ヨブ物語 51
「嵐の中で聞く神の声」
Jesus, Lover Of My Soul
ヨブ記38章1-3節
嵐の中から、主は

 「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。」(1節)

 ついに破られた天の沈黙! 
 ある説教者は、38章を評してこのように表現しました。ついに! 確かにこれを読み続けてきた私たちも、いつしかヨブと同じような気持ちになって、神の言が語られることを待ち望んできました。『ヨブ記』ほど、読者に神の言に対する飢え渇きを感じさせる書はほかにないかもしれません。しかし今や、ついに天の沈黙が破られたのです。

 これまで、いかに友人たちが喋々喃々とヨブの苦難を説明しようとも、何の解決もヨブにもたらしませんでした。

 「そんなことはみな、わたしもこの目で見
  この耳で聞いて、よく分かっている。
  あなたたちの知っていることぐらいは
  わたしも知っている。
  あなたたちに劣ってはいない。
  わたしが話しかけたいのは全能者なのだ。
  わたしは神に向かって申し立てたい。」(13:1-3)

 ただ、神の言葉を聞くことだけが救いなのです。しかし、その神様はずっと沈黙を守られてきました。

 「どうか、わたしの言うことを聞いてください。
  見よ、わたしはここに署名する。
  全能者よ、答えてください。」(31:35)

 ヨブにとって、病の苦しみも、財産や愛する人を失った悲しみも、ヨブには決して耐え難いものではありませんでした。しかし、神様が呼んでも答えてくださらないという現実には苦しみます。悩みます。耐え難いものを感じます。しかし今や、ついに天の沈黙が破られます。

 「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。」(1節)

 「嵐の中から」とはどういうことでありましょうか。注解書などを読みますと、これは旧約聖書によく出てくる神顕現の象徴的な表現であると説明されています。たしかに聖書のあちこちで似たような表現を読むのです。けれども、ここにおいては、単なる象徴的表現とか形式的表現とか、それだけでは読み過ごせないものを感じます。嵐とはいえば、今年はニューオリンズに深刻な被害をもたらしたハリケーン「カトリーナ」や、日本では死者・行方不明者20名を出した台風14号の記憶が生々しいことでありましょう。風でなぎ倒された樹木、洪水で水没した街、土砂崩れで倒壊した家屋、これらの前に茫然自失と立ち尽くす人びと・・・この嵐の前には、人はどうすることもできません。家が倒れようが、田畑が水没しようが、過ぎ去るのをじっと待つしかないのです。嵐は、人の世に大いなる混乱をもたらし、人間の無力さ知らしめる力です。

 そして、このような猛り狂った嵐が、私たちの人生に襲いかかることもあるのです。ヨブが経験したことはまさにそれでありました。しかし神様は、その大いなる混乱、そして絶望の中から語り給います。

 これは前回お話ししたことにも通じることですが、私たちが神の声を聞く、あるいは神のご臨在に触れる時というのは、穏やかで、順風満帆の日々においてではなく、まさにこのような人生の嵐の中で沈没しようとしている時においてなのです。

 ヨブはもとより信仰深い人間でありました。が、この苦難を通して、さらにまた大いなる神様との出会いを果たし、その信仰を深められていきます。信仰歴が何十年であろうと、信仰生活にはこれでもう十分ということがないのです。パウロでさえ、「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。」(フィリピ3:12)と言っています。十分だと思った途端、私たちは神様を求めることを止めてしまっていると言ってもよいでありましょう。そして、それは神様を離れいくことの始まりになるのです。

ウルトラCの神の経綸
 さて、嵐の中より聞こえた神の声、待ちに待った神の声とは、いかなる声でありましたでしょうか。

 「これは何者か。
  知識もないのに、言葉を重ねて
  神の経綸を暗くするとは。」 (2節)

 厳しい言葉です。ヨブがあれほど苦しみに耐えて、ひたすら神様の答えを求め続け、また待ち続けてきたのに、神様はねぎらいの言葉の一つもかけてやってもいいのではないか。甘っちょろい私などは、ついそんな風に考えてしまいます。

 しかし、神様は容赦しません。お前は何様のつもりだ。お前は、わたしのことをどれほど分かっているのか? 何も知らないくせに、アーだの、コーだのと、神の正義を取り沙汰するなど、分際をわきまえぬ行為だと思わないのか、と叱るのです。この神様の厳しさはいったい何なのでしょうか。

 「知識もないのに」という言葉で思い起こすのは、先日の日曜日にお話しした「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」という、イエス様の十字架上の祈りです。

 イエス様の人びとの無知を知っておられました。しかし、イエス様は「知らなかったのだから、ゆるしてください」と祈っています。無知な者に対する深い憐れみが、イエス様にはあったのです。ただし、誤解してはなりません。イエス様が祈っておられることは、知らなかったのだから、彼らに罪はないということではないのです。その逆です。自分が何をしているのか知らないことこそ、罪の根源であるということをイエス様は仰っているわけです。

 人を殺す者も、差別する者も、騙す者も、盗む者も、姦淫する者も、みな自分が何をしているのか知らないからこそそのようなおぞましい罪を平気で犯しているのです。この無知のゆえに、人びとは神の御子であるイエス様さえ十字架につけて殺してしまいました。「知らなかった」では済まされないことです。人間として当然知らなければならないことを知らずにいたということが罪だと言ってもいいのではないでしょうか。

 しかし、イエス様は「それを赦し給え」と祈ってくださったのでした。この祈りは、イエス様の血を代価として捧げられた祈りであることを忘れてはなりません。無知の罪が赦されるためには、イエス様の血が流される必要だったのです。

 私たちは今もなお、自分が何をしているかを知らずして、神様に対しても、人に対しても多くの過ちを重ねています。それにも関わらず、私たちが神様の赦しを得、神様の愛と守りの中に生きることができるのは、イエス様の十字架による執り成しがあればこそなのです。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3:16-17)

 これは、神の経綸とは何かということを言い表した御言葉です。神の経綸、すなわち神様はいかなる方法でこの世界を、人の世を治め、保ち、導き給うかということが、ここに言い尽くされているのです。それは御子の十字架によって、この世界をなおも愛し、赦し、刷新し、保とうとするということです。

 しかし、これは人間の考える正義という観点からすると、はなはだ矛盾したことでもあるのです。正しい者が報われて、間違っているものが裁きを受けるのが正しい世の中だと、誰もが思っているのではないでしょうか。ですから、悪い人が富み栄えているのを見たり、立派な人が苦しんだりしているのを見ると、「神様は間違っているのではないか」と言いたくなるのが人の常なのです。

 しかし、それは神の経綸の深さというものを知らない人間の理屈なのだと言われるのです。

 「これは何者か。
  知識もないのに、言葉を重ねて
  神の経綸を暗くするとは。」 (2節)

 神様の経綸、つまりこの世を治める仕方というのは正義だけではなく、愛もあるのです。しかし、悪い人を赦すだけであったら、正義がなくなってしまう。悪い人を裁くだけであったら、愛がなくなってしまいます。どうしたら、罪人を愛しつつ、正義をも確立させることができるのか。神様はそういう究極的な難問に立ち向かいながら、この世を治めておられるわけです。結果、この世界には人間の目で見て、考えて、受け止めて、どうにも理屈に合わない矛盾が多く出てきます。しかし、それを見て、神様は間違っているのではないかと即断することはできません。

 たとえばヨブの受難もそうなのです。正しいヨブがこんな酷い苦難を味わうのはおかしいと、私たちは感じます。しかし、だからといって、神様が間違っていると誰が言えるでしょうか。神の経綸は、人間の思いをはるかに超えたところにあるのです。

 実は、神様はヨブを正しい人間だと認めていました。しかし、そこにサタンが茶々を入れたのです。「人は利益もないのに神を敬うでしょうか」と。サタンは、人間の本質をついています。ヨブとて原罪を負った人間のひとりにすぎないではないかと、サタンは言ったのです。

 人間の原罪、それは神様も否定できない現実です。しかし、それにも関わらず、神様はヨブの義を証明しようと、サタンの挑戦を受けます。そこには、罪ある人間の義を証明し、サタンの告発から守ろうとするウルトラCを成し遂げようとする神様の愛があるのです。この神の愛こそ神の経綸であり、ヨブの受難の原因だったのです。

 そのような神様の気持ちを知らず、「罪ある人間がどうしてのさばっているのか」とか、「正しい人間がどうして苦しむのか」とか、そんな言葉を重ねて神の経綸を否定してはならないということを、神様はお示しになっているわけです。
十字架の証人
 罪ある人間が義と認められる。このウルトラCが成し遂げられるためには、イエス様の十字架がどうしても必要です。それはヨブとて事情はまったく同じです。ところが、ヨブの時代には十字架どころか、イエス様がお生まれになってもいません。しかし、そのような時に、すでに神様は十字架ということを視野に入れて、人間を愛し、導いておられたのです。

 ヨブ記には、そのような神様のヨブに対する思いがはっきりと示されているところがあります。それが、少し遡りますが、16章と19章です。16章、19章というのは、ヨブの言葉がもっとも過激になるところです。神様を自分の打ち砕くために襲いかかってくる敵であると反抗心をむき出しにしたり、神は非道な方だから、私の救いなどありえないのだと絶望したりしています。このように聞くに堪えないほどヨブの言葉が反抗的になり、絶望していく最中に、ふとヨブの心にあることが浮かんでくるのです。

 「このような時にも、見よ
  天にはわたしのために証人があり
  高い天には
  わたしを弁護してくださる方がある。
  わたしのために執り成す方、わたしの友
  神を仰いでわたしの目は涙を流す。」(16:19-20)

 「どうか
  わたしの言葉が書き留められるように
  碑文として刻まれるように。
  たがねで岩に刻まれ、鉛で黒々と記され
  いつまでも残るように。
  わたしは知っている
  わたしを贖う方は生きておられ
  ついには塵の上に立たれるであろう。
  この皮膚が損なわれようとも
  この身をもって
  わたしは神を仰ぎ見るであろう。」(19:23-26)

 ヨブの心は、神への反抗心、絶望で心がいっぱいだったはずです。ですから、このような希望がはじめからヨブの中にあったわけではありません。ヨブも自分の中に浮かんできたこの思いにビックリしたのです。ですから、「この言葉を書き留めてくれ。岩に刻みつけてくれ。いつまでの残してくれ。消え去らないようにしてくれ」と頼んでいます。

 ヨブの反抗心と絶望でいっぱいの心に、突然与えられた信仰と希望の幻。それは、神様がわたしの弁護者となり、執り成す方となり、友となり、贖う方が天に生きておられるということです。この方によってわたしの潔白が証明され、義が認められる日が来るということなのです。

 ヨブは、罪人と義とし給う十字架の主の姿を見、そこにのみ自分の救いがあるということを知ったのです。そういう意味で、ヨブは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」という神の経綸、十字架の愛の証人となるために、苦難を受けていると言っても良いのです。
問いかける神
 そうしますと、最初に申しました神様のヨブに対する厳しさというのも、必ずしも厳しさだけではないと言わなければならないのではないでしょうか。

 ヨブの大きな間違いは、自分の罪を責め立てているのは神様であると思っていたことです。しかし、実は神様はヨブの弁護者なのです。サタンの告発に対しヨブを弁護し、たとえヨブが完全に義なる者でなくても、義と認めようとする御方であったのです。

 だとすれば、ヨブにとって最善の道は神様を責めるのではなく、神様を信頼して、神様の経綸に自分を委ねることであるはずです。たとえ、神様がなしておられることが、人間の目で見て、頭で考えて、心で受け止めて、どんなに不可解なものであろうと、そうすべきだったのです。それがヨブの義が証明される唯一の道だからです。

 しかし、ヨブにはそれができませんでした。神様が、「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。」 と仰る時のは、ヨブの無知を責めるというよりも、「わたしを信ぜよ」との神様の強い招きの言葉だったのです。

そして、神様はこう言葉を継ぎます。

 「男らしく、腰に帯をせよ。
  わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」

 神様に問い続けたヨブに、問い返されるのです。信仰を求めようとする人の中には、いろいろ自分の疑問を晴らそうとして「どうして、なぜ」と質問を繰り返す人がいます。きっと、納得できたら信じたいのだけど、なかなか納得できなくて困っているのでしょう。

 私はこのような姿勢を否定する者ではありませんが、信仰というのは問うことによっては生まれてくるものではないことを知ることも大切です。神に問う人間が、神に問われていることを知り、神に聞く人間になる時、そこから本当の意味での求道が始まるのです。パウロが、「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ロマ書10章17節)と言っている通りです。

 考えてみますと、ヨブははじめから神様に対してこんなに頑なであったのではありません。財産を奪われ、子供らを失っても、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(1:21)と答えました。自分自身が死ぬほど苦しい大病を患って、見かねた奥さんが「神を呪って死んだほうがましです」と嘆いた時にも、「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」(2:10)と答えました。しかし、ヨブのこのような信仰の限界を超える苦しみが、ヨブを苦しめた時、ヨブの信仰は大いなる混乱に陥りました。分かっていると思っている神様が分からなくなってしまったのです。

 まさに人生の嵐でした。そのような嵐の中で、主はヨブに語りかけ給います。そして、ヨブに「わたしに答えてみよ」と問いかけます。ここでヨブは、神に問う者から、再び神に聞く者に変えられるのです。それによって、ヨブは最初の確信をさらに深めて、神の経綸の前にアーメンという唱え、その愛を受け取るようにと神様に導かれていく、その序論が今日お読みしたところなのでした。
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