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イエス様と弟子たちは、イスラエルの北の果ての町であるフィリポ・カイサリアから、再びガリラヤの地に戻ってきました。そして、ごく短い期間ですが、カファルナウムのペトロの家に滞在されます。先週はそこに神殿税を徴収する人たちが来たというお話しでありました。ペトロが困って家の中に入りますと、イエス様は「ガリラヤ湖で魚釣りをしてみなさい。最初に釣れた魚の口の中に銀貨が一枚入っているから、それでわたしとあなたの分の神殿税を払いなさい」と言われます。釣った魚の口に銀貨が入っているなんていうのはおとぎ話の世界にあるようなお話しで、普通だったら本当にそんなことがあるのだろうかと疑うような話しです。しかし、ペトロという人は、そういうことを真に受けて、それにイエス様に従うことができる人であった。だからこそ、主の恵みを豊かに体験した人であったのだ、ということを学んだのであります。
しかし、そのように心底からイエス様を信じ切っているように見えるペトロでありますけれども、これだけはどうしても受け入れられないというイエス様のお言葉がありました。それは、イエス様がご自分の運命について預言されたこと、すなわちエルサレムで迫害の末に殺されるということでありました。
イエス様がこのことを最初に弟子たちに打ち明けられたのは、フィリポ・カイサリアにいる時のことでありましたが、それを聞いたペトロは思わず、「主よ、そんなことはあってはなりません」と口走り、イエス様から「サタン、退け。お前は私の邪魔をしている」と厳しく叱られてしまうという苦い経験もいたしました。
ガリラヤに帰ってきてからも、イエス様は再び、ご自身の受難と死について弟子たちに語られました。さすがにこの時は、フィリポ・カイサリアでのことがありますから、ペトロも黙っておりました。しかし、「非常に悲しんだ」(『マタイによる福音書』)と、聖書には書かれています。また、「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」(『マルコによる福音書』)と書いてあるところもあります。いずれにせよ、この時にペトロが黙っていたのは、イエス様のお言葉に納得したからではなかったのです。納得などとてもできなかった。しかし、ご自分の受難と死について語られるイエス様には、弟子たちが侵しがたいような何かが、たとえば並々ならぬ覚悟からくる凄みとか、気迫とか、そういうものがあったのではないかと思うのです。それに気圧されて、ペトロも他の弟子たちもただ黙っていることしかできなかったというのが真相でありましょう。
イエス様が分からない上に、それをイエス様に問い質すこともできないというのは、ペトロにとって、聖書の言うとおりこの上ない悲しみであり、恐れであったにちがいありません。イエス様はペトロの目の前にいらっしゃるのです。しかし、そのイエス様と一体感を得ることができない。イエス様が遠く感じる。手の届かない存在に見えてくる。そんなやりきれない淋しさをペトロは味わっていたのではないでしょうか。
しかし、それでもペトロや弟子たちは、「もう、あなたにはついて行けない」とは言わなかった。分からないことがあっても、それでもなおイエス様についていくのです。これは案外大事なことではないでしょうか。
『徒然草』の百二十六段に、こういう話しがあります。
後鳥羽院の御時(おんとき)、信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)、稽古の誉ありけるが、楽府(がふ)の御論議(みろんぎ)の番に召されて、七徳の舞を二つ忘れたりければ、五徳の冠者と異名を附きにけるを、心憂き事にして、学問を捨てて遁世(とんぜい)したりけるを、慈鎮和尚(じちんおしょう)、一芸ある者をば、下部(しもべ)までも召し置きて、不便(ふびん)にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持し給ひけり。この行長入道、平家物語を作りて、生仏(しょうぶつ)といひける盲目に教へて語らせけり。(岩波文庫、新訂『徒然草』)
後鳥羽天皇の時代に、信濃前司行長というたいへん学識が深いと名声を得ていた男がいました。その人が天皇の前で、「楽府」という文書について意見を述べるという名誉を得ます。ところが、行長はその中にある「七徳の舞」という七つの徳を述べている部分について、そのうちの二つの徳目を忘れてしまうというたいへんな失態を演じてしまうのです。そのため「五徳の冠者」という不名誉な渾名をつけられてしまった行長は、学問を捨てて世捨て人になってしまいます。ところが、彼はたまたま二つの徳目を忘れてしまったにしろ、他の人々に比べれば極めて優れた学識をもった人であることには違いありません。そのことを惜しんだ慈鎮和尚が彼を呼び寄せ、いろいろとお世話をしてやったというのです。こうして彼は慈鎮和尚に救われて、後にかの有名な「平家物語」を作ることができたのだというのです。
さて、行長は「五徳冠者」と呼ばれたと言います。「五徳」というのは、本当は七徳なのに二つ足りないという不名誉な意味であります。それで行長はもう自分は駄目だと思って、すべての学問を捨ててしまったのでした。しかし、世の中には、そもそも「五徳」すらも知らないという人は大勢いたはずです。そういう人から見れば、五徳を知っているということはたいへん名誉なことだということもできるのではないでしょうか。慈鎮和尚という人は、行長の足りないものを見るのではなく、行長にあるものを見ることができる人でありました。それで彼の価値を認めて呼び寄せたというのです。そういう人がいたから、行長は平家物語を書くことができたのです。行長自身もそのことをよくよく思い知ったのでありましょう。行長は自分が書いた平家物語を目の見えない生仏という人に教え、それを語らせたとあります。目が見えなくても、聞いて覚えることはできるし、それを語って聞かせることもできる。足りないものではなく、あるものに目を向けるのです。これが、いわゆる琵琶法師の始まりだったと、『徒然草』は語っているのです。
なかなか味わい深い話しではないでしょうか。私は、信仰もそうだと思うのです。イエス様に対してどうしても「アーメン」といえないことがあったとして、そのことに目をやれば、自分には信仰がないということになりましょう。そして、行長が自分は学問をする資格がないと思い込んで、学問そのものを捨ててしまったように、自分には信仰者を名乗る資格がないんだと思い込んですっかり信仰から離れてしまう原因にもなりかねません。しかし、ないものにではなく、あるものに目を向けるべきなのです。
足りないものは、誰にでもあります。信仰もそうでありまして、パウロはこう言っています。
わたしはそれを既に得たというわけではなく、既に完全なものになっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。(『フィリピの信徒への手紙』3章12-13節)
自分はまだ完全なものになっていない。何とか捕らえようとして努力をしているのだ。このパウロの言葉は、一見すると自分にないものに目を向けている者の言葉のように思えます。しかし、大切なのは、それができるのは、イエス様が私を捕らえてくださっているからだという部分なのです。イエス様に捕らえられている。自分のなかにあるその恵みの現実にしっかりと留まっているからこそ、自分がいかに不完全な者であっても、そのことに絶望するのではなく、むしろ希望をもって努力することができるようになると、パウロは言っているのです。
ペトロは、これまで彼らは、数々の奇跡、力ある説教などを通して、イエス様のうちにある栄光の姿を見てきました。それを見て、「ああ、ここに我々を救う神の愛、神の力がある。この方こそ我々の救い主だ」と信じてきました。もちろん、それだけでは完全ではありません。十字架にかけられたイエス様の姿にこそ真の神の愛があり、私たちを救う神の力があるということを、ペトロは信じなければなりませんでした。しかし、それが今は信じられないとしても、これまで信じてきたイエス様への信仰を失う必要はないのです。むしろ、自分の信仰の足りなさを思いながらも、自分のうちにある信仰にしっかりと立って、イエス様に従っていく。そうすることによって、今わからないことも、やがて分かる時が来る。このように私たちの信仰生活は全うされていくのです。先ほどのパウロの言葉の続きですが、「わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです」(『フィリピの信徒への手紙』3章16節)と言われています。到達していないところを見て絶望するのではなく、到達しているところを支えとして信仰生活を歩みなさい、そうすればまだ到達していないところにも進んでいけるということなのです。
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さて、イエス様と弟子たちは再び帰ってきたガリラヤでどのような時をすごされたかについてお話しをしたいと思います。このガリラヤ滞在の期間、イエス様は以前のような病の癒しであるとか、悪霊追放であるとか、大勢の群衆を前にしての説教であるとか、そういうことはまったくなさらないのです。前回も紹介しましたが、『マルコによる福音書』9章30節には、「イエスは人の気づかれるのを好まれなかった」とあります。そのようにむしろ人々をお避けになって、弟子たちの交わりに関する教えに専念されようとしたのでありました。
その教えは、『マタイによる福音書』18章の中にまとめられており、「弟子たちの共同体に対する説教」とも言われています。「弟子たちの共同体」とは、教会のことだとも言えます。教会が誕生するのは、イエス様が十字架にかかり、復活し、昇天され、聖霊が弟子たちに降った時のことでありますが、イエス様はすでに十字架だけではなく、そのような弟子たちの共同体である教会の形成ということまで視野に入れて、この時を弟子たちと共にすごされようとしておられるのであります。
まず1-5節には、弟子たちが「天国でいちばん偉いのは誰か」とことをイエス様に尋ねたというお話しがあります。弟子たちの口から、こういう質問が出てくるということ自体が、イエス様の見ているところと、弟子たちの見ているところの違いというものをくっきりと表しています。イエス様は、神の御子であるのに、ご自分を捨てて、十字架の死の極みにまで下り、もっとも低き人の友とならんとしています。ところが、それに従おうとする弟子たちは、人を押しのけて、誰が一番天国の一番高いところに上ることができるのかということを見ているのです。
それに対して、イエス様は一人の子供を呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせ、「心を入れ替えて、この子供のようになりなさい」と言われました。そして、小さき者になること、へりくだること、それが天国への道であり、天国で尊ばれることなのだと教えられたのです。このように教えられることによって、弟子たちの交わり、共同体である教会は、高みから人を見下して、教えたり、導いたり、支配することによってではなく、低いところから人に仕えることによって形成されるものだということをイエス様は教えておられるのです。
6-9節には、引き続いて小さき者について語られます。小さき者の一人でもつまずかせる者は、石臼を首にかけて海に沈められる方がましであるという、たいへん厳しいお言葉であります。その真意は、「つまづきは避けられない。だが、つまづきをもたらす者は不幸だ」という言葉にあるのではないでしょうか。イエス様は、あなたがたはわたしの弟子なのだから、決してつまずいてはいけないとはおっしゃらないのです。あなたがただって弱い人間の集まりに過ぎないのだから、つまずくような人が出てきても仕方がない。だけど、お互いに人をつまずかせるような交わりになってはならないということなのです。むしろつまずいた人を助けを起こすことができるような信仰者の交わりを形成しなさいということなのです。
それを受けて、10-14節が語られます。有名な迷いでた一匹の羊のたとえ話です。迷いでた小さき者を無事に交わりの中に連れ戻すことができるような優しい、人に対して忍耐強い共同体を形成すること、それが教会形成であるということでありましょう。
15-17節には、罪を犯した兄弟への忠告という問題が語られています。つまずいた者、迷いでた者を再び信仰者の交わりの中に迎え入れるということは、別の言い方をすればその人を悔い改めに導き、神様のもとに立ち帰らせるということであります。そのためにはまず、ふたりだけのところで忠告をしなさいと言われています。忠告をするというのは、「あなたが悪い」と指摘することではなく、愛をもって悔い改めに導くということです。しかし、それが相手に通じないならば、他の人を一人か二人一緒に連れて、再度、悔い改めを勧めなさいと言われています。それでも聞き入れられない場合は、教会に申し出なさいというのです。教会に申し出るというのは、事柄を個人の問題から教会全体の問題とするということですから、これは本当にたいへんなことです。それは最後の手段ですよと、イエス様は言われるのです。なぜなら、教会というのは本来的には人を裁くところではないからです。
18-20節には、弟子たちの交わりが、イエス様の名において祈る祈りの共同体であることが言われています。これは兄弟への忠告と無関係な話しではなく、むしろ兄弟のためにとりなしを祈る祈りの共同体、それが教会であるということでありましょう。
こうしてみますと、イエス様が弟子たちに求めておられること、つまり教会の姿というものがなんとなく浮かび上がってくるのではないでしょうか。それは世の中とはまったく違います。世の中は、だれが一番かということを競い合います。しかし、教会は人の上や先に立つことよりも、下から、後ろから、人を支え、仕えることを大事にするのです。
また、世の中では失敗するな、間違えるな、落ちこぼれるな、そうなったらお終いだと教え、皆一生懸命にそうならないように頑張ります。しかし、イエス様は人間なのだから、失敗することあれば、間違うこともある。落ちこぼれ者もある。大切なのは、そういう者にならないことではなく、そういうふうになってしまった人たちに救いの手を差し伸べる者になることだというのです。
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さて、こういう話しを聞いて、ペトロがイエス様に問いを発します。
「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
こんな質問が出てくるということは、ペトロ自身がこういう問題に幾たびとなく直面していたということの証しなのではないでしょうか。十二使徒たちはいつも仲むつまじくイエス様に従っていたと思いきや、実はしばしば諍いを起こしたり、いがみ合ったりしながら、イエス様のお供をしていたのかもしれません。ペトロにしろ、ヤコブやヨハネにしろ、かなり個性が強い人間揃っていますから、その方が自然であります。そして、そう考えると、18章の最初に出てきた問題、つまり「誰が天国で一番偉いのか」ということが弟子たちの間で問題になり、イエス様に質問したということも、なるほどそういうことかと分かってくるのです。
しかし、ペトロはペトロなりにイエス様のお話を聞いて、「ああ、これではいけない。少しぐらい嫌な思いをしても、心を広くもって赦すということが大事なんだ」ということを一生懸命に考えたのでありましょう。そこで、「主よ、わかりました。これからは人を赦すことができるように努めます。しかし、いったい何回ぐらい赦せばいいのでしょうか。七回ぐらいでしょうか」と聞くのです。この七回という数字に、ペトロの気持ちが表れています。ユダヤ教のラビたちは「三度まで人の赦しを請うことができる」と教えておりました。それを奮発して、ペトロは「七度ぐらいまで赦せば十分ですか」と聞いたのであります。
このように反応のよいところが、ペトロの長所だと思います。時には的はずれで、叱られたり、失敗したりするのですが、のれんに腕押し、ぬかに釘のような反応のなさよりもずっとましであります。呼べば応える、打てば響くというペトロの反応の良さは、ペトロの人格がいつもイエス様に向き合っているということの証しなのです。そして、それこそが信仰の基本中の基本だといえましょう。
イエス様も、そういうペトロに対して、いつも丁寧にお答え下さるのです。イエス様は言われました。
イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」
七回でもまだ足りない。七の七十倍までも赦すんだよと、イエス様はペトロに言われたのでした。七の七十倍とは四百九十回です。しかし、それは四百九十回まで赦しなさいということではありません。そんな風に何回赦したと数えることをやめなさいということなのです。私たちは、もうこれで三度目だ、四度目だと、人の罪を数えてしまいます。そして、だんだん赦せなくなってしまうのです。しかし、それでは最初の一回目の罪、二回目の罪を、本当の意味でゆるしたことになるでしょうか。何回まで赦すということは、逆に言えば何回までは執行猶予を与えるけれども、何回目には何倍にもしてお返しするぞということに過ぎないのではないでしょうか。イエス様は、赦すというのはそういうことではなく、完全に赦すということなのだと言われたのです。
そんなことができるだろうかと、ペトロは思ったでありましょう。すると、イエス様は一つのたとえ話をなさいます。一万タラントンの借金を棒引きされた人が、自分に対する百デナリオンの借金をしている仲間を憐れまなかったという話しです。この話しは、ペトロのもう一つの問題点を指摘していると思います。ペトロは「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら」と申しました。それに対して、イエス様は、あなたが兄弟に対して犯した罪のことも忘れてはいけないよと言われているのです。あなたが犯した罪はいったいどれだけあって、どれだけの赦しを得てきたのですか。それはたった七回ですか? そんなことはないでしょう。あなたは多くの罪の赦されて、今日まで生きてきたのです。そのことをまず考えれば、あなたも隣人に対して憐れみ深くなれるはずですということなのです。
今日は、イエス様と弟子たちが、ガリラヤでの最後の日々をどのように過ごされたのかということに焦点をあててお話ししました。十字架やその先にある教会というものまで視野に入れて、これからの道を歩んでいこうとされるイエス様に対して、これはペトロだけではありませんが、弟子たちはまったく心が追いついていないことが浮き彫りにされるガリラヤの日々でありました。しかし、イエス様はそういう彼らに信仰者として、弟子として、どのような共同体を形成していくのかということを、懇切丁寧に教えられたのでありました。それは、イエス様が弟子たちに希望をもっておられたということの証拠であります。愚かで、鈍く、しばしば的はずれなペトロやその仲間たちでありますが、そのような足りなさではなく、彼らが神様から与えられている良いものを、イエス様はいつも見ていてくださったのです。
そのようなイエス様であればこそ、ペトロも、また私たちも、自分の愚かさ、信仰の貧しさに拘わらず、イエス様に従う道を全うできるのです。 |
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