信仰が揺らぐとき

  信じます。信仰のないわたしをお助けください。

『マルコによる福音書』9章24節

 信仰が揺らぐとき

 私たちの信仰生活がいつも変わることのない信仰に溢れているかといえば、必ずしもそうではありません。イライラしたり、不安に襲われたり、気が沈んだり、愛を忘れてしまったり・・・。毎日の生活には、そのようにとても信仰者とは言えないような心の揺らぎに翻弄されてしまうことがあるのです。そんな時、私の心に吹きすさぶ不信仰の嵐を鎮め、再び信仰の確信と喜びへとしっかりと根ざした者としてくれるのは、イエス様の御言葉です。どんな時にも御言葉に耳を傾け、イエス様の声を聞くことによって、私たちは信仰者であり続けることができるのです。


 信仰を励ます主の言葉

 「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と叫んだ父親も、そうでした。彼は息子の癒しを願ってイエス様のもとにきましたが、イエス様は留守でした。その時、父親の心に自分の運の悪さを呪い、神の愛を疑う不信仰の種が蒔かれました。憐れに思ったお弟子さんたちが、一生懸命に祈りましたが、息子はいやされませんでした。それを見守っていた父親の心には、不信仰の芽が吹き出し、「もう駄目かも知れない」という失望感がひたひたと押し寄せてきました。

 そこにイエス様がお帰りになります。彼は不信仰で揺れ動く心のまま「もしおできになるならば、わたしどもを憐れんでください」と力なく訴えます。イエス様は、「『できれば』というのか。信じる者には何でもできる」と、この父親の不信仰を一喝されました。

 この御言葉によって、父親は不信仰が払拭され、信仰へと目覚めることができたのです。

 不信仰は雑草のようなもの

 C.H.スポルジョンは不信仰は雑草のようなもので、早めに芽を摘むことが大事であると言っています。

 「努めて不信仰の怪物を追い払え。それはキリストをこの上なく辱しめるものである。したがって、もし私たちが不信仰にふけることによりキリストを侮辱し続けるならば、主は私たちの前から姿を隠されるであろう。不信仰は雑草のようである。私たちは、その種子を土の中から完全に取り去ることはできないが、熱心に、かつ根気よくその根を枯らすように努めなければならない。憎むべきものは多くあるが、不信仰こそ最も憎むべきものである。」(C.H.スポルジョン)

 主の御言葉によって、私たちの内から不信仰の芽を枯らしましょう。
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