山上の変貌
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マタイによる福音書17章1-13節
旧約聖書 マラキ書3章19-24節
見ていないものへの気づき
 チルチルとミチルが幸せの青い鳥を探すという物語をご存知だと思います。これはベルギーのメーテルリンクという人が書いたお芝居で、100年も前のお話になりますが、今なお人々に親しまれている物語です。

 チルチルとミチルは、クリスマスだというのに、ツリーもなければご馳走もなく、サンタクロースも来ないという貧しいきこりの家に住んでいました。そんな寂しいクリスマス・イブの夜、ふたりは灯りの消えた家の窓から、隣の金持ちの家を覗き込んでいます。そこには明るい部屋があり、にぎやかに飾られたクリスマスツリーや美味しそうなご馳走、お菓子が並べられてあり、そしてきれいなお洋服を着た子供がはしゃぎ回っていました。それを羨ましそうに見ていると、突然、トントン、トントン、と、チルチルとミチルの寝室の扉を叩く音が聞こえます。びっくりして二人が扉を凝視しておりますと、閂がひとりでに上がって、ぎぃーっと扉が開きます。そして背の低い、醜い姿をした、魔法使いのおばあさんが現れたのでした。

 おばあさんは「ここに青い鳥はいるか?」と、二人に尋ねます。そして、「わたしの娘が病気なのだ。この病気を治すために青い鳥が必要なのだ。青い鳥を捜してくれ」と頼んだのでした。ふたりは最初おっかなびっくりでしたけれども、魔法使いが、眼をよくする魔法のダイヤモンドのついた帽子をふたりに渡します。ダイヤモンドを回すと物がよく見えるようになるというのです。チルチルは、「僕はとっても眼がいいんだ。そんなもの使わなくたって、遠くの教会の塔にある時計だって読むことができるんだよ。お父さんは見えないっていうけれど、僕は見えるんだ。」と応えます。すると魔法使いは首を振って、「いや、人間が見ているものは世界の本当の姿の一部でしかないんだ。試しに、その帽子をかぶってダイヤモンドを左から右に回してごらん。」と言うものですから、ふたりはそのダイヤモンドのついた帽子をかぶってダイヤモンドを回してみます。すると・・・不思議なことに、今まで気味の悪いおばあさんだと思っていた人がとてもきれいな王女さまのような姿に見えてきたのでした。それに、自分たちの部屋もとても素敵な部屋に見えてきて、今まで見えなかった火の妖精とか、あるいは時計の妖精とか、光の妖精が見えるようになり、犬や猫までも、おしゃべりをはじめます。

 結局、ふたりは、この魔法使いから貰った魔法のダイヤモンドのついた帽子をかぶって、そして光の妖精に導かれて、夢と現実が錯綜したような不思議な世界を冒険することになります。死んだ人が住んでいる思い出の国とか、あるいは信じられないほど太りかえった人たちが食べたり飲んだり騒いだり、そしてごろごろしたりしている、幸せの花園ですとかね、あるいは、これから生まれる子供たちが、その生まれる日を待っている未来の王国とか、そこでいろんな冒険を繰り広げるのです。しかし、どこにも本当の青い鳥を見つけることができないで、とうとうふたりは自分の家に帰ってくるのでした。その冒険旅行は本当に長い、1年もかかるような長い旅行に思えましたけれども、実際には、ふたりは翌日、クリスマスの朝、ベッドの上でお母さんに「朝よ、起きなさい」と起こされることになったのでした。

 ところが、目を覚ましたとき、ふたりの目に映る世界はなにもかも違って見えたのでした。実際には、なにひとつ昨日と変わったことはないのです。しかし、窓から朝日が注ぎ込んでくるのは、それは毎日のことなんですけれども、本当に美しくまばゆいものに見えます。いつも起こしてくれるお母さんも、毎日見ているお母さんと変わりはないのですが、本当に素敵な優しい美しいお母さんに見えてきます。自分たちの住んでいる、クリスマスツリーもない、ご馳走もない、サンタクロースのプレゼントも枕元にない、そういう貧しい家までもが、まるでペンキ塗りたて素晴らしい家に見えてきて驚くんです。何もかもが新鮮で、感動に満ちていたのでした。そしてふと目をやると、チルチルが今まであまり大切にしないで、放ったらかして育ててきたキジバトが籠の中にいるのが目に入ります。そのキジバトが、なんと、それこそ青々と輝いている青い鳥であったことに気づいたのでした。「ほら、あの鳥青いよ。だけど僕のキジバトだ。でも出かける前よりずっと青くなっているよ。なんだ!これが僕たちがさんざん探し回っていた青い鳥なんだ。僕たちずいぶん遠くまで行ったけれど、青い鳥、ここにいたんだなあ。ああ、素晴らしいな」 チルチルはミチルに語りかけました。

 一生懸命に探し求めていた、青い鳥が、実は自分の家で、大切にもしないで見向きもしなかった籠の中のキジバトだった、ということに気づく。この、気づくということが、この物語の深いメッセージなのです。最初、彼らは隣の家を覗き込んで、隣の家の幸せを羨ましそうに見ました。けれども、翌朝になってみると、自分たちの家にも幸せがあったのだ、ということに気づくのです。わたしたちも、このチルチルとミチルのように、ひとの暮らしを見て羨ましがってみたり、自分もあんなふうになりたいなあ、なんて憧れてみたり、あるいはそれを妬んだりするということが多いのではないでしょうか。でも、そういう幸せの願い方というのは、決して自分を幸せにすることはありません。かえって、みじめな思いを大きくするだけなのです。あの人に持っているものが私にはない、という不幸な気持ちだけが大きくなっていくのです。ひとの幸せを見てそれを欲しいと思うことは、それは自分を不幸にすることにほかならないからです。

 モーセの十戒の最後の戒めはなんであったか思い出してみて下さい。「隣人の家を欲してはならない」・・・幸せというのは、隣人の家を欲することではなくて、つまりそうやって自分にないものをひとを見て羨ましがることではなくて、神様が自分に与えて下さっている尊いものがある、大切なものがある、それを、今まで放ったらかして見向きもしないでいた自分が、それにもう一度気づくこと、再発見をすることなのです。メーテルリンクの『青い鳥』というお話は、そのことを伝えたかったのではないでしょうか。
すべての人のクリスマス
 ではどうしたら、気づくことができるのでしょうか。どんなに辛い悩みにみちた生活をしていても、あるいは何もないような貧しい暮らしや、人生であっても、そこには目に見えないけれどもちゃんと神様が与えて下さっているその人の幸せというものがあるんだ、ということを気づくためには、一体どうしたらいいのでしょうか。

 チルチルとミチルが、この素晴らしい体験をすることができたのは、ひとつは彼らが子供だったからかもしれません。イエス様も、幼子のようにならなければ、天の国にはいることはできないと仰いました。普通は大人の方がものがよくわかっているといいます。これは本当でありましょう。しかし、大人には見えないけれども、子どもには見えるものっていうものがあるのではないでしょうか。

 わたしも子育てをしておりますけれども、しばしば子どもにはっとさせられることがあります。子どもの本当に純粋な、何にもごまかされない目を持って見る、その視点の新しさによって、気づかなかったことに気づかされるということがありました。自分自身だって、かつては子どもであったはずなのですけれども、いつの間にか、そういう純粋な目や心を失っているんだな、と思います。それはやっぱり大人になって身につけた分別というものが、かえって邪魔をして物事の本当の姿をいうものを隠してしまっているのではないかと思います。

 あるいはまた、この物語は経験の大切さをも教えていると思います。青い鳥は見つからなかったんです。チルチルとミチルの冒険は、全部失敗に終わったのです。でも、それは無駄ではありませんでした。色々な冒険をしたからこそ、その経験によって、物を見る目が養われてきた。そういうことが、今まで気づかなかった幸せを再発見する、ということに結びついたのではないでしょうか。

 聖書には、神の御心を行って、約束のものを受け取るためには忍耐が必要なのです、という言葉があります。わたしたちは、すぐにでも幸せが欲しいと思うのです。手軽にそれを手に入れたいと思うのです。待つのは嫌だ。今すぐ欲しい、そう思うのです。しかし、忍耐の道を歩むことなくして、それを手軽に手に入れることはできないのだと、聖書は教えます。どんなに遠回りに見えても、それが失敗の連続で、まったく無駄な歩みように見えても、神様がお決めになった一歩一歩を通らずして、ゴールにたどりつくことはありません。ですから、今すぐにではない、しかし必ず与えられるのだ、ということを信じて、わたしたちは、いま与えられている道を恐れずして、希望を持って、歩んでいく、信じて歩んでいけばいいのです。すると、いつの日か必ず、わかる時が来るということではないでしょうか。

 気づきという経験をするためには、このように子どものような素直な心とたとえ無駄のようであってもさまざまな人生の冒険をするということが大切です。しかし、それだけでもないと思います。この物語がイエス様がお生まれになったクリスマスの物語でありました。実際にはこの『青い鳥』を読みますと、クリスマスというモチーフは最初に出てくるだけであって、そんなに大切ではないような書き方がしてあります。終わりまで読んでいるうちに、忘れてしまうような書き方をしてあるのです。しかしわたしには、実はこのクリスマス、というモチーフが一番大切なんじゃないだろうかと思えるんです。

 チルチルとミチルは、何度も言いますが、隣の家のクリスマスを羨ましそうに見ているんです。そして、自分たちの家にはクリスマスはこないんだ、ご馳走もないし、ツリーもないし、サンタクロースも来ないんだから、クリスマスはないんだと思っているのです。けれども、クリスマスというのはそういう日ではありません。すべての人にやってくる日なのです。豊かな人にも、貧しい人にも、健康な人にも、病める人にも、また、今風の言葉で言えば、勝ち組にも負け組みにも、すべての人に救いをお与えになるために、イエス様が、お生まれ下さった、神様に遣わされてわたしたちのところに来て下さった、それがクリスマスなのです。聖書には、これは『テトスへの手紙』に書いてありますけれども、「実に、すべての人に救いをもたらす神の恵みがあらわれた」とあるんです。その神様の恵みが、まずしいきこりの家にいる子どもたちにも与えられて、幸せの青い鳥を見つけることができた、そういうことではないかと思うのです。
イエス様の救い
 イエス様はどのようにすべての人に救いをもたらして下さるのでしょうか。イエス様は、わたしたちの罪を許し、わたしたちを神様と和解させて下さいました。そしてわたしたちの心を覆う、罪の暗くて厚い雲の隙間から、神様の愛が本当に心の奥底まで届くように射し込めて下さったのです。そしてイエス様によってわたしたちは、今まで見えなかった、神様の大きな愛と恵みに心を開くことができるようになるのです。

 中学生たちの礼拝で、中学生たちに聞きました。「教会に来て聖書を読んで何か変わった?」 そしたら、「変わった」と答えてくれました。「何が変わったの?」と尋ねますと、「今までは、信号が赤でも車が来ないと思ったら無視して渡ってたけどしなくなった」とか、「ラッキーと思っていただけだったのに、神様がして下さったんだと思えるようになった」とか、そういうような本当に身近なところで、「神様がいらっしゃるんだ」、「神様が見ているから悪いことできないんだ」とか、「神様がわたしのためにして下さったんだ」とか、そういう風に思えるようになった、って言うのです。パウロも、イエス様と魂の出会いを果たしたときに、目から鱗が落ちた、と聖書に書いてあります。目から鱗が落ちて、そして、同じ世界です、だけど、全く違って見えてくるのです。今までのパウロはキリストの迫害者でした。しかし、キリストを宣べ伝えるものに変えられていくんです。

 イエス様を知ると、そのように、世界が全く違って見えてくる。自分の存在、自分の暮らし、人生、家族、友達、わたしの生きている世界はすべて今までと違う意味を持ってきます。また今まで見えなかった輝きが見えてくる。すべてのものが神様の愛に満ちていることがわかるようになる。すべての出来事の中に神様のご計画がある、ということがわかってくる。それがイエス様によって、わたしたちの心の目が開かれて、そして、今までは暗い闇の世界、絶望の世界だったかもしれませんけれども、そうではないのだとわかってくる。自分自身を本当にみじめな人間にしか思えなかったかもしれないけれども、本当は違うんだと、私は神の子なんだっていうことがわかってくる。それが、イエス様が来てくださったという救いなんです。それがクリスマスの本当の意味なのです。チルチルとミチルはそういう本当のクリスマスを経験したのではないでしょうか。本当のクリスマスの喜びとは、ご馳走のある家にあるのではない、クリスマスツリーがある家にあるのではないのです。見えなかった神様の愛や恵みが見えるようになる、そこにクリスマスの本当の喜びがあります。

 幸せになるためには、隣人の家を欲することではなくて、神様が与えて下さっている自分の幸せに気がつくこと、でも、どうしたら気がつくことができるかっていうと、まず、クリスマスにお生まれ下さったイエス様、そのお方が、わたしにとって、どういうお方であるかということを気がつくことにあるのです。そのときに目から鱗が落ちて、イエス様の光によって、神様の愛に満ちているこの世界が見えてきます。今まで見えなかった神様の愛と力が見えてくる。誰も自分のことを愛していないと思っていたのに、愛しているひとがいることが分かってくる、誰も自分のことを守ってくれないと思っていたのに、足許でしっかりと支えて下さっている神様の力というものがわかってくる。それが気づくということです。
イエス様の正体
 今日はイエス様の「山上の変貌」というお話であります。これはイエス様が誰であるかということがわかるという、そういう物語なのです。これまで説教を続けて聴いて下さっていた方は、イエス様が誰であるかというお話は、ここでいきなり始まっているのではないということがおわかりだと思います。16章の13節−20節では、イエス様が弟子たちに「人々はわたしのことを誰と言っていますか」と聞く。人々はイエス様のことをエリヤだと言っていますよ、あるいは預言者だと言っていますよ、エレミヤだと言っていますよ、と答える。するとイエス様は、じゃあ、あなた方はわたしのこと誰だと思ってるのかね、と聞きます。するとそこでペテロが「あなたこそ、生ける神の子キリストです。救い主です。メシアです」と答えました。イエス様は、「ペテロ、それをあなた自身に示したのは、あなた自身の知恵ではなく、神様の知恵だよ」と、ペテロを祝福して下さるのです。

 さらに続きましてその後21節以下には、イエス様がご自身の受ける迫害と十字架の死と復活ということについて、予言をされたと書いてあります。これも言ってみれば、イエス様がご自分で、わたしはだれであるか、どういう目的で来たのか、ということを弟子たちにこっそりと打ち明けられたという形でありましょう。イエス様は、罪人との罪を裁くためではなく赦すために来たんだと、悪い人を十字架にかけるためではなくて、自分自身が身代わりとなって十字架にかかって総ての人を神様と和解させるために来たんだと、そういうことをイエス様はここで暗示して、お示しになっているのです。

 ところがペテロとしては、イエス様が悪い人に負けるということは我慢ならないことですから、「主よ、そんなことがあってはなりません」と言ってしまいます。イエス様は厳しく咎めて、わたしの邪魔をするな、とお叱りになります。こうしてだんだんイエス様の正体が明らかにされていって、今日の17章に入るわけです。イエス様は12人の弟子たちの中から、ペテロ、ヨハネ、ヤコブの3人をお選びになって、高い山にお登りになりました。すると3人の見ている前でそのみ姿がかわり、イエス様のお顔は太陽のように輝き、そのお召しになっていたお着物も真っ白に輝きはじめた、光に包まれた、いや光に包まれたというよりも、イエス様ご自身が光と輝いた。そういうことがここに書いてあるんですね。

 3人の弟子たちがそれを唖然として見つめておりますと、そこに「神の人」と旧約聖書で呼ばれている、モーセとエリヤが現れ、イエス様と親しく語り合っているのをみます。ペテロはもう感動して「ああ、イエス様というのはこんなに素晴らしい方だったんだと。主よ、わたしたちがここにいるのは本当に素晴らしいことです」と言ったのです。すると、光り輝く雲が彼らを、弟子たちを覆い、その雲の中から、「これがわたしの愛する子、私の心にかなうものである。これに聞き従いなさい」と、神様の声が聞こえました。これは言ってみれば、イエス様の正体が明らかにされた話だと思うのです。

 正体と言うのはですね、正体を暴くとか、正体を見破るとか、正体を隠すとか、とかく悪いイメージが多い言葉なんですけれども、しかし、国語辞典をお調べになればわかりますけれども、正体とは、「そのものの本当の姿」ということでありまして、そんな悪い言葉ではありません。ところがわたしどもは、何であれ、正体を見るとがっかりする、ということをたくさん経験するわけですね。政治家の正体を見るとか、学校が先生の正体を見るとか、あるいは牧師の正体を見てがっかりする方もいると思うんですね。どれもこれも、本当の姿をしてよかった、という経験はあまりなくて、知らないほうが幸せだったかもしれない、ということが多いわけです。

 およそ世にあるものすべて、自分も含めてですけれども、人をがっかりさせたり、哀しませたり、失望させるような、本当の姿を持っている。それを一生懸命隠しながら、お互いに隠しながら、敢えて正体を見せないように、見えないように、見ないようにしてるっていうところがあると思うんです。ところが、そういう失望も大事な経験なのです。ああ、牧師もまた人間なんだ、あの人もまたただの人間だった、そういう失望をしながら、しかし、イエス様という方は違うんだと、イエス様だけは、その正体が明らかにされた時、決してがっかりさせられることがないんだと、むしろ、本当の姿を知れば知るほど、ああ、イエス様を信じてきてよかったなあ、と思う経験をするのです。イエス様はわたしが知っているよりももっと素晴らしい方だったと。改めて深く、喜びを大きくするのです。

 きっとみなさんも、イエス様を信じた暮らしをしておりますと、イエス様って本当に素晴らしいお方だなあと、驚くべきお方だな、まことの神様だな、と思うような経験があると思うんです。胸がドキドキするほど驚いたり、感動することがあると思うんです。イエス様を信じることが嬉しくて嬉しくてならないというような経験です。それをペテロは、わたしがここにいることは素晴らしいことです、と言たのであります。

 そのような経験、イエス様がどういうお方であるかが分かってきますと、イエス様だけではない、すべてのことがイエス様の光によって、新しく見えてくる。素晴らしいものに見えてくる。哀しみに満ちた世界が、実は神様がその独り子を与えて下さる程に、神様の愛に満ちた世界でもあるんだということや、自分が嫌いで嫌いでならない人も、実はこんなわたしのために、イエス様が自分の命を捨てて下さったということがわかってくる。病や人生のさまざまな重荷を負わされていても、すべてのことは神様の栄光のあらわれるためである、ということがわかってくる。イエス様を知って、イエス様を通して、世界を見ますと、自分も隣人もこの世界も、今まで見えなかったものが見えてきて、気づかなかったことに気づいて、本当にこの、幸せな気持ち、またどんな厳しい現実の中にあっても、希望というものを失わないで見ることができるのですね。

 先週アドベントクランツのお話をしました。わたしたちの心の中にも、イエス様が灯してくださった4つのともしびがあります。信仰・希望・愛・平和。先週は第一のともしびである信仰の灯を、消えそうになっている信仰の灯に油をもう一度注いで、もう一度高く掲げてイエス様をお迎えしましょう、とお話をしましたけれども、それならば今週は第二のともしび、希望、このともしびをわたしども灯したいと思うのです。希望というのは願望ではありません。あれが欲しい、これが欲しい、隣人の家を欲することではありません。願望というのは、チルチルミチルが、自分の家の窓から隣の家を見ている、それが願望ですね。願望を持つと人間は失望するのです。みじめになってくる、不幸になってしまう。

 では希望は何かというと、それは、神様の愛、イエス様を通して、イエス様の恵みを通して、今、自分にあるもの、この世界を見て、その大切さに気がつくこと、その尊さに気がつくことであります。それに満足をして、それを大切にしようという気持ちを持つことなのです。どんなに欠けたものが大きくても、これがあるから大丈夫だ、と思えてくる。それが希望なのです。その希望は、イエス様がだれであるか、と、そういうことをわたしどもが知ることによって、そのイエス様の中にわたしたちの命が隠されていて、神の恵みが満ち満ちているということを知ることによって、与えられるものではないでしょうか。
目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
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日本キリスト教団 荒川教会 牧師 国府田祐人 電話/FAX 03-3892-9401  Email:yuto@indigo.plala.or.jp