真説日本古代史 特別編の六 「邪馬台国」機内説を検証してみる 1.『魏志倭人伝』 今さら言うことでもなく、すでにご存じであることとと思われるが、い わゆる『魏志倭人伝』と称されているものは、正しくは『三国志・魏書・ 烏丸鮮卑東夷伝』に収録されている『倭人の条』のことである。 それを略して、『魏志倭人伝』と呼んでいる。 原文の漢文は、だいたい二千文字ぐらいのものなのだが、「邪馬台国」 の文字はこの中に一度だけ登場し、たちまち消えていく「倭国」の都なの である。 「邪馬台国」は国ではないのか、とお叱りを受けそうであるが、あくま でも私見にすぎないものの、「邪馬台国」が首都を意味することは、本文 中で詳しく述べてあるし、『魏志倭人伝』からも女王の居る都と読めるの で、「邪馬台国」は「倭国」の首都であった、との位置づけは変わること はない。 さて、その「邪馬台国」なのであるが、古代史ファンならずとも一度は 聞いたことがある固有名詞に違いない。私などは、教科書から知ったくら いであるので、日本人全員が知っていると言っても、過言では無かろう。 ところが、国内に現存しているどのような文献ですら、「邪馬台国」の 文字は記録されておらず、「倭国」のことでありながら、『魏志倭人伝』 以外に秘密を解き明かす手段が無いのである。 秘密というのは他でもない、「邪馬台国」の場所探しだ。 『魏志倭人伝』は、おそらく「魏」の使節団が、「倭国」に訪れたとき の報告書を基にして、記録されたものなのであろうが、そこには、朝鮮半 島にあった「魏」の支配地「帯方郡」から、朝鮮半島・対馬・壱岐を経て 「邪馬台国」に至るまでの道筋が、距離方角とともに記録されている。 しかも、道中経由したであろう国、隣接していた国々も、きちんと記録 されているのである。 それにもかかわらず、現代まで「邪馬台国」の場所に、確固たる証拠が 得られていないのは、『魏志倭人伝』をそのまま読めば、大ざっぱではあ るが、「邪馬台国」は「倭国」を離れ、はるか南方海上のどこかになって しまうからである。 そこで、アマチュアも含めた多くの史学者は、『魏志倭人伝』を自らの 主観に頼った「改訂」や、作者の「誤記」というと強引な手法により、都 合良く読み替えたうえで、場所を特定しようとするのである。 『魏志倭人伝』自体は、おおよそ三部構成でできており、おのおの 「帯方郡から邪馬台国までの道程とその周辺国」 「倭国の風俗・気候・習慣など」 「狗奴国との戦渦を経て卑弥呼の死と新女王台与擁立」 とに大別できる。 一度はご覧になられたことがあるもの思われるが、次に『魏志倭人伝』 の全文をご紹介申し上げる。 なお、文はあえて日本語現代語訳とした。漢文・読み下し文は目にする 機会も多かろうと思ったからであるが、例えば「至」・「到」などはその ままにしてある。 また、あえてフリガナは振っていない。読み方に先入観を持たれること を避けるため、と言えば聞こえが良いが、本音を言えば、単に面倒くさい だけの理由からであるのだが。 『倭人伝』 倭人は帯方の東南の大海の中に住み、三島によって国邑をつくる。もと 百余国。漢の時、朝見する者があり、今、使訳を通ずる所は三十国。 郡から倭に至るには、海岸にしたがって水行し、韓国を経て乍は南へ乍 は東へ、その北岸の狗邪韓国に到るのに七千余里。はじめて一海を度るこ と千余里で、対馬国に至る。その大官を卑狗といい、副を卑奴母離という。 居る所は絶遠の島で、方は四百余里ばかり。土地は山が険しく、深林が多 く、道路は鳥や鹿の径のようだ。千余戸ある。良い田はなく、海産物を食 べて自活し、船に乗って南北に行き市糴する。また南の一海を渡る千余里、 名づけて瀚海という。一大国に至る。官をまた卑狗といい、副を卑奴母離 という。方は三百里ばかり。竹木・叢林が多く、三千ばかりの家がある。 やや田地があり、田を耕してもなお食べるに足らず、また南北に行き市糴 する。 また一海を渡ること千余里で、末盧国に至る。四千余戸ある。山海にそ うて居住する。草木が盛んに茂り、歩いて行くと前の人が見えない。好ん で魚やあわびを捕え、水は深くても浅くても、皆潜ってしてこれを取る。 東南に陸行五百里で、伊都国に到る。官を爾支といい、副を泄謨觚・柄渠 觚という。千余戸ある。世々王がいるが、皆女王国に統属する。郡使の往 来し常駐の場所である。東南の奴国に至るまで百里。官を■馬觚(■は、 「凹」の下に「儿」と書きます)といい、副を卑奴母離という。二万余戸 ある。東行して不弥国に至るまで百里。官を多模といい、副を卑奴母離と いう。千余戸ある。 南の投馬国に至るには水行二十日。官を彌彌といい、副を彌彌那利とい う。五万余戸ばかり。南の邪馬壹国に至るには、女王の都する所で、水行 十日陸行一月。官に伊支馬があり、次を弥馬升といい、次を弥馬獲支とい い、次を奴佳●(●は「革」の右に「是」と書きます)という。七万余戸 ばかり。女王国から北は、その戸数・道里はほぼ記載できるが、それ以外 の辺傍の国は遠くへだたり、詳しく知ることができない。 次に斯馬国あり、次に巳百支国あり、次に伊那国あり、次に都支国あり、 次に弥奴国あり、次に好古都国あり、次に不呼国あり、次に姐奴国あり、 次に対蘇国あり、次に蘇奴国あり、次に呼邑国あり、次に華奴蘇奴国あり、 次に鬼国あり、次に為吾国あり、次に鬼奴国あり、次に邪馬国あり、次に 躬臣国あり、次に巴利国あり、次に支惟国あり、次に烏奴国あり、次に奴 国あり、これが女王国の境界の尽きる所である。 その南に狗奴国があり、男を王とする。その官に狗古智卑狗があり。女 王国に属さない。郡から女王国に至るまで一万二千余里。 男子は大小の区別なく、皆顔や体に入れ墨する。古しからこのかた、そ の使者が中国に行くと、皆自ら大夫と称する。夏后少康の子が、会稽に封 ぜられ、髪を断ち体に入れ墨をして蛟竜の害を避ける。今の倭の水人は、 好んで潜って魚や蛤を捕え、体に入れ墨して大魚・水鳥の危害をはらう。 後に入れ墨は飾りとなる。諸国の入れ墨はおのおの異なり、あるいは左に あるいは右に、あるいは大きくあるいは小さく、尊卑の差がある。その道 里を計ってみると、ちょうど会稽の東冶の東にあたる。 その風俗は淫らではない。男子は皆髪はみずら、木綿を頭にかけ、その 着衣は横幅の広いものを、ただ結束して相連ね、縫うことはない。婦人は 髪を束髪のたぐいで、単衣のような着物を作り、その中央に穴をあけ、頭 を突込んで着ている。いね・いちび・麻を植え、蚕を飼い、糸をつむぎ、 細紵・□綿(□は「糸」に「兼」と書きます)を生産する。その地には牛・ 馬・虎・豹・羊・鵲なし。兵には矛・楯・木弓を用いる。木弓は下を短く 上を長くし、竹の矢は、あるいは鉄の鏃、あるいは骨の鏃である。風俗・ 習慣産物等は、▲耳(▲は「イ」の右に「・」と書きます)・朱崖と同じ である。 倭の地は温暖で、冬も夏も生野菜を食べる。皆はだし。屋室あり、父母 兄弟は寝たり休んだりする場所を異にする。朱を体に塗るが、中国で粉を 用いるようなものだ。食飲には高坏を用い、手で食べる。人が死ぬと、棺 あるが槨はなく、土を封じて塚を作る。死ぬとまず、喪に服することを停 めて仕事にしたがうこと十余日、その期間は肉を食べず、喪主は泣きさけ び、他人は歌舞・飲酒する。埋葬が終わると、一家をあげて水中に詣り体 を洗い、練沐のようにする。 その行来や渡海、中国に行くには、いつも一人の男子に、頭を梳らず、 虱がわいてもとらず、衣服は垢で汚れ、肉を食べず、婦人を近づけず、喪 人のようにさせる。これを持衰と名づける。もし行く者が吉善であれば、 生口や財物を与えるが、もし病気になり、災難にあえば、これを殺そうと する。その持衰が不謹慎だったからというのである。・・ 真珠や青玉が産出される。山には丹がある。木にはだん(「木」の右に 月によく似た字)・杼・予樟・ぼう(「木」の右に「柔」の字)・櫪・投 橿・烏号・楓香・がある。竹には篠・□(□は「竹」冠に「幹」と書きま す)・桃支がある。薑・橘・椒・襄荷があるが、それで味のよい滋養にな るものをつくることを知らない。○猴(○はけものへんに「彌」と書きま す)・黒雉がいる。猴・黒雉がいる。 その習俗は、まずトするところを告げる。その辞は令亀の法のように、 火のさけ目を見て兆を占う。 その会同・坐起には、父子男女の別はない。人は酒好きである。大人の 敬するところをみると、ただ手を打って跪拝のかわりにする。その人は長 生きで、あるいは百年、あるいは八、九十年。風習では、国の大人はみな 四、五婦、下戸もあるいは二、三婦、婦人は淫せず、やきもちをやかず、 盗みかすめず、訴えごとは少ない。その法を犯すと、軽い者はその妻子を 没収し、重い者はその一家および宗族を滅ぼす。身分の上下によっておの おの差別・順序があり、互いに臣服するに足りる。祖賊を収める。邸閣が あり、国々に市がある。貿易をおこない、大倭にこれを監督させる。 女王国から北には、とくに一大率をおき、諸国を検察させる。諸国はこ れを畏れ憚かる。つねに伊都国で治める。国中に勅史のようなものがある。 王が使者を遣わして京都・帯方郡・諸韓国に行ったり、また郡が倭国に使 するときは、みな津に臨んで捜露し、文書・賜遺の物を伝送して女王にと どけ、差錯することはできない。 下戸が大人と道路でたがいに逢うと、ためらって草に入り、辞を伝え事 を説く場合には、あるいはうずくまり、あるいは跪き、両手は地につけ、 恭敬の態度をします。対応の声を噫といい、それは、然諾の意味である。 その国は、もと男子をもって王となし、住まること七、八十年。倭国が 乱れ、たがいに攻伐すること歴年、そこで共に一女子を立てて王とした。 卑弥呼という名である。鬼道につかえ、よく衆をまどわせる。年はすでに 長大だが、夫婿はなく、男弟がおり、佐けて国を治めている。王となって から、朝見する者は少なく、婢千人をみずから侍らせる。ただ男子一人が いて、飲食を給し、辞を伝え、居処に出入りする。宮室・楼観・城柵をお ごそかに設け、いつも人がおり、兵器を持って守衛する。 女王国の東、海を渡ること千余里、また国があり、みな倭種である。ま た侏儒国がその南にある。人のたけ三、四尺、女王を去ること四千余里。 また裸国、黒歯国がその東南にある。船で一年がかりでつくことができる。 倭の地を参問するに、海中州島の上に遠くはなれて存在し、あるいは絶え あるいは連なり、一周五千余里ばかりである。 景初二年六月、倭の女王が大夫難升米らを遣わし郡に詣り、天子に詣っ て朝献するよう求めた。太守劉夏は役人を遣わし、京都まで送らせた。 その年十二月、詔書で、倭の女王に報じていうには、 親魏倭王卑弥呼に勅を下す。帯方の太守劉夏が、使を遣わし、あなた の大夫難升米・次使都市牛利を送り、あなたが献じた男生口四人・女 生口六人・班布二匹二丈を奉って到来した。あなたの所在ははるかに 遠いが、そこで使を遣わして貢献した。これはあなたの忠孝であり、 わたしは甚だあなたをいとしく思う。いまあなたを親魏倭王となし、 金印紫綬を仮に与え、装封して帯方の太守に付し仮に授けさせる。あ なたは、種人を安じいたわり、勉めて孝順せよ。あなたの来使難升米・ 牛利は、遠路はるばるまことにご苦労であった。いま、難升米を率善 中郎将となし、牛利を率善校尉となし、銀印紫綬を仮に与え、引見労 賜し遣わす還す。いま絳地交龍錦五匹・絳地△栗▼十張(△は「糸」 の右に「芻」と書き、▼は四がしらにがんだれ、内に「炎」その右に りっとうを書きます)・▽絳(▽は「菁に似た字)五十匹・紺青五十 匹をもって、あなたが献じた貢物の直に答える。また、特にあなたに 紺地句文錦三匹・細班華▼五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀二口・ 銅鏡百枚・真珠・鉛丹おのおの五十斤を賜い、みな装封して難升米・ 牛利にわたす。還り到着したら目録どおり受けとり、ことごとくあな たの国中の人に示し、国家があなたをいとおしく思っていることを知 らせよ。故に、鄭重にあなたに好物を賜うのである。 と。 正始元年、太守弓遵は、建中校尉梯儁らを遣わし、詔書・印綬を奉じて 倭国にゆき、倭王に拝仮して詔をもたらし、金帛・刀・鏡・采物を賜わっ た。倭王は、使に因って上表文をたてまつり、詔恩を答謝した。 その四年、倭王はまた使者の大夫伊声耆・掖邪狗ら八人を遣わし、生口・ 倭錦・絳青□・錦衣・帛布・丹・木◇(◇はけものへんに「付」と書きま す)・短弓矢を献上した。掖邪狗らは率善中郎将の印綬を拝受した。 その六年、詔して倭の難升米に黄幢を賜い、郡に付して仮りに授けた。 その八年、太守王◆(◆は「斤」の右に「頁」と書きます)が官にやっ てきた。倭の女王卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼ともとから不和である。 倭の載斯烏越らを遣わして郡にゆき、たがいに攻撃する状況を説明した。 寒曹掾史張政らを遣わして、詔書・黄幢をもたらし、難升米に仮り授けて、 檄をつくってこれを告喩した。 卑弥呼が死んだ。大きな塚をつくった。直径百余歩、殉死する者は奴卑 百余人。さらに男王を立てたが、国中が服さない。おたがいに誅殺しあい、 当時千余人を殺した。また卑弥呼の宗女壹与という年十三の者を立てて王 とすると、国中がついに平定した。政らは檄をもって壹与を告喩した。壱 与は倭の大夫率善中郎将掖邪狗ら二十人を遣わし、政らの還るのを送らせ た。よって台にゆき、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大勾玉二 枚・異文雑錦二十匹を貢した。 以上が『魏志倭人伝』である。 2.九州説と畿内説 かつて「本居宣長」は、 「陸行一月」 を 「陸行一日」 の誤りと言い、これが先にあげた矛盾の一つにあたるのだが、内藤氏の 説はこれに次ぐ誤記説と言えよう。 そして、ほとんど同時に、東京帝大教授の「白鳥庫吉」は、九州説と確 信付けた論文を発表した。 それによれば、「邪馬台国」は筑後国山門郡、現在の柳川氏付近であっ たと断定している。 ただ白鳥氏の説の弱いところは、『魏志倭人伝』を文字通り読み、「邪 馬台国」の位置が、九州のはるか南方海上になってしまう解釈を、中国人 特有の誇張癖と説いたことであろうか。 しかしながら、この時代あたりから畿内説VS九州説の様相がはっきり してきて、京大出身の学者は畿内説を、東大出身の学者は九州説を支持す るようになっていき、古代史マニアをも含めた論争になっていることは、 周知の事実である。 それというのも、キイになるはずの『魏志倭人伝』が、非常にあいまい な記述になっているからに他ならないからで、アカデミズムもアマチュア も同じ土俵で研究できることが、ブームに拍車をかけている要因なのだろ う。 しかし、こと歴史の分野に関して言えば、学閥に左右さればければなら ない歴史の先生方よりも、私自身もそうなのだが、いわゆるアマチュアの 歴史家のほうが、鋭く確信を突いているように思う。 ちなみに、「邪馬台国」は九州説や畿内説ばかりではなく、四国の徳島 や愛媛、沖縄もあれば日本国外であったという説まで存在している。エジ プト説やジャマイカ説まで飛び交っているというから、驚きを通り越して 興醒めするくらいである。 一言で言えば、「邪馬台国」の場所探しのキーポイントとは、『魏志倭 人伝』の 「水行十日陸行一月」 をどう解釈するか、に掛かってくるのである。 「帯方郡」から大差ない部分までを箇条書きにし、現代に置き換えると 次のようになる。 「帯方郡」 「帯方郡」 ↓ 七千余里 ↓ 「狗邪韓国」 「朝鮮半島の先端の国」 ↓ 海を渡り千余里 「対海国」 「対馬国」 ↓ 海を渡り千余里 「一大国」 「壱岐国」 ↓ 海を渡り千余里 「末盧国」 「佐賀県東松浦半島周辺」 ↓ 東南に五百里 「伊都国」 「福岡県糸島半島・糸島郡周辺」 ↓ 東南に百里 「奴国」 「志賀島を含む那珂川・博多周辺」 ↓ 東に百里 「不弥国」 「?」 ↓ 南に水行二十日 「投馬国」 「?」 ↓ 南、水行十日陸行一月 「邪馬台国」 「?」 畿内説・九州説とも「奴国」までは、志賀島で「漢委奴國王」の金印が 発見されていることからしても、見解に相違はなさそうである。 しかし、「不弥国」・「投馬国」については、じつにさまざまである。 特に「投馬国」はこの国をどう考えるかで、九州に留まるのか、本州に 渡ってしまうのか、が別れるところである。 特別編『邪馬台国を推理する』からもわかるように、私自身としては、 「邪馬台国九州説」を提唱している。具体的に言えば、「吉野ヶ里遺跡」 を南端にした背振山山麓ではなかったかと考えている。 なぜなら、「末盧国」に上陸してからの「魏」の使節団は、一度も海を 渡ってないからである。 では「不弥国」→「投馬国」→「邪馬台国」の行程にある、「水行」に ついてはどうであろうか。 「邪馬台国」到達以降の記述で、 「女王国の東、海を渡ること千余里、また国があり、みな倭種である。」 とある。ここでは、明確に“海を渡る”と記述されている。従ってこう した記述のみられない「末盧国」から「邪馬台国」までは、海を渡ってい ないことにある。 当然の事ながら海を渡らなければ、九州から本州には行くことができな い。 従って、『魏志倭人伝』を素直に読めば、畿内説は成り立たないことに なってしまう。もっとも、素直に読むという点だけを強調すれば、九州説 も成り立たなくなるのだが、畿内説はいっそう分が悪い。 先にも述べたのだが、あくまでも私自身は「邪馬台国九州説」を提唱す る一人である。 しかし、「邪馬台国」が後の大和政権につながっていくとしたほうが、 合理的ではないのか、という考えかたも実は捨てきれていない。 全国的に出土されている三角縁神獣鏡は、年号の問題(実際にはあり得 ない景初四年の文字の刻印があるものがあった)はあるものの、同じ鋳型 かた作られた鏡−同氾鏡−は、圧倒的に畿内の弥生前期古墳から出土して いる。 これなどを見ると、畿内に存在した中枢の権力が各地の豪族に配ったの だとも考えられる。その中枢の権力こそ「邪馬台国」だったのかもしれな い。 実際、考古学的に見た弥生後期の土器の製作技法は、畿内から西に影響 を与えていると言われている。 そうかと言って、畿内の中枢権力が「邪馬台国」であったという説には、 大いに疑問を感じてしまう。 何でもかんでも「邪馬台国」に結びつけてしまう姿勢が、納得できない わけである。 仮に「邪馬台国」は九州にあったとしても、畿内には同等以上の勢力維 持した国はなかったと考えること自体、おかしくはないだろうか。 畿内の中枢権力とは、「邪馬台国」とは別の国であったと、何故考えな いのだろうか。 とまあ、こんなことを思っているわけなのだが、「邪馬台国」の場所探 しだけについて言えば、「南」を「東」の誤記であったと解釈しない限り、 魏使の足取りは決して畿内には向いてこない。 そもそも「畿内説」とは、其の発音が類似していることから、「邪馬台 国」=「大和国」であると比定したうえで、『魏志倭人伝』の行程を読ん でいるための、つじつま合わせでしかない。 つじつま合わせのための誤記説など、愚の骨頂としか言いようがないだ ろう。 私自身は「邪馬台国」を、首都を意味する普通名詞であると考えている が、実は固有名詞だったと考えれば、「邪馬台国」=「大和国」の発音の 類似性は無視できない。 「九州説」についてはどうかと言えば、「畿内説」ほどではないにしろ、 解説者の都合のよい解釈が、少なからずされていることは否めない。 『魏志倭人伝』を地理的知識の先入観無しに読めば、繰り返して言うが 「邪馬台国」は九州を超え、遥か南方海上に行ってしまうのである。 しかし、行程だけを見た場合、「畿内説」を有利に導く一枚の地図が、 存在している。 みなさんは、「混一彊理歴代国都之図」(こんいちきょうりれきだいこ くとのず)なるものを、ご存知だろうか。 それは、「李氏朝鮮」の時代の1402年に作成されたらしい地図であ り、そこに描かれている日本列島は、現在目にする地図よりも、大きく南 にずれている。 しかも、九州を支点として南へ約90度回転しており、九州を北にして 本州が逆立ちしたようになっているのである。その結果、日本列島自体、 南北にのびた島国になり、現在の沖縄の気候風土と同じになってしまう。 この地図で言うならば、「大和」は博多から見てまさに南である。 航海技術の発達した当時の、地図作製能力を疑うわけではないが、地図 が作製されたのは、このときが初めてではないはずだ。おそらく、さらに 古い地図があって、それを写し取ったものと思われる。 1274年十月二十一日、博多湾に「元」の船群が出現し、軍団が怒濤 のように押し寄せてきた。翌二十二日、神風によって船団は全滅したので あるが、これが「文永の役」であり、その七年後の「弘安の役」と合わせ て「元寇」と言われていることは、ご存じのことであろう。 「文永の役」は「混一彊理歴代国都之図」の作成時期よりも古い。と言 うことは、同種の地図を使って博多までやって来た可能性が高い。 さらに時代を遡った魏使到来の時代であれば、なおさらであろう。 『太閤の睨みし海の霞かな』 これは、肥前名護屋城跡に残されている句碑であるが、ここから天気の 良い日には、壱岐・対馬までが見えるという。 向こうが見えれば向こうからも見えるわけで、朝鮮半島と九州のほぼ中 間に位置する対馬が見えるような天気の良い日には、夜間航行さえしなけ れば、対馬・壱岐を経由して九州まで到着することに、さほどの困難は無 かったものと推測する。 何たって目標が目視できるのだから、地図に頼ることなく航行できるは ずだ。 『魏志倭人伝』当時の魏使達は、「倭国」に公務で訪れたわけだから、 今でいう出張報告書の提出が、当然義務付けられていたたはずである。 もちろんそこには、里数や方角など仔細な行程が、書かれていたはずで あるのだが、当時の感覚でどれほど正確であったのだろうか。 さらに、『魏志倭人伝』を記述中の、「陳寿」の姿を想像してもらいた いのだが、否、膨大な資料や不確かな報告書を基に、『魏志倭人伝』を記 述している人物が、貴方だったとしたらどうであろうか。 確かに「邪馬台国」の場所は、報告書に記載済であった。しかし、『魏 志倭人伝』に精通した現代の歴史家でさえ、一回目の使節団は「伊都国」 以上訪れていない、という意見が聞かれるほどである。 その基となる報告書を目の当たりにしている貴方は、それ以上に疑問を 抱くはずである。 その結果貴方は、地理的な裏づけを地図に頼ることになるであろう。 もはや、これ以上は言うことは無いであろう。 「陳寿」も貴方と同様だったのだと考えられる。彼の傍らにあったのは、 あの「混一彊理歴代国都之図」らしき地図であった。 もちろん報告書には、「邪馬台国」のおおよその場所は記載してある。 「陳寿」のしたこととは、地図を見ながら距離と方角を修正しながら記述 していったのではないか。 「混一彊理歴代国都之図」を見ながらの、『魏志倭人伝』の行程の理解 こそ、「邪馬台国」を畿内へと導く、唯一無理の無い方法論ではないだろ うか。 「畿内説」を提唱する学者の多くは、「邪馬台国」を奈良県桜井市の、 「纏向遺跡」を中心にした地域に比定している。 ここには、「卑弥呼」の墓との伝説がある箸墓古墳がある。 ここは宮内庁が管理している陵墓なので調査はできないが、宮内庁が確 かめたデータから判断する限り、三世紀後半と推定されると言う。 「九州説」から見た箸墓古墳は、築造年代が「卑弥呼」の時代よりも後 だとしているが、それは箸墓古墳と相似形の古墳として、京都府向日市の 元稲荷古墳をあげ、その出土した埴輪などが、箸墓古墳のものと極めて似 ていることから、この両古墳はほぼ同時期に築造されたと考えられる。 元稲荷古墳の築造年代が、四世紀後半と推定されているので、箸墓古墳 も同年代とするわけである。 ところが、最近の土器の年代編年や年輪年代測定法などの研究からいく と、三世紀半ばには古墳時代に入ろうかという時期らしい。 現在の考古学界では三世紀後半には、近畿地方に前方後円墳が出現して いるというのが、定説になっている。 箸墓古墳は微妙な年代に属してくることになり、少なくとも四世紀後半 の築造ではないと言えるのではないか。 あるいは、埋葬し直した可能性も考えられる。 楼閣にしたところで、奈良県田原本町の唐古・鍵遺跡から出土した土器 片の絵には、古代中国の建造物のような楼閣の絵が掘り込まれていたり、 大阪府立弥生文化博物館の北側の池上曽根遺跡には、妻側に独立棟持柱を もつ梁間一間、桁行十間、床面積135平方メートルという巨大建造物跡 が発掘されており、畿内にも巨大楼閣があった可能性を裏付けている。 さらには銅鏡の出土が、畿内に集中していることがあげられよう。 なかでも三角縁神獣鏡は大量に出土しており、これが「魏」からの下賜 品とも言われている。 ところが、景初四年というあり得ない年号の鏡が出土したため、最近で は国産品であったのでは、との感が強い。 しかし平成9年、大阪府高槻市の安満宮山古墳から、青龍三年の刻印の ある鏡が三角縁神獣鏡と一緒に出土し、これぞ「銅鏡百枚」のうちの一つ と考えることが可能になったことから、「畿内説」がより有力になったと いう見方もある。 「邪馬台国」=「大和国」であるとすれば、魏使達の行程はどう読めば いいのだろうか。 帯方郡から「奴国」までの行程は、九州説・畿内説とも大差ないことか ら、それでいいのではないかと思う。 その先の「不弥国」をどう見るかであるが、一応ここを現在の嘉穂郡周 辺と考えている。 畿内説にしたところで、関門海峡を越えて本州に渡るのだから、異説が あろうともここでは私見を優先したい。 さて、「投馬国」であるが、「不弥国」から水行二十日掛かる位置にあ るという。そして五万余戸という「邪馬台国」に次ぐ大国である。 一般的に「投馬国」は「とうまこく」と発音されるのだが、場合によっ ては「つまこく」と発音されることがある。 これらのことから、「出雲国」と比定される場合が多いし、もちろん異 存はない。従って「投馬国」は島根県出雲地方になる。 最後に残った行程が水行十日陸行一月である。これに従えば、若狭湾に 進入した後、ある地点から上陸し徒歩で「大和国」に向かったことになろ うか。 瀬戸内海ルートも当然考えられるし、その方が安全であると思うのだが、 「投馬国」を「出雲国」と比定する以上、瀬戸内海への進入はなかったこ とになる。 九州説・畿内説のどちらにも言えることであるのだが、陸行一月は掛か り過ぎではないだろうか。 例えば畿内説の場合、若狭湾から奈良まで直線で約100キロ強であり、 道なりでも200キロ以内であろう。それが踏み分け道であっても、せい ぜい半月程度が妥当であると思われるかもしれない。 ・・・ しかしながら、魏使が使節団であることや、銅鏡百枚を始めとする大量 の下賜品を持参しての旅であることからすれば、適当な日数と言えるのか もしれない。 また、旅費ちょろまかしのため、故意に虚偽の日数を報告した可能性も 拭いきれない。というよりも、むしろこれぞ真実という気がする。 このことは畿内説に限らず、九州説についても言えることである。 さらに、もう一つ共通の疑問がある。 「草木が盛んに茂り、歩いて行くと前の人が見えない。」 ような「末盧国」から上陸した理由である。 魏志の最初の目的地は、 「女王国から北には、とくに一大率をおき、諸国を検察させる。諸国は これを畏れ憚かる。つねに伊都国で治める。国中に勅史のようなものがあ る。王が使者を遣わして京都・帯方郡・諸韓国に行ったり、また郡が倭国 に使するときは、みな津に臨んで捜露し、文書・賜遺の物を伝送して女王 にとどけ、差錯することはできない。」 とあるように、「伊都国」であるはずだ。そうであるならば、糸島半島 から上陸するほうが、手っ取り早いのではないだろうか。 これについては、明確とは言えないまでも、説明はできそうである。 先に肥前名護屋城跡について触れたが、ここは太閤秀吉が朝鮮攻略のた めに築いた大本営であった。東松浦半島の突端に近いところである。 秀吉が何故この地に築城したかは定かではないが、地理的条件から見て、 この地が壱岐に渡る最短距離にあるからではないのか。 「狗邪韓国」から九州に渡るときも、一足飛びにやってこないで、対馬・ 壱岐を経由している。 航行につきまとう無益な危険を避けるためには、航海条件に問題がなけ れば、最短距離に近ければ近いほど良いに決まっている。 秀吉の時代でさえ肥前名護屋であったのだから、航海技術が想像以上に 進んでいたとしても、それが三世紀の帆船であることを考えれば、玄界灘 の荒海を渡って来ることは、常に死と隣り合わせだったのではないだろう か。 「倭国」から中国へ航行する場合には、持衰と名づけられた人を生け贄 にしなければならないこともあったと、『魏志倭人伝』に記されているく らいなのである。 このような理由から、「伊都国」に直接上陸することを避け、草木が盛 んに茂っていても、最短距離により近い「末盧国」から上陸をしたのであ ろうし、その道中いかに草木が生い茂っていようとも、いったん「末盧国」 の中心部に入ってしまえば、四千余戸の「末盧国」と千余戸(万余戸の誤 記ではないかと思われる)の「伊都国」間は、往来の道が整備されていた と、考えないほうがおかしいだろう。 ところで、千余戸とされている「伊都国」であるのだが、これは万余戸 の誤記ではないかと考えてる。 簡単に誤記であるといって良いものか、当惑するところなのだが、代々 王がいて、諸国を検察している一大率なる者の本拠地が「伊都国」である という。 一大率とは師団を率いた最高司令官だと考えているが、国中に中国でい う勅史のようなものがあり、それが師団を率いた長官だと思われるので、 その長官らを統括している者なのであろう。 さらに外交上の検査・検閲を担わされている国でもある。魏志達は「末 盧国」から上陸しているのだから、わざわざ「末盧国」の津まで出向いて、 検査・検閲をするものと推察する。 これらの記録から考えてみても、千余戸とする『魏志倭人伝』の記述は 誤記と考えた方がいいのではないか。実際は万余戸以上と考えたほうが自 然であろう。 『魏志倭人伝』に嘘はないというスタンスを貫くつもりであるのだが、 この箇所だけに関しては、単に南を東の誤記とする、都合のいい解釈の種 類ではないことを、是非ご理解いただきたい。 ちなみに、『魏略』の逸文を載せた『翰苑』には、 「戸万余」 となっている。 考古学上の遺跡の分布から考察すれば、「対海国」・「一大国」・「末 盧国」・「伊都国」・「奴国」ら諸国の存在した場所は、畿内説・九州説 のどちらから見たとしても、私見と間違いないであろう。 また、この部分に関して言えば、アカデミズムも同様である。 そして、戸数についても「伊都国」の千余戸を別にすれば、間違ってい るとする理由を見いだせない。「邪馬台国」の世帯数は七万余戸であった というが、共立された首都であったのだから、他国より人口が多いのも、 当然と言えよう。 九州説論者である私でさえ、これほどの人口を収用できる土地と、その 後の国の継続性を考えた場合、三世紀当時の倭地最大の国が「邪馬台国」 であったとすれば、やはり「大和国」こそそれに相応しいのかも知れない、 と思い悩んでしまう。 『魏志倭人伝』が、伝聞や聴取に頼った記事の多いことは、確かに言え ることである。 そのような不確かな情報が多数を占めていたからこそ、作者「陳寿」は 「混一彊理歴代国都之図」のような地図に、頼らざるを得なかったのだろ うか。 このように考えれば、「邪馬台国」=「大和国」説も真実味を帯びてく る。 3.『日本書紀』に「邪馬台国」を読む。 「邪馬台国」は中国に認知された国家でありながら、正史『日本書紀』 はそのことを一切語ろうとしない。 従って「邪馬台国」は、「大和朝廷」のルーツではないのではないか、 との憶測を招く結果となっている。 にもかかわらず、女王ヒミコはアマテラスであり、天皇家の祖であると も言われている。 しかし「邪馬台国」=「大和国」であると仮定すれば、『日本書紀』は 面々と連なる「邪馬台国」の歴史を記録していることになり、何の問題も ないことになる。 そして、ヒミコ=アマテラスだとすれば、いわゆる神話時代が『魏志倭 人伝』に記された、「邪馬台国」に相当すると言うことになるのだが、神 話は歴史的事実を踏まえているとはいえ、やはり神話の域を出ない。 例えば、日本神話の代表格である、スサノオのヤマタノオロチ退治は、 統一奴国途中のスサノオが、毎年「出雲地方」の収穫を奪っていく、越の 高句麗部族を一掃した歴史の、神話化されたものであると考察しているが、 そのままでは、神スサノオが八頭八尾の怪物を退治したという、神話以外 の何ものでもない。 「邪馬台国」の記録は、「魏」に朝貢した238年に始まり、「晋」へ の266年の朝貢までと、時代が疑うことなくはっきりしている。 『日本書紀』は神武天皇の即位を、紀元前660年に当てているので、 「邪馬台国」がどの天皇の時代であったかを、探し出すのはいかにも容易 そうではないか。 すると、神功皇后の三十九年、この年を大歳己未として次の一文を載せ ている。 「魏志倭人伝によると、明帝のの景初三年6月に、倭の女王は大夫難斗 米らを遣わして帯方郡に至り、洛陽の天子にお目にかかりたいといって貢 をもってきた。太守ケ夏は役人を付き添わせて、洛陽に行かせた。」 つづく四十年、さらに四十三年にも 「魏志にいう。正始元年、建忠校尉梯携らを遣わして詔書や印綬をもた せ、倭国に行かせた。」 「魏志にいう。正始四年、倭王はまた使者の大夫伊声者掖耶ら、八人を 遣わして献上品を届けた。」 とあり、神宮皇后三十九年が景初三年(239)であると言わんばかり である。 ところが『魏志倭人伝』を引用して、神宮皇后=ヒミコのように記しな がら、ヒミコの文字はどこにも見当たらない。あるいは、「卑弥呼」の文 字を嫌ったとも考えられる。 『神宮皇后紀』には、本人の実在性も含めてその内容には、疑問が多い ことは言うまでもないが、この記述が『日本書紀』成立当時からのものだ としたら、編纂者らは倭の女王ヒミコを無視しながらも、神宮皇后をヒミ コにしたがっているということであり、「邪馬台国」=「大和国」である ことを暗黙裡に認めた格好になる。 これは非常に重大なことだ。 これを執筆している私は、まぎれもなく九州論者であるのだが、それを あざ笑うかのように、そして現代の歴史学者が何と言おうとも、『日本書 紀』自体がそれを認めてしまっているのであるから、これを信じる限り、 もはや議論の余地は無いのではないことになる。 もちろん神宮皇后=ヒミコだなどとは思っていない。 先にも示したとおり、『日本書紀』の神武即位年は紀元前660年に比 定できるのだが、他の史学からそれは240年だとわかっている。 すなわち神武天皇こそ、まさに「邪馬台国」時代の天皇であるのだ。 しかし、『神武紀』を見ても「邪馬台国」の記述など見出すことはでき ないばかりか、『日本書紀』による神武は「大和国」を攻めた天皇ではな いのか。 ただこれまでに『真説日本古代史』を一読された皆様には、これ以上多 く述べる必要はないであろう。 神武の戦った相手、それが「邪馬台国」であったことを、すでにご存知 であるからだ。 私見による神武天皇は、「卑弥弓呼」(私はこれを日のミケヒコである と説く)であるが、彼は「狗奴国」王であり、ヒミコの死に乗じてミケヒ コは「邪馬台国」を崩壊させたと考えている。 そしてそれ以前に危機を察知した、「邪馬台国」の和平派は一路東を目 指し、瀬戸内海を経由して「奈良」に落ち延び、土着勢力を制圧あるいは 彼らと手を結び、建国の基礎を築いたと考えている。 「奈良」が「奴国」の当て字であることは、言うまでも無いことだ。 ある意味「邪馬台国」東遷説と言えるかもしれない。 そこで想い出してほしい。九州を制圧した神武が向かった先はどこであ り、戦った相手は誰であったかを。 それが「大和国」であり、祟神天皇であったことを、『神武紀』と『祟 神紀』の比較から導き出しているが、ご記憶がおありであろうか。 「邪馬台国」=「大和国」の立場に立ったとすれば、神武の攻めた「祟 神朝」こそ、「邪馬台国」であったことになり、私の説いた九州「邪馬台 国」崩壊説は、「大和国」での惨劇だったことになる。 そうするとどうであろうか。 「邪馬台国」の役人の名が、祟神朝の主要人物の名にそっくりであるこ とは、本文中でも指摘したことである。 私は彼らこそ、「邪馬台国」を脱出し大和建国後の、中枢を担う人物だ と断定した。 具体的に言えば、 官 「伊支馬」 (イキマ)⇔ 活目入彦であり、 垂任天皇 次 「弥馬升」 (ミマショウ)⇔御間城姫であり、祟神天皇の皇后 次 「弥馬獲支」(ミマカキ) ⇔御間城入彦であり、祟神天皇 である。「弥馬升」と「弥馬獲支」は比定が逆かもしれないが、「邪馬 台国」は女王国のはずなので、私見では彼らを大和建国後の大王ら、とし たわけであるが、倭の女王という史実を、神宮皇后であるかのように記述 する『日本書紀』のことである。崇神朝を記録するに当たって、女王隠し くらいしているのかもしれない。 ヒミコは女王であったのだが、シャーマンとしての性格が強い。という よりむしろ、神託者が神扱いされ、女王に祭り上げられてしまった感があ る。そこで、崇神朝にそのような人物を探せるかと言えば、それが相応し い人物がいるのだ。 「倭迹迹日百襲姫命」(やまとととびももそひめのみこと)である。 大物主神は彼女に神懸り、治世を手伝ったのであるが、大物主神の姿を 見て大物主神に殺されたと匂わせる記述がある。 神社伝承学でいう大物主神は、ニギハヤヒと同一神である。ニギハヤヒ とは「天照国照彦火明櫛玉饒速日尊」であり、私が断固別人とする「彦火 明命」(ひこほあかりのみこと)と「櫛玉饒速日命」は、神社伝承学的に 言えば同一神となる。 私見でいうホアカリとは、「卑弥弓呼」すなわち神武天皇であるので、 これらの説を統合的に考えれば、「倭迹迹日百襲姫命」は「卑弥弓呼」に 殺されたことになり、「邪馬台国」の末期を髣髴とさせる。 『日本書紀』によれば、「倭迹迹日百襲姫命」の墓は、 「ときの人はその墓を名づけて箸墓という。その墓は昼は人が造り、夜 は神が造った。大坂山の石を運んで造った。山から墓に至るまで、人民が 連なって手渡しにして運んだ。」 と記録されている。 天皇を除きこのような記述は皆無に等しく、『日本書紀』が彼女をいか に小さく記そうとも、伝承は否定できないと言うことであろうか。 先ににも述べたように、箸墓は古来よりヒミコの墓という伝説があるの である。 残念ながら『崇神紀』からは、「難升米」と「都市牛利」に比定できそ うな人物を見つけることはできないが、「伊声耆掖邪狗」は「八坂入彦」 と考えられなくはない。 「邪馬台国」が「大和国」であったとすると、「狗奴国」はどこになる のだろうか。 「狗奴国」は「邪馬台国」の南に位置したというが、「混一彊理歴代国 都之図」にしたがえば、南は現代の日本列島の東であることがわかる。 それに該当しそうな国は「尾張」しかないだろう。 「尾張」が「狗奴国」ではなかったかとは、近年急速に広まりつつある ことであり、詳しくは特別編『象鼻山1号古墳調査報告書』をご覧いただ きたい。 「畿内説」に従えば、「大和国」は「邪馬台国」として「尾張」は「狗 奴国」として、関ヶ原をはさんで対峙していたことになる。 私見による「尾張」も「狗奴国」と大いに関係ある。しかし、「尾張」 は「狗奴国」そのものではなく、「尾張国」を興した人物の祖こそ、狗奴 国王その人であったとした。 ただ、そうだとしたら疑問点がいくつかある。 『魏志倭人伝』に記されている地名は、少なからず現代にも名を留めて いる。 しかしながら、「尾張」に「狗奴国」らしき地名を探すことができるだ ろうか。「狗奴国」の官「狗古智卑狗」が、通説どおり「キクチヒコ」で あるとしたら「菊池彦」であろうし、その名からして九州のほうが、より 相応しいのではないだろうか。 「邪馬台国」に関しても同様に疑問がある。 例えば、入れ墨をしてミズチの害を避けたというくらいなので、漁労に 従事していたのであろう。しかし「大和国」は盆地であり、海人には似つ かわしくないように思われる。 また、一年中温暖で野菜が採れたというが、古代が現代より温暖であっ たとはいえ、「大和国」は断じて亜熱帯地方ではない。 また、九州に上陸した魏使一行が「伊都国」で入国審査を済ませた後、 どうして陸行しなければならなかったのか。再び船に戻り「大和国」を目 指した方が合理的である。陸行後、関門海峡を渡ったのなら、その船の国 籍はいずこのものであったのか。 そして、次の一文が興味深い。 「女王国の東、海を渡ること千余里、また国があり、みな倭種である。 また侏儒国が、その南にある。人のたけ三、四尺、女王を去ること四千余 里。また裸国、黒歯国がその東南にある。船で一年がかりでつくことがで きる。」 「倭の地を参問するに、海中州島の上に遠くはなれて存在し、あるいは 絶えあるいは連なり、一周五千余里ばかりである。」 これらは連続した文章なのだが、あえて前半部と後半部に分けた。 まず注目して欲しいのは、後半部の倭の地は朝鮮半島から遠く離れた、 一周五千余里の島であるということだ。 『魏志倭人伝』は、帯方郡から狗邪韓国までの距離を、七千余里として いるので、それから推察すると五千余里は、ほぼ九州の外周に匹敵するの ではないかと思う。 「大和国」では、どうみても「島」という単語に、なり得ないのではな いかと思う。 しかしながらその前半部である、海を渡ると別の倭種の国があるという 部分は、おそらくは聴集された記録であり、事実とは言い難い。現地人の 噂にも等しいものであろう。 そこで、この連続した文章の真実性は、疑わしいものになってくるのだ が、魏使は倭の地が島であることを確認したわけではなく、単なる聴集さ れたことであったにせよ、それを聞き出した相手は間違いなく倭の地の居 住者である。 玄界灘を越え、朝鮮半島や他の島国との往来がある彼らが、自分たちの 住んでいる土地の情報を、正しく知らないとは考えられない。 ただしこれらの疑問うち、入れ墨に関する記述については、『古事記』 の『神武記』の「伊須氣余理比賣」(いすけよりひめ)のこととして、次 のような記述があり、一部の部族にはその理由はわからないまでも、習慣・ 風習としてあったものと思われる。 「そのときひめは大久米命の入墨でくまどった鋭い目を見て、見慣れぬ こととて奇妙に思って、 あめつつ 千鳥鵐 など黥ける利目 と歌われました。」 4.三角縁神獣鏡 平成10年正月、天理市黒塚古墳から33面もの三角縁神獣鏡が出土し ている。 これまで、古墳から出土した鏡の数としてトップ1は、京都府椿井大塚 山古墳の36面以上であり、トップ2は奈良県新山古墳の34面であった。 黒塚古墳は34面と2位タイなのであるが、三角縁神獣鏡に限れば、最 多なのである。 景初三年銘の銅鏡の出土により、ヒミコの銅鏡ではないかと言われた時 期もあったが、昭和61年、京都府福知山広峰15号墳から出土した銅鏡 は、なんと存在し得ない景初四年銘が刻印されていたのである。 その銅鏡は、三角縁神獣鏡に極めて近い作りをした、斜縁盤龍鏡であっ た。 しかもこの鏡の総出土数はゆうに百枚を越えており、このことからも三 角縁神獣鏡は、国産鏡ではないかというのが今日の説のようである。 また中国では、三角縁神獣鏡と同系式の銅鏡の出土は一例もない。 このことからも、ヒミコがもらった銅鏡は後漢式であり、それも数種類 の寄せ集めだったのだろうとの説さえ飛び出した。 確かに「魏」の存在した、いわゆる「三国志」に記される三国は、当初 こそ「漢」復興を前提としていたが、結局、三国とも皇帝を擁立し、中国 制覇を試みている。 特に「魏」は「後漢」の末裔とも言える、「蜀」を制圧した国家なので ある。 そんな勢い盛んな国家が、自国の威厳を見せつけるための賜品に、亡国 の、しかも中古の銅鏡を下賜するだろうか。 「邪馬台国」研究の第一人者でさえ、「倭国」を過大評価することによ り、自国の尊厳を表現しようとしたらしきことを唱えている。 そのような意識の国家が卑国と定めた国に、亡国の中古品を賜るとは到 底考えられない。 逆に言えば、わざわざその卑国を威圧するために、専用品を鋳造してや るくらいの、高い意識を持って接するのではないだろうか。 そんな嫌みたっぷりの態度ができるからこそ、他国に対して圧倒的優位 に立てるのである。 もっとも、嫌みたっぷりと映るのは、同レベルのものに対してだけであ り、その格差が大きければ大きいほど、ありがたい気持ちに変わっていく ことは、言うまでもないだろう。 三角縁神獣鏡が国産であったことは、否定しにくい事実である。 しかし、すべてが国産であったとしたならば、そこに「魏」の年号が刻 印されている理由がわからない。 そこで、元来銅鏡は中国からの下賜物であり、国内でそれを模して鋳造 したのだと思う。 従って、三角縁神獣鏡がヒミコの銅鏡である可能性は、後漢式銅鏡より 高いと思う。 「邪馬台国」に関しては、考古学的見地からすれば畿内説が、文献史学 的には九州説に有利なような気がする。 奇しくも私個人でさえ、九州説を提唱しながら、九州からは一枚も発見 されていない三角縁神獣鏡を、ヒミコのものかも知れないという、曖昧な 結論しか持ち得ない。 結局、九州説・畿内説のいずれにしても、決定打と言えるような証拠は 無いのであり、こうしているうちに、もしヒミコの金印や他の銀印が発見 されることがあれば、その地方こそ「邪馬台国」と断定し得る、最大の証 拠となろう。 最後に、ここまで「邪馬台国」機内説の可能性を説いてきたが、私自身 の見解は九州説(参考:特別編1 首都・「邪馬台国」を推理する)に変 わりはないことを、付け加えさせていただく。 2001年12月 了 |