森永製菓の創始者森永太一郎(1865-1937)は、佐賀県伊万里で一番の豪商の家に生まれました。しかし、6歳の時に父が死に、財産を失い、母は生活のために再婚したものの太一郎を引き取ることはできず、親戚をたらい回しにされて育てられたため、12歳になっても字が読めず、寂しい無口な子でした。結局、母方の伯母にあたる山崎家の養子となることができ、塾にも行かせてもらえ、学問を修めることもできたのでした。
19歳になると一流の商人になるという野心をもって上京し、陶器商に勤め、20歳で結婚もしました。しかし勤務していた店が傾くと、日本の陶器を売って一儲けしようと単身で渡米しますが、結果は散々でした。そんなある日のこと、借金もあるし、おめおめと帰国することもできないと悩んで公園のベンチに座っていると、60歳ぐらいの上品な顔立ちの婦人が軽く会釈をして彼の隣に座り、ハンドバックからキャンデーを取り出してその一つを彼に勧めてくれました。キャンデーをほおばった太一郎は思わず「うまい!」と叫び、その瞬間に洋菓子職人になろうと決心したのです。
太一郎は早速菓子づくりの見習いの仕事を探しますが、人種差別がひどく日本人には下男の仕事ぐらいしか見つかりません。仕方なく下男をしながらアメリカ人の家を転々としながらチャンスを待ちました。オークランドの老夫妻の家に流れ着いた時、再び太一郎を変える出会いが起こります。その家の老夫妻は熱心なクリスチャンで、とても親切で日本人である太一郎を対等の人間として扱い、決して見下すことはなかったのに感激し、老夫婦の信仰するキリスト教に興味を持ち、オークランドの日本人教会で求道し、ついに洗礼を受けたのでした。
信仰の喜びを得た太一郎は洋菓子職人の夢を捨て、日本に帰って伝道者になろうと決心をしました。アメリカから帰国した森永太一郎は、さっそく故郷伊万里に帰ると親族や兄弟に盛んに福音を説きました。しかし、アメリカで頭がおかしくなったと思われるだけで誰にも相手されず、それどころか養子先の山崎家からも離縁される始末でした。
伝道者になることにも失望した彼は、再び製菓技術を学ぶために渡米し、激しい人種差別に耐えて遂に技術を取得し、開業費も貯めて帰国します。そして、赤坂の溜池に二坪の小屋を借りると「森永西洋菓子製造所」の看板を掲げ、開業したのでした。マシュマロを作って菓子屋に卸すと、これが好評で飛ぶように売れました。
この成功に勇気を得た太一郎は、宣伝販売をするためにガラス張りの屋台式箱車を作らせ、その中にチョコレート、キャンデー、ケーキを積んで町を歩きました。この屋台の屋根には「キリスト・イエス罪人を救わんために世に来たりたまえり。義は国を高くし罪は民をはずかしむ」という聖句を書いた看板が打ち付けられていたため、「ヤソの菓子屋さん」と呼ばれ有名になりました。
容器の上げ底をしない、品質本位、厳格な衛生管理など誠実な仕事ぶりも評判を呼びました。菓子と言えば和菓子が主流の時代、彼は不眠不休で営業努力、また商品改良に努め、小さな菓子屋さんが株式会社へと発展し、やがてミルク・キャラメルがヒット商品となって全国的に有名になったのでした。
ところが、社業が飛躍的に伸びていく中、彼の信仰は一時冷え切ってしまいました。しかし、苦労を共にした妻の死を契機に改めて信仰に立ち帰ります。1923年、関東大震災の時には在庫品を全部無料で被災者に配りました。幹部が無謀だと反対すると「これは神様とお客様にお返しするのです」と答えたといいます。社長の職を退いた後は、「我は罪人の頭なり」と題して、全国の諸教会で力強く伝道をして回りました。
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