楚漢諸侯王表   楚(西楚)前 206年〜前 202年 
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【楚十八王表】
諸侯王名 旧地域 首都 姓 名 秦末履歴(自称含) 楚(西楚)封国以降履歴(前漢成立迄)
楚 義帝 (楚) (bi)(長沙) (bi) 旧楚懐王孫→楚王 暗殺[西楚]→断絶
西楚覇王 旧楚・宋・魯 他 彭城 項 籍 楚将軍・魯公 敗北戦死[漢]→断絶
漢  王 旧秦 南鄭
(後に咸陽)
劉 邦 楚将軍 全土統一→皇帝即位(漢高祖:前漢帝王系図を参照)
雍  王 旧秦 廃丘 章 邯 秦少府・将軍 敗北戦死[漢]→断絶
塞  王 旧秦 檪陽 司馬 欣 秦長史 敗北服属[漢]→漢を離反し服属[西楚]→敗北自殺[漢]→断絶
(teki)  王 旧秦 高奴 董 翳 秦都尉 敗北降伏[漢]→断絶
河 南 王 旧韓 洛陽 申 陽 趙将軍 服属[漢]→断絶
韓  王 旧韓 (teki) 韓 成 旧韓横陽君 幽閉暗殺[西楚]→断絶。
※韓王は鄭昌を即位[西楚]→敗北[漢]→断絶
西 魏 王 旧魏 平陽 魏 豹 旧魏公子→魏王 服属[漢]→漢を離反し服属[西楚]→敗北刑死[漢]→断絶
殷  王 旧魏 朝歌 司馬 (kou) 趙将軍 敗北服属[漢]→断絶
常 山 王 旧趙 襄國 張 耳 趙相国 敗北[陳餘]→服属[漢]
※代王趙歇が趙王に復位[陳餘]→敗北服属[漢]→断絶
※※張耳が趙王(常山王)に復位[漢]
代  王 旧趙 平城(代) 趙 歇 旧趙公子→趙王 趙王に復位[陳餘]
※代王は陳餘が即位[陳餘]→敗北刑死[漢]→断絶
遼 東 王 旧燕 (無終) 韓 広 燕王 燕王から遼東王への移封拒否→敗北戦死[燕王臧荼]→断絶
燕  王 旧燕 臧 荼 燕将軍 服属[漢]→漢より離反→敗北刑死[漢]→断絶
膠 東 王 旧齊 即墨 田 市 齊王 家臣田栄の齊王復位要請を拒否
→殺害[田栄]→断絶
※統一齊王には田栄が即位
→敗北戦死[西楚]→田広継位
→敗北[漢]→断絶
※※韓信が齊王即位[漢]
濟 北 王 旧齊 博陽 田 安 旧齊王孫 敗北戦死[田栄]→断絶
齊  王 旧齊 (shi) 田 キ 齊将軍 敗北戦死[田栄]→断絶
九 江 王 旧楚 英 布 楚将軍・当陽君 服属[漢]
衡 山 王 旧楚 (chuu) (zei) (ha)陽県令 服属[漢]
臨 江 王 旧楚 江陵 共 敖 楚相国 薨去→共驩<>継位→敗北刑死[漢]→断絶
凡例:[...]は対象となる勢力です。
(※「敗北[陳餘]→服属[漢]」…「[陳餘]の勢力に敗北し→[漢]の勢力に服属した」)
(※「代王趙歇が趙王に復位[陳餘]」…「[陳餘]の勢力により、(元の趙王で)代王の趙歇は趙王に復位した」)

【解説】 が滅亡した後、諸侯の名目上の盟主であった楚王の将軍で実権を握っていた項籍(項羽)が天下の采配を振るうことになりました。
しかし秦滅亡後の政治体制について、特に定見の無かった項籍陣営は、秦による全国統一以前の、昔を懐かしむかのような(春秋戦国時代のような)諸侯による政治体制をとりあえず選択したのです。
(秦帝国の「郡県制」と厳しい法律適用、と言った制度をとにかく排除したいと考えたものの、他に新体制案は考えつかなかったから、と言うことのようです)
そこで項籍は天下平定に功績の有った諸侯・ゥ将を、自身の独断をかなり交えながら論功行賞を行います。それが上記の「楚十八王表」です。

まず名目上の盟主であり、今となっては目上の瘤でしか無くなった楚王心を、馴染みの無い「義帝」という空位を作って祭り上げ、理由をつけて南方辺境の地を首都に定め追いやることにしました(それでも安心できず、結局後日暗殺してしまいます)。
次に、項籍は自身を「諸侯の中でも別格、天下人である」いうことを示す為、自分を古の覇者などに擬えて諸王の上に「覇王」という称号・位を作り、故郷の楚国の一部を含めた広大な土地を領土に収めて「西楚覇王」となりました。

項籍陣営にとって、一番頭を悩ませたのが劉邦(後の漢高祖)の処遇についてでしょう。名目上の盟主だったとはいえ楚王心が諸侯の前で士気高揚の為に「最初に中原より関中(秦の本拠地)に攻め入ったものを関中王(=秦王)に封じよう」と約束したことを項籍陣営が反故にしては信義にともる行為であり、又水面下で既に起こりつつある不平不満を高めかねないということも有ったからです。
しかし関中は要害の地であり、約束といってもその儘劉邦を封じるということは項籍陣営にとって到底容認できることでは有りませんでした。
そこで代わりに、同じ旧秦の地ながらより辺境の地である(漢中)・地方が劉邦に与えられました。理由としては「中原地方から見れば、漢中も関(=函谷関や武関等)を通らないと行けない地方であり、『関中』である」という詭弁に近いモノだったのです(^^;;;。
結果的には、この「(漢中)」の王号が統一後「漢帝国」と帝国名になっただけでなく、やがては中国の主要民族である「漢民族」を表す言葉になったというのは、ある意味皮肉というべきかも知れませんね。

漢王劉邦が封じられる筈だった(本来の)関中(盆地)の地には、秦の名将ながら項籍に服属した章邯とその部下司馬欣董翳に分け与えられました。これは同時に、この三王が漢王の監視・防御役を暗黙のうちに命じられたことを意味していました。

さてそれ以外の中原の諸王については、概ね項籍陣営の思い通りに王を封じ領地を与え、天下はこれにて暫時平和のときを迎えるかに見えました…。
…しかし、実際には平和は訪れませんでした。大きな原因はやはり、項籍陣営の論功行賞が多くの諸侯にとって不公平感が強かったこと、更に各地に封じられた諸侯とその国の実情が噛み合っていないことだったようです。
そして、その火は主に、そしてで燃え上がりました。

では項籍陣営の論功行賞が有るまで、実質的に田栄が実力者として田市(旧齊王一族)を齊王に立て、それなりの治安状態を維持していた為、これを無視した形の論功行賞(齊三分割)は田栄のみならず、地元意識の強い旧齊国民の反感を買ったのでした。
田栄は論功行賞によって立てられた齊王田キ濟北王田安を攻め滅ぼします。
更に膠東王に移っていた田市に、元の(統一齊王)王位に復位するよう要請し、(項籍の報復を恐れた)田市がその要請を断るとなんと田市までも攻め滅ぼし(^^;、遂に田栄が再び統一された齊王の地位に就きました。
結果的に田栄自身はその後項籍に攻められて戦死するのですが、王位は子の田広が継ぎ、田栄の弟田横が補佐する齊はその後も項籍に対してゲリラ的抵抗を続け、項籍陣営にとって頭痛の種の1つになっていくのです。

もう1つの火種であるでは、旧趙の公子で趙王に立てられた趙歇を中心に、「刎頚の交わり」の故事で有名な張耳陳餘の2人が主にこれを補佐していました。
しかし、鉅鹿の合戦の際にこの義父子ともいえる張耳陳餘の信頼関係にひび割れが生じ、更に陳餘を無視した(嫌った?)項籍による論功行賞によって、張耳常山王に、一方の陳餘は形程度の侯位を与えられたに止まった事に及び、かつて「刎頚の交わり」と称された2人の仲も修復不可能な状態になっていったのです。
冷遇されて憤懣やるかたの無い陳餘は、名目上の主人である(あった)趙王趙歇が、代王が半ば無理やり移封されてしまったのを理由付けとして「趙の土地を正当な主の為に取り戻す」という大義名分を掲げて常山王張耳を攻撃、備えの薄かった張耳は脆くも敗北し、漢王劉邦の庇護を受けるべく国を明け渡して逃亡しました。
そして大義名分どおり代王に移っていた趙歇趙王に復位させると、あくまでも趙歇から譲られる形を取った上で空位になった代王の王位に陳餘自らが就いたのです。

こうして、項籍陣営が思い描いた考えとは裏腹に、、更には地方(彭越が中心勢力)などでも反乱・騒乱が頻発し、情勢は混迷の度合いを深めていきます。 そして遂に、漢王劉邦が引籠っていた漢中より出撃し、監視防御役だった旧秦将三王の守る関中(三秦)を名将韓信の指揮のもと攻め落として掌中にするに至り、天下の趨勢は新たな展開を迎えることになるのでした…。

【前漢初封諸侯王表】
漢初封王 首都 姓 名 楚末履歴 封国以降履歴
楚  王 (hi) 韓 信 漢大将軍・左丞相→齊王 謀反(疑惑)・逮捕[漢]→淮陰侯降格
→謀反・敗北刑死[漢]→断絶
梁  王 定陶 彭 越 梁(魏)相国・漢建成侯 謀反(疑惑)・刑死[漢]→断絶
淮 南 王 英 布 九江王 謀反・敗北戦死[漢]→断絶
長 沙 王 臨湘 (zei) 衡山王 (五代存続)
趙  王 邯鄲 張 敖 常山(趙)王太子 常山(趙)王 張耳 薨去後継位
→謀反疑惑・逮捕[漢]→宣平侯降格
韓  王 穎川
(後に馬邑)
韓 信 (韓王信)
(楚王韓信とは別人)
韓太尉 謀反疑惑→服属[匈奴]
→敗北戦死[漢]→断絶
燕  王 臧 荼 燕王 謀反・敗北戦死[漢]→断絶
齊  王 (shi) 劉 肥 漢高祖長子(母曹姫) (前漢齊悼恵王系図を参照)
代  王 劉 喜<仲> 漢高祖次兄 敗北[匈奴]→封国放棄
→合陽侯降格
凡例:[...]は対象となる勢力です。
(※「敗北[陳餘]→服属[漢]」…「[陳餘]の勢力に敗北し→[漢]の勢力に服属した」)

【解説】 (後日執筆)

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