ペトロ物語(05)
「十二使徒の選定」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 出エジプト記19章1-7節
新約聖書 マルコによる福音書3章13-19節
律法と恵み
 先日、大垣教会の崔和植先生から、お手紙と週報が届きました。毎号の週報には、ショート・メッセージが完璧な日本語で記されていまして、先生の日本語の上達に感心しながら読ませていただきました。その中に、律法と恵みの違いについてまとめられた優れた文章があるのです。今日は、まずその文章を皆さんにご紹介したいと思います。

A 律法は、人がなすべき行いを要求します。
  恵みは、人がしてもらった行いについて語ります。

B 律法は言います。「これをしなさい。そうすれば、あなたは生きるでし
  ょう」
  恵みは言います。「生きなさい。そうすれば、あなたはそれをすること
  ができるでしょう」

C 律法は言います。「主であるあなたの神様を愛さなければならない」
  恵みは言います。「神様は、この世をとても愛された」(ヨハネ3:16)
 「神様がまず私達を愛してくださったので、神様を愛します」(1ヨハネ
  4:19)

D 律法は、最上のものを呪います。(ローマ3:20)
  恵みは、最悪のものを救います。(ローマ3:24,4:5)

E 律法は、罪を明らかにします。(ローマ3:20)
  恵みは、救いを明らかにします。(テトス2:11-13)

         (2007年1月7日 在日大韓基督教会 大垣教会週報)

 これをみますと、律法に生きる人と恵みに生きる人の、生き方の違いということも分かってきます。律法に生きる人は、「あれをしなければいけない」、「これをしなければいけない」と、いつも為すべき仕事に追われています。神様を愛するとか、礼拝するということですら、為すべき忙しい仕事の一部になってしまいます。そして、もしできないことが一つでもあるならば、その人は罪人として神様に呪われ、裁かれる人間になってしまうのです。

 考えてみますと、こういう生き方は、今日の世の中の生き方に通じるものがあるのではないでしょうか。人々は皆、何か価値あることをしなければいけないと思っています。何かできないことは罪であり、悪いことであると思っています。ですから、できない人間は馬鹿にされます。何もできない人間は生きている値打ちもないと見なされます。

 しかし、そのようにできない人に対する容赦のない裁きは、自分自身の首を絞めることにもなります。若くて、健康で、元気はつらつとして夢と希望に進んでいる時はいいかもしれません。しかし、挫折をする。病気をする。年を取る。このように何かが出来ない自分になってしまうと、たちまち、自分は駄目な人間、愛される値打ちもなければ、生きていく意味もないのだと思い込むようになってしまうのです。

 こういう世界に生きている人は、ともすると信仰生活ですら、そういう考えに支配され、恵みを知らない信仰生活になってしまいます。礼拝にも毎週通えて、様々な奉仕を積極的にこなして、献金も十分に捧げられる時は、その信仰生活、教会生活に喜びを感じることができるのです。しかし、いろいろな理由で、奉仕ができない、献金ができない、礼拝に通えないということになりますと、申し訳ない気持ちで一杯になってしまう。このように何も出来ない自分は、教会にとっても、神様にとっても、迷惑をかけるばかりで、用なしの人間ではないかという恐れや不安に苛まされてしまう。あるいは、自分には祈りが足りないのではないか、頭が悪くて聖書が分からないのではないか、神様への愛が足りないのではないか、そういうことで悩む人もいます。また、そのように何かができない人を見て、努力が足りないとか、信仰が足りないと裁く側に回る人もいるかもしれません。

 このような恐れや不安、また裁きは、もちろん間違った考えです。しかし、その間違っていることが分かるためには、恵みに生きるということがどういうことなのかを知る必要があるのです。恵みに生きるということは、崔和植先生の言葉をなぞらえれば、自分に何かができたことではなく、人にしてもらったことを喜ぶ生き方であります。自分がどれだけ神様を愛しているかということを問題にするのではなく、神様がどれだけ自分を愛していくださっているかということを大切にする生き方であります。そして、できないものを裁くのではなく、イエス様がしてくださったこととしてくださることによって、最悪の者が救われることに望みを持つ生き方であります。

 教会とは、そのような恵みによる生き方を私達に与えてくれる場所なのです。律法ではなく、恵みが支配するところ、それが教会です。そして、イエス様はそのような教会をお建てになるために、十二人の弟子たちを「使徒」に任命された、それが今日のお話しであります。
新しい神の民
 『マルコによる福音書』3章13-14節を読んで見ましょう。

 イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。

 イエス様が山に登られたということと、そこで十二人を任命されたというお話しは、モーセがシナイ山に登り、そで神様と契約を結ぶことによって、十二部族からなる神の民イスラエルが誕生したという物語を思い起こします。『出エジプト記』19章3-6節を、もう一度お読みします。
 モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。
 「ヤコブの家にこのように語り
  イスラエルの人々に告げなさい。
  あなたたちは見た
  わたしがエジプト人にしたこと
  また、あなたたちを鷲の翼に乗せて
  わたしのもとに連れて来たことを。
  今、もしわたしの声に聞き従い
  わたしの契約を守るならば
  あなたたちはすべての民の間にあって
  わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。
  あなたたちは、わたしにとって
  祭司の王国、聖なる国民となる。
  これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」


 神様は、「私は、あなたがたをエジプトから導き出した神であるが、もし今後ともあなたがたが私の声に聞き従うと約束するならば、わたしはあなたがたの神となり、あなたがたは私の宝の民、祭司の王国、聖なる国民となるであろう」と、モーセに語りました。そこでモーセは一端山を下りて、民の長老たちを集め、この言葉を彼らに告げます。すると、彼らは声をそろえて、「もちろん、私達は神様に従います」と誓ったのでした。

 モーセは、再び山に登り、民意を神様に告げると、神様は三日目後に契約書を渡すから、その間、身を清めて待ち、三日後にもう一度山に登ってきなさいと命じます。三日目後、モーセは民が見守る中、モーセが山に登りますと、神様はそこでモーセに民の守るべき十戒をはじめとする律法を授与されたのでありました。

 これがシナイ契約と言われるお話しですが、このシナイ契約によって、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫は、神様が最初にアブラハムに約束されたとおり、神の民、祭司の王国、聖なる国民として誕生したのであります。しかし、この神の民の礎は律法でありました。神様がお与えになった律法を守るという約束に基づいて、イスラエルは神の民となったのであります。

 しかし、律法を礎とするということは、どういうことか。それは先ほどお話ししたとおりであります。律法は、いかに神の民が、神の民らしからぬ者であるか、その罪の大きさ、根深さを明らかにしたのでありました。

 パウロはこのことについて、面白い言い方をしています。律法というのは、実は人を神様の前にふさわしい人間とするためのものではなく、逆に人が罪人であって、自分自身の力ではどんなにしても神様の前にふさわしい人間になることができないことを悟らせるためであった。それは、私達を恵みによってお救いになり、恵みによって神の民としてくださるイエス様がいらしたときに、イエス様を心からお迎えすることができるようになるためだ、というのです。

 律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。(『ガラテヤの信徒の手紙』3章21-22節)。

 確かに、人間というのは失敗してみなければ自分の罪や愚かさを悟らないところがあります。神様は、律法という神の要求をお与えになることによって、イスラエルが徹底的に自らの罪を悟り、ただただ神様の憐れみと恵みに依り頼む者になることを願っておられた。その上で、イエス様を救い主として送り、恵みによって神の民となることを願っておられたのである、ということなのです。

 だとすれば、イエス様は旧約時代の律法を礎とした神の民の歴史を終わらせ、恵みを礎とした新しい神の民、つまり教会を形成されるためにいらしたと言えます。そして、そのために、神の民を象徴する十二人の使徒をお選びになったのだと言えるのであります。

恵みを礎として
 使徒というのは、神様の特別な使命のために遣わされた者という意味であります。神の国の特命大使と言っても良いかもしれません。しかし、彼らに与えられた使命の重大さということもさることながら、そのような使命がペトロを初めとして、どこにでもいそうな欠けも破れもある人間に与えられたということに、強く心を惹かれるのであります。

 律法というのは、神様が与えてくださった言葉でありますから、完全なものでありました。イエス様も天地が滅びるまでは律法の一点一画も廃ることはないと言っておられます。それに対してイエス様のお選びになった十二使徒はどうか? 完全というにはほど遠い、弱き人間なのです。そして、そのことは聖書も十分承知しているのでありまして、このうちのユダはイエス様を裏切ったと書いています。そういう者が、イエス様の選ばれた使徒の中に含まれているのであります。

 もう少し丁寧に、十二使徒の顔ぶれを見てみましょう。リストの最初に登場するのは、やはりシモン・ペトロであります。ペトロとは、イエス様が彼にお与えになった渾名でありまして、その意味はよく知られているように「岩」という意味であります。しかし、大きな岩を意味することも確かですが、基本的には小さな石ころをも意味する言葉であります。後に、ペトロは「この岩の上に、私の教会を建てよう」というイエス様のお言葉を授かりますし、ペンテコステ以後の使徒時代にはまさに教会の礎石を築く働きをした人であります。しかし、この時点では、イエス様以外のだれにもペトロがそんな大人物になるとは夢にも思っていないのでありまして、せいぜい石頭のペトロぐらいの意味にしか受け止められなかったでありましょう。ペトロをよく知る人たちは、「石頭」とは、イエス様はうまいこと名付けたなと思ったぐらいのことでありましょう。

 ヤコブ、ヨハネはガリラヤ湖の漁師に過ぎない者でありました。イエス様は彼らに「ボアネルゲス」という渾名をおつけになったと書かれています。それは雷の子らという意味でした。きっと声が大きく、気性の激しい兄弟であったのでありましょう。この二人は、イエス様を歓迎しなかったサマリア人の村に腹を立てて、こんな村は天から火を呼び下して焼き払ってくださいと、大まじめにイエス様に訴え、イエス様に叱られた人たちであります。

 アンデレは、何度もお話ししてきましたが、ペトロの弟でした。ペトロにイエス様のことを話し、ペトロとイエス様の出会いに一役買ったのは、このアンデレでありました。他にも、二匹の魚と五つのパンをもった少年をイエス様に引き合わせたり、イエス様に会いに来たギリシャ人たちの仲介をしたり、世話好きの一面をうかがわせる人です。しかし、その他にはあまり目立った活躍は記されていません。

 フィリポは、ナタナエルをイエス様のもとに連れてきた人です。ナタナエルの名は、このリストにありませんが、おそらくバルトロマイがナタナエルであろうといわれています。次にマタイの名が出てきますが、彼は徴税人でありました。またの名をレビとも言い、イエス様に「わたしについてきなさい」と声をかけられると、すぐに従い、仲間を集めて、自分の家にイエス様を招待したということが書かれています。

 それからトマスの名が挙げられています。トマスといえば、最後まで復活を信じなかった話が有名でありましょう。そして、アルファイの子ヤコブ。2章14節では、レビ、つまりマタイもまたアルファイの子と呼ばれていますから、兄弟だったのかもしれません。次にタダイが挙げられています。彼のこともほとんど知られておりません。

 そして、熱心党のシモン。熱心党とは、ローマの支配を嫌う排他的な国粋主義者、右翼でありました。最後にイスカリオテのユダが挙げられていますが、彼は弟子集団の財布を預かる会計係でありました。なかなかの実務家であったのでありましょう。貧しい人たちのことを考え、社会正義を求める人であったようです。しかし、イエス様は、ユダの期待するような意味での社会正義を実現する方ではありませんでした。ユダはそのことに失望して、イエス様を裏切ってしまったのでしょう。

 こうして、イエス様が選ばれた十二人について皆さんにお話しながら気がつくのですが、彼らは神の国の特命大使として選ばれた使徒であるにも拘わらず、聖書には、ペトロを除けば、彼らの活躍というものがほとんど記されていないのです。わずかに記されていることを見ましても、失敗や愚かさをさらけ出しているだけでありまして、活躍と言える活躍はほとんど見られません。

 もちろん、記されていなくても、彼らは使徒として働きを果たし、新しい神の民なる教会の建設のために力を尽くしたでありましょう。けれども、聖書は、彼らがいかに優れた人間であり、優れた働きをしたかということにはまったく関心をもっていないといっても過言ではありません。むしろ、彼らが石頭であったり、疑り深い人間であったり、癇癪もちの人間であったり、最後にはイエス様を裏切りさえもする人間であるということを物語っているように思えるわけです。

 それにも関わらず、彼らは、新しい神の民なる教会の礎とされた。それは、彼らの人間性とか、能力によるものではなく、イエス様の恵みであったのだということを、聖書は言いたいからだと思います。崔和植先生は、「恵みは最悪のものを救う」と書いておられました。まさに、そのような恵みの力によって、彼らは支えられ、使徒としての務めを為したのです。

 そして、それこそは彼らを選び給うイエス様の意図されたことではなかったのでしょうか。聖書には、イエス様が「これと思う人々を呼び寄せられた」のだ、と記されています。つまり、彼らの側に選ばれる理由があったのではなく、イエス様の側に彼らを選ぶ理由があったのです。それが何であったか、聖書に書いてないのですから、今はそれを知る由はありません。しかし、パウロが書いた手紙の中に、一つのヒントがあります。『コリントの信徒への手紙1』1章26-29節を読んでみましょう。

 兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。

 イエス様が選ばれた十二使徒の場合も同じ事が言えるのではないでしょうか。この人たちを見る限り、イエス様が彼らを選ばれたのは、彼らの強さよりも弱さにこそ理由があり、賢さよりも愚かさに理由があったとしか思えないのです。別の言い方をすれば、彼らはイエス様を離れては何もできない人間であったということです。イエス様を裏切ったユダですら、そのように言うことができます。彼は、イエス様を離れてしまったゆえに、何もできない人間となってしまったのです。

 どうして、イエス様はそのような者を、新しい神の民となる教会の礎とされようとしたのでしょうか。それは、新しい神の民となる教会は、まさに恵みの力によって建てられるべきであったからなのです。律法ではなく恵み、人が何をしたかではなく神様が何をしてくださったか、間違いの正しさではなく間違いをさえも赦し給う十字架の愛、人の可能性ではなく神の可能性、それを礎とする神の民の形成こそ、イエス様の目的なのです。

 後に、ペトロは、この新しい神の民について、このように語っています。『ペトロの手紙1』2章9-10節を見てみましょう。

 あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。あなたがたは、
 「かつては神の民ではなかったが、
  今は神の民であり、
  憐れみを受けなかったが、
  今は憐れみを受けている」
 のです。


 「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」というところは、神様がモーセに約束された言葉と重なります。神様は、モーセに、「あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」と約束しました。しかし、それは「もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば」という条件のもとであったのです。

 しかし今や、私達は、神の民ではないものを神の民とする神様の憐れみを受けて、つまり何かをすることによってではなく、神様の愛を受け取ることによって、神の民とされたのだと、ペトロは言うのです。それは「暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです」とも言われています。自分が何をしたかではなく、主が何をしてくださったのか、それによって私達がどんなに大きな恵みを受けたのか、そのことを広く伝えなさい、それが新しい神の民の姿なのだと言うのです。

 ペトロは、十二使徒に選ばれた時には、まだそのことをよく悟らなかったかもしれません。しかし、イエス様と共に歩み続けることによって、自分の知恵や力に対する失望を繰り返すことによって、ただイエス様の恵みこそが私達の救いであるということを、この恵みにしっかりと立つことこそがイエス様の私達に対する願いであるということを学んでいくのであります。そして、そのペトロの主の恵みに対する信仰こそが、教会の礎なのです。

 みなさん、私達も、自分の弱さ、愚かさ、足りなさを痛いほど感じる時があるのではないでしょうか。しかし、そのような時にこそ、私達は恵みに依り頼む者として成長していきたいと思います。そして、主の恵みによって、私達が生かされているのだということを、高らかに讃美する者になりたいと思います。それが、荒川教会を恵みによって立つ教会とするのです。
 
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聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
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