天地創造 02
「地は形なくむなしく」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 創世記 1章2節
新約聖書 マタイによる福音書 6章25-34節
宙ぶらりんの人生
 空隙に消えて現る秋千の描きたる弧は夢か現か

 空隙(くうげき)は、隙間のことです。この歌では、天と地の間に広がる空間を表しています。秋千(しゅうせん)は、ブランコです。天と地の間に広がる空間に、弧を描きながら往き来するブランコ。子どもたちは空を蹴り、「もっと高く、もっと高く」と、無心にブランコを漕いで遊びます。子どもの頃、わたしも一生懸命にブランコを漕ぎました。友だちと高さを競ったりもいたしました。しかし、このブランコを、ちょっとシニカルな視点で捉えてみますと、天と地の空隙にぶらぶらとしているだけで、しっかりと地を掴むのでもなければ、天に昇り詰めるわけでもない。一生懸命に、必死になって漕いでいるけれども、結局は何も掴めないで、何もない空間を往きつ戻りつしているだけなのです。

 そこに人生というものを感じて、この歌を詠みました。わたしたちの人生も、このブランコのように、始まりもなく終わりもない茫漠とした空間を、ただぶらぶらと生きているだけなのではないでしょうか。気がついたら、すでに命あるものとして、この世に存在し、生きていました。そして、「なぜ、わたしが生まれてきたのか?」、「なぜ、この命を生きなければならないのか?」、「どこに向かって生きているのか?」、そんなことを考えるいとまもなく、急き立てられるように生きよ、生きよと言われるのです。勉強しなさい。体を鍛えなさい。お友達と仲良くしなさい。親孝行しなさい。恥をかかないようにしなさい。人に迷惑をかけないようにしなさい。立派な大人になりなさい。大人になればなったで、仕事をしなさい。家族を養いなさい。子供を教育しなさい。あなたの義務を守りなさい。命を大事にしなさい。病気をしてはいけません。頑張れ、頑張れ、負けるな、負けるなと追い立てられて、わたしたちは、この人生を生きています。

 そんななかで、この命を、どうしたら上手に生きられるのか? そのことは物心ついたときから散々聞かされてきました。そして、わたしたちも一生懸命にそれに応えて、生きてきました。しかし、立ち止まって考えてみますと、なぜ頑張らなければいけないのか? なぜ生きるのか? どこに向かって生きているのか? そういう命の初めと終わりを見つめるような、根源的な問題については、誰も教えてくれないままなのです。

 たとえていうならば、気がついたら自転車を漕いでいたようなものです。上手に漕ぎなさい。一生懸命に漕ぎなさい。漕ぐのをやめたら倒れちゃうぞ。真っ直ぐ進みなさい。迷子になったら戻れないぞと、さんざん脅かされる。だから、休んじゃいけない。倒れちゃ行けない。まよっちゃいけないと思って、必死になって自転車を漕ぐのです。しかし、休むことなく一生懸命に漕いで、まっすぐ進んでいったら、どこに辿り着くのか、行き先が分からない。行き先が分からないまま一生懸命に漕ぎ続けなければいけない。疲れたから休もうとしても、ゆるされない。行き先がわからないから戻って聞こうとしても、誰にきいていいのか分からない。出発地も終点も、わからないまま、一所懸命に漕ぎなさいといわるままに、自転車を漕ぎ続けている。生きるとは、それと似ているのです。

 古今東西を問わず、多くの人たちが、この命の始まりや終わりについて問い、考え、いろいろな答えを導いてきました。しかし、結局のところ、どれが正解なのか、そのなかに正解があるのかどうかすら、誰にも分かりません。わたしたちは、初めも終わりもわからないまま、気がついたら生きていた。ただそれだけの理由で、一生懸命に、必死に生きているわけです。
刹那に生きる道
 この悩ましい問題の解決方法のひとつは、「なぜ」と、問うことを止めることです。考えても分からない問題を、ウダウダ考え続けても仕方がない。今ある生をどうしたら楽しめるか。どうしたら幸せを感じることができるか。その刹那の幸せだけを、求めていく生き方です。しかし、「なぜ」と問うことを止めることは、自分の存在の意味や価値に、まるで無頓着な動物と同じように、生きることであり、何も考えない愚か者になることです。別の言い方をすれば、人間らしく生きることを、放棄することだといってもいいでしょうか。

 実は、そのような生き方を、敢えて試した人が、聖書の中にいます。ダビデの子ソロモンです。彼は、その経験を『コヘレトの言葉』という書に記しました。まず『コヘレトの言葉』3章18〜22節を読んでみましょう。

 人の子らに関しては、わたしはこうつぶやいた。神が人間を試されるのは、人間に、自分も動物にすぎないということを見極めさせるためだ、と。人間に臨むことは動物にも臨み、これも死に、あれも死ぬ。同じ霊をもっているにすぎず、人間は動物に何らまさるところはない。すべては空しく、すべてはひとつのところに行く。
 すべては塵から成った。
 すべては塵に返る。
 人間の霊は上に昇り、動物の霊は地の下に降ると誰が言えよう。人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだとわたしは悟った。それが人間にふさわしい分である。
 死後どうなるのかを、誰が見せてくれよう。


 人間も動物と何も変わらないのだから、動物のように何も考えないで、ただ命の求めるがままに生きようと考えたというのです。そして、実際そういう生き方をしてみるわけです。たとえば『コヘレトの言葉』2章1〜11節にはこんなことが書かれています。

わたしはこうつぶやいた。
「快楽を追ってみよう、愉悦に浸ってみよう。」
見よ、それすらも空しかった。
笑いに対しては、狂気だと言い
快楽に対しては、何になろうと言った。
わたしの心は何事も知恵に聞こうとする。しかしなお、この天の下に生きる短い一生の間、何をすれば人の子らは幸福になるのかを見極めるまで、酒で肉体を刺激し、愚行に身を任せてみようと心に定めた。
大規模にことを起こし
多くの屋敷を構え、畑にぶどうを植えさせた。
庭園や果樹園を数々造らせ
 さまざまの果樹を植えさせた。
池を幾つも掘らせ、木の茂る林に水を引かせた。
買い入れた男女の奴隷に加えて
 わたしの家で生まれる奴隷もあり
かつてエルサレムに住んだ者のだれよりも多く
牛や羊と共に財産として所有した。
金銀を蓄え
 国々の王侯が秘蔵する宝を手に入れた。
男女の歌い手をそろえ
人の子らの喜びとする多くの側女を置いた。
かつてエルサレムに住んだ者のだれにもまさって
わたしは大いなるものとなり、栄えたが
なお、知恵はわたしのもとにとどまっていた。
目に望ましく映るものは何ひとつ拒まず手に入れ
どのような快楽をも余さず試みた。
どのような労苦をもわたしの心は楽しんだ。
それが、労苦からわたしが得た分であった。
しかし、わたしは顧みた
 この手の業、労苦の結果のひとつひとつを。
見よ、どれも空しく
風を追うようなことであった。
太陽の下に、益となるものは何もない。


 快楽を追い求め、笑いを追い求め、立派な御殿を築き、贅沢を極め、世の珍しいものをことごとく集め、あらんかぎりの遊びに惚けてみた。しかし、その結果は、何も自分を満足させるものはないということを知るだけであったというのです。

 わたしたちは、ソロモンにように権力や有り余る富を持っているわけではないのですから、こんなやりたい放題の生き方なんて、願ってもできるものではありません。しかし、自分のできる範囲ではありますが、折々に生じる刹那の欲望に従い、それを満たすことを、人生の意味を問うことに優先させ、人生の問いに真正面から取り組み、自分の人生を確かに意味あるものにしようとすることを、おろそかにしてしまっていることがあるのではありませんでしょうか。

 生きるためには、生き甲斐が必要だといいます。そして、多くの人が生き甲斐を持とうとしています。けれども、生き甲斐は、人生のある一時だけ持てるものでは駄目で、人生の終わりの日まで、わたしたちを生かすものでなければならないのではないでしょうか。そして、そのような生き甲斐を持つためには、やはりわたしたちの始まりと終わりとを知らなければならないのです。なぜ、わたしがここに生きているのか。何のために生き続けるのか。生きることにはどんな意味があるのか。それを問わずして、生涯を通じた本当の生き甲斐を、知ることはできないのです。
混沌とした世界
 もし、わたしたちが、生物学的に生きるだけではなく、人間らしい魂をもった者として生きようとするならば、自分の命の始まりと終わりをしらなければなりません。しかし、結論から申しますと、この始まりと終わりは、わたしたちの経験の外にある出来事でありまして、決して知ることはできないものなのです。今日お話ししたいのは、そのことです。先週、『創世記』からお話ししましたのは、「はじめに、神が天地を創造された」ということでした。しかし、わたしたちはそれを知ることができないのです。それを、今日、み言葉を通して学びたいのです。

 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

 《地は混沌であった》といわれています。よく、この世界は混沌から生まれたといわれることがあります。それは、正確ではありません。1節に、《神は天と地を創造された。》(口語訳)とあるのですから、地は、神によって無から創造されたのです。しかし、神様が創造されたその地は、最初は混沌であったということです。

 混沌は、地が最初にもっていた、根源的な本性なのです。ここでいう地とは、前回もお話ししましたが、地球のことではありません。わたしたちが経験しうる全世界、全宇宙のことです。それにたいして、天があります。天とは、やはり大空のことではなく、特別な啓示がなければ経験することができない領域、たとえば天国であるとか、地獄であるとか、天使たちの住み給うところです。これも神様がお造りになった。この天は混沌であったとは記されていません。しかし、地は、混沌であったというのです。混沌こそが、わたしたちが生きている世界、つまり経験し得る全世界、全宇宙の本質なのです。

 その混沌の中に、闇がありました。闇とは、光がない空間です。そのことから、知り得ないもの、隠されたものを、闇ということがあります。わたしたちが感性をもっても、知性をもっても捉えることができないもの、それが闇なのです。

 その闇の中に、深淵が隠されています。深淵とは、裂けた深い谷間のことです。それは、落ちたものをすべてのみ込んでしまう底なしの深みであり、裂けた口は、決して渡ることができほど大きなものです。《闇が深淵の面にあり》とは、底なしの闇の深さ、広さを表現しているのではないでしょうか。

 それから、《水》が語られています。この水を、単純にH2Oと考えるのには、無理があります。形なく空しい混沌といわれている中に、H2Oのような整った分子が存在していることに、違和感があるからです。そこで、水とは、流動的なもの全般を指している言葉ではないかと思います。今ある世界の物質はすべて原子を素材としていますが、その原子すら形をなしていない混沌のなかに、形ある物質の根源となる形なき流動的な素材があったということかもしれません。

 そこに、《神の霊が覆っていた》とあります。とても不思議な表現です。覆っていたというのは、ちょうどめんどりが翼の下に雛を抱くような状態のことをいうのだそうです。つまり、愛をもって抱くことです。

 地の本質は、混沌であると申しました。混沌とは、わたしたちが感性においても、知性においても、捉えることができない闇です。その闇は、限りなく深い深淵を抱えています。また、この地には、そのままでは形なく意味をなさない水のような、流動的ものが満ちていました。そして、それらすべてを、《神の霊》が抱いていたのです。神の霊は、神とは別の何かではありません。ですから、こう言い換えてもいいのです。この混沌は、神の懐に抱かれていた、と。これが、この地の、つまり宇宙の本質であると、聖書は語っているのです。

 しかし、この地は混沌であり、闇であるがゆえに、わたしたちはそれを知り得ません。わたしたちの人生は、初めも終わりも分からない宙ぶらりんであると申しましたが、それは、混沌である地の本質からくることなのです。それにもかかわらず、わたしたちは、この闇のなかにあって、神の霊に覆われている。別の言い方をすれば、神に愛されているのです。これも、神様が創造した地の本質を表しています。

 この世界にあって、わたしたちは闇を経験し、深淵を経験し、水のような形の定まらない流動性を経験するかもしれません。しかし、同時に、この地を覆う神の霊を、神の愛を、この闇の中で経験することができるのです。この神の愛を知り、み言葉を信じ、イエス・キリストを信じるほか、わたしたちはこの闇のなかで光を持つことはできないのです。

 初めに神を天地を創造された。

 先週、わたしたちのすべての始まりは、神によって始められたのだ。そして、神様がはじめたがゆえに、神様が運んでくださるのだと申しました。そして、これはわたしたちの大きな希望だと申したのです。同時に、これはわたしたちが信じるしか術のないことだということも、知らなければなりません。神様はヨブにこういわれました。

わたしが大地を据えたとき
お前はどこにいたのか。
知っていたというなら
理解していることを言ってみよ。
         (ヨブ記38章4節)


 神様の天地創造の御業をみた者は、誰もいません。ただ啓示によってのみ、そのことがわたしたちに示されているのです。信仰によってのみ、これはわたしたちの真実となるのです。

 先日、病床で緊急洗礼を受けられ、二週間後に、天国に行かれたY姉のことを思い起こします。彼女は、中学校の社会科教師として働かれたあと、埼玉県さわやか相談員となられ、不登校など心に問題をかかえて揺らぐ子供たちの指導に13年間あたってきました。彼女の力添えを受けた多くの子どもたちが、高校を卒業し、社会人として活躍しておられ、卒業後もY姉を慕う教え子たちがたくさんいました。それが、Y姉の大きな喜びであり、生き甲斐でもありました。本来であれば、これからも、ますますその経験を生かして、助けを必要としている多くの子どもたちのために生きたいと願っておられたことでありましょう。しかし、52歳という若さで、非常にたちの悪い病気にかかられまして、自分の死と向き合うことになりました。

 お亡くなりになる二週間前のことです。Y姉は、キリスト教の洗礼をお受けになることを希望されました。そのことが、荒川教会の信徒であるK姉を通じて、わたしに知らされました。病床を訪ねたとき、わたしは、はじめてお会いするY姉に、「ご病気でお身体が辛いのはもちろんでしょうが、心の問題で、何か苦しいことがありますか」とお聞きしました。すると彼女は、「みなさんが、『頑張って』と励ましてくれるけれども、病気は少しもよくならないし、何のために頑張っていいのかわからない」と、おっしゃいました。つまり、生き甲斐の問題を、問われたのです。Y姉は、真面目で、しっかりしたお考えや強い心をお持ちの方ですから、これまでいろいろな困難があっても、神様を信じなくても、自分の力で、自分らしく生きてくることができたのでありましょう。しかし、何もできなくなって、ただ死が訪れるのを待つだけの状態になって、それでもなお生き続ける命を、存在し続ける自分を、終わりまで生きていなくてはならないとなったとき、耐え難い空しさに襲われたのです。

 「何のために生きるのか」と問うY姉と共に、私は聖書を読みました。そして、人間が、神様の愛の中にあること、誰もがやがてはその生涯を閉じることになるけれども、たとえ何もできなくなっても、最後の瞬間まで神様と人々の愛の中に生きることが、神様の御心であり、その御心によって、わたしたちは意味と価値がある者とされるのだと、お伝えしました。そしてお祈りをいたしますと、Y姉は、わたしが来る前にすでにお気持ちは決まっておられたようですが、「洗礼を受けたい」と申し出られました。わたしが「イエス様を、救い主として信じますか」と問いますと、「はい」と答えられたので、その場で、洗礼を授けました。その二週間後、彼女は静かに息を引き取らたのです。生かされた二週間、彼女は、本当に自分らしさを取り戻して、自分を支えてくれた人々に感謝しつつ、天に召されました。

 天地の造り主なる神様を信じること。それが茫漠とした世界の中で、宙ぶらりんに生きるしか術をもたない、わたしたちの人生に、終わりの日まで価値を与え、意味を与え、目的を与えるのです。そして、足を地につけ、天の約束をしっかりと望ませて、しっかりと生きることができる者とするのです。
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