「神の右に座したまえり」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書  使徒言行録1章1-11節
旧約聖書  詩篇110編
主の生涯を振り返って
 これまで約四年間に亘り、主の地上でのご生涯について御言葉を学び、礼拝を続けてきました。今日がいよいよその最終回となるのですが、今振り返ってみますと、「これぞ主のお姿である」と思われる幾つかの場面が思い起こされてきます。その中から、敢えて一つに絞ってみるならば、私は「山上の変貌」の出来事を挙げたいと思うのです。

 これは、イエス様の地上でのご生涯のターニング・ポイントにある出来事でありました。イエス様の主たる宣教活動は、都市エルサレムではなく、パレスチナ北部のガリラヤ地方を中心に行われていました。弟子たちも皆、ガリラヤ出身の人々でありました。「ガリラヤ」というのは「辺境の地」という意味があります。また北方の国境に接していることもあり、多くの異邦人が混ざり住んでいたことから「異邦人のガリラヤ」とも言われました。日本ではかつて中央政権から遠く離れた奥羽地方、北海道のことを未開拓の地とか、異民族の地という差別的な意味を込めて「蝦夷」と言ったりしましたが、ちょうどそれと似た響きをもった言葉だっただろうと思います。イエス様は、そのような辺境の地を中心に巡りながら、神の国の福音を告げ知らせておられたのであります。

 しかし、基本的にはユダヤ人に対する伝道であり、パレスチナの外に出るということはありませんでした。ところが一度だけ、イエス様はガリラヤから国境を越えて、さらに北方にある異邦人の地、地中海に面したツロ・フェニキヤ地方、そしてヘルモン山の麓にあるフィリポ・カイザリア地方にまで足を伸ばされたことがあります。そして、その異邦人の地であるフィリポ・カイザリヤの町において、はじめて弟子たちにご自分がメシアであるということを明かされ、またご自分の受難についても予告されます。

 こうして物語的にはイエス様のガリラヤ宣教が頂点に達したと思われたとき、イエス様は、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけを伴われて海抜2800メートルを超えるヘルモン山に登られます。『ルカによる福音書』によれば、この登山の目的は祈るためであったと言われています。こうして、イエス様がヘルモン山の頂で祈っておられますと、弟子たちはイエス様の御姿が太陽のように輝き、その衣までが白く光り輝きだしたのを目撃しました。弟子たちはイエス様が祈っている間、眠気と戦っていたとありますから、これは夜の出来事だったと思われます。夜の暗闇の中で、神々しく光り輝くイエス様の御姿を、弟子たちは目撃したのであります。

 さらに弟子たちは、そのイエス様が旧約聖書を代表する二人の人物、モーセとエリヤと語り合っているのを目撃しました。二人とも神の人と呼ばれて尊敬されている信仰の偉人であります。一遍に眠気も吹き飛んだであろう弟子たちは、感極まってこう叫びます。「主よ、私たちがここにいることは素晴らしいことです。ここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのために」

 すると、たちまち白い雲がイエス様とモーセ、エリヤの姿を覆い隠し、天から「これはわたしの愛する子、これに聞け」という声が轟きます。弟子たちはこれを聞いて畏れひれ伏し、また顔を上げてみますと、モーセとエリヤの姿はすでにそこになく、イエス様もすっかりもとのお姿に戻っていたというのです。

 これが山上の変貌と言われる出来事でありますが、これはイエス様がメシアであるということが非常に分かりやすい形で示された出来事であると思うのであります。私は、弟子たちが「主よ、私たちがここにいることは素晴らしいことです。ここに小屋を三つ建てましょう」と叫んだ気持ちが、たいへんよく分かります。これぞ私たちが期待するメシア、イエス様の本来の御姿であり、この御姿を永遠のものとしてとどめておきたいという、強い願望が言わしめたことでありましょう。

 けれども、イエス様はそれを良しとなさらなかったのであります。そして、山を下り、再び下界に戻られる。すると、麓に残してきた弟子たちが、群衆に取り囲まれて何やら大騒ぎをしている。イエス様は、弟子たちに「いったい、どうしたのか」とお訪ねになると、一人の男性が御許にひれ伏して、「先生、病の息子をいやしてくれるようにお弟子さんたちに申し出たのですが、できませんでした」と訴えます。イエス様は「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか」と、お嘆きになります。これが下界の、つまり人間世界の現実なのでありました。

 私が、山上の変貌こそイエス様のお姿であると申しましたのは、山頂での神々しいお姿のことを思って、このように言うのではありません。そうではなくて、むしろ、その山から下りて行かれるイエス様の御姿を思うのです。山頂の栄光に留まることを良しとせず、卑しき姿となって下界にお下りになり、神なき望みなき者たちの友として歩まれようとする御姿、それこそイエス様の御姿であるということが、ここで明らかにされているのだと思うのであります。

 そして、このパレスチナの北の果てにおける出来事から、イエス様は踵を返し、南へ、エルサレムへと向かわれます。それは明らかに十字架を意識なさっての道行きでありました。イエス様が救い主であるということはどういうことなのか。それは、決して山の上で神々しいお姿を披露することではなく、逆に、そのような栄光の御姿を捨てて、地べたにへばりついて、顔を塵につけて生きているような地の民と共にあらんとすることである。その究極が十字架であるということを、この山上の変貌の出来事は物語っているのだろうと思うのです。
十字架の意味
 イエス様の十字架の意味ということも、最後にもう一度確認しておきたいと思います。半年ぐらい前に作家の五木寛之さんとカトリック教会の司教である森一弘さんの対談集である『神の発見』という本が出版されました。五木さんは浄土真宗にたいへん深い信仰をもっておられる御方のようなのですが、対談の中で実は人間というのは親鸞の悪人正機説でも救われないのではないかと疑問に思っているのだと言いまして、キリスト教の救いとはいったいどういうものですか、森司教に尋ねるくだりがあります。

 五木 親鸞の言う「悪人」とは、自らの罪を自覚して、それを懺悔し、嘆き悲しんでいる人、ということになる。そういう人は救済される。そうすると、懺悔の意識のない悪人はだめなんだろうかと迷うのです。
  私は最近、神の優しさを強調するために、こんな話をしております。私がいま信じている神様は、天国の門の前に出て、来る人来る人に頭をさげて、『こんなひどい世界と苦しい人生を与えてしまって申し訳なかった』と謝っているんです、と。

 私も、天国についてはいろいろなお話しを聞いてきましたが、私たちが死んで天国に行くと、神様が天国の門まで迎えに来て、「ひどい人生で悪かったね」と謝っている・・・こんな話ははじめて聞きました。正直、司教のように影響力のある方が、こんな話をしていいのだろうかとさえ思いました。

 けれども、よく考えてみますと、イエス様の十字架というのは、まさしくそういう事なんですね。この世界は争いに満ち、不法に満ちているのは、少しも神様のせいではない。私たちの人生が挫折と苦しみに満ちているのも、決して神様のせいではない。人間の罪、愚かさ、弱さ、不信仰のせいでありましょう。神様が悪かったなどと謝るのはおかしいのです。

 だけれども、それにも関わらず、愛なる神様はそれを全部わたしの責任だと言って、その罪を背負ってくださった。その罪の贖いとして御子の命まで差し出してくださった。これがイエス様の十字架なのです。そのことを究極的な言い方をすると、神様が赦すというよりも、神様が謝っているということになるのだと、そういうことを森司教は優しい言葉でいっておられるのです。

 イエス様は、そのような神様の徹底した愛を説き明かし、また身をもってその愛を私たち罪深き人間にもたらすために、この地上のもっとも低い所にいる者たちと共に歩まれ、そして私こそ悪いのだと言わんばかりに、人間の罪を一身に負って十字架におかかりなってくださったのであります。
復活と昇天
 そして、復活という出来事があります。復活というのは、神様の愛、人間の救いという目的のためにすべてを捧げ、命までささげたイエス様が、神様によって命を与えられたという出来事であります。神様は、イエス様を生かし給うことによって、イエス様の十字架の愛が「わたしの御旨である」ということを証しされたのであります。そして、「私たちのために死んでくださった主」としてだけではなく、「私たちのために今も共に生きてくださる主」として、もう一度イエス様を私たちにお与え下さった、それが主の復活という出来事なのです。

 そして、今日は、イエス様がこのような地上のご生涯の目的を果たされて、天にお帰りになるというお話しであります。しかし、私はこれを、あの山上の変貌の出来事のように、イエス様が人の手の届かぬ山の頂で栄光をお受けになったお話しだと理解してはいけないと思うのです。先週、イエス様は「見よ、私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」と、弟子たちにお語り下さったというお話しをしました。罪深き、愚かな人間と共に歩まれた主、その主が私たちの為に死んでくださり、私たちのために永遠に生きる方となってくださった。そのことが、私たちの人生において「然り」となるために、イエス様が天に昇られるのであります。

 イエス様が天にお帰りになるにあたって、二つの約束が弟子たちに与えられました。一つは、聖霊を受けるということであります。もう一つは、再び主が来られるという再臨の約束であります。

 まず、聖霊の約束について、イエス様はこう言われました。

 「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」(4-5節)

 「聖霊による洗礼(バプテスマ)」というのは、聖霊の満たしの中に浸されるということです。そうすると、どうなるのか? さらにイエス様はこのように言われます。

 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

 聖霊のバプテスマを受けると、「あなたがたは力を受ける」と言われています。同じ意味ですが、『ルカによる福音書』の最後の部分では、「高い所からの力に覆われる」という言い方がされています。この「覆われる」という言葉が、バプテスマの本質を表していると思うのです。「力を受ける」という言い方ですと、何か神のような力、奇跡的な力を私たちが持つようになって、私たちが強くなることだと誤解することがあるかもしれません。しかし、そうではなく、神の力に覆われるのです。覆われるというのは、私たちの人生がいかに弱く、欠けに満ちており、罪深いものであったとしても、その人生がそっくりそのまま神の大いなる力の中に置かれるようになるということなのです。

 逆に言うと、私たちの人生が神様の力に取り囲まれているということであります。喜びの日ばかりではなく悲しみの日も、成功の日ばかりではなく失敗の日も、正しさの中をある日ばかりではなく罪の中にある日も、いついかなる日においても、いついかなる境遇においても、私たちの人生は神様の素晴らしい力のもとにあるということなのです。

 だから、力を受けると言われるのです。私たちが強くなることではない。神の強き力が私たちに弱き人生の中にも、実に不思議な形で現れてくるということです。そういう神様への信頼、心強さというものを、私たちが持つことができるようになります。そして、私たちをこんなにも愛してくださる神様がいらっしゃるのだ、イエス様がいらっしゃるのだということを、誰に対しても胸をはって語れるようになる、語りたくなる、それが「地の果てに至るまで、わたしの証人となる」ということでありましょう。

 それから、再臨の約束についてもお話しをしたいと思います。再臨の約束は、イエス様ご自身が、たとえば最後の晩餐の時などに「場所を用意したら、あなたがたを迎えに戻ってくる」というような言い方で仰っていますが、ここではイエス様の昇天を見つめる弟子たちに、天使たちが現れてこういったと書かれています。

 「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」

 この再臨と聖霊のバプテスマは対をなしているのです。聖霊のバプテスマは、私たちのこの地上の生涯を、神様の大いなる力、御手が覆っていてくださるということであります。つまり、私たちのいるところに神様がいてくださるということだと言ってもよいでありましょう。それに対して、再臨というのは、イエス様が私たちを迎えに来て、私たちを神様のもとに引き上げてくださること、つまり神様のいらっしゃるところに私たちがいるようになることなのです。

 それこそ、私たちの究極的な救い、永遠の救いでありましょう。そのような日が必ず来るから、聖霊の力のもとで、忍耐して待ち望めということが、ここで言われているのであります。

 こうしてみますと、イエス様の昇天は、決してイエス様の御業の完成ということではないのだということが分かってきます。私たちは、一応、今日のイエス様の昇天というお話しをもって、イエス様のご生涯をお話しを終わります。しかし、イエス様は天にお帰りになた今も、神の右に座し給う御方として、私たちのために聖霊を送り、また再臨の日を来たらせるために準備してくださっているのです。

 聖霊を与え、私たちの人生をいと高き方の力で覆ってくださる御方として、やがて私たちを迎えに来てくださる御方として、イエス様が神の右にざしていらっしゃることを、どうぞ片時も忘れないようにしたいと願います。どのような日においても、私たちの救いはそこから来るのであります。そのことを信じ、顔をあげ、天を仰ぎつつ、私たちに与えられている日々を歩んで参りたいと願います。
目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
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