1,神と交わる子ども
始めに断っておくが、本研究会の主宰でもあった上原輝男先生が民俗学の観点から教育の問題を追求してきた関係上、この項目名のように神に関わる言葉が登場するが、それはある特定の宗教のいう神を指しているわけではないし、まして児言態の会員が復古主義的な教育を目指しているからでもない。
子どもが自然な気持ちで純粋に言葉を表出するほど「神」や「あの世」など神秘な世界と関わる内容が登場してくる。
そうした事は、日本各地でいまだに残る習慣や伝統行事をみても分かる通り、日本人として自然な姿である。
児言態(児童の言語生態研究会)は子どもたちの純粋な生態・生き様を基本にすえて教育を考えている。そのためにこの歴史と風土の中で成長していく子どもたちの教育を考える上で「神性」を真正面から取り上げることが不可欠なのだと考えている。
児言態の神のとらえ方で一番誤解が少ないのは「となりのトトロ」「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」などのアニメ映画で宮崎駿監督が扱っている感覚である。宮崎アニメを観ている時の子どもたちの目の輝きは「神性」と「野性」からくるものと言えよう。
同様に「日本人らしさ」などの言葉も他の民族を排他的に考えて使っているのではない。「子どもの生態」をつかまえようとしていくと、どうしても「日本人らしさ」と括って捉えた方が整理しやすいある種の偏向性が生得的に認められるためである。
*このあたりの事を上原先生は「感情教育論」(昭和五八年学陽書房)で詳しく述べている。
さて児童後の子ども達と副題につけておきながら最初の事例は三歳児のデジモン君である。当時中2だったお姉さんを教えた縁で子守役を何度もさせて頂いた子どもである。
☆スナップ1 平成十二年度 3歳男子
デジモン君の両親やお兄さんたちと香取神宮に参拝した時のこと。はじめに利根川の河川敷にある大鳥居に案内した。
そこからの眺めを味わった後、奥の宮に出発しようとしたら、いつもはお母さんから離れずにいようとするデジモン君がお母さんの手を振りきって大鳥居前の階段に戻っていった。
そしてジーッと川向こうを見つめている。「もう行くよ」と呼んでも動こうとしない。
だんだんと意識は別世界へ・・・・
そのうちお母さんが連れて行こうと抱きあげるとポロポロと涙を流し始める。本人の気持ちを包み込むようにお母さんはしばらく抱っこしていた。
お父さんに「もう行くよ」と言われうつむいて動かなくなる(左)
奥の宮に着いた頃は笑顔に戻ったデジモン君。
私が「さあ、ちゃんとデジモン君も神様に挨拶してごらん。初めまして、デジモンです、って」というと
デジモン「ちがう!」
ときっぱり。「じゃあ、神様おひさしぶりです、なの?」と聞くと
デジモン「うん!」
とにっこり笑う。両親は「すごいことを言うね!」と感心する。
☆スナップ2
それから約半年後、再びデジモン君も交えて香取神宮へ行った。途中休憩をとりながらだったのだが、「さあ、今度は香取銀宮だよ」と言うと満面の笑みで
デジモン「ヤッター!」
お父さん「どんなところだったかちゃんと覚えてるの?」
デジモン「覚えてるよー!」
そして大鳥居のある土手が見えてくると、自分を押さえきれずに後ろの座席からシートごしに前に乗り越えていく。そして車が止まるやいなやお母さんを気にしないでニコニコ顔でトコトコと駆け出し、土手を四つんばいで上りだした。
デジモン君をここまで引っ張っている意識は何???
大鳥居前の階段に立ったデジモン君。離れた所にいる私に大声で
デジモン「ボクね、ずっと前にね、ここにいたんだよ!それでこうやって(両手をクロールの様にまわしながら)いつも泳いでたの!」
奥宮前にて
このスナップでは輪廻転生の発想を幼いデジモン君が無意識に語ったという点も大切であるが、特に注目しておきたいのはデジモン君を包み込んでいる御両親の自然な雰囲気である。
私は現在、今回のテーマである「神性」を本来子ども達が生得的に心の中に持っている世界、「野性」をその世界に回帰しようとするエネルギーのようなものと考えている。
そしてこれらの「神性と野性」が幼い頃からの周囲の対応の仕方によって大きく左右されることは容易に想像がつく。(この点については終章でもう一度触れる)