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今日から教会の暦ではアドベントに入ります。アドベン・トクランツの第一の蝋燭に火が灯されました。このクランツには、4本の蝋燭があります。来週は2本、その次は3本と、そしてその次の集には4本の蝋燭すべてに火が灯されます。するとクリスマスを迎える週となるのです。
このように、ともしびがだんだんと点されていくのを見ながらクリスマスを迎えるということは、ひとつには指折り数えてクリスマスを待つという子供らしい気持ちがありましょう。しかし、それだけではなくイエス様が私たちの心に灯して下さったともしびを毎週思い起こしながら、それをもう一度高く掲げて、そしてクリスマスを迎えるということもあるのではないでしょうか。
私たちはさまざまな悩ましい問題を抱えて生きております。そのためにイエス様が与えて下さった心のともしびが消えかかっているということがあるかもしれません。しかしクリスマスまでの毎週日曜日の礼拝に来まして、このクランツのともしびが1本、2本、3本と、明るくなっていくのを見て、私たちの心の中にあるともしびをもう一度赤々と照らされるものになりたいと思います。
もっと言えば、クランツは信仰・希望・愛・平和・・・四つつのともしびだと思うのです。その中で、第一の蝋燭はやはり信仰ということでありましょう。信仰のともしびが点されなければ、第二の蝋燭も第三の蝋燭も第四の蝋燭も点らないのだと、そう思うのです。アドベントの第一の日曜日、信仰のともしびをもう一度点したいと思います。
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信仰とは何でありましょうか。聖書には《信仰とは望んでいることがらを確信し、みえない事実を確認することです》という有名な言葉があります。ヘブライ書の11章の最初に書いてある言葉です。信仰とは「見えない事実」、つまり真理に目を注ぐことだと言われるのです。
真理には、ふたつの考え方があります。ひとつは、「真理とは明らかになった事実のことである」という考え方です。科学の世界などで真理と言う場合には、そういう明らかになった事実の事を真理というのでありましょう。あるいは証明された、発見されたものであります。それが世界の真理であります。
日本人は特にこういう、科学的な事実といいますか、科学の常識というものに弱くて、それを絶対視するきらいがあります。けれども、科学の常識と言うのは、決して普遍のものではありません。わたしの子供の頃、中学生の頃、原子というものは物事の一番小さな単位であると言われておりましたが、最近ではもっと小さなものがあるといわれるようになっておりますし、原子というのはこれ以上分裂しない最小の単位と言われていたのに分裂もしますし、二つ分子が一緒になって融合もする、と言われています。さらなる新しい発見、さらなる証明ということがあれば、科学の常識はどんどん変わっていくのです。より真理に近づくといってもいいかもしれません。明らかになった事実は、さらに大きなものが明らかにされることによって変わっていくのです。ニュートンの証明した万有引力の法則も、アインシュタインの証明した相対性理論によって変わってきているわけです。そのように、ある意味で科学的な真理、明らかになったものとしての真理、というものは頼りがない。変わる可能性がある。そのときは絶対に変わらないと思っていても、その保証はないのです。
それに対して、聖書では違った真理の考え方をします。それは明らかになったものでなくて、いまは明らかにされていないけれども、「やがて明らかにされるもの、これが真理である」というのです。科学を否定するわけじゃありません。目に見えるものを否定するわけではありません。しかし目に見えるものがすべてではなくて、まだ明らかにされていないもの、これから明らかにされるはずものがあるのだと、そのように聖書の真理の考え方は、明らかにされたものではなくて、まだ明らかになっていない事柄を大切にするわけです。その中にこそ真理がある。信仰とは見えない事実に目を注ぐことであるということは、そういうことです。
見えないからあやふやなのではありません。今は見えないけれども、世の中にも、私たちの人生にも、これから明らかに必ずされていく真理がある。そのことに目を注ぐのです。目に見えないけれども、信じて、心の拠り所として生きていく。それが信仰であるといわれているのです。ですから、信仰をしっかりと持って、心に信仰のともしびを赤々と点すためには、目に見えるものに惑わされないということが大切だと思います。目に見えるものを否定するのではありません。目に見えない事実、真理を大切にするのです。
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ところで、みなさんはイエス様が世の光として、お生まれ下さったのに、どうして世の中はこんなに暗いんだろうと思ったことはないでしょうか。戦争が多くの悲劇を生み続けています。地震の噂もあります。火山や飢饉やそういう自然災害によって人々の生活が奪われています。新しい病気が流行します。今年もサーズという、非常に重症の肺炎にかかる、正体不明の病気がはやり、パニックに陥ったりしました。人々が恐怖に陥り、多くの宗教、多くの思想家が、これこそ真理だ、これこそ救いだといろいろなことを言いまして、人々を惑わしている。そういう中で、人々の心が病んでいる。飢え乾いている。あるいは傲慢になっている。不法がはびこっている。人間らしい心が失われている。そういうことを見ますと、世の中は益々暗くなっているのではないだろうかと思わざるを得ません。
イエス様はこう仰っています。『ヨハネによる福音書』8章12節、
わたしは世の光である。わたしに従うものは暗闇の中を歩まず命のひかりを持つ。
しかし、わたしたちは世の現実に目を注ぐ限り、そういう明るい光はちっとも見えてこないのです。むしろ深い暗闇に覆われてその暗闇が益々増してきている、そのように言ってもいいのではないでしょうか。けれども信仰とは見えない事実に、そういう暗さに惑わされないで、見えない事実に拠り処を置くということです。今日も雨ですけれども、どんなに厚い雲に覆われていても太陽がなくなったわけではありません。雲の向こうに太陽があるんです。いつか厚い雲が吹き去られたときに、その向こうにある太陽が明らかにされます。目に見えるものに目を注ぐとしたら、今日は太陽がありません。ありませんけれども、本当はあるんです。そのように見えないけれどもあるものに目を注ぐ、見かけの暗さに惑わされて失望してはいけないということなのです。
イエス様は決して今のようなくらい世の中になることを予見しておられなかったわけではありません。『マタイによる福音書』の24章4節からイエス様はこういうことを仰っています。
人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗るものが大勢あらわれ、わたしがメシアだといって、多くの人を惑わすであろう。戦争の騒ぎや戦争の噂を聞くだろうが慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているがまだ世の終わりではない。民は民に国は国に敵対して立ち上がり方々に飢饉や地震がおこる。しかしこれはすべて生みの苦しみの始まりである。その時あなたがたは苦しみを受け殺される。またわたしの名のためにあなたがたはあらゆる民に憎まれる。その時多くの人々がつまづき、互いに裏切り、憎みあうようになる。偽預言者も大勢あらわれ多くの人を惑わす。不法がはびこるので多くの人の愛が冷える。しかし最後まで耐え忍ぶものは救われる。そして御国のこの福音はあらゆる民への証として全世界に宣べ伝えられる。それから終わりが来る。
イエス様は、これから時代は益々悪くなるよ、益々暗い世の中になっていくよ、ということをちゃんと預言しているのです。しかし、それにもかかわらず、私は世の光である、わたしに従うものは暗闇の中を歩まない、命の光を持つということは、少しも無効にならないんだと言っているのです。むしろ世の暗さが増すことによってイエス様の 世の光であることを、イエス様だけが人間の光であると言うことが、イエス様に従うものだけが命の光を持つのだということが、いよいよ明らかにされていくのだということを言っておられるわけです。
もっと積極的な言い方をすれば、イエス様が光として世にこられたからこそ、他のニセ物の光が輝きを失ってくるのです。光と思っていたものが、実は暗闇であったことが明らかにされていくということです。繁華街のネオンサインというものは夜見ると大変美しいですよね。しかし、朝見れば、その光は全く見えなくなってしまう。電気が消されたというよりも、光っていても何も目立たないようになってしまうのです。本当の光があらわれたときには輝きが失われるのです。そして夜はすばらしい街に見えたところが、非常に殺風景な街に見えてくる、ということがあるのではないでしょうか。
あるいは、もっと個人的な体験で申しますと、わたしもかつてはそういう人間でありましたけれど、心に神様の光を持たない人間といいますのは、程度の差はもちろんひとりひとりありますけれども、罪を罪と思わない、そういう傾向があります。自己中心で平気で嘘をついて、約束を破って、人を蹴落として、そういうことをしていても、自分が悪いことをしていると思わないような人、こういう人は、本当は暗闇の中に生きているのです。
けれども、その時はそうは思っていないのです。たとえそれが人道に反していようと、人を傷つけていようと、自分さえ守られていれば平和だ、喜びだ、感謝だという。ところがイエス様を信じますと、イエス様を信じてイエス様を心にお迎えして、神様の御心を知りますと、今まで自分が気づかなかった心の闇というものに気がつくようになります。それが非常にはっきり見えてくる。ああ、自分はなんて心の汚い人間だったのだろうか、なんて心が捻じ曲がった人間であったのだろうか、ということに気がつくのです。つまり、イエス様を受け入れて、イエス様が光としてわたくしの心の中に輝いてくださると、ああ、明るくなったという体験の前に、なんて自分は暗い心の暗闇に閉ざされた人間なのだろう、自分が本当は暗さの中にいるんだということがわかってくる、自分の醜い姿と言うものがはっきりとみえてくる。そして心の中のともしび、今まで光だったと思っていたものが、いっぺんに吹き消されてしまって、すごい暗闇を体験するのです。ああ、自分は罪人だ。そういう経験をするわけです。
このように逆説的ですけれども、イエス様を信じて受け入れたがゆえに、ああ、自分は救いに値しないような人間じゃないかということが初めてわかってくるわけです。自分はイエス様に愛されていると思って洗礼を受けたけれども、やっぱりこんな自分はイエス様に愛されていないのではないか、自分は信仰だと思っていたこともまことに自分勝手な思い込みだったのではないだろうか、やっぱり、自分は死ぬべき滅ぶべき人間なのではないだろうか、そういうふうに思えてくる。イエス様というまことの光を知ったからこそ、自分のそういう暗さが見えてくる。わたくし自身もそういう経験をして大変辛い思いをしましたけれども、今になって思えば、そういった暗さを経験するということが、イエス様が私の心の光になって下さったということの証だったのです。
イエス様を知らないときは悪いことをしても悪いと思わないで生きてきた。イエス様の輝きによっていままで光だと思っていたものが、実は、暗闇であったのだと、今まで知恵だと思っていたものが愚かだったのだと、愚かさが見えてくる。今まで自分は正しい人間だと思っていたのに、自分の正しさなんかこれっぽっちもないのだということがわかってしまう。そういう今まで自分が心の拠り所としていたもの、支えとしていたもの、自分の光だと思っていたものが、すべて吹き消されるような体験をする。信じていた人に裏切られるということもそうです。けれどもそういう暗さを経験することによって、イエス様だけがわたしの光なのだ、ということがわかってくるのです。
ひとに頼るのではない、イエス様に頼るんだ、自分の知恵に頼るのではない、イエス様の知恵に頼るのだ、自分の力に頼るのではない、イエス様の力なのだ、今まで、イエス様を信じてもこのくらいは、と思っていたものがすべて力のないもの、愚かなものになってしまって、ただイエス様だけが・・・イエス様はこう仰いましたね。《わたしを離れたらあなたがたは何もできないのである》と。これが本当だということがわかってくるのです。
それまでは、イエス様はもちろん大切だけど、イエス様を離れても、なにか自分にできることがあるのはないだろうかと思っていたのが、そこじゃないのだということがわかってくるのです。それは人間の暗さを体験することでありますけれども、同時に、イエス様の、神の光というものがわかる時なのであります。そしてそれがわかると、自分が信じていた光がすべて失われても、イエス様はいつも変わることなくわたしのために輝いてくださっている、その光をもってわたしを導いてくださる、さあ、わたしに従ってきなさいと言って下さっているのだ、ということを知る。そこにわたしたちの、ほんとうにどんな暗さにも負けない、救いの確信というものが持てるようになるわけですね。
この世の暗闇もそうなのです。世の中が暗いと言うことは、だんだん暗く悪くなると言うことは、今まで人間の、人類の光だと思っていたものが輝きを失い始めているっていうことじゃないでしょうか。例えば、最初に蒸気機関というものを発明したときには、これこそ素晴らしい人類の大発明で、人間を幸せにするものだと思ったかもしれません。しかし今になってみれば、確かにそれでたくさんのものが救われてきたのですけれども、環境破壊、二酸化炭素の問題、森林破壊、水質汚染・・・あらゆる影の部分が明らかにされてきた。だから、ただただ、発展してものを作っていけば幸せになるという発想は、もう人間は持てなくなっているわけですね。科学の技術が発展していけば人間は神の如く、今までできないことが何でもできるようになるのだ、不可能はないのだと思うくらいに、科学技術というものは人類の光だったかもしれませんけれども、いまはその科学の技術の発展が、たとえば大量破壊兵器ですとか、そういった形で人類にまた暗い影を落としている。
共産主義思想だってもう殆ど滅びかかっていますけれども理想的な社会を掲げた。しかし結局はどこの国であっても、共産主義社会というものは独裁者を生むのです。そして、労働者のためにといいながら、もっとも過酷な階級社会となっていくわけです。では資本主義がいいのかというのかというと、別に資本主義が勝利したわけでもない。そこでは、資本主義の世界では、人間がお金の奴隷になってしまっているのです。日本もたくさん働いてたくさんお金を稼げば幸せになると思っていたかもしれないけど、今は神話となってしまって、別な生き方、別な価値観が必要になってきています。テレビで子供がお金は大事だよと歌いながらコマーシャルをしてのですが、子供はもっと別なものを大事にしてほしいな、とみんな思うと思うわけです。あれは、やらせているわけですけれども、あまりいい気持ちはしない。しかしそういう寂しい世の中になってしまっているわけですね。
人間が今までこれこそ人間を救うものだ、夢の知恵だ、夢の力だと思っていたものが、全部人間に暗い影を落としている。輝きを失ってきているのです。だから暗くなってくる。行き詰ってしまっているわけなのです。やっぱりダメだったと。日本人がよく昭和30年代がなつかしいなんてことを言う、あの頃はよかったと。あの頃は確かに夢があったからよかったかもしれない。このままやっていけば、きっとわたしたちは幸せになれるのだと思っていたからよかった。でもそれが実は違ったっていうことが今明らかにされてきた。だから暗くなっていく。暗くなることってことは、輝きを失うっていうことは、今まで間違っていたものが間違っていたとわかってくることでありますから、必要なことなのです。
イエス様に言わせれば、それは何も驚くことではないのです。それははじめから光ではなかったのですから。そしてその暗さが訪れることによって明らかにされなきゃいけないのは、まことの光が、暗さの中で輝くことができる、人間がそのように夢が破れて知恵に敗れて、まったく暗闇の中にあってもなお輝いている光、まことの光、があるということ、イエス様がその光であることが明らかにされていく。今は見えないけれども、やがて必ず明らかにされることがあるのだと。それが、見えない事実を信じる、イエス様が世の光であるということを信じるっていうことだと思うのです。それは、この暗さの中でこそ、信じなくではいけないことなのです。 |
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今日お読みしました聖書には、終わりのほうから読みますけれども 《人の子は父の栄光に輝いて天使たちと共に来る》と、《そのとき、それぞれの行いに応じて報いる》と書いてあります。これは天国にお帰りになったイエス様がいつの日か必ず、神様の輝きをまとって、天使たちを引き連れて、来てくださる、再び世に来てくださる・・・再臨の約束がされている。そのときこそ、すべての暗闇が払拭されて、まことの光が明らかにされるときである、救いが完成するときである、と。今はまだそのときになっていませんから隠されていますけれども、やがてそうなるのだと、ですから目の前を覆っている暗闇に心を奪われることなく慌てるなと、最後まで待てと、イエス様は仰っているわけですね。見えない事実を信じて最後まで待ちなさいと、今は見えなくてもやがて明らかにされる神の約束の日があるのだと。今はそういう時代だと、そういうことだと思います。
アドベントとは待降節と日本語で言いまして、主の来たり給う日を待ち望むということであります。つまりクリスマスを祝うということ、二千年前の主の来臨を祝うという、その準備、祈りの準備であることは確かなのですけれども、それだけではなくて、もう一つ忘れてはならないのが、今申しましたような信仰のともしびをしっかりと掲げて、この暗さの中で、ともしびを掲げてイエス様が来てくださるのを待つということ。その時に居眠りをして油を切らしていてはいけないと、いうことなのです。もう一度油を充たして、そしてこのともし火を赤々と灯して、あの賢い5人の乙女のように、花婿が来るのを待ってなきゃいけないのだと、そのことをわたしたちに思い起こさせてくれるのがアドベントです。
聖書では再臨の日のことを終わりの日、といいます。地球最後の日とか、人類滅亡の日とか、そういう意味ではなくて、歴史の完成する日という意味であります。わたしたちがこの生きている歴史というのは、ただなんとなくあるのでありません。きちんと始まりがあって、終わりがあるのだと聖書は教えてくれている。それは歴史には目的があり、その目的に向かって始まり、進んでいるのがこの歴史であって、それが完成する日が終末、終わりの日だということなのです。このはじまりをギリシャ語のアルファベットではアルファといいます。ABCの「A」、あいうえおの「あ」ですね、それにあたるのがアルファ。それから、日本語でいうと最後の「ん」にあたる部分ですね、おしまいにあたる部分、それをオメガっていうんです。歴史のアルファとオメガ。イエス様はわたしがアルファでありオメガであると仰った。アルファでありオメガであるってことはどういうことかというと、イエス様によってこの歴史が始まっているし、イエス様によってこの歴史が終わる。イエス様がこの歴史の中心におられるということなのです。
それが見えない事実であります。イエス様がこの世にいらしたということが、その歴史の中心地点にある。この聖書に書いてあるのは、イエス様がこの世で生きられたそのときのことだけですけれども、イエス様はその前も後もわたしたちの歴史を支配して下さっている。それは神の見えざる手として、歴史の中に働いているのです。見えない見えないといいますけれども、全く見えなかったらわたしたちは信じようもないわけです。しかし、見えないけれども、ある部分は明らかにされている、おぼろげに見ることができる。それがイエス様によって知る神の愛、聖書によって教えられる神のみ心ということでありましょう。アルファでありオメガである方が世に来てくださった。わたしを見たものは天の父をみたのである、と言う方が世に来てくださった、そのイエス様を見ることによって、この歴史がどこに向かっているのか、どういうみ心によって動かされているのか、そのことを信じることができるようになるわけです。
それはひとことで言えば神は愛なり、ということでありましょう。神様の意思はこの歴史の中を貫いているわけですけれども、徹頭徹尾、人間への愛で貫かれているのです。一事が万事人間の救いのためなんだと、イエス様はご人格を通して、また説教を通して、奇蹟をとおして、十字架復活を通してわたしたちに示して下さったのです。それを見て、思い起こして、いつの日か神様のその愛の御旨が、わたしたちの救いのみ業が成就する日が来る、どんな暗い日にもそれを信じ続けるのが再臨の信仰でありましょう。
さて、歴史という話になりますと、これはもう壮大な話になります。聖書にはそのことが書いてあるのですが、もう少し身近な問題として考えてみたいと思うのです。わたしたちの命にも始まりがあり、終わりがある。特に始まりというのは、わたしたちが存在しているわけですから、必ずあった。終わりがあるということを、わたしどもは忘れてはいけないのです。この命には必ず終わりがあります。その命の始まりから終わりまで神様の愛が貫かれている、わたしたちがこの世に存在したのも神様の愛によるんだと、そしてわたしたちがこの世に生かされているのも、神様の愛によるんだ、わたしたちが死んでいくのも神様の愛の中に死んでいくんだと、それがわたしたちの人生の見えない事実なんだということなのです。
イエス様はこう仰いました。今日お読みした聖書です。
わたしについてきたいものは自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい。
わたしについてきたいと思うものは、とありますけれども、ついてきてもこついてこなくてもいいよ、ということではありません。今申しましたように、わたしたちの人生はイエス様によって支えられているわけですから、神様の愛が貫いているわけですから、イエス様についていかないというのは、もう滅びなんです。イエス様を離れるということは、わたしたちはどんな希望も持てないことであり、また人生の目的も失うことなのです。イエス様を通して、イエス様を知り、イエス様と共に歩みながら、神様の愛の道を歩んでいく、そこにわたしたちの人生の生きるということがあるわけです。
そのようにわたしたちが本当に神様の道を生きていきたいならば自分を捨てて、自分の十字架を負いなさいとイエス様は仰いました。つまり自分を捨てるというのは神様を生かすと言いますか、神様に対して我を捨てて素直になるということです。そして十字架を負うというのは、神様がわたしたち一人ひとりに対して持っておられるご計画というものがあります。そのご計画を神様に素直になって、自分の人生として受け入れるということです。
みんな人生というのは違うんですね。どうして私の人生はこうなのだろう、ああなのだろう、そう思う人がいます。イエス様はそれをあなたの十字架だというのです。十字架っていうのですから決して楽なのものではありません。でも、こんなものを背負っていたら生きていけないって言わないで、自分を捨てて、それを背負いなさい、自分の人生から逃げないで、この中に神様の隠されたご計画があるのだということを信じて、それをしっかりと受け止めなさい、悲しいことも、辛いことも、嫌なことも、悩んだり苦しんだり泣いたり、何よりも祈りを捧げながら、それを自分の人生として一生懸命生きなさい、ということを言われているのです。そうすればわたしたちは、神様の与えたもう人生をいきいきと生きることができる、本当のいのちを生きることができるようになるのだということです。 |
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その次に《自分のいのちを救いたいと思うものはそれを失うが、わたしのために命を失うものはそれを得る》と言われています。 自分の命を捨てると、それを得る。得ようとすると、それを失う。矛盾しているように思うかもしれません。しかし、人の命には終わりがあるのだということ、つまり終末があるんだっていうことをきちんと受け止めたいと思います。そのことはただ偶然にやってくるのではなくて、神様がわたしたちに、ある人生の目的というものを持っておられて、そこにわたくしどもが到達していく、そういう人生を生きているのだっていうことなのです。
いつだったか、テレビで熊の一年というのをやっていました。熊というものはですね、もうそろそろ熊も冬眠の季節ですけれども、冬眠の間に体重の三分の一を失うそうです。もう、ガリガリになってしまう。そして1年かけて、春、目を覚ましてからですね、また冬眠するまで、もう一生懸命その体重を元に戻そうとするのです。そうしないと次の冬、冬眠できませんから、一生懸命脂肪を蓄えるわけです。食べて食べて食べまくって、食料が乏しい季節もありますけれども、一生懸命食べるんです。そしてようやく冬眠の直前になって、もとの体重に戻ります。そして、それが戻らないと痩せ過ぎてしまって死んでしまうわけです。こうして冬眠をする、また次の年、食べる。すると、熊の一生と言うのはどうでしょう。寝るために食べている、寝るために生きているような一生なのです。
これは神様が決めたことです。熊は別に疑問を持ちません。だけどわたしたちは違うでしょう。やっぱり疑問をもつ。なんのために生きているのか、神様はそんな命をわたしたちに与えたのではないんです。何か目的が、ひとりひとりに命を与えてくださった。その命を、神の御心にあるその自分の人生の意味、価値というものをしっかりと生きていくことを求めるわけですね。そして命には限りがあるのだと、終わりがあるんだということも大事なことであります。無制限ではなく、ちゃんと、終わりというものをみなさん考えなくちゃいけません。終わりというものを考えた時に初めて、今の意味がわかってくる。若い人もそうです。いつかはわからないけれど、いつかは死ぬものなのだ、終わるものなのだと、聖書的にいうと神様の前で裁きをうけるのだと、そのことを考えた時に、今というのはどういう時なのか、っていうことがわかるのではないでしょうか。いつまでも生きているわけじゃないわけですから。終わりの中で、今という時がどういう意味を持っているのか、そして今、何をすべきなのか、終りというものをしっかりと見たときにわかってくるのです。
生きるっていうことは死ぬことでもあるのです。生きるということはだんだん死に向かっていくことですから、生きるということは死ぬことなのです。ですから、どうやってわたしどもはこの命を捨てていくのか、あるいは使っていくのか、用いていくのか、消耗していくのか、そのことをやっぱりいたずらに消耗するのではなくて、ある目的を持って、価値をもって、意義をもってしていきたいと願っているのです。終わりという日がどういう日なのかっていうことをしっかり見ることによって、自分の命の、今がどういう意味を持っているのか、またどのように生きるべきなのか、何のためにそれを使うのか、捨てるのか、大事になってくるのではないでしょうか。自分の命を守ろうとする、それを失う、本当にそうだと思うのです。
みなさんだって、どんなお金持ちになろうが、どんなに健康を手に入れようが、人からあの人は別にいなくてもいいよ、といわれるような人生を生きたくないと思うのです。人に、あのひとがいてよかった、あのひとと出逢えてよかった、あのひとはわたしにとってなくてはならない人なのだって、一人からでもいいからそう言われたいと思う。そのためには、その人のためにわたくしどもは何かしなくではいけない。何かしてあげる。そうやって自分の価値が高まっていくわけです。ひとのために与えること、神様のために尽くすこと。そうすることによって、わたしたちの人生の価値が生まれるのです。
自分の命を守ろうとしているだけでは、決してその価値は生まれてきません。ですからイエス様は、自分の命を救おうと思うものはそれを失うのだと、わたしのために命を失うものはそれを得るんだ、っていうことを言ってるわけです。みなさんどうか、わたしどもが、そういう神様の深いご計画の中を生かされている、そのことを、思いたい。そして、今という時がどんな暗闇の時であっても、今がすべてではないのです。終わりの時に向かっているその途中なんです。ですから、いつか、イエス様がわたしたちのところに来てくださる、わたしたちの人生を成就してくださる、その時の事を信じて、今という時の意味を信じ、価値を見つけて、そして耐え忍ぶ。信仰を持って、見えない事実に、神の見えざる御手に目を注いで、そして今という時を、信仰を持って暗さの中にあってもともしびを掲げて、主の来たり給う日を待ち望むものでありたいと思います。 |
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