中島 治康(外野手 右投右打)

’38年秋シーズン、戦前の春秋2シーズン制最後のシーズンに大記録が打ち立てられました。それは、初めての2桁本塁打です。

中島治康は、このシーズン首位打者(.361)打点(38)も獲得、日本プロ野球史初の「三冠王」となりますが、当時は、こうした言葉もなく「三冠王1号」と認定されたのは戦後のことです。

彼の10本塁打がどれだけスゴイことなのかといいますと、2シーズン制最多本塁打というばかりでなく、戦前最多本塁打であるといえばおわかりでしょうか?この後’39〜’44まで1年1シーズンの年が続きますが、彼が38試合で放った10本塁打を抜く選手はあらわれず、わずかに’39鶴岡一人が92試合で10本塁打を打ちタイ記録になったのみです。

そして、おそろしいことに、このシーズンのチーム本塁打が10本以下のチームが3チーム(全9チーム中)もありました。ライオン(9)金鯱(6)南海(5)の3チームです。

いかに、当時せまいという評判だった後楽園球場での試合が多かったにもせよ偉大な記録であることはまちがいありません。

中島治康2個目の選定理由は、三冠王の’38秋に出場試合と同数の38打点をあげたことです。1リーグ制では、中島治康と景浦将だけが、この記録を達成しています。

首位打者2回 本塁打王2回 打点王4回

ニックネーム等 班長  
選定理由 リーグ最多本塁打(’38秋〜’44) 10本
  出場試合以上の打点(’38秋) 38試合38打点