真説日本古代史 特別編の二


   
象鼻山1号墳調査報告書
         
(養老町教育委員会)




  象鼻山古墳群は、岐阜県養老郡養老町橋爪の標高142メートルの山中
 にある。本地域は岐阜県の西南部に位置し、旧美濃国西部(西濃)にあた
 り、三重・滋賀両県すなわち旧国の近江・伊勢国とも境を接する。ここは、
 昔から東西交通・軍事の要衝の地であるとともに、濃尾平野と旧伊勢湾を
 眺望できる位置にある。
  
  象鼻山古墳群は、少なくとも前方後方墳2基、方墳17基、円墳4基、
 形状不明のもの3基の計62基からなることが判明し、三世紀末から六世
 紀頃のものと推定されている。

  象鼻山1号墳は、本古墳群中でも最大規模で、最高所に位置しており、
 濃尾平野の見晴らしが一番良いところを選地している。このことは、本古
 墳群中において象鼻山1号墳が重要な位置を占めていることを示している。

  養老町では、平成8年(1996)〜10年度の3か年をかけて象鼻山
 1号墳の発掘調査を実施した。これまでの調査によりさまざまなことが明
 らかになった。

  本古墳は、全長40.1メートルの前方後方墳である。後方部の平野に
 面する斜面(東側)を二段築成として、部分的な葺石をもち、築造年代は
 三世紀末頃であると判明した。二段築成というのは、斜面を階段のような
 形にすることであり、中国の思想に根ざすと考えれられている。

  本古墳の築造は、開始から完了までの工程を、葬送儀礼の執行を含めて
 八段階の丁寧な手順で行っている。また、本古墳は、丘陵頂部に立地する
 前記古墳でありながら、旧地形をほとんど利用せずに築造している。その
 理由としては、濃尾平野の眺望あるいは濃尾平野からの見かけを重視して、
 東に寄せて築造したからであると考えられる。そこに、大変な労力をもの
 ともしない強い意志と力がうかがえる。

  主体部の墓坑と棺については、石を使わない構築墓抗に箱形木棺という
 東日本的なものであることが分かった。構築墓抗とは、墓穴の空間を残し
 て周囲に盛土する手法であり、西日本に多い墳丘を完成してから墓穴を掘
 る堀込み墓抗と対照的なものだ。本棺は、ほとんど腐朽していたが、棺材
 は、針葉樹材である可能性が高いことも分かった。墓抗・棺の方向につい
 ては、墳丘主軸と角度をつけて、ほぼ南北方位に設置されていた。これは、
 クビレ部墓道かた棺・遺体・副葬品の搬入と、北枕の思想も中国起源と考
 えられている。

  副葬品については、墓抗内から、破砕した双鳳鏡(き鳳鏡)1面、琴柱
 形石製品3点、朱入り壷1点、鉄刀2点、鉄剣6本、鉄鏃53点が出土し
 た。鏡・琴柱形石製品2点・鉄刀・鉄剣は棺内遺物と考えている。それに
 対し、鉄鏃53点は、棺上の面に副葬したものだ。なお、琴柱形石製品1
 点は、遺体か棺蓋の上に置いたものだ。

  双鳳鏡(き鳳鏡)は、西暦二世紀後半に中国華北で製作して約100か
 ら150年後に本古墳において破砕して副葬したものと考えられる。琴柱
 形石製品は、緑色凝灰岩製で丁寧な加工がされており、古墳出土の石製品
 としては、最古のグループに属する物と考えている。

  一般的な前記古墳の副葬品の組み合わせとの相違点は、鉄器が鉄刀など
 の武器だけからなることであり、農耕漁具を欠くことである。これらは、
 東日本の前期古墳の特色となる可能性がある。

  破砕した土器群においては、二重口縁壷形土器の他に、小形器台・高坏・
 S字状口縁台付甕形土器が出土した。甕形土器は東海独特の形状のもので
 あるが、高坏は、他地域に大きな影響を及ぼした東海系高坏ではなく畿内
 系の高坏であった。このことから、本古墳の体系は、典型的な畿内の前期
 古墳とは異質なところが多く、独自性を発揮しながら西方との交渉を行っ
 ていたことが明らかである。

  前方後方墳の比率は、東日本において高く、東海においては特に顕著で
 ある。前方後方墳の出現の契機は、日本列島中央部に広く存在しているが、
 それが成長して他地域に情報発信した地域は、東海であることは疑いがな
 い。その到達点が、象鼻山1号墳の技術体系であると理解している。

  他方、象鼻山1号墳の築造期以降には、東海においてごく少数の前方後
 円墳が出現する一方、西日本でも本格的な前方後方墳が増加し、前方後円
 墳と前方後方墳の築造規格の共通性が強まっていく。このことは、古墳時
 代前期の中で急速に進み、東日本においても前期後半には、前方後円墳を
 上位とする仕組みが確立した。

  そして、象鼻山1号墳の中にある畿内的要素の存在をそのはしりと考え
 ている。

  なお周知のように、『三国志・魏志倭人伝』には、三世紀中頃に邪馬台
 国と狗奴国が対立関係にあったことを示しているが、考古資料による限り
 この時期に他地域に大きな影響力を発揮した大勢力は、畿内と東海であっ
 たと考えられる。そして、狗奴国の所在地を濃尾平野にする考えが急速に
 強まりつつある。

  三世紀後半を生きたであろう象鼻山1号墳の被葬者像は、伝統的な葬送
 儀礼を堅持しながら、畿内を中心とする政治連合に参加しつつあった転換
 期の狗奴国王族が、最もふさわしいと推察する。それは古墳時代社会の始
 まりの経緯を知る上で、貴重な情報となるものと考えている。

  (象鼻山1号古墳調査報告書より)

                          

                        1998年10月 了