - 木村義雄だけの功績なのか?

 横歩取りが先手有利と言われるようになったのは、木村義雄の功績であるというのが定説となっている。
 そのあたりはmtmtコラム『横歩取りは終わった? 九十年前に「横歩取りは先手よし」と見た木村義雄14世名人の慧眼』が良質な記事で詳しい。

 一方、加藤治郎『将棋戦法二十番』(以下、加藤本)では「目立たずともそれ以前から横歩を取る棋士はいて好成績をあげていた」としているので、引用する。

加藤治郎『将棋戦法二十番』

 前項でもちょっとふれたように木村八段(十四世名人)対金八段(名誉九段)、萩原八段の二戦を境に、従来劣悪戦法のレッテルをはられ続けていた横歩取りは、たちまちにして優良戦法に変わった。これは、長い年月(約二百年間)「横歩三年の患い」のことばを「横歩を取ると三手の損になるぞよ」の格言と思い込み、「ヨコネ三年の患い」をもじった江戸庶民によるダジャレだったのに気づかなかったからである。

 が、実は▲木村△金、▲木村△萩原戦以前にも溝呂木(光治)、宮松(関三郎)両七段をはじめ数多くのプロ棋界たちの間では盛んに横歩取り戦法が採用され好成績をあげていた。
 中でも有名な一戦は大正9年6月に行なわれた、▲村越為吉六段△花田長太郎六段(贈九段)戦(東京朝日棋戦)だった。

 当時、花田六段は20代の新鋭棋士で、同棋戦の勝ち抜き戦では連戦連勝22人を抜いていた。23人目に登場した村越六段はすでに相当年配のベテラン棋士。この勝負、だれしも花田の23連勝を予想した。
 ところが、村越は見事強敵を倒し、ストップ・ザ・花田の重責を果たしたのである。そしてこの一戦が村越の先手横歩取り戦法だったのである。

 だが、▲村越△花田戦は▲木村△金、▲木村△萩原戦に比べるとそれほど天下に知れわたらなかった。昔から新戦法でも新手でも下積み棋士が初めて試みたときは大して目立たない。が、一流棋士があとからこれを連採したときには一躍有名になる。将棋の場合もそうだが、他の世界にもこうしたケースはありがちなものらしい。

※ 原文から一部修正

 この加藤本の記述をもとに、具体的な形を参照しながら『横歩三年の患い』が否定される経緯を辿ってみたい。

●実戦数からみた『横歩三年の患い』と、定跡書の横歩取り

 語源編では「横歩取り」とひとまとめにしてきたが、もう少し具体的な形を確認する。
 まずは出だし。下記の手順である。

 ▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △8四歩 ▲2五歩 △8五歩 ▲7八金 △3二金 ▲2四歩 △同歩 ▲同飛

 お互いに角道を開けて飛車先を伸ばし、金で角頭をカバーする。
 現代では「横歩取りの出だし」と言われるが、江戸時代においては横歩取りは相掛かりの一変化という認識であり、この出だしは「相掛かりの出だし」だった(当時は「相懸」「相懸かり」と表記)。「相懸かり」の定義とは何かという話になるが、お互いに飛車先を伸ばす形をそう呼んだものと考えられている。
 そこから先手が▲2四歩△同歩△同飛と飛車先交換をしたところで、後手の応手は基本的に2パターンある。

① △8六歩 ▲同歩 △同飛 (①図)
② △2三歩 (②図)

【表1 局面と実戦数(2ch棋譜調べ)】
局面 ①図 △8六飛型
相掛かりの出だし△8六飛型
②図 △2三歩型
相掛かりの出だし△2三歩型
実戦数 江戸時代 35局(19局) 10局(4局)
明治時代 7局(4局) 6局(1局)
大正時代 45局(6局) 53局(4局)

 後手も同じように飛車先交換をする①図を「△8六飛型」、すぐに△2三歩と打つ②図を「△2三歩型」と呼ぶことにする。①図から横歩を取れば「横歩取り△8六飛型」、②図から横歩を取れば「横歩取り△2三歩型」とする。
 少し昔の本、例えば加藤治郎・木村義徳・真部一男『将棋戦法大事典』や、横歩取り本の名著として知られる沢田多喜男『横歩取りは生きている』では、横歩取り△8六飛型を「相横歩取り型」、横歩取り△2三歩型を「相居飛車型」と分類しているのだが、①図から▲3四飛△8八角成▲同銀△7六飛と進める作戦を「相横歩取り」と呼ぶようになったため、徐々に使われなくなっていったようだ。

 江戸時代の相掛かり定跡は相浮き飛車であったので、例えば①図から▲2六飛に△2三歩▲8七歩△8四飛、②図から▲2六飛に△8六歩▲同歩△同飛▲8七歩△8四飛なら、2つの出だしは合流する。この局面が基本形だった。
 しかし、①図からの▲3四飛(③図・横歩取り△8六飛型)、②図からの▲3四飛(④図・横歩取り△2三歩型)では、同じ横歩を取る手でも局面は全然別の形になる。後手はどちらを選ぶか、先手は横歩を取る場合それぞれどうするかということを考えておかなければならない。

 まず、実戦や江戸時代の定跡書ではどうだったのかということを見ていきたい。

1.実戦数

 表1では、江戸時代、明治時代、大正時代における△8六飛型(①図)と△2三歩型(②図)の実戦数を2ch棋譜で検索した結果を示している。かっこ書きの数字は、そのうち先手が横歩を取った局数だ。
 このデータからみると、江戸時代は△8六飛型を選ぶほうが多かったことがわかる。
 また、どちらの形でもほぼ半数が横歩取りに進んでおり、棋譜が残るレベルの将棋であれば、江戸時代においては『横歩三年の患い』という話にはなっていなかったように考えられる。

 明治時代に関しては数が少ないのでデータとしては微妙だが、△8六飛型と△2三歩型の採用は同程度といえる。
 大正時代になると△2三歩型が多くなっているのが特徴である。また、どちらの形でも横歩を取らなくなっており、プロの将棋でも『横歩三年の患い』が急激に広まったと考えられる。詳しくは後半で触れる。

【表2 定跡書の横歩取り定跡】
書名
(著者)
③図 横歩取り△8六飛型 横歩取り△8六飛型 ④図 横歩取り△2三歩型 横歩取り△2三歩型
将棊駒組啓蒙
(添田宗太夫)
なし  ・△8八角成▲同銀△2五角
  ▲3二飛成△同飛
 ・△4一玉
将棋歩式
(大橋宗英)
 ・△8八角成▲同銀△3三角 なし
平手相懸定跡集
(大橋宗英)
 ・△3八歩戦法
 ・△4五角戦法
 ・△8八角成▲同銀△3三角
 ・△8八角成▲同銀△8二飛
 ・△4一玉戦法
(・△3三角戦法)
(・相横歩取り)
(・△4一玉)
(・△8八角成▲同銀△2五角
  ▲3二飛成△同飛)
平手相懸集奥義
(大橋柳雪)
 ・△4五角戦法
 ・△4一玉戦法
 ・△3三角戦法
 ・△8八角成▲同銀△3三角
なし
大橋家
家元秘傳記
(大橋家秘伝書)
 ・△4一玉戦法
 ・△4五角戦法
 ・△8八角成▲同銀△3三角
 ・△8八角成▲同銀△2五角
  ▲3二飛成△同飛
 ・△4一玉
伊藤家
将棋印可厳秘録
(伊藤家秘伝書)
 ・△8八角成▲同銀△3三角
 ・△4一玉戦法
 ・△4五角戦法
なし

2.定跡書の横歩取り定跡

 表2では、『温故知新』と、野田市立図書館のデジタル資料をもとに、「横歩取り定跡が載っている江戸時代の定跡書」を調べた。

 この中では、野田市立図書館収蔵の『将棊駒組啓蒙』が横歩取りの載っている最も古い定跡書だった。
 序文に「仙翁撰」とあるが、これは添田宗太夫という民間棋客と思われる。添田は詰将棋の「曲詰」作家として名高いが、指将棋でも七段まで達した強豪であった。この本に横歩取り△8六飛型の定跡はなく、横歩取り△2三歩型の定跡が載っている。

 横歩取り△8六飛型が現れたのは、大橋分家六代目、九世名人である大橋宗英が著した『将棋歩式』である。
 この本では③図から△8八角成▲同銀△3三角と打つ定跡が書かれている。この定跡は横歩取り△8六飛型急戦形の基本定跡であり、昭和初期くらいまでは多くの本に載っている。

 宗英の死後、子や弟子が宗英の研究をまとめて出版した定跡書が『平手相懸定跡集』である。
 この本は相掛かりと横歩取り定跡だけを掘り下げて研究した専門書である。原本部分とされる15章までの内容では、横歩取り△8六飛型の5手法を挙げている。(16章以下は大正時代に復刻された際に追記されたらしく、その追記分では横歩取り△2三歩型、△3三角戦法、相横歩取りが書かれている)

 宗英の弟子である大橋柳雪は、その研究を深め『平手相懸集奥義』を著した。
 この本もまた相掛かりと横歩取りの専門書であり、横歩取り△8六飛型の4手法が挙げられている。特に△4五角戦法の詳細な研究が有名であるが、「後手が横歩を取られたくなければ▲7六歩に△8四歩と指す手がある」と書いた本でもある。

 家元大橋家の秘伝書である『大橋家家元秘傳記』には、横歩取り△8六飛型の3手法と、横歩取り△2三歩型が書かれている。
 同じく家元伊藤家の秘伝書『伊藤家将棋印可厳秘録』は、横歩取り△8六飛型の3手法が挙げられている。

 このうち、『将棊駒組啓蒙』は1762年、『将棋歩式』は1810年、『平手相懸定跡集』は1816年に出版されたものであるのに対し、『平手相懸集奥義』『大橋家家元秘傳記』『伊藤家将棋印可厳秘録』は家元の秘伝書であり、明治末~大正まで一般には明らかにならなかった。

3.状況のまとめ

 江戸時代に研究された横歩取り定跡のほとんどは△8六飛型であり、また大方の戦法は考え出されていたことが定跡書からわかる。
 それが影響してか、実戦数もまた△8六飛型のほうが多い。

 一方の横歩取り△2三歩型は、先に現れているものの、定跡書も実戦例も少ない。▲3四飛△8八角成▲同銀△2五角に▲3二飛成と切る筋は早い段階で確認できる。ただしこの当時は、△3二同飛と取るのが定跡手とされており、しかもその定跡は100年経ってもアップデートされていない。
 これは仮説であるが、横歩取り△2三歩型は、△4一玉で持久戦にするのが主流の考え方だったのではないだろうか。それは▲3四飛を一気に咎める形にならないので、研究対象としては弱いことが流行らなかった理由ではないだろうか。△8八角成▲同銀△2五角の筋は長年放置されており、『大橋家家元秘傳記』が一般の目に触れるようになってから、▲3二飛成に「△同銀」と取った1824年御城将棋▲大橋英俊(柳雪の旧名)△伊藤看佐も踏まえて見直されたのかもしれない。

●大正時代の状況は…

 実戦数を見る限り、大正時代には『横歩三年の患い』が広まったと考えられる。
 言葉先行ではあるが、何かしらの理由があったはずである。その当時の状況を鑑みて、仮説を提示してみたい。

1.「相掛かりが将棋の正式な指し方」思想

 明治42年(1909年)の将棋新報社『独習速成 将棋定跡解』の5ページでは、「平手の駒組には数種ありますが[相掛り]を第一に正式とも云うほどに立てられて居ります」と書かれている。
 大正~昭和初期にわたる相掛かりの大流行は、この頃から「相掛かりこそ将棋の正式な指し方」と持ち上げる風潮が生まれて出来上がっていったと思われる。『将棋戦法大事典』によれば、「相懸戦にあらずんば将棋にあらず」「相懸戦の指し手でなければプロ棋士でない」などと言われたそうである。
 そこまで相掛かりが流行すると、外れた形を指しただけで邪道だと思われたのではないだろうか。つまり「真っ当な棋士は相掛かりを指すもの、横歩なんか取るものじゃない」という風潮があり、形勢がいいとか悪いとかの話とは別に、横歩を取りづらい雰囲気が形成されていたのではないか。

2.勝負を重視 - 自分の土俵で戦いたい

 江戸時代では、定跡書に載っている数と実戦数は△8六飛型のほうが主流であったといえるが、明治時代は情報が少なすぎてよくわからない。少ない実戦数は拮抗しており、その棋士によって△8六飛型と△2三歩型の好きな方を指していたとしか言いようがない。
 情報が少なく伝播も遅い時代、これは先手にとって厄介な話だ。△8六飛型と△2三歩型のどっちが来るかもわからないが、横歩取り△8六飛型でどの戦法が来るかもわからない。ただ、相手(後手)がどれか一つの形を研究してきていることだけは間違いない。相手の作戦を絞れない段階では、横歩を取ると相手の土俵で戦うことになる。
 明治末期から新聞棋戦が始まり、ついに将棋を指して対局料がもらえるようになった時代である。「勝って次の将棋を指せばまたお金が入る、ならば自分の土俵で戦いたい」という現実的な問題で、相手の土俵に立つのを避け、横歩を取るのを控えるようになっていった可能性はあるのではないだろうか。

 これらは想像であり、実際どういった経緯だったかは不明だが、横歩を取りに行かない雰囲気は出来上がっていった。これが解消されるには、横歩取り△8六飛型、横歩取り△2三歩型の両方で「先手有利である」という定説が出来上がる必要がある。
 そんな状況に一石を投じることになったのが、加藤本が示す▲村越為吉△花田長太郎戦だと思われる。

●大正9年 ▲村越為吉△花田長太郎(VS△8六飛型)

▲村越為吉△花田長太郎戦 横歩取り△4五角戦法

 花田長太郎は木村義雄の8つ年上で、木村が若い頃目標とした棋士である。その後28歳で八段となり、阪田三吉と『天龍寺の決戦』(阪田が2手目△1四歩と指した)を戦って勝利し、第1期名人戦では木村に次ぐ2位、以降も挑戦権争いに絡み続けた一流棋士だ。
 このとき、東京朝日新聞の主催した勝ち抜き戦において22連勝中だった。当時はプロでも段位差によって駒落ちを指しており、22連勝の内訳は平手8、香落下手3、香落上手4、角落上手7。平手8局中4局が相掛かりだったが、全て△8六飛型の出だしで、花田も相手も横歩を取っていない。
 村越為吉については資料が少ないが、加藤によればベテラン棋士としている。

 そもそも22連勝が始まった最初の相手が村越であり、花田先手の相掛かり戦(①図から▲2六飛)だった。
 先後が入れ替わったこの▲村越△花田戦では、またしても①図に進み、そこで村越が▲3四飛と横歩を取って③図となった。
 横歩を取られた花田が準備していた作戦は、③図から△8八角成▲同銀△2八歩▲同銀△4五角と打つ、△4五角戦法であった。(左図)
 花田はこれで後手良しと研究していたようだが、実戦は▲8七歩△7六飛▲7七銀△3四角▲7六銀△8八歩▲7七桂と進行、そこで△8九歩成が緩手で、先手の村越が勝った。

 22連勝がストップしたことが大きなインパクトとなったのか、これ以降△8六飛型は下火になり、△2三歩型が勝ると考えられるようになったらしい。(将棋の棋譜貼り専門スレッド Part36 - レス334にあるコメント参照。解説木村義雄八段とあり、昇段履歴から見ると後年に解説したもののようだ。)
 また、『続・横歩取りは生きている』下巻によれば、大正時代に指された▲金易二郎△土居市太郎戦が横歩取り△2三歩型の将棋で、土居が新手法を見せて勝ったことで「△2三歩型は後手有利」という認識が強まっていたという。(ただし棋譜不明)

 対局から7年後の昭和2年(1927年)に当事者である花田が出版した『将棋新定跡』では、次のように書かれている。

花田長太郎『将棋新定跡』

 横歩取りは先手方▲3四飛の横の歩を取るのですが、この指し手は後手方の飛車が8六に浮いてある時に効果があります。

(中略 ※△4五角戦法、△4一玉戦法が先手良しであることを解説)

 元来横歩取りの指し手は後手方の飛車が8六へ浮かなければ先手指しよくなりませんから、その意味から言えば複雑した変化を執拗に調べる必要がないということになります。
 よって後手方が横歩取りを嫌って△8六歩と飛先の歩を突かずに△2三歩と最近の定法通り受けたのにも関わらず、先手が▲3四飛と力指してきたとき、後手方どう受けたらよいかを研究いたしましょう。

 この指し方は先手方が正式の相掛りを嫌い作戦上無謀を知って、力指しに来たのであって、戦法が早指しのため後手方として、初心者が紛らわされるのであります。

※ 原文から一部修正

 この頃には、後手を持って指した花田本人が△8六飛型は横歩を取って先手良しになると言っており、後手は△2三歩型を指すべきと考えていたようだ。
 この経緯を見る限り、▲村越△花田戦はその後花田を宗旨替えさえ、一旦△8六飛型を減少させるきっかけになっていたと言える。

●木村義雄の挑戦(VS△2三歩型)

▲木村義雄△金易二郎 横歩取り△2三歩型

 こうして、「横歩取り△8六飛型なら先手やれそう、しかしまだ横歩取り△2三歩型がいる」という状況となった。
 横歩取り△2三歩型(③図)は、この頃には△8八角成▲同銀△2五角▲3二飛成△同銀▲3八銀△3三銀(左図)が定跡化していたが、▲3二飛成が定跡とはいえ飛車金交換の駒損という点が先手のネックになっていた(厳密には飛車と金歩の二枚換え)。冒頭で紹介したmtmtコラムの中でも、土居市太郎が飛車金交換の駒損の点に触れている。

 この状況で「定説」の木村義雄につながる。厳密に言えば、木村が挑んだ「横歩取り」は、横歩取り△2三歩型なのである。
 代表的な将棋は昭和5年(1930年)▲木村△金易二郎戦で、左図から▲7七銀△3四角▲6八玉△2四歩と指している(木村勝ち)。加藤本では昭和11年(1936年)▲木村△萩原淳戦も含めており、そちらは左図から▲4五角△4四歩▲6三角成と進んでいる。こちらは萩原勝ちだが、木村が終盤にトン死したのであり、内容は木村が良かった。
 これらをきっかけに横歩取り△2三歩型が多く戦われるようになった。昭和25年(1950年)には、名人戦第1局▲木村△大山康晴という大舞台でも指されている(先手勝ち)。

 『山田道美著作集』3巻収録の『横歩取り盛衰記』によれば、花田も自説に修正を加えながら、後手有利説を唱え続けた。このために花田は「戦前における横歩後手有利派の旗頭」と言われている。昭和22年(1947年)のA級順位戦では升田幸三を相手に横歩取り△2三歩型の将棋を戦い、一時勝勢まで持ち込んだ(結果は逆転負け)。

 しかし、花田は昭和23年(1948年)に死去する。旗頭を失った後手有利派は勢いをなくし、横歩取りは△2三歩型も△8六飛型も先手有利が定説となった。
 そして横歩取りがダメならば2手目△3四歩とは突きづらいということで、多くの居飛車党は2手目△8四歩に流れていったのである。

【表3 ①図と②図の実戦数(2ch棋譜調べ)】
局面 ①図 △8六飛型
相掛かりの出だし△8六飛型
②図 △2三歩型
相掛かりの出だし△2三歩型
江戸時代 35局(19局) 10局(4局)
明治時代 7局(4局) 6局(1局)
大正元年~9年
(A期間)
33局(5局) 20局(3局)
大正10年~昭和5年
(B期間)
12局(1局) 64局(2局)
昭和6年~昭和20年
(C期間)
5局(5局) 31局(8局)
昭和21年~昭和30年 10局(5局) 25局(16局)
昭和31年~昭和40年 16局(11局) 5局(3局)

●再び2ch棋譜で実戦例を調査

 こういった経緯だということを踏まえて、再度2ch棋譜を調べてみる。
 表1では大正時代を一括して数えていたが、大正元年から▲村越△花田戦があった大正9年をA期間、大正10年から▲木村△金戦があった昭和5年をB期間、それ以降の昭和6年~20年をC期間として区切る。そして△8六飛型(①図)と△2三歩型(②図)が出現した数を集計したのが表3。かっこ内は、そのうち横歩を取った局数だ。
 参考として江戸時代、明治時代の再掲と、昭和21~30年、昭和31~40年のデータも載せている。

1.①図と②図の局数

 A期間では33局:20局で①図のほうが多いが、▲村越△花田戦を経たB期間では12局:64局となって②図が逆転し、C期間も引き続き5局:31局と②図のほうが多くなっている。この辺は、花田本の裏付けとなるといえるだろう。

2.横歩を取った局数

 A期間になると、①図で横歩を取らなくなるのは前述した通り。
 問題は▲村越△花田戦を経たB期間で、①図で横歩を取る将棋が少しは増えてもよさそうなところ、12局中1局しかない。
 これが逆転するのはC期間で、①図からの5局全てが横歩取りになっている。ちょっと偏りすぎなので、昭和21~30年、昭和31~40年の集計も参照すると、横歩を取る率が上がっていることがわかる。つまり①図でも先手が積極的に横歩を取るようになっているのは、▲木村△金戦以後のC期間なのだ。

 この集計からいうと、▲村越△花田戦は「後手が△8六飛型を避けるきっかけ」となったが、「先手の横歩取りに対する消極的姿勢」を変えるまでには至らなかった。
 先手の姿勢に変化が現れたのは、やはり▲木村△金戦以降なのである。

●間接的影響1:相掛かりの出だしが変化

 C期間と区切った時期(昭和6~20年)には、相掛かり側にも変革が起きている。
 詳細は省くが、この頃から相掛かりを目指す先手が初手▲2六歩と指すようになり、▲2六歩△8四歩▲2五歩△8五歩という今ではおなじみの手順が増えていったのである。B期間は①図、②図合わせて76局あったのが、C期間に36局と半減しているのはこのような事情がある。
 それが一般的になると、相掛かりと横歩取りの出だしが区別されるようになる。横歩を取ってもいい人と、黙って相掛かりだけ指したい人の住み分けが出来るようになったのである。
 住み分けが出来れば『横歩三年の患い』と口にする人も減る。直接的に影響を与えたわけではないが、間接的にはこのような理由もあったのではないだろうか。

●間接的影響2:対中飛車型横歩取り

 出だしが違うのだが、江戸時代から昭和初期まで指されていた横歩取りの形がもう一つある。
 『対中飛車型横歩取り』と呼ばれる形で、4手目△5四歩から▲2五歩△5五歩と進め、▲2四歩△同歩▲同飛△3二金に▲3四飛と横歩を取る将棋だ。この形が昭和初期に多く戦われ、昭和17年(1942年)の▲加藤治郎△木村義雄(朝日番付戦三番勝負第3局)や、昭和22年(1947年)▲塚田正夫△木村(第6期名人戦第7局)が元となり、先手有利という定説が出来上がった。
 奇しくも、この形では木村は後手側に立っていたが、この対中飛車型が先手有利になったことも、『横歩三年の患い』を否定することとなった一つの要因ではないだろうか。

●まとめ - やっぱり木村義雄が偉大であった

 まとめて「横歩取り」と呼んでしまうと、横歩取りを先手有利に導いた功績の全てが木村義雄にあるように見えてしまう。
 しかし別々に見ていくと、△8六飛型は▲村越△花田戦を契機として既に減少しており、昭和初期には先手有利が定説となって後手が避けるようになっていた。木村は、残った△2三歩型を先手有利に導くきっかけを作ったのである。

 一方で、実戦数の推移を見る限り、▲村越△花田戦は後手が「△8六飛型を避けるきっかけ」になっていても、先手の「横歩を取らない姿勢」を変えることは出来なかった。先手に横歩を取る姿勢が見えるようになったのは▲木村△金戦以後であり、やはり木村の存在が大きかったと言わざるを得ない。
 『横歩三年の患い』という、素人のダジャレから始まった実体のない言葉を否定するには、定跡の進歩も当然あったが、最後は大名人・木村義雄の影響力・ネームバリューが必要だったということになる。

 非常に遠回りして定説と同じ結論を出すという、芸のないこととなったが、「検証してみた」ということで納めてもらいたい。何かわかれば、その都度追記していきたいと思う。


●その後の横歩取り

【表4 急戦以外の作戦】
△3三角戦法
横歩取り△3三角戦法
相横歩取り
相横歩取り
△8二飛戦法
横歩取り△8二飛戦法
小堀流△4二玉
小堀流△4二玉
△3三桂戦法
横歩取り△3三桂戦法

 それからの横歩取りは、一部の愛好家が指すほか、それを見てアイディアを得た棋士がたまに指す将棋となった。

 ここまで見てきた限り、昭和初期までの横歩取り研究は「▲3四飛の悪形を直接咎めにいく急戦」が主流であったと思われる。しかしその急戦が先手良しという定説になってしまったため、持久戦寄りの作戦にも目が向けられることとなった。旧来からある△3三角戦法や相横歩取りの他、新たな形も生まれた。例えば△3三桂戦法、佐瀬流△8二飛戦法、小堀流△4二玉である。
 だが、個人技の範疇で留まったり、一時期指されることはあっても長続きしないものが多かった。持久戦は分岐が多い上に、指す人の好みがあって、研究対象とするにはぼんやりしているからだろう。横歩取りは急戦がダメなら後手厳しい、という見解が多数だったのではないか。
 以下、簡単ながらこれらの戦法について概要を紹介しておく。

・△3三角戦法(③図から△3三角)

 △3三角戦法の1号局は1778年御城将棋の▲五代伊藤宗印△九代大橋宗桂戦であり、歴史は古い。『平手相懸定跡集』復刻版にも載っており、存在は知られていたと思われる。
 だが2ch棋譜を見る限り、江戸時代の実戦例はそこそこあるものの、明治~昭和初期(戦前)にかけてはあまり指されていない。そして、江戸~昭和初期の実戦例は後手の3勝11敗1指し掛けで、勝率がかなり悪い。

 昭和30年代に梶一郎、大友昇らが指していたが、本格的に表舞台に立ったのは、内藤國雄がタイトルを取り『内藤流空中戦法』と呼ばれるようになった昭和40年代であった。逆に言えば、それまで流行らなかった。やはり形を絞りづらい持久戦は、個人技だと思われていたのではないか。
 『続・横歩取りは生きている』上巻(昭和63年)でも、「この戦法はいわゆる手将棋であり、序盤の指し手は多種多様で定跡としてまとめ難い」として、実戦譜の紹介に留めている。

・相横歩取り(③図から△8八角成▲同銀△7六飛)

 相横歩取りも『平手相懸定跡集』復刻版には載っており、存在は大正時代から知られていたと思われるが、2ch棋譜には戦後の実戦例しか見当たらない。
 塚田正夫が相横歩取りを好んで指しているのだが、あまり結果が伴わなかった(2ch棋譜集計で4勝9敗)ことと、飛車角を総交換する急戦定跡(右表内の図から▲7七銀△7四飛▲同飛△同歩に▲4六角)が突き詰められていったのが塚田の亡くなった後であるためか、今となってはあまり語られなくなっている。

・△8二飛戦法(③図から△8二飛)

 △8二飛戦法は江戸時代の定跡書には載っていない。ただし、△8八角成▲同銀と角交換してから△8二飛が『平手相懸定跡集』に載っている。
 △8二飛は飛車で△3二金に紐をつけた手で、▲8七歩なら△8八角成▲同銀△3三金から△2二飛を狙うのが一例。佐瀬勇次が戦後に指したといわれ、この形が現れたことが、後手が横歩取り△8六飛型を見直すきっかけになったとされる。昭和20年代末期に少し指されたが、△8二飛に▲8三歩△5二飛▲8四飛と指す形が増えるとそのうち指されなくなった。

・小堀流△4二玉

 この作戦は、厳密にいえば横歩を取られる前に後手が工夫する手である。
 先手の飛車先交換に対して△8六歩▲同歩△同飛が①図、△2三歩が②図であるが、第3の手段として△4二玉と上がる手を小堀清一が多く指しており、小堀流と呼ばれる。▲3四飛なら△8八角成▲同銀△2二銀として力戦に持ち込むのが主な手法だが、先手は横歩を取らずに▲7七金と上がる手もある。
 △8二飛戦法同様に昭和20年代末期から30年代初めに他の棋士にも指されたが、基本的に小堀の個人技という趣が強い。

・△3三桂戦法(③図から△3三桂)

 △3三桂戦法は江戸時代の定跡書にない形で、今のところ、戦後に現れた形と考えられる。
 最初に指していたとされるのは下平幸男だが、本格的に指されたのは昭和50年代以降で、北村昌男が多く指していることから北村流と呼ばれることもあった。

・戦後の横歩後手有利派筆頭・山田道美

 上で紹介した通り、様々な戦法を様々な棋士が指していたが、花田長太郎亡き後の横歩後手有利派の筆頭は、山田道美と言われることが多い。
 山田は「研究とは個人でやるもの」という考えが一般的な時代に、専門誌で様々な定跡について自説を発表していた当時異端の棋士であったが、横歩取りについては『横歩取り盛衰記』(雑誌『近代将棋』で昭和32年に連載)、『横歩取り定跡の功罪』(同誌で昭和35年に連載)を著し、横歩取り△2三歩型、横歩取り△4五角戦法を取り上げて研究した。
 ならば山田は実戦で横歩取りの後手を持って頻繁に採用していたのかというと、そういうわけでもなかった。それでも山田が横歩後手有利派筆頭だと言われるのは、やはり長年研究されてきた急戦を取り上げていたことが大きいのではないだろうか。

 山田は『横歩取り盛衰記』で、横歩取り△2三歩型を「わずかながら後手有利である」という結論としながら、現実的には先手勝率が圧倒的に良いことに触れ、自分だけではなくプロ棋士一般の話として次のように書いている。

山田道美『横歩取り盛衰記』(山田道美著作集 第3巻収録)

 「横歩取り」は、実戦であまり指されない。
 机上の研究や過去の実戦譜から”先手に有利な筋がない”と分っていても、いざ盤に向うと、後手を持って、横歩を取らせる勇気が出ない。一番一番、それが一切にひびいてくる対局であってみれば、乱れた後手陣を持つと、危ない橋を渡る気にはなれないのである。それに、勝負の結果を重んじるために、出来るだけ勝負の時機を遅らせようとする棋士の習性が、序盤から直ぐ形勢の傾く危惧のある「横歩取り」を無意識のうちにさけるのであろうか。

 個人的な印象だが、山田は『研究家』であるが、『横歩取り愛好家』にはなれなかったのだと思う。
 勝負になるとどうしても勝ち負けにこだわってしまい、実戦に投入できないことが多かったのではないか。

・アマチュアの横歩取り愛好家たち - 『横歩取りは生きている』

 山田の連載にはアマチュアの横歩取り愛好家による大きな反響があった。時には山田が発表した変化の誤りを指摘し、連載中に山田が訂正することさえあった。
 だが、その意見交換によって、戦争の混乱を挟んで散逸していた『平手相懸定跡集』や『平手相懸集奥義』の定跡が山田の目を通して整理され、かなり精密な研究だったことがわかっていき、更に実戦例が合わさって新たな定跡が整理されていったと言ってもよいのではないだろうか。

 昭和45年、山田は36歳の若さで急死する。
 その後しばらくの間、横歩取り急戦の研究は、アマチュアが先導していたといっても過言ではないだろう。この当時のアマチュアの熱気が込められた本が『横歩取りは生きている』である。

 そして昭和50年代になり、谷川浩司が横歩取り△4五角戦法を用いて活躍したことから横歩取り急戦の研究にプロでも火が付き、のちの横歩取り定跡全体の洗い直しにつながっていったといえる。