6,生命の指標(らいふ・いんできす)

折口博士は生命の指標(らいふ・いんできす)と古代日本人の霊魂観の関連についてこう述べている。

「我々の古代人は、近代に於いて考へられた様に、たましひは、肉體内に常在して居るものだとは思って居なかった様である。少なくとも肉體は、たましひの一時的假りの宿りだと考へて居たのは事実だと言へる。

・・・人間のたましひは、いつでも、外からやって來て肉體に宿ると考へて居た。そして、その宿った瞬間から、そのたましひの持つだけの威力を、宿られた人が持つ事になる。又、これが、その身體から遊離し去ると、それに伴ふ威力も落としてしまふ事になる。」

そして「たましひの純化」という章にこう続く。

「とにかく、所謂生命の指標(Life Index)と謂われて居るものは、我が國の原始信仰に於ては、とうてむであり、同時に、外來魂の常在所といふ事になるのである。これが、~道時代に這入ると、最平凡に考へられて、所謂~集るところなる高天原の信仰になつたのである。」(昭和六年「原始信仰」全集二十巻)


 折口信夫事典(大修館書店)によれば折口博士はこの生命の指標(らいふ・いんできす)の語句を元々の意味よりもかなり拡張して用いていたという。

基本は「外来の魂が宿った物」とされるが、「咒詞や枕詞に神が宿る」「神の言葉のエッセンス」という様な意味でも用いていたという。

そして伊藤好英によれば「枕言(ライフ=インデキス)に宿った外来の霊魂を貴人に取り憑けることであった。枕言を聞かせることによって、貴人の魂が成長する。

これは本縁譚に関しても同様で、ライフ=インデキスたる歌または諺にまつわる物語を奏することによって、物語に籠もっている大事な魂が貴人に付く。そこにはおのずから教育的意義も生まれてくる。そのような方法による貴人の教育を、折口は感染教育と呼んだ」とある。


 ここでいう貴人とは現実的に身分の高い人物というわけではなかろう。折口学の貴種流離の点から言えば、貴い魂が現実の世では落ちぶれている仮の姿を現わしている事もあるからである。

貴人と称されるか否かの基準は先述した「実感」の能力であろう。それは様々な事物に宿っている神の意志を感じ取れる能力、さらには後述する犠牲論での「恨み(裏見)という特殊洞察」ができる能力に関わるためである。

*ちなみに私が学生時代に卒論で取り組んだのは幼稚園の創始者であるドイツの教育学者フレーベルだったのだが、彼の「万有内在神論」に基づく教育原理と折口博士の教育観には通じるものがあるように思う。フレーベルも万物に宿っている神性と子どもたちに宿っている神性との交感を通じて人間性を高めようと考えた。
 
 しかし現代においては折口博士のような「魂の入れ替わり」を教育の発想に直接持ち込む事には抵抗もあろう。それを「魂」という事を持ち込まずに教育学として扱えるようにするため、上原先生は「構えの変革」「世界定め」「トランスフォーメーション」などということを盛んに問題にしていたのであろうと私は考えている。

軸の設定が変容した時に自分を取り巻く世界がそれまでとは違って感じられる。それを古代人は「自分の魂が入れ替わった」と感じ取ったのであろう。

こうした軸の設定の主体者は一人一人の人間それ自身である。そして目指す世界への羅針盤も地図も心意伝承によって生まれながらにして無意識の世界に持っている。ただそれは無意識の奥底にあるのでその存在すらなかなか自覚されない。

我々はそれを知識ではなく生活を通して意識的に感覚を磨きながら掘り起こしていかなければならない。それがやがて「自分の生きる道を見つけた!」という実感へ結びつくのである。

「心意伝承の研究」折口信夫の場合、はこう結んである。「・・・博士は柳田の直門としてこの実感を、鋭敏に、痛切に起していく。つまり、柳田以上に、心意伝承を体に聞こうとしたといえる。天禀以上に、ということばがそれをよくあらわしていると思うのである。」


 そうしたことを私は「生命の指標(らいふ・いんできす)は我が内にあり」としたのである。「神性と野性」も言い換えれば「神性は心意伝承によって生得的に持っている生命の指標」であり「野性は我が内なる世界に突き進んでいこうとする生命力」となろう。


 上原先生は
「上原は心意伝承研究の一方で子どもの研究をやっている、と言われる事があるが別々の事をしていたわけではない。同じ事をつかまえようとしているんだよ。子どもはまだ大人ほど現実に無意識世界が汚染されていないからね。子どもは何でも知っているんだよ。」とよく話されていた。

この言葉は単に教師や親だけが受け止めるべき言葉ではない。未来への方向を見失っている人類すべてが考え直さなければならない言葉である。


*昭和二十六年「神道」で博士は次のような言い方もしている。
「古代における生活の指標(らいふ・いんでつくす)が、その後、長く知識として傳つて來たもの、つまり古代においては知識であり、生活の指標であったが、それを目指して總ての人間がいきてゐた。それに人格的な内容を與えれば、~の心であり、~の教へであると言ふ様に考へて生きてゐたが・・・」(全集二十巻)

こちらの訳や説明の方が現代の教育論にはなじみやすいかもしれない。なお、常に実感を強調されている博士がここで「知識」と記述している事が我々が通常用いている「知識」と同義であるのかは注意を要する。

*心意伝承とユングの「集合的無意識」や「元型」との接点については上原先生も「心意伝承の研究」で簡単に触れられている。



*この報告文の原稿を書き上げて数ヶ月後の事なのだが「心意伝承の学としての定位-稚児の研究への布石-」という國學院大學「日本民族研究体系 第八巻 心意伝承」に上原先生が総論として執筆した論文があるのを知り初めて読んだ。先生のもう一人の師である郡司正勝先生を引用した部分があったのでここで紹介を加えておきたい。


「稚児の研究を進めている途中、最近、郡司正勝の 童子考 が出版された。・・・郡司がこの書をどのような意図で著したかについては、そのあとがきでも明らかである。・・・「どこかで、サインが送られているのではないか、どこかに記号が付けられてあるのではなかろうかという旅である。こうした冥界からの発信を装った民意の底に沈んでいる記号を、もし読みとることができたらという、地名のない巡礼回国の旅に似ていないこともない。」と。」

(「童子考」は郡司正勝刪定集第六巻 上原先生が解題を執筆)
後半になると今回の報告文と直接関わる内容が詳しく書かれていて「臆せずにいうなら、稚児に神霊を観ているといってもよいのかもしれない。そういう意味からでも、折口の「生命の指標(らいふ・いんできす)」という仮説の中に稚児は取り扱われるべきものだと思うのである。」などの記述がみられる。
 
 5節で「子ども達の復活のカギとしての心意伝承」と書いたが、これが単に学校に適応するための動機付けの手段として取り上げたわけではない事は言うまでもない。究極の目的は自分の生きる方向そのものの羅針盤的働きをするものが生得的に自分の中にあることを自覚してもらう事にある。

平成十四年度に児言態では「身近にある神秘な場所に注目し、ふるさとの心を語る」という内容の研究授業を行った。(雑誌16号 P、96)

現代では迷信とされるような生活習慣を残しているふるさとや、そんな地域で育った自分に劣等感を抱かないようにという狙いもあった。それは無意識に伝承されてきている生命の指標さえも封印することになるからである。それに関してこの授業を参観された広島大学の難波先生はこんな事を評している。

「・・・あの教室が学校という封印から解かれ、タブーという封印かた解かれ、いろいろな封印が解かれてああなったんだと。逆に言うと私たちはそういう様々な封印の中に生きているんだと。

だからこそこういう授業がなぜ必要なのか。この内野の子ども達はこの授業がなくても伝統の中に生きているし・・・。

でも何故この授業をしなきゃいけないのか。それはそうじゃない社会があるからなんですよ。そこに行かなきゃだめだからなんですよ。」


 今私が教えている子ども達がいる地域にも伝統が根強く残っている。そこでそうでない社会に出ることに備えるために個々に語ってもらった。そのうちの一つが次である。

☆スナップ16 平成十四年度 中3
ドラヤキアイス「蔵が怖い場所だな。出てきそう。あそこはヘビがいるんだよ。妖怪も・・・見たことはないけど。

・・・あとね・・・あっちからこっちに来る時通る十畳の部屋が何かくるんだよ。ゾッとする。・・・こっちは安心する部屋。向こうは(勉強部屋や寝室があるのに)安心しない。あっちは建てたばっかりだから。前の台所をつぶして出来たから。・・・イメージとして残ってる。見てたから、つぶすところを。なんか可愛そうで。」

内野小学校の子に「古い祠は壊したら」と問うてみた事を話すと
ドラヤキアイス「絶対ダメ!壊したらダメだよ。ダメダメダメ!うちもダメって言われているから。祠じゃないけど。・・・井戸。あっちにあるんですよ。あれは絶対に壊しちゃいけないって言われているんです。水の神様がいるから。」

たぬき「もしずっと後の子孫がそれを壊そうとしたら?」

ドラヤキアイス「絶対出てくるね!前の日の夜に出てきて怒る。自分は何代前にここに住んでいた誰誰だ!って言ってから怒る。」

たぬき「ちゃんと名乗りをあげてから語るんだ。あの世からきて名乗りをあげてから何か現世の人に伝えるっていうのは能の形によくあるんだよ」
ドラヤキアイス「えー?そうなんですか!(と嬉しそう)」

 現在のメンバーの中で「生命の指標」が自分の中にあることを最も意識して生活しているのが高2のねこ娘さんである。彼女が高1の時に語ってくれた小学校時代の思い出をまず紹介したい。

☆スナップ17 平成十三年度 高1
ねこ娘「雨が降った次の日あたりにとか映るじゃないですか、水溜まりの中に空が・・・ちっちゃい頃天空の城ラピュタとか見たから・・・で、水溜まりを見た時に自分のこの世界でその雲を見た時にはラピュタは見えないかもしれないけど、この水溜まりの中の雲だったらラピュタがあるのかなーみたいなことも考えていたりして・・。

何かね、違う世界がありそうだって。で、なんか入れそうだなーなんて思って、そーっとさぁ、足を水溜まりに入れてみたけど何も起こらなかった。あの、その世界に入るって言うか落ちるっていう感じ?空に落ちるっていう感じがあって、あー本当におっこちたら怖いなー、って思ってたんだけど、ちょっと期待があってドキドキして踏み入れたんだけどなんにもなかった。」

 こうした事を小学校一年の頃から六年生くらいになるまでいつも感じていながら水溜まりを見たり足を入れたりしていたのだという。

 このことからねこ娘さんはたとえ現実にどうなるのかが頭でわかっていても内なるイメージの誘いがあれば素直に従い、その純粋な夢の世界で楽しめる子どもだったということがわかる。そんな別世界と自由に行き来できていたねこ娘さんだからこそ高校生になった現在、次のような言葉が出てくるのだろう。

☆スナップ18 平成十四年度 高2
ねこ娘「私の中には振り子があるんですよ。現実的にいま風の女子高生っぽくしたいなーっていう気持ちや、勉強なんかどうでもいいって気持ちに流されそうになることがあっても、そうなると振り子がこっちに戻ってきて勉強が面白いって思ったり、将来のことをきちんと考えようって思うんです。」

こうしてみると先述した「ぼけとつっこみ」の授業も単に言葉に伴う意識の違いや「言葉のやりとりを工夫する」と銘打った授業テーマ以上に、そうした工夫を通して「別世界と現実世界を自由に交流できる」力を高める側面こそが重要だったのだと気づかされる。

別世界との交流がうまくいかなくなると人間は自分を見失う。現実世界だけに留まれば内なる「生命の指標」とは出会えずに現実に振り回された生き方になる。逆に別世界に逃げ込んだきりになると「ひきこもり」や、夢と現実の区別を失った問題行動・犯罪行為などを引き起こす。

 上手に交流できれば生き方の指針や現実の困難を乗り越える力も与えてくれる。それは別世界を通過することで世界定めの軸の設定が変化するためである。

☆スナップ19
戦争をモチーフにしたアニメ「対馬丸 さようなら沖縄」と「うしろの正面だあれ」を見比べて監督の意図を話し合った。

対馬丸は最後に友や父を失った主人公が墓の前で母と泣いている場面で終わる。

うしろの正面は焼け跡で死んだ家族の幻と出会った後、歩き出したところで終わる。(小6四名 中2五名)そこで出た言葉より

小6男子「最後の再会・・・空想でお母さんたちが見えた所で、生きる希望がわいてきてよかったなって」

中2女子「(涙がとまらずの状態で)・・・あの、お母さんたちがきて私も連れてって、って言ったところがジーンときたんですけど・・・・そこでお母さんとか家族のみんなに言葉を言われてかよ子が橋を渡っている時に強そうな顔をして、お兄さんをみつけるんだって言ってたから、かよ子は甘えん坊だったけど強い子だったんだなって。」

たぬき「対馬丸のあのきよしはこれからどう生きていくと思う?あのラストから考えて」

中2女子「罪悪感とか・・。自分が死んじゃうのを恐れて、みんなが死んだことを誰にも言わなかったから。一人だけ生き延びちゃったし」

中2女子「いつまでクヨクヨしてしまうかわからないけど・・・うしろの正面みたいにすぐは立ち直れないでひきずってしまうと思う。」

(本誌授業記録「はまべのいす」の児童の発表に夢を見て入院生活が変容するというイマジネーションの例があるが、これも同様の例といえよう。)
 

 うしろの正面の主人公は「家族の幻」と会った後に橋を渡っていくという事から未来に向かっての意識の転換をすることができたが、対馬丸は現実的な悲劇のまま終わったから、その意識は変わらないままではないか、という風にそれぞれ感じ取っていた。なお橋に関しては本誌掲載の論文を参照されたい。

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