3,自分の内面を捉え掘り下げる「実感」の能力

上原先生はこれらの座標軸についてこうも言っている。

「イメージの確定の仕方には何通りもある。時間・空間・人間(ジンカン)を確定することがイメージ力のもとだ」(平成六年十一月)

受験をはじめとして様々な壁にぶつかる中高生にとって「生きる力」を高める必要は多くの人が述べている。私はその力の根元こそがここで言う「イメージ力」と考え、その復元・増強を目標にして日々子ども達と接している。

イメージ力が高まりさえすれば案外子ども達は細かく大人が関わらなくとも自分の生きる方向を見いだすし、成績だってひとりでに伸びていく。これはイメージ力の高まりが自分の内面に向かえばそれが野性の高まりとなり、自己の内なる神性と巡り合わせるからとも言える。


この前提になるのが三つの軸を自分なりに確定することだと上原先生は指摘しているが、その基礎力として当然不可欠となるのが「自分の内面を捉える力」である。しかしこの力に関しては危機的な状況にあると年々感じている。


☆スナップ7 平成九年度 中1女子
この仕事を始めた頃にあった六人一緒の時間の初回。国語などは得意と自負していた彼女たちだったが

たぬき「優越感とか劣等感って言葉、知ってるだろ?」

「えー、そんなの聞いたことないよ。授業でもやったことない。」

たぬき「じゃあどんな意味だと思う?漢字から考えてみてよ。」

「そんなのわかんないよー。習ったことないもん。」



☆スナップ8 平成十二年度 中3男子
たぬき「心の中や気持ちを表す時に使う言葉にどんなのがある?」
「・・・・・そんな言葉あんのけ?」

たぬき「いつも使ってるじゃないか。学校の悪口を言う時だって」

「え?オレも使ってる?もしかしてムカツクとかキレルとか?」

 この二つのスナップは決して特殊な例ではない。中三や高校生になっても「優越感・劣等感」という語句を知らない子、また知っていてもそれを使って自分の心を説明できない子は予想以上に多い。

「心や気持ちを表す言葉」と問いかけられて「それ、何?」と首を傾げてしまう子も決して少なくない。また挙げることができたとしても語彙の数が極めて少ない。

「例えばこんな言葉もそうだよ」と示せば「なーんだ、それも!」と言うが、結局感情用語としてきちんと意識化されていないのである。



これは優越感や劣等感という言葉を指導要領で教える事になっているとかいないとかの問題ではない。

例えば優劣の意識は幼少の頃から中高生の時期にかけて最も人間を振り回す意識ではないか。そんな自分の精神状態を捉え整理し自己制御していくよりどころとなる言葉が獲得されない国語教育にどれだけの意味があろう。

 ましてや母国語習得過程のまっただ中にある幼児期から早期英語教育などが施されなどすれば、今後さらに自分の内面への感覚の欠如した若者が続出しよう。

ちなみにその危機について上原先生は「言語混血児を作ってどうするのか!」と訴えていた。母国語習得が日本人としての感情を整える事とどう関連するのかも先に紹介した「感情教育論」に詳しい。



そんな現状がわかっていながら、家庭教師としての限られた時間はどうしても数学や英語の指導に奪われてしまう。頭では「受験勉強だから」と分かっていても私も子ども達も何か満たされない思いがあった。

今年(平成十四年度)は自分の内面にウソをつけないタイプの子ども達が特に多かったので十二月になって中3を中心に優越感・劣等感の授業を行った。どの家の子も最初は考える視点が定まらずにとまどっていたが、自分や周囲の友達の言動と結びついて考えるようになると堰を切ったように活発に意見を出し始めた。


☆スナップ9  平成十四年度 中3
 この十月からゆでたまごさんと共に学ぶようになったバドさん、ちょうど内申書にからむ時期からだったので私の授業も毎回数学や理科を中心に普通の家庭教師っぽくなっていた。

私が現れると「今日もまたか・・・」と疲れた表情で無言になっている事が目立っていた。冬休みになり初めて国語で感情を行うと二人とも大いに盛り上がり

「アー、何か今日は充実しているな!」

と盛んに連発。その後の物語文の読解問題も調子よく出来た。

たぬき「何か、いつもは充実してない授業をしているみだいだな」

バド「そうは言っていないけど・・・・」(と笑ってごまかす)

バドさんが帰宅後、ゆでたまごさんが教えてくれた。

ゆでたまご「あのさ、先生がちょっといなくなった時、こんなに充実したの初めて、って言ってたんだよ。」

そしてさらにしっかりとした口調で語ってくれた。

「私もちょっとここんとこ机に向かっても勉強するのが辛くなってたんだけど今日は充実した。明日からまたちゃんとできそう」

受験の追い込みになって私自身がつい現実に追われると子ども達の顔から充実した笑顔が消える。

決して受験勉強という現実から逃げるわけではないが、こうした状態では子ども達はますます追いつめられて結局は進歩が滞るばかりでなく生きる気力そのものが低下する。

みんな自分の内面を知りたがっている。それが知的作業ではなく「実感」を伴えば伴うほどこの例の様に「新しい自分と出会えた喜び」のような気持ちを抱く。上原先生の言葉にあった「イメージ力のもと」というのを再確認できた。


自分の内面を振り返る上でもう一つ注意しなければならないのが「これが自分だ」と思っているものが本当に自分の心の中からわき上がってきたものなのか、他人や社会によって汚染されたものであったり借り物であったりしていないかという問題である。

そんなニセモノの内面を自分の本音と勘違いして三つの軸を確定させたとしても、それは真のイメージ力や後述する「生命の指標」ともなり得ない。

だから「今思っている自分が本当の自分の気持ちだとは限らないんだよ」と常に本音の点検をするように子ども達には話している。


*上原輝男著 「心意伝承の研究 芸能編」(桜楓社)の序章は 「実感実証の学として」となっている。

中でも今述べた事と関連が深いのが「折口信夫の場合 五」の部分であり、折口博士の
「だから、まず正しい実感を、鋭敏に、痛切に起こす素地を-天禀以上に-作らねばならぬ。而も、機会ある毎に、此能力を馴らして置く事が肝腎である。」

という言葉も紹介している。

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