アブラハム物語 02
「祝福に満ちた希望」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 テトスへの手紙2章11-13節
旧約聖書 創世記12章1節-4節
信仰者になる前のアブラハム
 アブラハムは、わたしたちがメソポタミヤ文明と言っている世界の人でありまして、今から四千年前、カルデアのウルという都市に生まれ育ちました。そこで華やかな文明の恩恵に与りながら、とても豊かな生活をしていたと思われます。しかし、豊かな生活をしている人が豊かな人間であるとは限りません。豊かな人間になるには、心が豊かにならなくてはなりません。物が満ちあふれ、快適さを追求した生活が、かならずしも人間の心を豊かに、快適にするわけではないのです。

 たとえば、「昔はよかった」と懐かしむことがあります。ほんの十年、二十年前に較べても、わたしたちの生活はずいぶん便利になってきているはずです。洗濯機は脱水まで自動でやってくれるようになりました。電子レンジもたいへん重宝です。自動車にはクラッチがなくなりました。音楽は、レコードよりはるかに高音質で扱いやすいCDで聴く時代になりました。電話はひとり一台をどこにでも持ち歩く時代になりました。パソコンまで持ち歩く人もいます。このように時代が豊かに快適になってきているにもかかわらず、「昔はよかった」と懐かしむことがあるのです。

 それはどうしてなのでしょうか。時代はどんどん悪くなっているのでしょうか。その通りかもしれないのです。確かに物質的には豊かになり、生活も便利になりましたが、街中に親切が溢れているとか、思いやりのある人間が増えてきたとか、犯罪が少なくなったとか、そういうことではないのです。むしろ、溢れる物質文明の弊害が人間の心をどんどん貧しくしていると言ってもいいのではないでしょうか。人間の心の貧しさというのは、物を豊かにするとか、生活を便利にするということでは、決して満たすことができないものなのです。

 前回、アブラハムについて二つのことをお話しました。一つは、アブラハムの兄弟であったハランが妻と三人の子どもを残して早死にしてしまったということです。もう一つは、アブラハムに子どもが生まれなかったということです。どちらも、物質的な豊かさや快適さではどうにもならない問題です。四千年経った今も、同じ悲しみや同じ問題で苦しんでいる人がいることを思えば、これは人間の常なる問題であり、物質文明の力ではどうにもならない問題であると言ってもよいのかもしれません。信仰者になる前のアブラハムは、こうした問題に対してどうすることもできない無力な人間として、悲しみを負い、悩みを負って生きていたのです。
人はパンだけで生きるのではない
 イエス様は《人はパンだけで生きるのではない》と言われました(マタイによる福音書第四章四節)。パンは必要です。しかし、パンが豊かであっても、つまり物質的な必要が豊かであっても、それだけでは人間は幸せに生きていくことはできないということです。それでは、人間が生きていくためにはパンだけではなく、何が必要なのでしょうか。

 朝鮮戦争で捕虜となったアメリカ兵たちのこんな話があります。食事も与えられ、十分に清潔な生活をするもでき、そういう意味では人道的に扱われたにも関わらず、多くの捕虜が衰弱して死んでいったというのです。いったい何が原因だったのでしょうか。アメリカ兵たちは捕虜となったとき、信念と統率力をもったリーダーとなり得る人たちと、信念を持たず人に言われなければ何もできない人たちと、二つのグループに分けられ、別々に収容されたそうです。そして、原因不明で死んでいった捕虜たちとは、リーダーを失った信念のない人たちだったのです。彼らはリーダーを失ったときに、目標や望みを失い、生きる力を失い、毎日、十分な食事をとることができたにも関わらず、本当に死んでいってしまったのでした。

 この話は、人間が生きていくためにはパンだけではなく、希望が必要であるということを物語っているといえないでしょうか。希望というのは、将来の夢とかそんなことだけではありません。自分が何のために生きているのかということを、心にしっかりとみつめているということです。あるいは、生きている意味を知っているということだと言ってもいいかもしれません。それこそが苦しいときや悲しいときに生きる力になるのです。

 人間の生活は、困難や悲しみが一つもないなんてことはありえません。耐えることが必要です。待つことが必要です。倒れても起きあがることが必要です。恐れを振り払う勇気も必要です。悪いことに負けない正しさも必要です。そういう力は、腹一杯飯を食ったからといって湧いてくるものでないでしょう。希望が必要なのです。何のために生きるのか、生きることにどんな意味があるのか、それを心にしっかりと持っているということが必要なのです。そこから、私たちの生きる力が湧いてくるのです。それならば、希望とは決して失われないようなものである必要があります。何か困難が襲ってくるとたちまちしぼんでしまうような希望では、本当の希望とは言えないのです。

 先日、八歳になる息子とお風呂に入っているときに、好きな聖書の言葉は何かと尋ねてみました。するとすかさずに《その倒れ方がひどかった》と答えたので驚きました。この言葉は、マタイによる福音書第七章二十四〜二十七節に記されているイエス様のたとえ話にでてきます。賢い人が岩の上に家を建て、愚かな人が砂の上に家を建てました。しかし、雨が降り、川があふれ、風が吹いて家を襲うと、岩の上に建てられた家は倒れませんでしたが、砂の上に建てた家は倒れしまうのです。そのたとえ話の最後の言葉が《雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、その倒れ方がひどかった。》という言葉なのです。

 確かに《その倒れ方がひどかった》というのは、印象的な言葉です。ただ倒れたというのではありません。建て直しが不可能なほどの倒れ方をしたということでしょうか。あるいはいろいろなものを巻き込んで倒れたということでしょうか。希望もそうでありまして、へたな希望をもっていてそれが失われたりしますと、ただ倒れるだけではなく、本当に酷い倒れ方をしてしまうのです。かならず希望は失望に終わらない希望でなければなりません。

 しかし、そんな希望がどこにあるのでしょうか。賢い人は《岩の上に自分の家を建てた》と、イエス様は言われました。《岩の上に自分の家を建てた》とは、神様の言葉を聞いて、それによって生きることだと、イエス様は教えておられます。確かに神の言葉は古びるということがありません。四千年前のアブラハムの話、二千年前のイエス様の言葉が、今を生きるわたしたちの魂に届き、心に通じ、生きる力を与えるのです。そのような朽ちることがない神様の言葉を希望とし、神の言葉によって生きること、それが岩の上に家を建てる生き方です。《人はパンだけで生きるのではない》とイエス様が教えられた時も、《神様の口からでる一つ一つの言葉で生きるのである》と言われたのでした。パンは体を保つために必要です。しかし、私たちに存在の意味を教え、人生の目的を教え、生きる力を与えてくれるのはパンではなく、神の御言葉なのです。神様の言葉が、私たちに真の希望を与えるのです。

祝福に満ちた希望
 話をアブラハムの話に戻したいと思います。第十二章一節に《主はアブラムに語られた》と書いてありました。アブラハムは、お話ししましたように神なき望みなき世界に生きる弱々しい人間の一人だったのです。そのアブラハムに、神様は《わたしが示す地に生きなさい》と語りかけられました。その意味は何でしょうか。神様が、アブラハムを呼び出し、アブラハムの人生に目的を、生きる意味を、希望を与えてようとしておられるのです。

 そして、四節にはこう書いてあります。

 アブラムは、主の言葉に従って旅立った。

 これがアブラハムの新しい人生の出発になったのです。このアブラハムの旅立ちについては、次回のテーマにしたいと思います。今回は、神様がアブラハムにどんな希望を与えられたのか、そのことをもう少しお話ししましょう。 それは、まことに祝福に満ちた希望でした。

「わたしはあなたを大いなる国民にし
 あなたを祝福し、あなたの名を高める
 祝福の源となるように。
 あなたを祝福する人をわたしは祝福し
 あなたを呪う者をわたしは呪う。
 地上の氏族はすべて
 あなたによって祝福に入る。」


 神様は、《祝福》という言葉を四回も繰り返されました。なかでもいろいろな意味で感銘を覚えるのは、「アブラハムを祝福する」と言われているだけではなく、「地上のすべての民を祝福する」と言っておられることです。このことから、わたしたちは神様の祝福の確かさと大きさという二つのことを知ることができます。

 まず、神様の祝福の確かさということです。これは創世記を第一章から読んでくると分ります。神様はこの世界をお造りになり、そして祝福されました。しかし、アダムとエバが犯した罪に始まり、人間は造り主なる神様を忘れ、神様からどんどん遠ざかってしまいます。第四章では、兄弟殺しという罪深い事件について書かれています。第六章では、神様が地上の悪を見かねて、大洪水を起こされたということも書かれています。第十一章には、知恵や技術を身につけた人間たちが傲慢になり、神様のようになろうとしたという話があります。そして、こういう時代が進んだ時に、アブラハムは生まれ、育ちました。カルデアのウルには、バベルの塔を思わせる巨大な神殿が建っていました。そして、そこではお月様を神様とするような礼拝が行われていたのです。しかし、神様は、こういう地上の世界を天から見下ろされて、アブラハムに「地上のすべての民は呪われよ」と言われたのではありません。「地上のすべての民は祝福に入る」と言われたのです。神様は、お造りになった世界が、どんなに堕落し、異教化し、御自分から遠ざかっていっても、「祝福する」という最初の計画を決して変えられなかったのです。

 「地上のすべての民は祝福に入る」このみ言葉から、神様の祝福がどんなに確かな約束であるか、そして、神様はいつでも、ただそのことをだけをお考えになって、天からこの地上の有様を見下ろしておられるのだということを悟っていただきたいと思います。

 次に、神様の祝福の大きさということです。神様の祝福は、アブラハム個人に幸せを与えるだけに留まりません。神様は、「あなたによって、地上のすべての民は祝福に入る」と言われます。神様は、アブラハムを祝福で満たしたばかりでなく、アブラハムから祝福を溢れさせると約束して下さったのでした。これが決して大げさな言葉ではなかったことは、当時のアブラハムよりも、わたしたちの方がよく知っています。今、世界人口は約五十億人ですが、そのうち十七億六千万人がクリスチャンとして、アブラハムを信仰の父として仰いでいます。また、ユダヤ教徒は二千万人、イスラム教徒は九億二千万、実に世界人口の五十四パーセントにあたる二十七億人が、アブラハムを信仰上の父として仰いでいることになります。神様の祝福は確かで、しかも大きいのです。

 最初にももうしましたように、生きるためには失望に終わることがない希望が必要です。それはわたしたちに存在の意味を与え、人生の目的を与え、生きる力をみ、そこから神様の言葉を聞くということは、私たちの人生に、そのような確かで大きな祝福に満ちた希望が語られていることを聞くということです。さらにもうしますと、テトスへの手紙には、《祝福に満ちた希望》とは、イエス・キリストのことであると書かれてあります。それならば、聖書を読んで、神様の言葉を聞いて、イエス・キリストを知り、イエス・キリストを信じることが、私たちの確かで大きな希望になるということでありましょう。アブラハムが神様の祝福に満ちた希望の言葉を信じて新しい人生を生き始めたように、私たちも祝福に満ちたイエス様を信じて新しい人生を生きる者になりましょう。
目次

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
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Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

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