「こんなに近くにいるのにpart.2」

著者 財津和夫
発行日 1993年11月19日
発行所 PHP研究所

この本の最後の項  P.208 
「自分は自分と人」について

このような虚偽の表現に付き合わされた出版社は不幸である。「風がプラタナス達の影を揺らした」かどうかは覚えていないがこのチャプターのこの部分までは間違いはない。「彼に何が起こったか今でも分からない。」私がやめた理由を知らないと言っているが知らないこと自体オカシイ。グループのリーダーをしているものがメンバーの一人が「やめる」、しかしその「理由」を知らない、聞かない。ここで読者や本を出した編集のスタッフの方々が何の疑問も持たない。不思議でならない。

最後の2行。
「吉田には大学入学時に入学金を借りた。ローンで返済したが、当時彼がいなかったら私は大学生になれなかった。」

「入学金を貸してもらった」というこの出来事を美談に仕立てているが、この話は美談でもなんでもない。「入学金を貸してもらったから」という理由で吉田彰を「裕福な家庭」に仕立てなければならなかったのであろう。私は小さい頃から何年もの間、お年玉、その他お祝いなどを使わずにいた貯金があり、その時点でとりあえず使う予定がなかったから貸したのであって、入学金は半年アルバイトすれば稼げる金額である。

その時代の詳しい情報が入った。「1966年度の西南学院大学の入試および入学費用」「昭和史 昭和41〜昭和47」を参照していただきたい。昭和41年のパートタイマーの 時給 は@70円、日給 560円。毎週土日4時間ずつ、週8時間、50週働けば2万8千円。大学生は休みが多い。春休みと夏休みを合わせれば120日。休みの半分の60日間、日給 560円で働けば3万3千6百円になる。

私が入学金を貸したことには間違いないが、「ローンで返した」は間違いである。
毎月定額を返済された訳ではない。「ローン」とは本来、「貸付」とか「貸借」という意味だが、ここでは「分割」と言う意味で使っているのであろう。

1967年の春、入学金として貸した金額は3万円。1967年以降、大学生の頃から彼が演奏などのアルバイトなどで収入があったとき、定額ではなく、小額を少しずつ返したり、同じ月にまた借りる金額が増えたりしていた。福岡にいた時も上京した後も同じようなことが1973年の暮れの精算の日までの約7年間続いた。

財津和夫も私もほとんど同額の収入(演奏出演料)があったと思う。二人共に実家から遠ざかっていたので親兄弟から前借して友人に借金を返すという訳に行かない。上京した後はさらに生活費が少ない。同じ額のアドバンスなのになぜ生活費を私から借りていたかその理由は他の人より出費が多い(贅沢する)からである。それ以外考えられない。

「心の旅」の大ヒットで個人的な著作権印税が入り、入学金を含めて貸していた金額を一度に清算してもらう事が出来た。ここに書かれている「ローンで返した」とは全く違うものである。

返して貰った時期は「心の旅」がヒットした後である。会社の会議室で、出演料や個人の著作権印税の精算をした後、その部屋で「はい。」という言葉を添えて返してもらった。約3万円だったと記憶する。

年表