沢村 栄治(投手 右投左打)
「沢村の前に大投手なし、沢村の後に速球投手なし」と言われた沢村栄治は、日本プロ野球草創期の大投手です。
その投手の最多勝が24勝といえば、意外でしょう。しかし、チームの全試合は56ですから話は別です。’37春シーズンの沢村は、チーム全試合(56)のうち30試合に登板し、全イニング(511)のうち244イニングを投げ、防御率0.81という驚異的成績を収めました。いくら好成績をあげるのが可能となる短期シーズンでも、これほどの成績は例がありません。20勝は彼一人、防御率零点台は彼と景浦 将の二人だけです。
しかし、召集が確実となった’37秋、ナーバスになった沢村は大きく成績を落としました。そして、召集。’40に復帰を果たしますが、彼の速球は失われていました。それでも、コントロールと変化球を武器に3度めのノーヒットノーランを達成します。(ノーヒットノーランを3回達成したのは、沢村と外木場だけです。)そして、2度めの召集、’43に沢村はもどってきますが、無情にも兵役はコントロールと変化球さえ奪い取ってしまいました。そのフォームは、ある本には「押し出すような下手投げ」と表現されています。
’43年7月6日、巨人軍の兼任監督の中島治康は、対阪神戦の先発に沢村をたてます。対する阪神の先発は、これも兼任監督の若林忠志でした。慣れない下手投げの沢村は、フォアボールを連発。さらに阪神は盗塁で揺さぶります。(阪神はこの試合7盗塁成功)沢村は3回で5点を失い降板します。巨人軍も青田昇が3安打を放ち反撃しますが、4対5で敗れてしまいます。これが沢村栄治最後の登板になりました。
沢村の終生のライバルと自他ともに認める景浦は、先発出場せず、投手は藤本英雄に替った後、代打で出場します。景浦が何を考えたかはわかりません。
この後、沢村栄治は3度めの召集で帰らぬ人となりました。そして景浦も・・・
最多勝2回 最優秀防御率1回 最高勝率1回 最多奪三振2回
ニックネーム等 | サワさん、スクールボーイ | |
選定理由 | リーグ最多勝(’37春〜’38秋) | 24勝 |