キリスト教人物小伝(18)
有馬四郎助(1864-1934)

 網走刑務所の鬼典獄

 網走刑務所の初代所長、有馬四郎助(しろすけ)は鬼典獄と言われ、囚人たちに非常に恐れられていました。

 当時、網走刑務所は、釧路集治監の分監として開設されました。集治監とは刑務所の前進ですが、刑務所というより強制収容所に近い存在です。北海道には開拓政策の一環として多くの集治監が作られ、受刑者が開拓事業の苛酷な労働に従事させられました。剣と銃とに見張られながら、足につながれた鎖をきしらせての重労働で、苦役に耐えかねて脱走する者も後を絶たなかったと言われます。獄内の秩序も乱れに乱れ、各地で殺傷、放火、暴動などが起きていました。そのような荒くれ者たちを扱うには、鬼のような厳しさをもって秩序を教え込むのが一番であると、彼は信じていたのでした。

 回心

 有馬は鬼典獄として受刑者から恐れられるだけではなく、キリスト教に大反対の人としてキリスト教教誨師から警戒されていました。しかし、そのような有馬が一転してクリスチャンになると、愛に満ちたクリスチャン典獄として、受刑者たちが敬愛されるようになります。

 有馬をキリスト教に導いたのは、釧路集治監で教誨師をしていた大塚素(おおつかひろし)という牧師でした。当時の北海道ではキリスト教の教誨が盛んで、後に女子学院の創設者となる原胤昭や、同志社総長になる牧野虎次など一流のクリスチャンが多く活躍しています。そのような中で、有馬もキリスト教に触れる機会が多くあったと思われますが、なんといっても大塚牧師が有馬に与えた友情と影響は大きなものでした。

 大塚牧師は、教誨の仕事のかたわら有馬のために『マルコ伝』の講義を郵便で書き送るという大変な仕事を始めます。この手紙は、北海道の厳寒中に指先を暖めながら深夜まで筆を走らせたものであり、講義の前後に祈りや助言が記されており、真理を伝えようとする熱意と友情に満ちたものでありました。有馬はこれをむさぼるように読み、キリスト教を謙虚な気持ちで学ぶようになったのでした。

 大塚牧師によって神の教えとキリストの愛を知った有馬は、巣鴨監獄に転任し、霊南坂教会の留岡幸助牧師より洗礼を受けます。そして、ひとたび洗礼を受けると、彼は非常に徹底した信仰生活を送るようになり、彼の典獄としてあり方も本質的に変化していきました。囚人たちを力で抑えつけてきた態度を一変させ、刑務所における囚人たちの劣悪な環境を改良したり、社会復帰のために職業訓練の場をもうけたり、世の人々の監獄への理解を高めようとしたり・・・現在の民主的な刑務所のあり方の基礎を築いたのは、すべて彼の功績であったと言ってもよいでありましょう。

 巣鴨教誨師事件

 巣鴨教誨師事件は、有馬を鬼典獄としてではなく、クリスチャン典獄と世に知らしめるきっかけとなった事件です。巣鴨監獄の典獄に任ぜられた有馬は、教誨師事業が東西両本願寺の僧侶に独占されており、教誨をするにしても囚人たちを荒筵の上に一時間も正座させ、囚人たちはその苦痛のために教誨の言葉も耳に入らない様子を目の当たりにします。

 それを見かねた有馬は留岡幸助牧師を教誨師として迎えたのでした。ところが、これまで教誨師を独占していた本願寺の僧侶達がこれに猛反発し、全員揃って辞表を提出し、教誨堂から仏像を搬出し、事態を本山に伝えたのでした。本山は、これを僧侶を解雇し、牧師を教誨師をした有馬の暴挙として非難し、政府(大隈内閣)にまで檄文を送る大騒ぎとなったのでした。新聞もこれを取り上げ、世論は沸騰し、議会に建議案が出されるなど、「帝国議会まで巻き込んでの事件となりました。

 そのような中、有馬や留岡は悠然と構え、囚人らのために日々の多忙な仕事を落ちついてこなし続けたといいます。結局、事件は本願寺側の空騒ぎであり、何ら合理性もないことが明らかになって事件は終息するのですが、これによって刑務界や世間に教誨師事業への関心を喚起させ、教誨師事業が真剣に考えられるようになるきっかけとなったのでした。

 クリスチャン典獄として

 有馬四郎助は、監獄事業に対する市民の理解を深めるために講演活動などを行ったり、「監獄デー」運動を展開して、教会の礼拝で監獄にちなんだ説教をしてもらい、その日の礼拝献金を釈放された囚人たちの更正のために寄付してもらうなどしました。

 好地由太郎の交わり

 好地由太郎は以前にこのクリスチャン小伝でも紹介したことがありますが、殺人、放火などの罪で無期懲役となった囚人です。監獄の中で字を習い、聖書を読み、キリスト教信仰を持ちました。その陰には留岡幸助牧師や有馬の愛と計らいがあったと言います。恩赦を得て、好地が出獄する時、有馬は身よりのない彼の御許に引受人になりました。そして、好地が23年ぶりに監獄の裏門から外に出ると、そこに制服ではなく和服姿の有馬の姿があり、「今日は署長ではない、君の友達だ」と言って、自分の家に連れて行き、家族に「お客さんだよ」と言って、座敷に案内したと言います。

 小田原幼年保護学校の設立

 有馬の管轄下にある横浜監獄は小田原に幼年監を併設し、幼年犯罪者を収容していました。有馬はこの非行少年少女たちをどのように教育し救済するかということを典獄としての職務上の責任を越えて、一人の人間、クリスチャンとして思い悩みます。刑務官吏としての立場にはどうしても限界があることを悟り、私人として小田原幼年監のすぐ近くに一軒の民家を借り、幼年監を出た少年少女たちの更正施設として「小田原幼年保護会」を設立するのです。さらに女子専門の「根岸家庭学園」を設立するなど、公務の余暇を少年少女の保護訓育事業のために費やし、努力をしました。

 『窓の光』の発行

 当時の囚人はラジオを聞くことはもちろんのこと、新聞や雑誌を読むことも禁じられ、社会に対する耳や目を完全にふさがれていました。それらの中に囚人たちの悔悟心を妨げるものがあるという理由もありましたが、何よりもそうすることが、それが囚人たちへの刑罰であると考えられていたからでした。

 しかし、有馬は監獄の目的は囚人たちをいじめることではなく、囚人たちが再び社会の中で生活できるように更正させることであると信じ、囚人たちのための新聞『窓の光』を発行します。『窓の光』には、諸新聞からの切り抜きなど囚人たちに社会の出来事を知らせる記事が載せられていました。これはやがて全国の監獄に配布されるようになります。また、日本における行刑史上初の映画観覧を実現させたのも有馬でありました。

 有馬と聖書

 有馬の聖書には、至るところに感想や所感が書き込まれており、日付まで入っているものもあります。それを見ますと、旅行中、病気療養中も聖書を持参していたことがわかります。

 巻末の余白には、最初に聖書を通読し終えた日の日付「明治三八年全巻読了」と記されており、また大正七年一月三十一日「ここに第十一回の読了をとげ給ひしを感謝し奉る。御旨の高遠なるを益々仰ぐ、益々高く、いよいよ進めば益々遠し。願くば終生これを尋ねて倦まざらしめたまへ」とあります。

 八歳の四男が病死したときにも、彼は聖書をむさぼるように読み、御言葉に慰めと励ましを得ていたことが、彼の聖書の書き込みによって知られます。孫が生まれたときの喜びもまた、彼は聖書の余白に「公用にて豊岡刑務所にあり、この報に接し、驚きかつ喜べり」と書き記しました。

 また有馬の力量手腕を買われ、横浜市助役の就任への誘いがあった時には、有馬は「大いに心動かされ、いささか方向に迷ふところなき非ず」と心の迷いを記しています。聖書は、まさに有馬の人生の終生の伴侶であったのです。

 関東大震災

 聖書の中に、刑務所にちなんだ有名な物語があります。

 主の弟子であるパウロとシラスがフィリピで迫害を受け、牢に投獄されてしまいます。それでも彼らは牢の中で神を讃美し続け、他の囚人たちはこれに聞き入っていました。すると真夜中、大地震が起こり、獄舎が倒壊し、すべての牢の扉が開き、囚人たちを繋いでいた鎖も外れてしまったのでした。

 看守は囚人たちが皆逃げてしまったと思い、責任をとって自殺をしようとします。その時、「死んではいけない。私たちはみなここにいる!」と大声でパウロは叫びました、看守があかりをもってきて調べてみると、たしかに一人の逃走者もいませんでした。みな、パウロとシラスの感化を受け、二人の指導に従ったに違いありません。これを知った看守は自らも洗礼を受け、一家で洗礼を受けたといいます。(使徒16章)

 これと同じ事が、1923年の関東大震災の時に、小菅監獄でおこりました。小菅監獄は激震のために煉瓦造りの建物が倒壊し、三人の受刑者が下敷きになって死亡しました。残りの受刑者たちは壁も鉄格子もない小菅原に避難しました。このような大混乱のなか、有馬四郎助の恩義に応えるのはこのときとばかり、受刑者が自ら率先して自警団をつくり、互いに逃走を戒め合い、ついに一人の逃走者も出さなかったというのです。

 五年後、ウシスコンシン大学社会学教授ギリン博士が来日にして、有馬に大震災で一人の逃亡者も出さなかった秘訣について尋ねました。有馬は次のように応えています。

 「あなたは多分、私がクリスチャンであることをご存じでしょう。私は各人の善に対する可能性を信じ、彼らを囚人としてではなく、人間として処遇します。彼らが不平をもてばよく聞きただしてやります。できれば彼を直してやります。私は彼らと友人になろうと努力します。彼らが生活方法で気のつかない過誤があれば、教えてやることにします。私は彼らを釈放するに際し、正直な生活につくよう助力します。私はキリスト教について説教は致しません。ただその教えが生きるように試みました。」

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日本キリスト教団 荒川教会 牧師 国府田祐人 電話/FAX 03-3892-9401  Email:yuto@indigo.plala.or.jp