天地創造 01
「はじめに神、天と地を創り給へり」
Jesus, Lover Of My Soul
旧約聖書 創世記 1章1節
新約聖書 ローマの信徒への手紙 11章33-36節
創世記について
 『創世記』は、聖書全体の初めにおかれている文書です。ここから、聖書が物語る神と人間との歴史、そして救いの物語がはじまります。ですから、ここには、聖書の世界観、人間観、歴史観の前提が示されているといってもいいでしょう。これを読んでおかなければ、聖書が何をいっているのか分からなくなってしまうと言っても過言ではありません。

 世界観とは何でしょうか。よく「世の中はお金だ」、「世の中は力だ」、「世の中は不公平だ」ということを耳にします。「正直者は馬鹿をみる」、「地獄の沙汰も金次第」という諺もあります。では、聖書は、この世界について何と言っているのでしょうか。世間で言われていることと違うというなら、なぜ違うのでしょうか。どう違うのでしょうか。聖書全体が、その答えを様々な角度から語っていますが、その基本中の基本が、『創世記』に示されているのです。

 人間観、歴史観についても同じです。いったい自分とは何者なのか。なぜ生まれてきたのか。どう生きたらいいのか。何のために生きるのか。人生における様々な悲しみや苦しみは何なのか。運命とは何か。死んだ方がましだ。自分の好きなように生きて、何が悪いのか。邪魔な奴を殺して、何が悪いのか。良いことをしたら、幸せになるのか。そもそも幸せとは何か。死んだらどうなるのか。救いはどこにあるのか。本当に救われるのか。自分を理解したり、困難な人生を生きていくうえで、大切になるこのような問いに対して、神様の答えを与えてくれるのが聖書です。そのいちばん基本となることを、『創世記』は、わたしたちに物語っているのです。

 ですから、『創世記』を理解しなければ、聖書全体も分かりません。聖書の大切なメッセージである神様の愛とか、人間の救いとか、世の裁きとか、そういうことも分かりません。さらに言えば、イエス様の十字架と復活ということも、わからないのです。

 『創世記』には、神様による二つの創造が記されています。ひとつは、1〜11章に記されていることで、私たち人間を含むこの世界の創造です。神様が、この世界を造られました。人間を造られました。しかし、人間は、神様を離れて、自分勝手に生き始めてしまいます。その結果、人間の世界は堕落し、神様は洪水をもってこれを一掃されます。その際、ノアとその家族、最小限の動物たちだけを生き残らせ、そこで神様と人間との関係が仕切り直されるのです。これが第一の創造です。

 第二の創造は、12章〜50章に記されていることで、全人類の祝福の源となる神の民の創造です。神様はノアの子孫に生まれたアブラハムを選び、彼の信仰を育てます。そして、子どものいなかったアブラハムに子どもを授け、その子孫をもって、神の民を作り上げられるのです。

 この二つの創造の物語の中に、現代を生きる私たちひとりひとりの持つべき世界観、人間観、歴史観の基礎があります。そして、今回、私たちが読み進めていきますのは、第一の創造の部分です。実は、『創世記』については、2001年〜2003年にかけて、私たちはこの礼拝で12章〜25章に記されているアブラハムの物語をご一緒に読んで学んできました。2006年〜2007年には37章〜50章に記されているヨセフの物語をご一緒に読みました。つまり第二の創造の部分については、すべてではありませんが、すでにお話しをしてあります。ですから、今回は、1章〜11章に記されている第一の創造のメッセージ、天地創造、そしてアダムとその子孫の物語をご一緒に読んでまいりたいと思うのです。
初めに神、
 初めに、神は天地を創造された。

 『創世記』のはじめに記されている言葉です。それは、聖書のはじめに記されている言葉でもあります。

 初めに、神は天地を創造された。

 神が天地を創造された。これが聖書の最初のメッセージです。《初めに》とあります。私たちが生きている世界には、さまざまな始まりがあります。たとえば、今日から『創世記』を読み始める。これも一つの始まりです。この始まりは、誰が始めたのでしょうか。祈りつつとはいえ、私がここを読もうと考え、願い、決めたわけですから、私が始めたといってもいいと思います。しかし、これを始めるためには、18年前に、わたしが荒川教会の牧師に招聘された始まりがあります。これは、私だけではなく、荒川教会の皆さんが祈りつつ決めたことであります。さらにさかのぼれば、わたしが牧師としての召命を受け、その道を歩み始めたという始まりがある。さらにさかのぼれば、私という存在の始まり、つまり誕生があればこその今日の礼拝であり、説教であるとも言える。もっとさかのぼれば、私が生まれるためには両親の誕生があり、結婚があります。つまり、私が申し上げたいのは、始まりが始まるための始まりがあって、それが誰によって始められたものであれ、ずっとさかのぼっていくと、実は《初めに、神は天地を創造された。》ということに辿り着くということなのです。これがなければ、どんな始まりもないのです。これがあればこそ、私たちはいろいろな始まりを経験することができるのです。

 すると、どうなのでしょうか? 私が始めた。お前が始めた。誰かが始めた。自然に始まった。しかし、実はどんな始まりも、結局は、神が始められた、それがなければ何も始まらなかったのだ、そこに帰結するのだということなのです。

 初めに、神は天地を創造された。

 神様が始められたこの始まりに、私たちの世界が始まりがあります。私たちの存在の始まりがあります。新しい一日一日の始まりがあります。私たちが始めたことであれ、誰か他の人が始めたことであれ、自然に発生したことであれ、すべてのことは、神様が始めたこの始まりの中にあるのです。使徒パウロがいったように、《我らは神の中に生き、動き、存在する》(『使徒言行録』17章28節)のです。

 このことは、私たちの希望の源です。なぜなら、神様が始められたことは、すべて必ず善いことであるからです。もちろん、神様が善きこととして始められたものを、私たち人間の愚かな行為が台無しにしてしまうことが起こりえます。実際、そういうことが起こっているのです。戦争や、犯罪や、人権の蹂躙や、環境破壊や、ケアレスミスによって人を傷つけたり、大きな損害を与えたりしてしまうようなことや、そういうことの一切を、神様のせいにすることはできません。そのようなことは、神様を恐れず、神様に背いた人間のしでかしたことであり、自業自得としかいいようのないことです。その責任は、私たちに、人間にあるのです。

 それにも関わらず、神様は、この世界に対して、私たち人間に対して、創造主としての責任を感じてくださっています。そして、天の父としての愛をもち続けてくださっています。その神様の言葉を、預言者イザヤはこのように伝えました。

 わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。(『イザヤ書』第46章4節)

 あるいは、イエス様はこのように言われています。

 父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。(『マタイによる福音書』第5章45節)

 神様は、天地の創造主として、この世界にする、しかも私たちひとりひとりの人生にまで及ぶ、責任を負ってくださるということをいっているのです。それゆえ、神様がすべてのことを始められた創造主であることを信じる者には、自分の失敗、過ち、罪がどんなに大きなものであったとしても、希望があるのです。神様のそのようなものたちを、なお自分が生み出したものとして、なお背負い続けてくださる。最後まで背負い通してくださるという希望です。

 たとえば、覚醒剤で人生から転落してしまった人が、今は牧師になって同じような人々の再出発を手助けしているという話を聞きました。覚醒剤で人生を失敗してしまったことが、神様の業だとは言えません。それは愚かな人間の行為が引きおこした結末でありましょう。しかし、そのような取り返しの付かない失敗をしてしまった人も、はじめに神様の創造の御業によって命をあたえられ、人生を与えられたのです。それゆえ、神様はそのような人の失敗にも惜しみなく御手を差し伸べてくださり、軌道修正させてくださることがおできになるのです。それどころか、神様の栄光さえ表す者とされるわけです。

 先日お話ししたオネシモもそうです。彼は、善良な主人フィレモンから、金を盗んで逃げ出してしまった。そして、ローマで自由に生きようとしたけど、そこでも悪いことをして捕まってしまうのです。いったん悪の道に踏み込むと、どんどん堕ちていくのが、人間の常です。しかし、その牢屋で、パウロに出会いました。そこで、オネシモは、キリストの福音に触れ、神様の栄光を表すような人間として生まれ変わったのでした。

 それは、神様がなおそのような愚かな者、罪深き者を、創造主としての責任をもって負い続けてくださるからでありましょう。それゆえ、使徒パウロは、このようにもいっています。

 すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。(『ローマの信徒への手紙』11章36節)

 神様が、この世界を、私たちを、善き力をもってお造りになりました。それゆえ、この世界も、私たちも、神様の善き力によって保たれ、導かれているのです。人間の力では、取り返しのつかないことはいくらでもあります。神様のこのような力を信じない者には、絶望が襲うでしょう。しかし、神様がすべてのことを、善き力をもって始められ、それゆえに神様がそれを保とうし、導こうとしてくださっているのだということを信じるならば、私たちには取り返しのつかないことは何一つないのです。

 それならば、どうすればいいのでしょうか? すべてのことは神が始められたということを信じ、神様の創造の御力を信じることです。
創造された
 初めに、神は天地を創造された。

 創造するとは、まったく新しいものを生み出すことです。人間も多くのものを生み出し、発明しています。しかし、それらはまったく新しいものだと言えるでしょうか? 自然にあるものを模倣したり、工夫をこらしたり、新しい利用方法を考えたに過ぎないのではないでしょうか。何もないところから、まったく新しいものを始めることは、人間にはできないのです。たとえば無から有を生み出すことはできません。死から命を生み出すこともできません。闇から光を生み出すこともできません。しかし、神には、それができるのです。神は創造者だからです。

 私たちの希望は、神が始められたということと共に、神が創造者であるということにあります。私たちがもっていないものを、神は与えてくださることができるのです。神は、善がひとつも宿らないような罪深き者を、善に満ちた者に変えることが出来ます。絶望した者に、希望を与えることができます。愚かな者に、まことの知恵を与えることができます。私たちの心や、私たちの世界が、私たちに与えるのではありません。その外から、神様の創造の御力によって、神様のもとから、私たちのところに来るのです。私たちが白髪になるまで、担い、背負い、救い出そうと言ってくださる創造者のもとから来るのです。悪人にも善人にも太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる創造者のもとから来るのです。

 だから、イエス様はこう言われたのでありましょう。

 求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。(『マタイによる福音書』7章7-11節)

 造り主なる神様を信じ、信頼し、その神様の御業がこの世界に、自分のうちに行われることを祈れということです。そうすれば、神様は喜んで私たちのためにその御業をなしてくださるのだというのであります。
天と地
 最後に、「天地」を創造されたということについて考えてみましょう。

 初めに、神は天地を創造された。

 神様は、天地を創造されたと書かれています。天地というと何かひとつのもののようですが、実は違います。神は《天》《地》を創造されたということです。そして、2節以下をみますと、《地は混沌であって》云々と、神様による地の創造について語られています。この《地》の中に、大空の創造が含まれています。さらに太陽、月、星といった宇宙の創造も含まれています。これらものは皆、神様が創造された地に属するものなのです。

 それに対して、神様は《天》をも創造されました。《天》とは《地》ではないもの、つまり私たちが生きているこの世界、宇宙でないものです。それがどこにあり、どのように創造されたかは記されていません。しかし、天使やサタン、さまざまな霊的な存在が、聖書に記されています。また天国や、陰府の存在が、語られています。このようなものが属するのが《天》なのです。

 神様は地だけではなく、天をも創造されました。私たちは地に属する存在です。したがって、地にあることについては、自ら経験することもできますし、ある程度まで自然科学の知識をもって知ることができましょう。けれども、神様がお造りになった世界は、それだけではなかったのです。私たちがこの地上からでは決して届かぬ世界、言葉では尽くせない世界、特殊な啓示によらなければ経験としても味わえないような世界、そういう天なる世界を、神様は創造されたのです。

 神は天と地を創造された。私たちはこのみ言葉によって、本当に謙遜にされなければなりません。科学の知識をもって、聖書を否定することはできません。私たちの経験によって、聖書を否定することもできません。神様がつくられた世界は、決して私たちの知識や経験で知り得るような小さなものではありません。私たちの知恵、知識で知り得るのは、神様が造られた天と地の世界の、地の側だけなのです。

 聖書を読んでいきますと、この天なる存在が、私たちの地と無関係に存在しているのではないことがわかります。イエス様が洗礼をお受けになったとき、天が開けたと記されています。また天に宝を積めとの教えもあります。バプテスマのヨハネは、《天から与えられなければ、人は何も受けることができない。》(『ヨハネによる福音書』3章27節)と教えました。使徒パウロは、《わたしたちの本国は天にあります。》(『フィリピの信徒への手紙』3章20節)ともいっています。たとえ経験することなく、知識として知ることがなくても、神様がお造りになった天の存在を、私たちは信じて生きていくことが求められているのです。

 初めに、神は天地を創造された。

 今日は、この聖書の最初に記されたみ言葉が、私たちの世界に、人生に語りかけるものについて考えました。それは本当に力強い、希望に溢れた、世界観、人生観、歴史観であります。

 第一に、私たちの世界も、歴史も、私たちひとりひとりの人生も、神によって始められているということです。従って、それは本来、素晴らしいものであること、美しいものであること、善きものであることを、信じたいと思います。

 第二に、神様が創造者であるということです。神様が善きものとして始められたものを、人間の行いによって台無しにしてしまっているとしても、なお神様はこの世界の、またわたしたち一人一人の創造者であられ、私たちに対して責任を感じていてくださっています。そして、無から有を、死から命を、闇から光を創造される御業をもって、私たちの中に善きものを与えようとしてくださっているのです。

 第三に、神様がお造りになった世界は、この地だけではなく、天をも創造されたということです。私たちはこの地についてすべてを知り尽くしたとしても、なお知らないことがあるのです。そのような者として謙遜に、神様のみ言葉に耳を傾けることが、大切なのではありませんでしょうか。
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