7,現実世界の位置づけ・意義

「夢の世界」と「現実の世界」(別世界)は対立するものなのだろうか?中高生と関わっていると受験指導などとの狭間で私自身も現実問題として対応が迫られる。

自分本来と実感できる世界を大切にし、本来の学習は自分を豊かにしてくれるものだと納得している子どもだからこそ、逆に現実対応で得点力を安定させるための反復練習や暗記学習などにはなかなか興味を示さない。また様々な人間関係のトラブルに嫌気がさして、現実の世界から夢の世界へ逃避したいという願望にこり固まってしまうこともある。


 さらにこのところの政治・社会・国同士の様々な問題に見え隠れする人間の身勝手な姿によって、一度は大きな夢を描いていた子どもほど絶望感・無力感が強烈に心を支配してしまう。

 そうした自分の存在意義までも脅かす様な不安定な状態は先に引用した折口博士の「 宿った瞬間から、そのたましひの持つだけの威力を、宿られた人が持つ事になる。又、これが、その身體から遊離し去ると、それに伴ふ威力も落としてしまふ事になる。」という言い方に該当しよう。


 思い通りにならない現実世界そのものを自分との関わりで位置づけ意義を見いだしてもらう事の必要性を痛感していた。


そんな平成14年11月、大学1年になり群馬で下宿中のまゆみ2002さんからこんなメールがきた。

「最近自分の一生やりたい事や卒論の題材などをよく考えるんですけど…自分は変身、あとは移動する事又は移動時間が好きな事に気がつきました。この3つ何か関連ありますかね?」

そこでこの3つが世界定めの軸と関わる事や「かぶき十話」で上原先生もトランスフォーメーションの説明に子ども達の間でかつて流行した「へんしん」の言葉を取り上げている事などを返信した。

 それをきっかけに現在の教え子たちに「変身」についての意識を問うてみた。題材にしたのは三十年近くたった今なおシリーズが続いている変身ブームの先駆けである「仮面ライダー」と、輪廻転生を扱いながら幼児にも受け入れられている「セーラームーン」である。

上原先生は庶民のイメージでつくられたものであるから歌舞伎を心意伝承の素材とされた。それと同様の感覚でこの二つの番組は子どもたちにとっての普遍性に接触しうるのではないかと考えたのである。

実際、いろいろな子ども達とのやりとりの中ではっきりと浮かび上がってきたのが「本地垂迹」「犠牲」「貴種流離」などに関わる意識であった。こうした発想が自然にわき上がってくるところが興味深い。

セーラームーンに関して
☆スナップ20 中3男子
 ゲームボーイ「(本当の自分である魂が)人の上に乗っかっている・・・人間を媒介にしているんだよ」(折口博士の「日本人の霊魂観」にも関わる発言である。)

また数メートルの長さにつないだ自作の歴史年表の途中に書き込んでいる時に、巻いてある上下を指しながら

 ゲームボーイ「こっちが前世で、こっちが来世。そんでもって、ここに見えている所が現世なんだ。」

(日本の絵巻物は、知らず知らずのうちにそうした時間性のイメージを作り上げている事がわかる。生活様式や習慣もすべて同様に「らしさ」の形成につながる。)

 仮面ライダーに関して「仮面ライダーの正体が本郷猛なのか?本郷猛の正体が仮面ライダーなのか?」との質問に
 
☆スナップ21  中3男子
アントラーズ「仮面ライダーが正体だと思う。・・運命が受け継がれたんじゃないの?・・・命に出会う・・・違った自分なんだけど、でもこっちが正体なんだ」


☆スナップ22  高1男子
怪力バード「無理矢理させられたんだから、本郷猛の方が正体」


 この「無理矢理」という話を受けてねこ娘さんは「災難」と「使命」の関係に話が進めた。セーラームーンも最初は悪と戦う使命をおびた事を災難だと捉えている。ウルトラマンも主人公は事故にあって命を失う事がきっかけで特殊能力を得て常人ではできない使命を担うという話題になった。そして最終的に至った事は

☆スナップ23 高2
ねこ娘「イエスキリストもそうですよね」

ということであった。

変身ヒーローとキリストを同一に論じるのは不謹慎だが、ここに現れているのは上原先生の言うところの「犠牲論」である。先生の言葉をいくつか挙げておく。(日本教育史特殊講義録より)

*犠牲・生け贄は同時に神の乗り移った神格を表わすもの。そこに身替わりという発想が生まれる。私が彼の身替わりになるっていうのは私と彼が同格にならなければ身替わりにはなれないんですよ。それが神人交感っていうことなんですよ。

*私の言うところの犠牲者とは、つまり神への生け贄たりうる人間であるということですよ。原爆で焼け死んだから犠牲者だ、という意味ではないんですよ。神に召される、つまりマークされた人間であるということですね。

*恨みとは「裏見」だったんですよ。そして裏を見るというのは心をみることなんです。表面じゃわからない、心を見るのが裏見だったんです。そしてその恨み(裏見)出来る資格として犠牲者とならなければならなかった。犠牲者となり得た時に恨み(裏見)する条件が整ったというふうに解いたわけです。そういう約束がどうあるように思われる。

 これをもっと広げても案外通用する。つまり日本の芸能なんかはだいたいこの形をとっている。極めて苦難をするわけです。苦行をするわけですね。苦行修行しなければ悟りは開けない。で、悟りを開いたら何が出来るかというとそれは「裏見」ができたということなんです。別の言葉で言えば身を責められる。そしてついにそれは犠牲となってしまう。

(注)先生は「心意伝承の研究」の中でこの「裏見」の力を「特殊洞察能力」とも呼んでいるが、これは先ほどから述べてきている「実感する能力」とも通じている。

子どもたちに即して考えれば、先述したような「内面が豊かだからこそ受難」という事や、普通の子が単純に見過ごしたり軽く受け流したりしてしまうような事でも深く捉えてしまうからこそ逆にストレスやトラブルを呼び込んでしまう形になってしまう事がこの先生の言葉に当てはまるだろう。


 
 高1りさプーさんと話し合っていた時に出てきたのが「何故古代月世界のプリンセスの生まれ変わりである主人公の月野うさぎがドジで勉強が苦手で泣き虫で・・・という設定にされたのか」という事だった。

およそセーラー戦士のリーダーなどという格の高い魂の入れ物とはなりそうもない人物として描かれているのである。(昔話に登場する特殊能力を持った子供が見た目には逆の姿というパターンを日本人が持っていることは柳田國男も「桃太郎の誕生」などで指摘している)

 こう設定する事に作者が深い意図をもって考えていたことは原作に月の女王のセリフとして
「あなたしかいないの!幻の銀水晶の真の力を使ってあれを封印できるのはプリンセス!あなただけなの!・・・プリンセスであり正義の戦士セーラームーンであることに誇りと自信をどうかもって。

そして忘れないで・・あなたがひとりの女の子であるということも。あなたが生まれ変わった本当の意味もそこにあるのだから」
とあることからもわかる。

高貴な魂が乗り移るものだから人間離れした神聖な生活を心がけなさい、と言っているのではないのである。ごくありふれた生活を大切にと設定されている。をそれは何故か?



 こうした課題が出てきた矢先の事である。かつて教え子だった聖良さん(高1)が火事に巻き込まれて亡くなってしまった。そしてその事をきっかけに個々人が「悩みや苦しみばかりの人生の中で使命と出会い生きがいを見いだす」視点からの真剣な形での意見のやりとりとなった。

世界定めの話は、ややもすると「見方考え方をどうかえればいいのか」を知的な操作方法として受け止められがちである。それが「日々の生活での体験を通して追求していく」という方向で本音を交えての語り合いになったのである。



 やがてそれは「貴種流離」と「犠牲論」を結びつけていく発想につながっていったのだが、話が深まった分、それぞれの子どもたちにとってさしさわりのある内容もあるので今ここでそのやりとりを紹介することはできない。次にあげる「心意伝承の研究」からの抜粋でどんな話題が展開していったのか察して頂ければ幸いである。

*「貴種流離」とは折口説の卓越したイメージパターンの指摘であった。貴種は死なない。衰亡流離はあっても絶命はなかったことをも意味していたのだと今になって思う。博士は一方「一家系を先祖以来一人格」の思想を明らかにされたがそれはおそらく貴種流離の心象風景を生む基礎であったのかもしれない。


*貴種流離の残像は、寵童の故に逆境に流浪する運命へと誘うのではなかったろうか。・・・その終局面こそ、人の世に苦悩する人間が神仏への昇華の時間・・・


*(本地物語の発想について)人間界を神仏の前世として捉えている意識があり、輪廻転生の本地としてこの世を観る立場は厳然としている。従って主人公への危害の増大は、より威力ある神仏への転生を約束する代償の確認であった筈である。


日本神話では貴種流離の型が多く登場する。それを古事記研究をライフワークとしている私の父は貴種と限定せずにすべての人々に適応して考えている。

神話が生きていた頃の「失敗や苦難を通過する(「くらげなす漂える時」「黄泉の国」を通過する)事が真実の自分に目覚める道。その喜びを得られる様に神様は思い通りにならない現象世界を創造された。」という常識が復活することで、「失敗だらけの自分はダメな人間だ」「自分には勉強にも運動にも才能がない」「恵まれた環境にいない」と絶望している今の子ども達がどれだけ救われるか、と繰り返し訴えている。

(注 別に無理矢理苦難に満ちた生活を送らなければならないと説いているわけではない) 



実際にこの一ヶ月あまりのやりとりを経て「どうして自分ってこうなんだろう・・・」と自己否定に陥っていた多くの子が失敗だらけだった今までを自然に受け止められるようになってきた。

歌舞伎ではないが「いまの自分は世を忍ぶ仮の姿」と納得し、こんな現実の中でも時期が来れば本当の自分を発揮してやるぞ、という気持ちに変化しつつあることを本人達も自覚している。



*この点で「心意伝承の研究」の「助六の紙子と鉢巻きと」という章に述べられている事は特に人間関係で自分の不遇を嘆く現代人には大切な示唆を与えている。

「・・・助六実は曽我五郎というのは逆転しているのであって、曽我五郎が助六に憑依するのが本来でなくてはならなかった。・・・曽我五郎が霊的存在であるから助六に憑依する。

・・・助六は(敵役の意休からの)屈辱に耐えた。むしろ、屈辱に耐え抜いたから紙子の自縛が解けたように破れたとすべきなのである。つまり屈辱に耐えるべき時間は満期満了したのである。

・・・意休は助六の物忌みの執行人であった。・・・意休はこのとき、意休の格以上の白髪の翁(神格)に飛躍していたのである。助六に曽我五郎の霊を付与する権能者であったということである。」


この中にある「意休は物忌みの執行人であった。・・・霊を付与する機能者であった」「耐えるべき時間は満期満了」という視点も現代の教育が忘れた視点ではないだろうか。失敗も困難もないのがいい、すぐに形が整うことが優れた教育方法・・・とする風潮は危険である。


 まして学校のみならず国際社会も邪魔者はいなくなればいいという論理がまかり通っている現代である。無法を無条件に許すわけではないが、敵さえも自分を高める糧とする古の姿勢には学ぶべき点がある。(これと同様の事は聖書も説いている)そうした和合の実現には「時期をじっくりと待つ」必要もある。「待つ事の意義」を忘れてはならない。

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