ヨブ物語 26
「愛なき信仰の恐ろしさ」
Jesus, Lover Of My Soul
ヨブ記18章
真実な言葉を聞く
 18章には、ビルダドの二回目の論戦が記されています。ビルダトはなかなか頭脳明晰な男だったようで、その主張は一点の隙もないほど筋の通ったものであるというところに特徴があります。

 しかし、それが彼の最大の欠点でもありまして、前回、7章を学ぶときに、わたしはビルダドを評して、「彼は頭でっかちのわからんちんであった」というようなことを言いました。内村鑑三なんぞはもっと苛酷な批評を下しておりまして、「ビルダデのごときは霊魂の藪医者なり。彼はいまだいためる心を癒すの術をきわめざりし者なり」と、藪医者呼ばわりをしています。悩める人の心というのは理屈だけでは決して推し量ることができないのでありまして、彼にはその辺の機微というものが分かっていないからでありましょう。

 「いつまで言葉の罠の掛け合いをしているのか。」(2節)

 ビルダドは、ヨブの苦悩からにじみ出てくる言葉を「言葉の罠」、つまり言葉による誤魔化しだといいます。ビルダドのように頭脳明晰で論理的な人間には、きっとヨブの言葉は矛盾だらけで、まったく筋が通っておらず、その場限りの思いつきや激情によって語っているだけの言葉だと思えたのでありましょう。

 確かに、ヨブの言葉を聞いていますと、神様を恨んでいるようでもあり、神様を慕い求めているようでもあります。もはや救いがないと諦めているようでもあり、なお神様に救いがあると期待しているようでもあります。しかし、このような論理的な乱れは、決してその場その場を繕った言葉の誤魔化しではなく、二つの気持ちが熾烈な戦いを繰り広げているヨブの苦悩の現れなのです。そこから生み出されてくる言葉というのは、たとえ論理的に乱れていても、実存をかけた言葉です。決して空しい「言葉の罠」などではなく、ヨブの人生をかけた重みのある真実な言葉となのです。

 ヨブの心は、神様を恨んで、呪って、死んでもおかしくないでもまったく仕方がない状況だったと言っても良いでありましょう。しかし、ヨブの心の中にはなおも神様への信頼や希望が損なわれずに存在しておりまして、それが不信仰や絶望に打ち勝とうとして必死なる戦いを挑んでいるわけです。

 圧倒的な絶望が心を占めるときに、それにも関わらず現れる微かな希望というのは、絶望に打ち勝って現れてきた希望でありまして、実は非常に強く、確かな希望に違いありません。同じように圧倒的な神様への不信感が心を占める時に、なおも現れてくる信頼の言葉というのは、不信仰と戦い抜いてきた信仰の告白でありまして、非常に重みのある言葉だと思うのです。

 新約聖書にも、こういう話があります。ある父親がイエス様に子どもの癒しを願って、「おできになるなら、わたしどもをあわれんでください」と言いました。すると、イエス様は「『できれば』というのか。信じる者には何でもできる」とお答えになります。父親はすぐさまこう叫びました。

 「信じます。信仰のないわたしをお助け下さい」(マルコによる福音書9章24節)

 信仰と不信仰が交錯するこの父親の言葉も、言葉の表面だけをみれば信仰とも不信仰ともとれる、真にいい加減な言葉ということになりましょう。しかし、この言葉が飛び出してくるまでに父親の心に何があったのかということを少しでも考えるならば、不信仰との戦いをしたことのない信仰より、ずっと信仰と不信仰が交錯するこのような信仰告白こそ真実で重みのある言葉に聞こえてくるのです。

 
理解されることよりも理解すること
 しかし、そのような機微が分からないビルダドは、ヨブの言葉を非論理的だ、言葉の誤魔化しだと、簡単に切り捨ててしまったのです。そして、いかにも馬鹿にした口調で、ヨブに「まず、理解しなさい」と言い放ちます。「それから話し合おうではないか」というのです。

 「まず理解せよ、それから話し合おうではないか。」(2節b)

 いかにも学者らしいビルダドの言葉ですが、いったい何を理解せよと、ヨブに求めているのでしょうか。

 「なぜ、わたしたちを獣のように見なすのか。その目に愚か者とするのか。」(3節)

 ビルダドは、私たちの忠告こそ正しいことを理解し、自分が間違っているということを素直に認めよ、と言いたいのです。しかし、実はこの言葉はそっくりそのままビルダドにお返しすることもできるわけです。ビルダドもまた、ヨブを獣のようにみなし、愚かな者と決めつけているのではないでしょうか。まず理解することなくして、相手を理解することはできません。ビルダド自身が、まずヨブを理解することから始めなければならないのです。
 
 さらに、彼は言います。

 「怒りによって自らを引き裂く者よ」(4)

 あなたは、自分の怒りによって盲目になり、自らに破滅をまねているという忠告でありましょう。しかし、ヨブは、神こそが自分に対して怒っておられるのだと考えているのです。しかも、なぜ神が私に対してそんなに怒っておられるのか、その理由がさっぱり分からないと、神様に訴えていたわけです。ビルダドは、そのようなヨブの心が読めていません。神ではなく、あなた自身の怒りが自分を引き裂いているのだと言っているのです。

 「あなたのために地が見捨てられ
  岩がその場所から移されるだろうか。」(4)

 ヨブがどんな激しく怒っても、それで大地が動くわけでもなく、岩がビクリとするわけでもない。あなたの言葉などは、何の意味もなければ力もない、空しいものなの言葉だと、ビルダドは言います。

 私もそうですが、口論になるとき、私たちは相手を理解するよりも、自分を理解してもらおうと必死になってしまいます。そして、自分を理解しようとしない相手を責め続けてしまうのです。しかし、それではお互いの気持ちはずっと平行線のままで、永遠に交わることはありません。話し合いというのは、相手を理解する気持ちがなければ決して成立しないのです。

 「まず理解せよ、それから話し合おうではないか」とビルダドは言いました。これは相手にぶつける言葉としてではなく、自分自身に言い聞かせる言葉としてなら、たいへん意味のある重要な言葉となることでしょう。
ビルダドの神観

 「怒りによって自らを引き裂く者よ
  あなたのために地が見捨てられ
  岩がその場所から移されるだろうか。」(4節)

 これは、ヨブを侮る言葉には違いありませんが、ビルダドの神様への信仰がどういうものであったかということも物語る興味深い言葉でもあります。ビルダドは、人間がどんなに必死なって神様に訴えても、祈りを捧げても、神様の道理、神様の支配というものはビクリともしないのだという考えをもっているわけです。だから、ヨブに対して、あなたが泣こうが、喚こうが、そんなことは神様にとって何ほどのことでもないのだ、という言葉が出てくるわけです。

 果たして、神様はビルダドの言うような御方なのでしょうか。否、神様は人間の祈りを聞き、時には譲歩をし、時には御心を翻し給う御方であることは聖書の中にいくらでも証拠を見出すことができます。

 たとえば旧約聖書ではヒゼキヤ王の話が有名です(列王記下20章1-7節)。ヒゼキヤ王が死の病にかかったとき、預言者イザヤが見舞いに来て、「あなたは死ぬことになっているから、今のうちに家族に遺言をしなさい」と告げました。死の宣告を受けたヒゼキヤは大いに悲しみ、顔を壁に向け、「ああ、主よ。わたしがまことを尽くし、ひたむきな心をもって御前に歩み、御目にかなう善いことを行ってきたことを思い起こしてください」と、涙を流して大いに泣きました。すると、主は、「わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た。見よ、わたしはあなたを癒し、三日目には神殿に上ることができるようになる」と、答えてくださったのでした。このように、神様は私たちの祈りを聞き、涙を見て、御心を変えてくださる御方なのです。

 イエス様もまた、神様がそのような御方であることを至るところで教えてくださっています。神様は父の愛をもってあなたがたの祈りを聞いてくださっているのだから、どんな時にも気を落とさずに熱心に祈り続けなさいというのが、イエス様の教え給う祈りの精神なのです。

 しかし、ビルダドはそのような父の愛をもった神様を知りませんでした。それゆえ、彼の神観や信仰も杓子定規になってしまうのです。
悪人の運命
 5節以下は、悪人の運命について、ビルダドの信念が語られています。

 「神に逆らう者の灯はやがて消え
  その火の炎はもはや輝かず
  その天幕の灯は暗黒となり
  彼を照らす光は消える。」(5-6)

 「灯」、「火」、「炎」、「光」という言葉が遣われていますが、それらは人の生活を表しています。神様の祝福のもとでは、それらのものは明るく、または勢いよく輝きますが、神の祝福を失うとそれは消滅してしまうという悪人の滅びについて語っているのです。

 「天幕の灯火は暗黒となり」というのは、家庭の中が暗くなり、冷え切ってしまうという意味だと思いますが、なかなか含蓄のある言葉だと思います。確かに、人生の崩壊というのは、家の中の明かりの有無が要となるのではないでしょうか。たとえ大きな試練にあっても、家庭の中に愛と信頼があればなんとか乗り切ることができるものです。しかし、どんなに平和であっても、家庭の中に愛と信頼がなくなってしまえば、人生は崩壊していきます。

 「彼の力強い歩みも弱まり
  自分自身の策略に倒れる。
  足は網に捕えられ、
  落とし穴に踏み込む。
  かかとは罠にかかり
  仕掛けられた網に捕まる。
  綱が地に隠されて張り巡らされ
  行く道に仕掛けが待ち伏せている。」(7-10)

 今度は、「策略」、「網」、「落とし穴」、「罠」、「仕掛け」という言葉が連発されています。悪人の人生というのは、たとえどんなに大路を行くようであっても、必ず落とし穴や、躓きがあるのだということが確信をもって語られているのです。しかも、「自分自身の策略に倒れる」とありますように、他人によって陥れられるのではなく、自分の生き方や計画をもって自分を滅ぼしてしまうのだというわけです。

 「破滅が四方から彼を脅かし
  彼の足を追い立てる。
  その子は飢え
  妻は災いに遭う。
  死の初子が彼の肢体をむしばみ
  その手足をむしばむ。
  彼はよりどころとする天幕から引き出され
  破滅の王に向かって一歩一歩引き寄せられる。
  彼の天幕には他人が住み
  その住みかには硫黄がまかれる。
  下ではその根が枯れ
  上では枝がしおれる。
  彼の思い出は地上から失われ
  その名はもう地の面にはない。
  彼は光から暗黒へと追いやられ
  この世から追放される。
  子孫はその民の内に残らず
  住んだ所には何ひとつ残らない。」(11-19節)

 ここに語られているのは、「破滅」、「死」、「追放」という悪人の運命です。「死の初子が彼の肢体をむしばむ」とは、ヨブの罹患した恐ろしい皮膚病のことを言っているのでありましょう。つまり、ビルダドは、この悪人の運命を決して一般論として述べているのではなく、ヨブの人生に当てはめているのです。四方から破滅が襲うということもそうです。家族に襲いかかる災いや、住みかに硫黄がまかれるといわれていることも、ヨブが実際に経験したことです。ビルダドは、ヨブを悪人と定め、滅び行く者として語っているのです。内村鑑三はこう言っています。「ビルダデは実に残酷にも剣をもって悩めるヨブの心臓を突き刺したのである」私たちは、このようなビルダドを見て、愛なき信仰がどれほど残酷に人を裁くかということについてよくよく心しておく必要があると思います。

 「未来の人々は彼の運命に慄然とし
  過去になった人々すら
  身の毛のよだつ思いをする。
  ああ、これが不正を行った者の住まい
  これが神を知らぬ者のいた所か、と。」(20-21節)

 かつての親友は、完全にヨブから離れ去りました。ヨブを慰めることなどまったく頭になく、ただただ責めることばかりです。しかし、このように友に見捨てられたヨブは、ますます神に近づき、神のみを仰ぐようになっていくのです。それが、次の19章に現れています。
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