■ ビザを求めるユダヤ人難民たち
第二次世界大戦中、ナチスによるユダヤ人大虐殺を逃れようとして難民となったユダヤ人六千人の命を救った日本人がいました。バルト三国の一つリトアニアの首都カウナスの日本領事館で代理領事をしていた杉原千畝(ちうね)です。代理といっても日本人は彼だけで事実上は領事でした。そして、彼はハリスト正教会のクリスチャンでもありました。
1940年7月27日の朝、杉原は、いつもとは違って、外がやけに騒がしいのに気がつきます。急ぎカーテンの隙間から外を伺ってみると、建物の回りにはヨレヨレの服装をした老若男女ばかりが、ざっと百人ぐらい公邸の鉄柵にしがみついて、何やらこちらに向かって必死に訴えている光景が目に飛び込んできたのでした。
これはただ事ではないと直感し、どうしたものかとマゴマゴしているうちに、人だかりはどんどんふくれあがってきました。実は、この人々はユダヤ人狩りを恐れ、ナチス・ドイツの侵攻を受けたポーランドから歩いて逃げてきたユダヤ人難民だったのです。
彼らの願いは、ソ連・日本を経由して、それ第三国(アメリカや南米)へ移住するための、日本通過ビザを発給して欲しいことでした。すでにオランダもフランスもドイツに破れ、ナチスから逃れる道は、シベリア−日本経由の道しか残されていなかったのです。
杉原は、これらの人々の中から彼ら自身が選出した五人の代表者と話し合いをし、できるだけ協力をしたいと願いますが、何しろ大勢です。数人の通過ビザなら領事の権限で発行できますが、数千人のビザとなると公安上の見地から本国の許可が必要だったのです。杉原は外務大臣に伺いを立てる間の四日ほど待って欲しいと説得しました。
杉原は、早速、外務省に電報を打って問い合わましたが、返事は「否」で、最終目的国の入国許可を持たない者にはビザを発行するなということでした。難民は命からがら、着の身着のままで逃げてきたのですから、そんな許可証を持っている人など一人もいなかったのです。
■ ビザの発給を決意する
杉原がビザを出さなければ、外のユダヤ難民の運命は決まっています。杉原はあきらめずに二度、三度と外務省に電報を打ちました。
当時の外務大臣は日本の国際連盟脱退を演じた松岡洋右です。国際連盟を脱退し、国際的に孤立していた日本は、防共を旗印にして「日独防共協定」を結び、ドイツとの関係を深めていました。そして、1940年年9月には、まさに「日独伊三国同盟」が調印されようとしていた時です。ドイツの意向に反するビザ発行を許可しないのも当然と言えば当然でした。
杉原はとても苦しみ悩み、殆ど眠れませんでした。その時の様子を歌人である幸子夫人は次のように詠んでいます。
ビザ交付の決断に迷ひ眠れざる
夫のベッドの軋むを聞けり
杉原は苦しみ祈った結果、夫人に「ビザを出さなかったら、神に背くことだ。私は自分の責任において明日から発行する」という敢えて訓令に反する決意を告げました。この時のビザ発行の決意について、杉原は『手記』の中でこのように書いています。
「兎に角、果して浅慮、無責任、我武者らの職業軍人集団の、対ナチ協調に迎合することによって、全世界に隠然たる勢力を有するユダヤ民族から、永遠の恨みを買ってまで、旅行書類の不備とか公安上の支障云々を口実に、ビーザを拒否してもかまわないとでもいうのか?
それが果して国益に叶うことだというのか? 苦慮の揚げ句、私はついに人道主義、博愛精神第一という結論を得ました。そして妻の同意を得て、職に忠実にこれを実行したのです。」
一旦心が決まると、彼は素早く、迷うことなく行動しました。ただちにソ連領事館に行き、難民のシベリア通過ビザ発行の了解を得てきました。そして、翌日、朝まだ暗いうちから領事館の前に集まって杉原の返事を待ち続けているユダヤ人たちに、「ビザは間違いなく発行します。順序よく入ってきてください」と伝えたのでした。
■ 命のビザを書き続ける
8月1日、杉原の口からビザ発行の言葉を聞いた瞬間、ユダヤ人たちの間に大きなどよめきが起こりました。人々は抱き合い、躍り上がって喜びました。
しかし、杉原には、それからが大変だったのです。8月3日、ソ連軍がリトアニアを併合し、外国領事館の退去命令が出されます。日本領事館にも退去命令が出されましたが、杉原は退去期限ぎりぎりまで、朝から晩まで一日に百枚以上ものビザを書き続けました。
効率を上げるために、番号付けや手数料徴収もやめました。用紙はすぐに無くなり、すべて手書きでビザを書きました。書くのは彼一人です。ついに万年筆が折れ、ペンにインクをつけて書き続けました。連日の疲れと睡眠不足で目は充血し、やせて顔つきまで代わり、今にも倒れるのではないかと誰もが心配しました。しかし、外には大勢のユダヤ人が順番を待って朝から晩まで立っています。杉原は休むことなく、ひたすらキリストにある人道愛に燃えて、ビザが書き続けたのでした。
こうして、退去期限ギリギリまで粘りましたが、ついに外務省より「領事館は閉鎖してベルリン大使館へ行け」との至急電報が来ます。8月28日、彼はやむをえず領事館を閉鎖し、ホテルに移りました。領事館の張り紙を見て、ホテルにもユダヤ人がやってきました。杉原は彼らのために嫌な顔をせず、ありあわせの紙でビザを書き続けました。
9月1日早朝、杉原はベルリン行きの国際列車に乗り込みました。そこにもビザを求めて何人かのユダヤ人たちが来ていました。杉原は窓から身を乗り出してビザを書き続けました。ついに汽車が走り出します。「許してください、私にはもう書けない。みなさんのご無事を祈っています。」杉原は苦しそうに言うと、ホームに立つユダヤ人たちに深ぶかと頭を下げました。幸子夫人は、それを歌に詠んでいます。
走り出づる列車の窓に縋りくる
手に渡さるる命のビザは
杉原の書いたビザは2139通でした。家族兼用の旅券所持者もありましたので、杉原の発行したビザで命を救われたユダヤ人らは約6000人に上ると言われています。杉原は、それを全部一人で書いたのです。
ビザを受け取ったユダヤ人達は、数百人ごとの集団となって、列車で、数週間をかけて、シベリアを横断しました。ウラジオストックの日本総領事は、杉原をよく知っていて、杉原の発行した正式なビザを持つ人を通さないと海外に対する信用を失うことになると外務省を説得しました。日本郵船のハルピン丸が、ウラジオストックと敦賀(つるが、福井県)の間を週一回往復してユダヤ人達を運びました。船は小さく、日本海の荒波で激しく揺れ、ユダヤ人達は雑魚寝の状態で船酔いと寒さに耐えながら日本に向かいました。それでもソ連の領海を出た時は、ユダヤ人の間で歌声が起こったといいます。シベリア鉄道では歌を歌うことさえ許されなかったのです。
1940年10月6日から翌1941年6月までの10ヶ月間で、1万5千人のユダヤ人がハルピン丸で日本に渡ったと記録されています。ユダヤ人らは敦賀から神戸に向かい、神戸のユダヤ人協会、キリスト教団、赤十字などの援助を受け、神戸と横浜からイスラエルやアメリカに渡っていきました。
■ 外務省を去る
他方、杉原はリトアニアを去った後、ドイツ、チェコ、東プロセイン、ルーマニア領事館に赴任し、第二次大戦が終結し収容所生活を送った後、1947年4月やっとの思いで杉原一家は日本に戻りました。
しかし、杉原は、外務省を退職させられます。ビザ発行の懲戒ではなく、連合国司令部より各官庁は人員を減らせとの命令が出たためでした。杉原は「やはり命令に背いてビザを出した事が問題にされているのか」とも思いつつも、黙って外務省を去っていきました。
47歳で外務省を去った杉原は、語学力を生かして様々な仕事をしました。
1947年 世界平和建設団事務局渉外部長
1950年、東京PX(松屋デパート)日本総支配人
1951年 米国貿易商A・ポンビー(銀座)支配人
1952年 三輝貿易・取締役に就任
1954年 ニコライ学院教授
1956年 科学技術庁に勤務
1957年 NHK国際局勤務(2年間)
1960年 川上貿易・モスクワに赴任。
1964年 蝶理勤務。
1965年 国際交易・勤務。
さて、杉原がユダヤ人難民のためにビザを書いてから28年が経った1968年8月のある日、突然イスラエル大使館から杉原のもとに電話がかかり、参事官ニシュリが会いたいと言ってきました。杉原が行ってみると、彼は一枚のボロボロになった紙切れを見せて、「あなが書いてくださったこのビザのお陰で私は救われたのです。私はあの時、領事館であなたと交渉した5人のうちの一人、ニシュリです」と言ったのでした。
さらに翌年の1969年、杉原はイスラエルに招待されました。彼を迎えたのは宗教大臣バルハフテイツクでした。彼も杉原に救われた一人だったのです。杉原は皆から歓迎を受け、1985年、イスラエル政府より「諸国民の中の正義の人賞」を授賞されました。この賞はユダヤ人を助け、イスラエル建国に尽くした外国人に与えられるもので、日本人として杉原がはじめて受賞したのでした。
このことが新聞やテレビで報道され騒がれ始めましたが、彼はただ一言「当然のことをしただけです」と謙遜に語りました。
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