Disable The Machine

        by  Cycorosoft Company  (Makoto S. and Y.Otsuka

 

 

                exercises :        C    D    E

                works:#1

 

 

その機械を止めよ

 

 菅原 正(Makoto S.)と大塚洋一(Y. Ohtsuka)でこのサイトをはじめたのは1999年の夏である。当初、青山のGallery Art Spaceの企画展である、「Library展」へ出品するために製作し、その後すこしづつ作品の追加を行って今に至っている。

少なくともわたしにとっては(菅原がどう思っているかは分からない)、「情報発信」とか「情報提供」という言葉には強い違和感がある。元々Webは情報共有の手段として開発されたため、情報を保管し、提供することに関しては、一般のユーザーでも、安価に、簡単に実現できる基盤がある。反面、良質なWebサイトであればあるほど、どれも紋切り型で、サービス過剰か、自然さを装いながらも、抜け目無くサービス提供する設計としたものかで、それ以外のものは、ほとんど、この間のどこかに位置している。今のところ、ソフトウェアを開発するようにWebページも製作すべきと思われている節がある。ユーザーに見てもらいたい、提供したい情報があってやっていることなら、当然といえば当然の話しだ。

 しかし、このサイトでは、情報提供するという発想にはそれほどこだわっていない。製作した作品を発表するギャラリーや同人誌の代替の場とも考えていない。Webの技術とメディアの中で、わたしたちが日ごろ考えていることを発展させた場合、何が起こるのか、わたしたちが考えているように、コンピューター・ネットワークが情報の伝達や保管という当初の目的を飛び越えて、人間の手の延長、目の延長、足の延長として人間化されつつあり、その中で何か今までにないものが成長し始めているとしたら、それは何なのか。それを知りたくてやってるだけだという面が結構ある。

 作品は、どのようなものであれ鑑賞されることを欲して存在しているし、それが満たされるなら少々の解説をつけて、美術館に展示されることもありえる。Webで仮想美術館を作ろうという発想は、美術館を訪れるのが難しい人に貴重な便宜を提供するし、それ自体はどうってことないが、元来鑑賞されることを待っている作品はどこに在るべきかはなかなか困難な問題である。絵は、描かれた瞬間からこの問題に直面する。製作した作品を手元に残す場合、美術愛好家に売り払う場合、美術館に収められ、多くの人に向けて展示される場合、主に印刷媒体になって広まる場合、一定期間後破壊されてしまう場合。絵のたどる運命はまちまちであるが、どの場合にも絵はその物自体が価値をもっている点で文学などとは根本的に異なっている。絵という「もの」に対し、わたしたちの「バイナリ-・データ」がどのように位置付けられるのか?コピーが原理的に無限回可能であり、署名すらほとんど意味を持たぬデータは、文学や音楽や美術を格納するカプセルとして機能する場合だけではなく、わたしたちがはじめたように、その制限された区画の中で工夫をこらして表現を行うとき、おそらくはベンヤミンすら予想すらしていなかった、新しい次元が展開されている可能性がある。

 わたしたちは、伝統的な芸術の直接的な表現に対し、いわばそれを表現するためのツールを持ち替えただけと思っていたのだが、本当は、自分たちの思考を進化させているのではないか。進化した思考の土台の上で、人間が何をなし遂げられるのか、わたしたちはすごく気になっている。実際に電子メールは、個人間のコミュニケーションを非常に強く結びつける媒体である。直接の会話や手紙、電話といった媒体は、せいぜい社会の動作速度を速める効果をもたらしただけのような気がするくらいだ。電子メールは、個人間の思考をかなり直接的に結び付けながら、個人とは異なるNETの中にしか存在しないコミュニティを出現させる。しばしばNETの中で発生するFLAMEと呼ばれるけんかやののしりあいは、NETでなければ発生しにくいものだ。雑誌に掲載されるような論争とは違う、まったく面識がない同士で、そのコミュニティに参加していない者には理解しにくい些細な点で大論争を巻きおこす。これは、私にはコミュニケーションの直接性がもたらす現象の一つだと思われる。NETに参加し発言するもの同士は、同類であり、異端に対する警戒心は尋常でないものがあるのだ。


[2000/03/01、6/13、10/12、10/22、10/26]


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