真説日本古代史 特別編の一


   
首都・「邪馬台国」を推理する




   
1.『魏志倭人伝』に記された行程より



  本編では、「邪馬台国」の場所について、言及していなかったが、古代
 史を扱うレポートにも関わらず、全然、ふれないわけにもいかないので、
 私の考えを述べることにした。

  ただし、本編でも記述しているとおり、「邪馬台国」は連合国の「首都」
 であり、独立した国家ではない。従って、以下に渡るレポートにおいても、
 そのスタンスは変わらないので、連合国の首都・「邪馬台国」の場所探し、
 であることは言うまでもない。 

  まずは、「邪馬台国」の位置とその距離を、『魏志倭人伝』が、どのよ
 うに記述しているかを、箇条書きにしてみた。
  ここでいう「郡」とは、「帯方郡」のことであり、「倭」とは、もちろ
 ん、日本列島のことである。国号としては記述されていないように思う。

  また、一部、当用漢字に訂正してあるが、「到」・「至」は原文のまま
 である。参照したのは、岩波文庫刊・『中国正史日本伝(1)』に掲載さ
 れている『魏志倭人伝』である。


 
 「郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し、韓国を歴て、乍ち南し乍
 ち東し、其の北岸狗邪韓国に到る。七千余里。」

  「始めて一海を渡る千余里、対海国に至る。」

  「又南一海を渡る千余里、命けて『シ翰海』(かんかい)という。一大国
 に至る。」

  「又一海を渡る千余里。末盧国に至る。」

  「東南陸行五百里にして、伊都国に到る。」

  「東南奴国に至る百里。」

  「東行不弥国に至る百里。」

  「南、投馬国に至る水行二十日。」

  「南、邪馬壱国に至る。女王の都する所、水行十日陸行一月。」

  「郡より女王国に至る万二千余里。」


  以上のようである。

  ただし、私が参照した本は、『邪馬台国はなかった』の著者・古田武彦
 氏が採用した、南宋の紹熙年間(1190〜1194)刊行の『紹熙本』
 であるらしく、「邪馬台国」が「邪馬壹国」になっていたり、「一支国」
 が「一大国」になっている。

  「邪馬台国」の「台」は「臺」の当用漢字であるが、他の中国の正史、
 『後漢書』・『梁書』・『隋書』・『太平御覧・魏志』のいずれも「臺」
 である。
  これらの編纂年は、『紹熙本』より約半世紀近くも古く、『紹熙本』の
 誤字であることは明らかであろう。「一大国」についても、同じと思われ
 る。「邪馬壹国」は、古田武彦氏の著書のメインテーマであるのだが、こ
 れにより、古田氏の説は不成立になる。

  次代の女王・「壹与」も、「臺与」である可能性が大である。

  江戸時代、「新井白石」が「邪馬台国」畿内説を唱え、「本居宣長」が
 九州説を唱えて以来、現代まで、この争いの決着はついていない。
  しかし、畿内説は、「邪馬台国」の候補地を、「大和」のただ一カ所に
 比定しているだけだが、九州説は、「筑紫国の山門」・「甘木」・「宇佐」
 「博多」など、幅広い。
  
  本編では、畿内説を採っていない。なぜなら、『魏志倭人伝』を普通に
 読めば、九州より東に向かわないからである。畿内説は、「南」を「東」
 と読み替えることにより、成立している説である。しかし、「臺」を「壹」
 に、「支」を「大」と誤記する可能性はあっても、「南」を「東」とは、
 間違えようがなかろう。

  ただし九州説も、その全行程通りに、進めば九州の遙か海上へ行ってし
 まうが、「邪馬台国」が畿内でなければ、九州でしかありえない。
  要は、その行程をどう解釈するかで、「邪馬台国」は、どこかへ行って
 しまうのである。

  その中でも、「対馬国」・「一支国」・「末盧国」・「伊都国」・「奴
 国」の位置は、おおよそはっきりしていて、おそらく誰もが一致するとこ
 ろだろう。


  
「対海国」=「対馬」
  「一大国」=「壱岐」
  「末盧国」=「唐津から東松浦半島周辺」
  「伊都国」=「糸島半島・糸島郡周辺」
  「奴国」 =「志賀島を含む那珂川・博多周辺」


  これらの国は、すべて、玄界灘に面してあったわけだが、「奴国」は、
 玄界灘に面して長く、宗像までが、「奴国」の領域であったと思われる。
  
  実際、中国式銅鏡の出土分布は、有明海の筑後川流域を除き、大多数が
 このあたりに集中している。

  強いて「不弥国」を比定すれば、「嘉穂郡周辺」であるが、ここは、古
 くは「穂波郡」と呼ばれていた。「不弥国」は、「ふみ国」であり、「ほ
 なみ」と共通性がある。「穂波町」という地名は、今でも存在する。
  しかし、「邪馬台国」当時、玄界灘の海岸線は、現在よりも、ずっと、
 内陸に入っていたことは間違いなく、その点は、考慮しなければならない
 と思う。

  現在の「対馬」から『魏志倭人伝』の里数に従って、「奴国」に向かう
 とすると、地図上では、「末盧国」がやや、西による以外は、おおよそ、
 当てはまってくる。この里数は、中国式の短里(75m)であると思われ
 日本式の里数(4Km)ではなかろう。
  しかし、陸上の一里と海上の一里とは、感覚的にも、ずいぶん異なるの
 ではないかと思われる。
  大ざっぱに、50〜150mと考えてかまわないと思う。

  「帯方郡」より「邪馬台国」の距離は、一万二千余里と、記述されてい
 る。また、「帯方郡」から「不弥国」までの総距離は、計算すれば、一万
 七百余里である。
  『魏志倭人伝』をまともに読めば、この差の千数余里に、水行二十日+
 水行十日陸行一月も費やすことになり、てんで、つじつまが合わない。
  つまり、この解釈は、間違っていると言うことだ。

  「邪馬台国」までの日程記述は、「帯方郡」からの全日程であろう。つ
 まり、「帯方郡」から「邪馬台国」までの全日程こそ水行十日陸行一月と
 解釈している。
  いずれにしても、「帯方郡」から「末盧国」までは、船を使っての移動
 と考えられるので、「末盧国」から上陸して「邪馬台国」までが、一月を
 要することになる。



   
2.「至」と「到」は、どう違うのか?


  「邪馬台国」までの行程記述において、「到」の文字が二回だけ使われ
 ている。「狗邪韓国」と「伊都国」である。
  「至」と「到」を、単に混同しているのにすぎない、と言われれば、そ
 れまでだが、明確に使い分けているとしか思えない。
  国語辞典でこの二つの文字を調べてみても、同意であるのだが、漢和辞
 典で調べれば、同意ながら、漢字そのものの持つ意味が、はっきり見えて
 くる。

  「至」も「到」も、ともに、たどり着くの意味であるのだが、「至」は、
 鳥が地面に着地する姿が、その文字の原型であるらしく、「到」は「至」
 の右に「刀」を付加した文字であり、ぐるっと回って着く、つまり、巡り
 着くが、本来の意味らしい。
  私たちも、無意識のうちに、この二文字を使い分けてはいないか。
 「至」は、「至東京」・「至京都」など、地図などで、向かう方向を表す
 時に、よく用いられ、「到」は「到着」などでしか使わない。「到東京」
 とは書かないだろう。
  『魏志倭人伝』でも、同じではないだろうか。

  この行程の記述は、第一回目の「魏」の使節団が、「倭」の地に訪れた
 時の資料をもとにして、編集されたのだと思う。
  おそらく、この時は「狗邪韓国」と「伊都国」が、「魏」の使節団の目
 的地であって、「邪馬台国」はおろか、「奴国」さえも訪れていないのだ
 と思う。

  「倭」の地へは、皇帝からの贈り物を手渡すという目的のために、訪れ
 ている。そして、それらは、「伊都国」で「難升米」(ナガスネヒコ)に
 渡されているのだ。

  「狗邪韓国」は、朝鮮半島の突端の国であるので、まずは海を渡る前の
 目的地であり、「伊都国」こそ、最終目的地であった、と考えられる。
  他の国は、通過点でしかなかったのである。
  そして、「伊都国」以降の国は、「伊都国」を起点にした方向と里数が、
 記述されているだけであると考えたいし、事実、そのような記述になって
 いると思う。
  これは、そのアプローチと結果は違えども、戦後に榎一雄氏が唱えた、
 「邪馬台国」放射状説と同じである。

  榎一雄氏は、「伊都国」から「奴国」を経て「不弥国」に至り、「不弥
 国」から「投馬国」を経て、「邪馬台国」に至るという、連続的な読み方
 ではなく、「伊都国」を起点にして、そこから東南に行けば「奴国」、東
 に行けば「不弥国」、南に行けば「投馬国」や「邪馬台国」に至るという、
 放射状になっていると解している。
 
  首都・「邪馬台国」は、「伊都国」の南に里数を記す必要のない距離に、
 あったことになる。「投馬国」にしても、同じことが言えるのだろう。
  また、方向を示す「南」にしても、東南から西南という広い範囲で、考
 えてもかまわないと思う。

  「対馬」・「一支国」・「末盧国」・「伊都国」・「奴国」等が、現在
 でも地名を残しているので、「邪馬台国」も何らかの地名の形跡を、残し
 ているものと考えたい。

  全国道路地図でも何でも良いから、佐賀県の地図を見てもらいたい。

  「糸島郡」の南方に位置するところに、「大和町」がある。また、その
 東は隣接して「神埼郡」だ。「神埼郡」と言えば、「吉野ヶ里遺跡」の発
 掘で、知らない方は、いないはずである。

  「邪馬台国」は、筑後川流域から、少しはずれた「大和町」がその中心
 地域であったのではないだろうか。「邪馬台国」が筑後川流域か、有明海
 沿岸にあったとすれば、わざわざ陸行することなく、有明海から直接上陸
 したほうが、ずっと楽であるに決まっている。
  水行二十日のみ要する「投馬国」こそ、有明海沿岸にあったのだろう。
 有明海の佐賀県側には、諸富町や福富町といった地名が残っており、「投
 馬」は「富」の当て字ではないだろうか。

  「末盧国」から、陸行一月も要するのにも関わらず、「末盧国」から上
 陸したわけは、この時の目的地が「伊都国」であったからであろう。
  あるいは、有明海から上陸したとしても、陸行二十日を要したのかもし
 れない。佐賀県の大和は、有明海よりとはいえ、かなり内陸にあるのであ
 る。
  もうひとつ、おそらくこれが本命であろうと思われるが、「旧奴国」の
 存在が考えられる。「旧奴国」は、熊本県菊池郡が、中心地であると考え
 られるが、そこから西の有明海に面した玉名郡までも、勢力範囲であった
 と思う。つまり、「魏」の使節団が有明海より進入した場合、「旧奴国」
 の妨害を受ける可能性があったのではないだろうか。

  もっとも、「旧奴国」から仕掛けるなどとは、考えられないが、「邪馬
 台国」の使者ナガスネヒコは、「魏」にそのように説明したのかもしれな
 い。


    
3.「吉野ヶ里遺跡」とはどこの国か 
 
 
  「吉野ヶ里遺跡については、昭和九年に関係の報告書が提出され『幻の
 の大遺跡』としてすでに注目されていたことは、あまり知られていない。
  さらに、今回の発掘に相当する規模の複数の遺跡が筑紫平野に確認され
 ていることや、吉野ヶ里遺跡級の遺跡がまだまだ未発見で存在する可能性
 がひじょうに高いことも報道されていない。」
  (『歴史読本』一九八九年九月号)


  「吉野ヶ里遺跡」ばかりが注目されているが、背振山山麓から有明海に
 かけての佐賀平野には、現在までに26もの主要遺跡が調査発掘されてい
 る。そのほとんどが、神埼郡に集中しているので、同じ神埼郡にある「吉
 野ヶ里遺跡」は、単独で見るではなく、それら周囲の遺跡群と合わせて考
 えなければならない。

  一般的には、「吉野ヶ里遺跡」は、「邪馬台国」に属する小国二十六国
 のいずれかであろう、と言われているのだが。

  蛇足ではあるが、少し前までは、「邪馬台国」は、「宇佐」にあったと
 考えていた。「末廬国」から「邪馬台国」までの行程を連続的に読み、そ
 の里数だけを検証していたからである。従って、「吉野ヶ里遺跡」には、
 大した興味を抱いていなかった。
  しかし、【真説日本古代史】を執筆するにつれ、「宇佐」説は、消滅し
 ていった。「宇佐」では、他国との位置関係を考えた場合、連合国の首都
 機能を果たす位置にあり得ないからである。
  そこで、再度『魏志倭人伝』を見直すと、「至」と「到」の使い分けに
 気づき、現在に至っている。

  「吉野ヶ里遺跡」の特徴は、何と言っても、六本柱の望楼があったこと
 である。それぞれの柱を支える穴は、畳一枚ほどの大きさであり、平城京
 時代以降の規模に匹敵するという。発表されている復元図よりは、ずっと
 高い建造物だったらしい。当初は、東西の二つが確認されていたが、その
 後の調査で、四つ五つあることがわかっている。望楼は早い話が、物見櫓
 で、それが多数必要であったということは、常に戦争を想定していたと、
 いうことである。

  さらに、「吉野ヶ里遺跡」の低地の周辺には、なぜか水田跡が発見され
 ていないのである。自治権を有する独立した国であったならば、絶対に考
 えられないことである。農業生産の無い国は、人民を養っていくことなど
 不可能であるからだ。

  しかし、唯一例外が考えられる。周辺諸国から生産物を支給・支援され
 ている場合である。しかし、それでは自治権を行使することなどできない
 だろう。

  多数の望楼はあるが、生産能力のない国。これが、「吉野ヶ里遺跡」の
 実体なのである。これでは一国とは言えず、一都市である。

  回りくどい言い方はやめて、答えを急ぐが、「統一奴国」崩壊後、連合
 諸国が共立した首都・「邪馬台国」。それが、「吉野ヶ里遺跡」を南端と
 した地域ではないのだろうか。

  かつて、「吉野ヶ里遺跡」=「邪馬台国」と騒ぎ立てた、マスコミや学
 会が大嫌いで、何とか反証を探そうとしたこともあった。
  とかく、弥生時代の新たな遺跡が発掘されると、何でもかんでも「邪馬
 台国」と、騒ぎ出す傾向にあり、どうも気に入らない。

  「吉野ヶ里遺跡」近くで発掘されている「諸富町の遺跡」からは、尾張
 地方特有の土器も発掘されているのだが、ここは、「尾張氏」の支配地で
 あったとは、絶対言われないのである。もしここから、大和地方特有の発
 掘があれば、大和朝廷の支配下であった、と言われるのにもかかわらずで
 ある。 おそらく諸富町付近に、「尾張氏」の前身である「巳百木国」が
 あったのであろう。

  さらに、私見と完全に一致している事実もある。

  外濠の埋没のしかたから、「吉野ヶ里」にあった国は、三世紀中頃以降、
 突如として遷地している点だ。これは、学会で言われている公式発表であ
 る。
  「邪馬台国」は、「旧奴国」との戦争により、ほぼ壊滅状態であった。
 遷地せざるを得なかったのである。ヒミコの死が248年頃であるので、
 その後、始まった「旧奴国」との戦争は、三世紀中頃で、完全に一致して
 いる。

  そして、発掘された遺跡は、『魏志倭人伝』記されたの「邪馬台国」の
 様子を、完全に裏づけている。
  今後、「吉野ヶ里遺跡」より、「邪馬台国」に相応しい遺跡と文献が発
 見された場合を除き、「吉野ヶ里遺跡」を南端とした地域=「邪馬台国」
 であり、共立された首都であったとみなして、全然、問題が無いように思
 うが、皆さんいかがであろうか。


                        1998年10月 了