■ 聖書が読みたくても読めない
澤田美喜は1901年三菱財閥の創始者岩崎弥太郎の孫として、東京の本郷に生まれ、不自由のない恵まれた環境に育ちました。しかし、一つどうしても許されなかったのはキリスト教でした。
岩崎家は代々真言宗でしたが、美喜は「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とのイエス様の言葉に深く感動し、どうしても聖書を読みたい、教会に行きたいと思っていました。ある時は、自分のハンドバックと友人の聖書を交換してもらい、それが祖母にばれた時には大目玉を食ったと言います。その後も何度か聖書を手に入れますが、その度に風呂釜の薪と一緒に火にくべられてしまい、美喜はその前でボロボロと涙をこぼすのでした。
それでも一度得た聖書の感動が忘れられず、自分の誕生日のお祝いに教会に行くことを父にねだりました。しぶしぶ許されたものの、二人の使用人が同行、教会では他人と話をしない、というのが条件だったといいます。
■ クリスチャンの外交官と結婚
そんな美喜にとって大きな転機となったのは、外交官沢田廉三(のちの国際連合初代大使)と結婚でした。廉三は、鳥取出身のクリスチャン。これでようやく美喜は教会に堂々と行けるようになったのでした。
また海外での生活もかねてからの美喜の憧れでした。美喜は喜んで廉三に従い、アルゼンチン、北京、ロンドン、パリ、ニューヨークと任地を転々とし、多くの友人たちを得、聖書の集会にも積極的に参加しました。
とくにロンドンで、「ドクター・バナードス・ホーム」という孤児院でボランティアをした経験は、のちの彼女の将来に大きな影響を与えることになります。
■ 敗戦の混乱の中で
しかし、1941年、日本は太平洋戦争に突入。三年半の戦争を経て、日本はポツダム宣言を受諾し(1945年)、連合国に無条件降伏し終戦を迎えました。大多数の国民は敗戦の悲しみのなかにも、「平和」を噛みしめていたことでしょう。
一方、その陰で新たな悲劇も生みだされていました。捨てられる混血児たちの急増です。占領軍兵士による強姦、売春、あるいは真剣な恋愛もあったかもしれません。いずれにせよ、混血児たちが次々と生まれ、生活苦や当時の世間体をおもんぱかって、川や沼、トイレに無惨に捨てられる混血孤児が急増したのでした。
1946年のある日、沢田美喜は東海道線を走る列車の中にいました。ガタッと列車が揺れた拍子に、網棚から紫の風呂敷が、真下にいた美喜の膝の上に落ちたので、網棚に戻そうとすると、包みを不審に思った警察が寄ってきて、開いて見せることを要求しました。
言われた通り、風呂敷きを開いてみると、中身の異様さに、警官も、周りの乗客も、美喜自身も、息を飲みました。それは、生まれたばかりの黒人嬰児の遺体、だったのです。
「きさま、敵国の混血児を生みちらかして、捨てようとしたか!」
てっきり美喜を母親だと思い込んでの警官の怒声に、彼女はきっぱりと言い切りました。
「この列車にお医者さんが乗っていらしたら、すぐここに呼んで私をお調べください。今すぐにでも私は裸になりましょう。私が生後数日の子を産んだ体か、さあ!ここで診察してください!」
■ 神の声
結局、他の若い女が網棚に置いて降りていったという乗客の証言で、この件から無事放免されましたが、美喜には、この出来事がどうしても偶然とは思えませんでした。
その時、美喜の想いは、遥か遠く、十五年前に外交官の妻として過ごしたイギリスでの日々に飛んでいきました。初めてお金で買えない幸せがあることを教えてくれた、緑の森の中の明るい孤児院「ドクター・バーナースホーム」での子供たちとの触れ合い。「もし神がお許しになるならば、必ず日本にこのような明るい子供たちのホームを実現させよう」と、神に祈り誓った日の感動。そして目を閉じれば、この手に落ちてきた黒い肌の赤子の、小さな手とちぢれた髪が浮かび、腕には嬰児としては哀しいほど軽い感触が残るのでした。
美喜の耳元に、静かな声がささやき続けました。
「もし、お前が、たとえいっときでもこの子供の母とされたのなら、なぜ日本国中の、こうした子供たちの、その母となってやれないのか」
後に、彼女は著書の中でこの時のことを振り返り、「私の残る余生をこの仕事にささげつくす決心を、はっきりさせた瞬間でした」と著わしています。思いがけず自分に降りかかった迷惑な体験を、美喜は孤児の救済のために何かをせよという神様のみ声をとして受け止めたのでした。
■ 孤児院建設
美喜は、誰も手を差し伸べようとしなかった戦争混血児たちの孤児院建設のために孤軍奮闘しました。幸いにも夫・廉三は理解を示してくれましたが、もはや親の七光りは通用しませんでした。三菱財閥・岩崎家の娘とはいえ、戦後の財閥解体で財産を接収されほとんど資金はなかったのです。孤児院に適当と思われた父の大磯の別荘も接収されており、GHQにかけあうと、400万円で買い戻せ、しかも三代にわたって三菱の名義にしてはならないと言われてしまいます。
美喜は必死で、自分の持ち物を全てお金に換え、借金までして大磯の別荘を買い戻し、名義も日本聖公会にしたのでした。すると、さっそくこの孤児院に混血児たちが送られてきました。列車の中に、駅の待合室に、公園に、道端に、髪のちぢれた子、色の黒い子、目の青い子どもがおき捨てられた子供たち、栄養失調や病気で生死の境をさまよっている子どもたちを、美喜はまよわず引き取り、懸命な看護を続けました。
するとそこに不思議な神の恵みがありました。日本で長く暮らしいたエリザベス・サンダー女史が高齢で召されると、その遺産が美喜の孤児院に贈られることになったのです。これを記念して、孤児院は「エリザベス・サンダース・ホーム」と名付けられました。
■ 戦い
その一方で、世間の冷たい視線、さまざまな圧力や偏見との戦いがありました。親兄弟を殺し日本を破壊した米軍の子どもだということで、あからさまな嫌悪や憎悪を示す人が多かったのです。
また、日本中が衣食住に関するあらゆる物資が不足し、みんなが貧しい生活を強いられていました。ところが、ホームの中の子どもたちは美喜の尽力で外の子どもよりこざっぱりとして、彼らが口にするこのできないチョコレートやガムを食べているー。混血孤児院への羨望は、憎悪をこめた差別へと変わっていきました。
「財閥生活を続けるために、大磯の別荘を確保したのさ」、「ほら、パンパンのマダムが通るぞ」と美喜に対して陰口が聞かれる一方で、子どもたちは「黒んぼ、黒んぼがいるぞ!」と、どこに行っても囲まれ、耳をおおいたくなる雑言を浴びせられるのでした。
混血孤児院の働きは、米軍からも解散の脅しを受けたり、邪魔をされたりしました。被占領国の女性を力で凌辱していることを、公けにされたくなかったからです。美喜は、そんなGHQに乗り込んでいき「あなたがは一度捨てられた子供も、もう一度捨てよというのですか。捨てられるのは一度で十分です!」と抗議したと言います。
■ 落ち穂拾い
しかし、一日の戦いが終わると、人知れず崩れるように、壁の十字架の下にひざまずいて、涙のうちに祈り明かすのでした。
このようにして、子どもたち一人ひとりの成長を、教育者でも福祉者でもなく「母」としてみつめ、祈り、世話してきた澤田美喜。「外からのどんな根拠のない中傷も、妨害も、子どもたちが私を失望させない限り、私の希望は消えません」とつっぱり続けた美喜も、ぐれて犯罪を重ねる少年たち、就職先を世話しても、水商売に流れてしまう少女たちには苦しめられます。
確かに、混血児たちへの社会の差別の厳しさはあったでしょう。しかし、乗り越えてくれると信じて、身を削るようにして育ててきた美喜にとって、それは最大の試練でした。
「どうすればいいのでしょうか。神様、私の行く道を教えてください。私はなりふりかまわず、示されるままに、ひた走りに、走り続けて今日まできました。これから、どうしろとおっしゃるのでしょう」
涙ながらに祈り終えて、そこで、ハッと美喜は頭をあげました。その壁には、ミレーの「落ち穂拾い」の絵がかかっていました。
刈り入れの終わった黄昏色の麦畑に、腰をかがめ、落ちてしまった麦の穂を丹念に拾い集める女性の、安らかな顔。そうだ、考えてみれば大学に進学した子もいる、風邪をひいたぐらいで、「ママちゃま、死んではいや」と泣いてくれるやさしいいい子も、たくさんいるではないか。たとえ、麦の穂の一部がむしばまれても、まだ、私は、落ちている穂を拾わなければならない。こうして美喜は再び立ち上がり、三十二年間に二千人以上の孤児を育てあげました。
人道主義に貢献した女性として、全世界から選ばれたエリザベス・ブラックウエル賞など多数の賞を受賞した美喜は、1980年、スペイン旅行中に波乱の生涯を閉じました(78歳)。
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