■ 修道女になる
1910年8月26日、マケドニアのスコビエで、後にマザー・テレサと呼ばれようになるアグネス・ゴンジャという女の子が生まれました。両親は敬虔なカトリック教徒で、アグネスにはその両親から神を敬う事と隣人を助ける事の大切さを教わりながら育ちました。
12才の時、彼女はアッシジの聖フランシスコの伝記を読み、いたく感動しましました。そして、自分も神様にすべてを捧げて生きたい、そのために修道院に入りたいと本気で願いを持ちます。しかし、彼女の願いを聞いたお母さんは「17才になっても考えが変わらなければ、あなたの思うようにしなさい。大切なのは、あなたが何をしたいかではなく、神様があなたに何をして欲しいかを知る事よ」と教えました。果たして、アグネスの思いは17才になっても変わりませんでした。母の許しを得て、ロレット修道会に入り、18才の時に修道女としてインドのダージリンへ旅立ちました。ダージリンにある修練所でシスターになる勉強をするためです。
■ 神の召し出し
2年の勉強を終えると、彼女はシスター・テレサという名前をいただき、カルカッタの聖マリア学院に歴史と地理の教師として赴任することになりました。そこはお金持ちの子だけ入れるお嬢さま学校で、彼女は6年間、そこで楽しく何不自由ない生活をしながら、校長先生にまでなったのです。
しかし、学校の外をみれば今にも倒れそうなバラックに住む痩せた人達、そのバラックもなく道ばたで暮らす人達、赤ちゃんですら道ばたで生まれ死んでいく・・・それがカルカッタという町でした。
36才の時、シスター・テレサは、ダージリンに向かう汽車の中で聖書を読み、祈り、道ばたの貧しい人々の事ことを静かに考えていました。自分がインドに来た時の初心、イエス様が貧しい家畜小屋でお生まれになったことなどが心の中を行き巡りました。
その時、彼女の心の内に静かに、はっきりとした神の声が聞こえたのです。「ロレット修道会を出て、貧しい人の中に仕えなさい」。彼女は、その声に従う決心をしました。
神の召し出しの声を聞いたシスター・テレサは、修道院を出て貧しい人達のために働く決心をしました。修道院長の許可を受けると、貧しい人は病気の人が多いからと、まず看護婦さんになる勉強をし、毎日スラム街に通っては傷口を洗ったり、薬を塗ったり、また学校に行けない子供達に青空教室で読み書きを教えました。
こうして、シスター・テレサの働きは人々に知られるようになり、手伝ってくれる人や、献金をしてくれる人も現れました。1950年にはインド国籍を取得し、12人のシスターと共に、"貧しい中の最も貧しい人に仕える修道会"「神の愛の宣教者会」設立し、総長に就任します。この日から彼女は「マザー・テレサ」と呼ばれるようになったのです。
■ 死を待つ人の家
ある朝のことです。痩せた婦人が道に倒れていました。死んでいると思いましたが、体がピクリと動いたので「生きているわ」と喜び、すぐに病院に運びました。
ところが、です。「死にそうな貧乏人のためのベッドはありません」と断られてしまったのです。粘って頼みこんだおかげで、なんとか診察をしてもらいましたが、その婦人はその日のうちに亡くなりました。
「こんなことではいけない。最期の一瞬だけでも人間らしく扱われ、心安らかであって欲しい」と考えたマザー・テレサは、すぐに「死を待つ人の家」を開設します。そして、行き倒れの人や病気で死にかかっている人を見つけると、ここに連れてきて、まず体をきれいにし、それからその人の宗教を聞きました。ヒンズー教徒であれば、聖なるガンジス川の水で唇をぬらしてあげ、イスラム教徒であればコーランを読んであげ、キリスト教徒であれば聖書の言葉を読んであげるためです。
ここに来た人のほとんどが死んでいきました。しかし、ゴミや汚物にまみれて誰にも顧みられずに道ばた死んでいく死とはまったく違う死がそこにありました。ここに来た人は、自分もまた愛されていることを知って、人間らしい安らぎをもって死んでいったのです。
■ すべてを貧しき人々のために
マザー・テレサは貧しい人、苦しんでいる人のために神の愛をもって多くの働きをしました。そして、助かる見込みのない病人のために「死を待つ人の家」を作ったり、捨てられた子供のための「聖なる子供の家」、またハンセン病患者と家族のための「平和の村」や診療所など、マザー・テレサの愛の働きによって多くの施設が開設され、その働きは世界中の人々に知られるところとなりました。
ある時、マザー・テレサはローマ教皇から白い高級車をプレゼントされました。教皇がインドを訪れた際に使用した車を、ローマに帰るとき、マザー・テレサのために置いていってくれたのです。
車を見て、マザー・テレサは面白いアイディアが浮かびました。「私にはこんな高級車はいりません。これで宝くじをしましょう。3000円以上の寄付をしてくれた人に宝くじをあげて、1等賞の人にこの車をあげるのです」宝くじはあっという間に売り切れ、約1500万円が集まりました。マザーはそのお金でハンセン病患者のための「平和の村」を作ることができました。
マザー・テレサの修道院「神の愛の宣教者会」はカルカッタのアパートの一室からスタートしましたが、ベネズエラ、ペルー、エクアドル、チリなど世界各地にひられるようになりました。そのためマザー・テレサも飛行機に乗って世界中を飛び回るようになるのですが、その飛行機代がもったいなくて、「目的地につくまでスチュワーデスとして働きますから、私の飛行機代をただにしてください」と航空会社とかけあったこともあると言います。
さすがに、これは聞き入れられませんでしたが、航空会社によっては割引券やフリーパスをマザー・テレサに贈ったところもあると言います。また、機内食の残りが捨てられていることを知ると、マザーは孤児やスラムの人達の食べさせてあげたいと航空会社にかけあいました。この申し出については、「その日のうちに食べるなら」という条件付きで、航空会社も快諾してくれたのでした。
1979年、マザー・テレサはノーベル平和賞を授与されました。授賞式の日、マザー・テレサはいつもと変わりない白いサリーにサンダル姿で壇上に立つと、小さく十字を切ってから、話し始めました。
「私はこの賞をいただくのにふさわしいとは思っていません。また、この賞が私個人のための賞であってもほしくないのです。でも、私が賞をいただけば、みなさんが貧しい人の事を思い出してくださるでしょう。ですから、私は貧しい人の代表として、この賞をいただきます。食べ物や着るものがないから貧しいという人は、世界中にたくさんいます。けれど、もっと数多く、もっと惨めなのは、自分が誰からも愛されていない、必要とされていないと思う貧しさです。どうぞ、みなさんの周りにいる貧しい人々のことを思い出してください。」
授賞式の時、普通はお祝いの会が開かれます。しかし、マザー・テレサは「そのお金を貧しい人のために遣ってください」と断りました。そして、そこで遣われるはずだった147万円が貧しい人々のために捧げられたのです。
■ 天国に行ってから休みます
1981年5月24日、マザー・テレサは修道女になってから50年という記念の日を迎えました。すでに70歳になっており、心臓にも病気を持つようになっていましたが、世界中を飛び回って忙しいスケジュールをこなす日々を送っていました。
「少しはお体のことも考えてください」と周囲の人々が言うと、「私にまだお仕事がある間は、神様が生かしておいてくださるのよ。心配しないで。」と答え、きまって「天国に行ってからゆっくり休みます」というのでした。こうして弱っていく体と戦いながら、マザー・テレサは神様の仕事を続けました。
80歳の時と83歳の時に彼女は重い心臓病で入院をしています。しかし、退院するとまたアメリカ、中国、イタリア、イギリスへと、世界中を回って貧しい人のための働きをしました。そして、1997年9月5日、マザー・テレサは天国に向かう最後の旅に旅立ったのです。
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