4,内面が豊かな子どもほど受難の時代

ここで自分の世界を持ち続ける事に大きくなってもこだわっているまゆみ2002さんのスナップを二つあげてみる。

☆スナップ10 平成十年度 中3時
5歳児の頃、池に落ちた思い出を話してくれた。

まゆみ2002「庭に池があったんですよ。ある時庭で遊んでいたらチョウチョを見つけたんですよね。それでちょうちょを追いかけて、ハッと気が付いたら周りの世界がパッと変わって・・・分かります?パッと周囲が変わってしまったんですよ!

そうしたら目の前に鯉がいてパッと目があったんです。それっきり何も覚えて無くて、気が付いたらお風呂場でたらいの中に入れられていたんですよ。」

この話を本人が失敗談とか恥ずかしい経験というような価値判断を伴わせずに楽しそうに話していた事を付け加えていおきたい。

この姿勢は子ども本来のたくましさの源である「マイナスイメージをプラスのイメージで包み込んで心にしまう」作用を描いていると上原先生が評していた千葉省三の「たかのす取り」に登場する子ども達にも通じている。これも「野性」の一種ではないだろうか。

☆スナップ11 平成十三年度 高3時
携帯電話を持ってはいるがほとんど家に置きっぱなしでメールのやりとりもしないというまゆみ2002さん。わけを聞くと

まゆみ2002「だって邪魔じゃないですか。例えば私はライブに行くときは電車に乗っている時からライブを楽しみに行くっていう夢の気分でいるんですよ。それなのにそんな時に誰かから電話がかかってきたら現実に引き戻されちゃうじゃないですか!私、そんなの嫌なんです!」

こうしたまゆみ2002さんの様に徹底して自分の世界を自分で守ろうとしている子どもは私の周囲ではあまりみられない。

むしろ例えば家庭教師の授業をしていても追い立てられるようにメールを頻繁にやりとりしている子は中学生でもみられる。「後でいいじゃない」と言っても「すぐに返事をしないと相手にされなくなる」ということを盛んに心配している。

 いじめによる仲間はずれは例外として、現代の社会では一人で静かにいる事を否定的に考えすぎていないだろうか。上原先生は「籠もるっていうのは中に入ってジーッと内部生命を温存していこうということだ」と話していたが、帰宅してからも常に携帯が音を発している状況では自分の内面をじっくりと見つめるヒマはなかろう。


☆スナップ12  平成十三年度 中2
 便りの特集に書いた金八先生の主題歌スタートラインの歌詞に『1人ぼっちになるためのスタートライン』とあることについて。

ゆでたまご「ひとりぼっちになってみるのもいいんじゃない?自分の事だけ先ず考えられるから。そうすれば自分の事もよくわかるようになるし、自分が好きになれる。マア嫌いなところも出てくるだろうけれど長所と短所とどっちもよくわかるようになるし・・。」

 3番の『闇に向かって走りだすためのスタートライン』も問う。

ゆでたまご「・・・明るい夢だけだと目標がなくなるんじゃない?やりたいことを見失うっていうか・・・やりたいことができなくなる。・・・暗い方も分かっておきたい。(そして笑いながら)明るいだけじゃつまらない。夜がなくて星が見えないじゃん!」

*ちなみにこの子は天体写真などを撮るのが大好きな子である。このスナップには後述する「生命の指標」に関する言葉もみてとれる。


 児言態では以前「夢」と「現実」の意識が中学年の頃にひっくり返り、それが「ぼけとつっこみ」という形で子ども達のやりとりの中に出てくるという事を扱った。(「国語の授業はこうするU」)

そこでも触れたが、中学年以降でも夢の世界を主体にして生き続ける子どもは自由自在に現実的な会話も使い分けられれば「おとぼけ上手」として受け入れられようが、夢の世界に忠実な子どもほど一つ間違えると変わり者扱いされてしまう場合が多い。

☆スナップ13 平成十三年度 中2女子
一家そろって宮崎アニメが大好きなドラヤキアイスさんの最近の悩みは級友が芸能界やファッションの話題ばかりになったこと。

ドラヤキアイス「私、まわりから浮いた感じなんです。別に仲間はずれにされてるわけじゃないんだけど話に入れなくて・・・。みんなも芸能人とかに興味がないなんて変だ、変だって言うんですよ。先生・・・私ってやっぱりおかしいですかね・・・・」

ドラヤキアイスさんもまゆみ2002さんの様に「私はこうなの」と自然に振る舞えれば悩む事はないのだが、実際には「自分が変なのかな」と悩む子どもの方が今の日本では多いようである。(気にしない子は極端に傍若無人になりがちでもあるが・・・)

 小学校の高学年頃までに「気分のまま発せられる言葉」と「意識して操られながら発せられる言葉」の二通りがあること、さらに頭の使い方にも感情思考・イメージ思考・論理思考などがあることに気づかないでいると学習面にも目立って影響が出てくる事が多い。

☆スナップ14 平成十一年度 中2女子
理科の化学変化の単元でつまづいている。酸化の説明をしているときに「物が燃える時に何が必要だい?」と問うと
「マッチ?」


この子は大まじめである。しかし実感に素直な生活感情の世界に住んでいる為に、理科の学習につまづいた。

もしこれが学校の教室だったらどうなっていただろうか。ひょっとすると実感から発した言葉が級友の爆笑と共に否定された事によって強烈な劣等感を刻印してしまったかもしれない。先生もこの子の意識世界を整理してやる事なしに、時間内に授業を進めることを優先し「何を馬鹿なこと言っているんだ」で済ませてしまう事も大いに予想される。

 現在そんな中高生に対して児言態風の授業を必要に応じて入れているが反応は上々である。中高生だからこそ小学生よりもそうした授業の意義をすぐに実感してくれる。ただそれがそのまま日々の学習に反映するかどうかには個人差がある。それは本人の問題というよりも、その子を取り巻く人的環境によることが多い。


*こうした学習上の「齟齬」の問題については「内在価値を感じさせる国語教育の根幹」(山形大学小川雅子著 渓水社)に詳しいので参照されたい。



子どもたちの受難に追い打ちをかけているのが「絶対評価」の導入である。そもそも内面や根元に触れる部分ほど目に見える形で数値化し評価するのは無理な話である。そのためますますテストの数値をアップさせるために形式的に教え込む授業が横行しているのが現状ではないだろうか。

まして教師の能力まで子どもたちの数値目標の達成度で測るような事をすれば、ますます内面に目を向けた指導は行われなくなる危険がある。

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