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イエス様のお受けになった多くの苦しみの中には、肉体的な苦痛、精神的な辱めの他に、孤独の悲しみというものがあったと思います。
イエス様を祭司長らの手に引き渡したのは、最も信頼する弟子の一人であるイスカリオテのユダでありました。他の弟子たちも、イエス様が捕まるや否や、皆、イエス様を見捨てて逃げて行きました。中には途中で思い返し、こっそりと曳いて行かれるイエス様の後をつけた果敢な弟子も二、三おりましたが、一人は途中で見つかり、衣服をかなぐり捨て裸で逃げ帰るという失態をやらかし、ペトロは大祭司官邸までたどり着いたものの、「お前はイエスの弟子だろう」と言う者が現れると躍起になって「あんな男は知らない」と否定し、それをイエス様が悲しそうに見守っておられたということも書かれています。
あるいはまた、裁判の中では、イエス様を知る者が次々と現れて証言台に立ちますが、誰も彼も誹謗中傷、讒言の類ばかりを蕩々と述べたといいます。それを聴くサンヘドリンの議員たちの中には、ニコデモやアリマタヤのヨセフといったイエス様の正しきことを知る者もあったはずなのですが、彼らはじっと沈黙を守り、偽証によって一方的に進められるこの裁判の不正を黙殺したのでしたのでした。
イエス様がもっともお愛しになり、心におかけになってきた民衆ですら、「イエスを十字架につけよ」と狂ったように叫びだし、それを制しきれなくなったピラトはついにイエス様を十字架で処刑することに決めたというのであります。
その後のイエス様は、ローマの兵士たちに散々弄ばれ、侮辱され、憔悴しきった体に重い十字架を背負わされて、処刑場のゴルゴダの丘に向かう細く長い道、悲しみの道を、大勢の野次馬たちの好奇の視線にいたぶられながら歩かされたのでありました。大勢の群衆が野次馬としてついていきました。
このように、誰一人として、「こんなことは間違っている!」と叫ぶ者はありませんでした。誰にも理解されず、味方されず、愛する者たちからも見放され、打ち捨てられて、完全なる誤解の中で死んでいくことほど残酷で、辛く、悲しいことがありましょうか。 |
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しかし、そのようなイエス様のお苦しみを描く聖書の中で、今日お読みしました27節というのは、ある意味でホッとさせられる一節だと思うのです。
「民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。」
文語でもご紹介したいと思います。
「民の大いなる群と、歎き悲しめる女たちの群と、これに従う」
「民の大いなる群」というのは、野次馬のことでありましょう。野次馬というのは、自分とは関わりのないこととしてイエス様を見ているということでありますから、「これに従う」とありましても、それは決してイエス様と歩みを一つにして従ったという意味ではありません。恐いもの見たさといいますが、自分本位な好奇心をもって、ゾロゾロとついていったということなのです。
けれども、そのような野次馬とは違って、イエス様のお苦しみと心を一つにして、十字架の道行きを共に歩もうとしていた人たちもそこにいたのです。それが「歎き悲しめる女たちの群」でした。
共に悲しむ人がいるという慰めがここにあります。共に悲しみ、ともに苦しむ人がいるなら、私たちは慰めを受けることができます。人生には辛いこともたくさんありますが、共に悲しむ、共に苦しむ、そういう人がいてくれるならば、私たちは苦しみや悲しみに耐える大きな力を受けることができるのです。
「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」
(『ローマの信徒への手紙』12章15節)
「どのようなときにも、友を愛すれば
苦難のときの兄弟が生まれる。」 (『箴言』17章17節)
『ローマの信徒への手紙』の方の御言葉は有名なのでお聞きになったことがある方も多いかと思います。同じような意味の言葉が『箴言』にもあります。本当の友だちというのは、苦しみを共に分け合うのです。多くの友だちがいたとしても、いざという時に、苦しみを共に分け合うことがないような友は、本当の友ではありません。
そういう意味で、イエス様の側にいた男たちは、だらしなくも誰一人としてイエス様の真の友となることができませんでした。ただ女性たちだけが、イエス様とお苦しみを自分の苦しみとして、共に悲しみの道を歩まんとして、悲しみ嘆きつつ、最後までイエス様の十字架への道行きを側で見守ったというのであります。
『ルカによる福音書』は、こういう婦人たちの信仰というものをよく物語っている福音書です。イエス様のご降誕の物語にしましても、『マタイによる福音書』がヨセフの信仰を中心に物語るのに対して、ルカはマリアの信仰にスポットを当てています。また、他の福音書は、イエス様の側で仕えていたのは男たちばかりであったように書いていますが、ルカはちゃんと婦人たちがイエス様のお側で仕えていたことを書いています。
「すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」(『ルカによる福音書』8章1-3節)
町や村を巡り歩いて神様の愛を伝えるイエス様や十二弟子と共に、マグダラのマリア、クザの妻ヨハナ、スサンナ、その他にも多くの婦人たちが一緒にいて、それぞれの賜物をもって奉仕をしていたということが書かれています。この婦人たちこそ、十二弟子が恐れをなして逃げてしまったイエス様の十字架の試練の時にも、御側を離れることなく主に従い、悲しみの道を共に歩き、また十字架の死の瞬間も見守り、主の葬りの時にも付き添ったのでありました。
「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた。百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。」(『ルカによる福音書』23章46-49節)
「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、家に帰って、香料と香油を準備した。」(『ルカによる福音書』23章55節)
この葬りの場面にも、使徒たちの姿はありません。いったい、男どもはどこに行ってしまったのか。なんと隠れ家にこもって鍵をかけ、ひたすら身を隠していたというのであります。一方、婦人たちは、安息日が明けると、さっそく主の墓参りに行きまして、主の復活を告げる天使の声を聴いたのです。婦人たちは隠れ家に帰って、男の弟子達に一部始終告げ知らせました。しかし、彼らは婦人たちのいうことを信じなかったと言われています。
「墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。」(『ルカによる福音書』24章9-11節)
変な言い方ですが、この婦人たちというのは決して弟子たちの集団の中の主役ではないんですね。後に、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを初めとする男の弟子達も復活の主に出会い、聖霊を受けることによって挫折を乗り越え、教会の発展にとても素晴らしい働きをすることになります。しかし、その時になりましても、陰にとても大きな婦人たちの働きがあったということは、教会の発展について物語る『使徒言行録』を読みましてもうかがい知ることができるのです。
男だから、女だからという読み方はしなくてもいいと思います。しかし、目立った働きをする弟子たちが必ずしも信仰的に力強い者とは限らないし、逆に目立たないところで仕えている弟子たちが必ずしも信仰が弱いというわけではありません。信仰の大小ではないのです。人には、それぞれ神様からいただいた賜物があります。その賜物に応じて、表に出て仕える人もあれば、陰となって働く人もいます。そのことを互いに認め合い、尊敬し合うことが大切なのではないでしょうか。 |
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さて、イエス様の歩まれる悲しみの道を、自分たちも泣きながらついていった婦人たちの話をしたのでありますが、この歎き悲しむ声をお聞きになったイエス様は、婦人たちの方に振り返られて、次のように仰いました。
「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。」(28節)
その後にも続けていろいろ言われていますが、この部分が大事なのです。まず、私たちがこの御言葉を聴く時に心しなければならないのは、これはイエス様が地上のご生涯において、最後に与えられた人間への教えであるということです。この後も十字架上でのイエス様のお言葉がありますけれども、それは神様へ祈りであったり、一緒に十字架にかかった強盗に天国を約束する言葉であったり、母マリアへの慰めの言葉であります。ですから、この婦人たちに対して語られた言葉こそが、イエス様の十字架におかかりになる直前の、従って地上のご生涯での最後の教えだと言えるのです。
では、イエス様は、十字架におかかりになる直前に、いったい何を私たちにお教えくださったのでありましょうか。それは「わが為に泣くな。己が罪のために泣け」ということです。これは、イエス様の十字架の意味を、イエス様自らお語りになった大切な、大切な御言葉だと思います。
十字架というのは、罪なき御方が、神の独り子なる御方が、私たちのためにすべての善きことをなしてくださった御方が、苦しまれ、辱められて死ぬのですから、本当に悲しい出来事です。しかし、問題は、その悲しみは何の悲しみなのかということです。実は、その悲しみのおおもとをたどれば、私たち一人一人の罪の問題に行き当たるわけです。
ただ、そのことは誰にでも簡単にわかることではありません。イエス様は何も悪いことをしていないのに、十字架にかけられて殺されてしまったということは、聖書をある程度お読みになれば分かるだろうと思うのです。しかし、聖書をいくら読んでも、それだけでは、自分の罪のためにイエス様が十字架におかかりになったのだということは、分からないのです。イエス様を殺したのはユダヤ人の偽善者たちではないのか。二千年前に、ユダヤ人の指導者たちが妬みにかられた末、謀略をもってイエス様の十字架にかけて殺したのではないか。それと、今の自分の罪がどんな風に関係するのか。そういうことを疑問に思うばかりなのです。
かく言う私も、そのことがなかなか分かりませんでした。洗礼は幼児洗礼だったのですが、高校1年生の時に信仰告白をしました。わたしはイエス様を救い主だと信じますと、神様と教会の前で告白したのです。けれども、実はそれでも自分の罪を背負って、イエス様が十字架にかかってくださったのだということはよく分かっていなかったのであります。
それから私は牧師なる道を歩む決心をしまして、東京神学大学に入学しました。その時にも、イエス様の十字架の意味というものが、本当の意味で分かっていませんでした。もちろん、キリスト教の教理としてはよく理解していましたし、信じていました。しかし、罪というのは、日々を生きていく私自身の生身の問題です。いくら頭の中で理解しても、生身の生き様が変わらなければ意味がないのです。
本当に罪赦されたというのならば、魂に奥底から溢れてくるような真の感謝があるでしょうし、自分の生き方が変わるはずなのです。つまり、イエス様の十字架というのは理解するものではなく、体験されるものでなければならないのです。二千年の時を超えて、パレスチナと日本という地理的な距離をも超えて、見ることもできず、触れることも出来ず、その声を聴くこともできないという物理的な限界をも超えて、「主イエスの十字架、我が為なり」ということを魂における真の体験としなければ、イエス様の十字架ということは分からないのです。
それが分からなければ、イエス様の十字架というのは、どんなに私たちがリアリティをもってそれを受け止めたとしても、結局はあのエルサレムの娘たちの十字架の受け止め方と変わりありません。「イエス様は罪もないのに十字架にかかって可哀想だ」とか、「神様の御子なのにあんな酷い目にあってお労しいことだ」とか、それじゃあ駄目なんだとイエス様は仰るのです。「我が為に泣くな。己が罪のために泣け」。イエス様が可哀想だ、気の毒だ、そのことを思って涙が止まらない経験をしたとしても、それではイエス様の十字架が私たちの救いだという信仰的体験にはならないからです。 |
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では、どうしたらそのことが私たちの体験となるのでしょうか。イエス様は、「己が罪のために泣け」と言われたのでありました。信仰というのは、神様と人間とが真の出会いを果たすところに生まれるのであります。真の出会いとは、本当の自分と本当の神様が出会うということであります。
ところが、私たちは、神様については一生懸命に勉強しようとする割に、自分自身については無頓着であることが多いのです。真の出会いのためには、神様のことを一生懸命に勉強するだけでは駄目で、自分自身というものを深く掘り下げて見つめ、自分の本当の姿を知らなければなりません。今思っている自分の姿が、本当の自分の姿なのかどうか、もっと真剣に見つめ直しつつ、神様を求めていかなければならないのです。
その点、わたしはペトロの流した涙のことをもう一度思い起こしたいのです。ペトロの経験は、私がイエス様の十字架をわたしの救いだと受け止めるに到った経験と重なります。
ペトロは、最後の晩餐の時、「わたしは何があってもイエス様の側を離れることはありません。捕らえられようが、殺されようが、あなたと一緒におります」と誓いました。しかし、イエス様はペトロの本当の姿を見抜いておられまして、「あなたは今日、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないというだろう」と仰ったのでした。さらに、「わたしはあなたの信仰がなくならないように祈った。立ち直った時には、他の仲間を励ましてやりなさい」ということまで仰っておられます。
この時、ペトロはイエス様が何でこんなことをおっしゃるのか、分からなかっただろうと思うのです。ペトロは自分の信仰、自分の気持ちの揺るぎないことを信じていました。どうして、イエス様は私のことを分かってくださらないのだろうと思ったに違いないのです。
しかし、ペトロはイエス様が裁かれている大祭司官邸の庭で、こっそりとその様子をうかがっている時、女中のひとりに正体を見抜かれてしまうのです。「あなたは、あの男の弟子でしょう」と指摘されたペトロは慌てて「わたしはあんな男は知らない」と打ち消しながら出口の方に逃げてゆきます。ところが、そこでも一度、二度と正体がばれてしまい、「この男も、あの男の弟子だ」と騒ぎになりますと、必死になって「わたしはあんな男のことは何もしらない。関係ない」と打ち消し続けたというのです。
その時、夜明けを告げる一番鶏が鳴きました。ペトロは、昨晩のイエス様のお言葉を思い起こします。「あなたは今日、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないというだろう」 ペトロは表に出て声をあげて大声で泣いたというのです。
このような涙を流したペトロは、イエス様の十字架をどのように見たのでありましょうか。「お気の毒に」と思ったのでしょうか。「サンヘドリンの奴らは酷いことをする」と思ったのでしょうか。そうではなく、「ああ、わたしこそ十字架にかからなければならないところを」と、自分の罪を思って胸を痛めたに違いないのです。また、十字架の上で、イエス様が「父よ、彼らをおゆるしください。何をしているか分からないのです」と祈りを聴いた時、ペトロはイエス様が誰のために、何のために十字架にかかっておられるのが、はっきりと悟ったに違いありません。後に、ペトロはこのように語っています。
「キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。
『この方は、罪を犯したことがなく、
その口には偽りがなかった。』
ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」(『ペトロの手紙一』2章21-24節)
イエス様は私たちの罪を負って、身代わりとして十字架にかかってくださった。それは私たちが罪赦された者となり、新しく義によって生きる者となるためだったのだと、ペトロは語っています。このような十字架の奥義を知るために、ペトロが流した己が罪のための涙というものが必要だったのであります。
一般論として、私たちは他人のことについては、実に多くのことを考え、同情したり、怒ったり、嘆いたり、いっぱしの評論家になることができるのです。小泉政権が悪いとか、今時の若い者たちはどうであるとか、妻がどうであるとか、夫がどうであるとか、あるいは教会でも牧師がどうであるとか、婦人会がどうであるとか、案外と的を射たことを的確に言っていることも少なくありません。しかし、それは所詮、どこか他人事としての言葉に過ぎないのです。
そうやっていくら自分の周りにある諸問題を分析し、その始末をつけたとしても、根本的な問題はやはり自分自身の中にあります。自分の考え方、感じ方、信仰、生き方、それこそが自分の人生を一番左右するものでありまして、それが解決しなければ周辺の問題というのは一つ消せば、また新たな火種が起こるという具合に決して終わりがないのです。
問題は自分の中にある。そのことに気づいて、人のことを言う前に、自分自身のことを嘆きなさいと、イエス様は仰っておられるのです。自分であったらどうなのか? 自分には何かすることはないのか? 自分は神様からどう見られているのか? そうやって自分を掘り下げていきますと、自分の魂の奥底にある罪の問題に必ず行き当たるのです。その恐ろしさに震え上があり、この問題が解決しない限り、自分には生きる値打ちさえないのではないかと思えてくるのです。ペトロの流した涙がそれです。
辛いことです。悲しいことです。しかし、イエス様は、いいからそのことを思いっきり泣きなさい。嘆き悲しみなさい。それこそは御心に適う悲しみであって、あなたを悔い改めに導き、十字架の救いに目を開かせるものになるのですよと、イエス様はそう教えられたのです。それが、イエス様が十字架にかかる直前に、最後に教えられたことだったのです。
今日お読みしました哀歌にも、「あなたを立ち直らせるためには、一度、罪をあばくべきなのだ」と言われていました。また『ヤコブの手紙』には、このように記されています。
「悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。」(『ヤコブの手紙』4章9節)
また、『コリントの信徒への手紙二』には、このように言われています。
「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。神の御心に適ったこの悲しみが、あなたがたにどれほどの熱心、弁明、憤り、恐れ、あこがれ、熱意、懲らしめをもたらしたことでしょう。」(『コリントの信徒への手紙二』7章10-11節)
自分自身の真の姿を知り、悲しみなさい。嘆きなさい。心を憂いで満たしなさい。そうして、イエス様の十字架を仰ぎなさい。そうすれば、この罪深き者をどれほど大きな愛をもってイエス様が抱きしめてくださっているかが分かります。この十字架において、私たちはイエス様を与え給う愛なる神様と、罪深き本当の自分との出会いを体験するのです。
最後に、どこか拾い読みして書き留めてあった一つの文章を紹介しましょう。
「なぜ外側にばかりイエスを見、自分の内側に見ようとしないのですか。あなたの中の弱さや破れ、そのすべてにイエスがおられるのに、どうして見えないのでしょうか。あなたがたが、自分の内の暗い部分を歓迎できないのは、どうしてでしょう。そうすれば、光が闇に差し込み、光は闇の中で輝くでしょうに。あなた自身の中に、餓えている人、渇いている人がいるのに気づきませんか。囚人がいるのに気づきませんか。恐れや不安という牢獄に閉じ込められた囚人がいることに。またあなたは、自分の中に見知らぬ人がいるのに気づきませんか。自分のしたいことを行わず、自分にも理解できないことをしてしまう、奇妙な人のことです。次々にあなたを襲う怒りや憂鬱も、どこからやって来るのかわからない風来坊ではありませんか。あなたがたは自分の中に、病んでいる人がいるのに気づきませんか。裸で、貧しく、傷ついている人、衣服を着せてあげるべき人のいることがわかりませんか。あなた自身の弱さや破れの内に、キリストが隠れておられるのが見えませんか。」
自分自身の中にある悲しき現実を見つめ、なおかつその中にイエス様の十字架があることを知るとき、私たちは世の悲しみ、人の悲しみにも、自分自身が知った神様の愛をもって仕えることができる人間にされるのではないでしょうか。 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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