ついこの間まで赤や黄色に彩られていた鎮守の森も今ではその半分近くが葉を落とし、抜けるように高い冬空の碧を背景に黒々と映える枝振りは、寒風に耐えるようにザワザワと揺れていた。 とは言え風のない晴天なら日向は結構ぽかぽかと暖かい。時折吹く冷たい風さえなければまだ春が遙かに先のことだとは思えないほどだった。 そんな日向に男は腰を下ろし、足を投げ出していた。いつもの、本堂の階段の中ほどに。 葵にはもうここに来ないように言っていた。流派のことを人に嗅ぎつけられるのはよろしくないからだが、しかし自身はいい感じの土の地面があって練習に適しているこの場所が気に入っていた。 ―結局、何だかんだ言って葵とは切れていなかった。元来の世話好きというのもあったが、危なくて放っておけないと言った方がより正確だろう。 あの坂下先輩との「果たし合い」以来、葵は協会に請われてエクストリームの公式戦にスポット参戦するようになっていた。 現在まで約一年間で5戦全勝。今年の年末に開かれるチャンピオンシップトーナメントにも抜擢される可能性が高いという。そうなれば綾香様と当たるのは確実だろう。お互いの、念願の…。 (まぁ人気もあるみたいだし…) そう、葵は実はとても人気があった。 師として出場を許す代わりに流派のことを話すのは強く禁じてある。記者は随分と探りを入れているようだが、何せ世界に3人しか遣い手のいない武術のことなどどう調べても何も分かるはずがない。 つごう、得体の知れない武術を使う女子高生が研ぎ澄まされたカウンターを武器に秒殺の山を積み上げる姿たるや、まぁ人気も出ようものだ。 (第一あの格好だしな…) 恐ろしいことに、葵はあの体操着のままエクストリームに出場していた。衛星中継までしているのに、だ。酔狂な話だったが、お陰で特にそっち方面の人たちに異様な人気を誇っていた。深夜番組で取り上げられる機会も多い。 ちなみに本人の話によると今年から緑葉高校でもブルマとクォーターパンツが選択になったらしく、葵も学校ではブルマは履いていないと言っていたからまぁそれも確信犯なのだろう。それで話題になるのなら安いものなのかも知れない。 それが奏効したのか近頃では「対撃天使」(カウンターエンジェル)なるニックネームも付き、この感じならスポンサーの付く日も近いと思わせるほどの人気ぶりだった。 ―自分の周りが騒がしくならなければいいが…。 男はただそれだけが心配だった。 「……………」 風が吹く。体温がさっと奪われ思わず身震いした。そして疲れたようにはーっと一息。 「……………」 と、ふと空へ向けていた視線を地面に戻すと、少し離れた所にバレーボール大の「毛玉」が転がっているのが見えた。オレンジ色の毛玉。更にその先には首のない女の体が横たわっている。 (―まったく…) いい迷惑だった。何の得もないただの殴り合いだった。 打ち捨てられたように転がるくしゃくしゃの毛玉には、よく見ると肌色が混ざっている。 生首だった。さっきまで動いていたオレンジの髪の女の…。 (こんなものがあるから日本は…) だめになるのだと思った。まさかこんな「機械仕掛けのダッチワイフ」まで作っていようとは…。アイボが遠い昔のように偲ばれる。 男はまた顔を空へ向けた。そしてまだ空気に漂う今し方の記憶を再生する。 * * * その少女は突然やってきた。 気配もなく、呼吸や関節の軋みその他もろもろの人間のたてる細(ささ)やかな音もなく、ただ冷蔵庫のような唸りを微かに響かせながら。 一目見て、男は以前その少女にここで会ったことがあるのを思い出した。確かあの時は綾香様と一緒だったが…。 声を掛けようかと迷った矢先、向こうが先に口を開いた。薄気味が悪いほどに無表情だった。 『―あなたが松原葵に教える技は綾香様を脅(おびや)かします。今後他人に教えることを中止してください』 「……………」 男は口元に手をやった。不気味なほど感情のないその声に事の真意を測りかねていた。葵が脅威だというのなら葵の所へ行くのが筋だ。自分の所に来る意図が分からない。 「ふぅん。その気はないと言ったら?」 『無理にでも聞いて頂きます』 「ふぅ〜ん」 カマを掛けてみたのだが、いよいよ過激なことを言うお嬢さんだ。しかし重要なことが一つある。 「それは綾香様の命令?」 『いえ、私独自の意志です』 「あそ」 その言葉を聞くや男は何度も大きく頷いた。これで合点がいった。―葵を倒すのはあくまで綾香様だと言うことだ。下っ端はそのためのお膳立てをするのだろう。そりゃ、無敗だわな。 それにしても忠義溢れる子分だことと男は半ば呆れつつ、ゆっくりと立ち上がった。 「…OK。じゃ、やってみな」 ビュン! 「なっ!!」 咄嗟に身を屈(かが)めて男は右に跳び退(ずさ)った。目を見開き、冷たい汗が流れる。 (―びっくりした! いきなり殴るか? 女がフツー!?) ものすごく面食らったが、しかしすぐに気を取り直し右足を引いた。そして腰を少し落とす。―構えは取らない。今のパンチ程度ならその必要はないだろうと判断した。 細い首細い脚。弱点だらけだ。それに重心も高い。脳まで穴が空いている耳を狙えばどのみち一発で倒せる。相変わらず妙ちくりんなものを付けているのが気にはなったが…。 (女を殴らないなんて思ったら大間違いだぞう) 男でも女でも殴る時は殴る。殴らない時は殴らない。元来穏和な性格だったが、しかし人を殴ることを躊躇ったりはしなかった。ある意味男女平等と言えるかも知れない。 (さて…) 向き合った。機を待たずザッと土を蹴って女が走り込んだ。 男は右拳を腰溜めにし低く右足で跳躍すると― * * * (痛い痛い…) 思わず男が右手を振った。まさか硬いとは思っても見なかった。 と言うか普通はまさかロボットだとは思うまい。知らぬ間に日本の技術も進歩したものだ。しかし少女にするところに日本人らしい変質的なものを感じないでもない。 第一こんな性能のロボット、量産して軍事目的に使ったらと思うとぞっとする。元々モラルの低い日本人のことだ。こんな力を手に入れたら…。 とは言え相手がロボットだと気付けばあとは簡単だった。 突然ムエタイを使ったりカポエラっぽいことをしてみたりするので驚きはしたが所詮は金属。どんなに硬くとも人間と違い骨格に剛性はあっても柔性はない。しなるような蹴りは出せないし、何より硬すぎて衝撃に弱い。 結果、その細い膝に横から拳を打ち下ろして一発でほぼ勝負は付いた。 ロボットには「精神力」や「気力」がない。片膝が折れたらもう立ち上がれない。バランスが取れないとかもあるのだろうが、所詮はダッチワイフだ。 結局データで動く機械はデータにないものに対応できない。それだけのことなのだと男はさっさと納得した。 しかしさすがは機械、死ぬことがない。 生かしておくと自爆したりするかも知れなかったので、男は渾身の力を込めてその首をねじ切るとそのまま髪を掴んで木やら地面やらに散々打ち付け、ようやくその活動を停止させたのだった。 はーっと再び溜息をつく。 不毛で意味のない上に後味の悪い「殴りっこ」に、男はどっと気疲れしていた。 全身全霊を尽くして致命打を打ち合うような勝負にしか、もはや他流とやり合う意味は見出せなかった。命のやりとりのその先にのみ、それすら超越した境地があると知っている。 「…全く。大体誰がこんなもん作ったんだよ…」 男が吐き捨てるようにうそぶいた。と、驚いたことに応えが返ってきた。 「済みません、私の息子です…」 ばっと顔を上げる。と、石段を登りきった所に老人が立っていた。 (―でけぇ) それが第一印象だった。―いや、この人も前に会ったことがある。この身長、この正装。 老人がちらりとセリオを―さっきまでセリオだったガラクタを見てやれやれと首を振った。 「これはちょっとやりすぎです」 そして苦笑しつつ近付いてきた。男も笑う。 「えーっと…長瀬さん、でしたっけ?」 「はい。覚えて頂いているとは光栄です」 そして深々と頭を下げた。相変わらずの礼儀正しさに思わずいやいやと男も立ち上がる。そして自分もガラクタを見やった。 「こんなのだめでしょ。ダメ人間が増えるだけですよ」 「それは同感ですが…」 老人は笑顔のままだった。柔和な笑みの陰に老獪な本心を隠す…。 「しかしそれはお嬢様のお気に入りです。それに先程も申しましたようにそれを作ったのは私の息子でして…」 「はぁ…」 男は老人の真意も測りかねた。察しはいい方だったが今日は日が悪いらしい。 「…仇を取らねばなりません」 ぴくりと男の眉が上がった。老人の言葉に意図する所を理解する。 老人は変わらず笑顔だった。ただ、明らかに「楽しそうな」笑顔になっていた。ワクワクと、新しいオモチャを買ってもらった子供のように…。 「そう―」 男も思わず笑ってしまった。無理に理由を付ける所が何というか、かわいげのある話だと思った。思わずこっちまで嬉しくなってくる。 「そう言うことなら…」 そしてパキパキと指を鳴らす。と、痛みに思わず顔をしかめていててと右手を振った。 「ダメージは大丈夫ですか?」 「手が痛ぇス。人間だと思って思いっきり殴っちったよ」 即答はしたがしかし男ははははと人ごとのように「やっぱ鉄は硬いわ」と笑った。 「それでは…」 男の言葉に微かに老人の眉が曇る。 「いや平気。問題はない」 「そうですか」 しかし一瞬でその表情に掛かった雲は去り、再び陽の射す笑顔が戻ってくる。 「そう仰るなら…」 そして老人はスーツの上着を脱いだ。ネクタイを取って襟のボタンを外し、そして袖まくりをする。 男はポケットから手袋を取り出した。指のないニットの手袋を片方。それを右手に着ける。硬い物を殴る練習をしない大岡流は、本来拳を保護するために手袋を着けたり布を巻いたりする。さっきはそれをするヒマがなかっただけだ。 目を上げる。その先では老人が準備運動なのか軽くステップを踏んでいる。その体の軽さ―70歳くらいかと思ったが、ひょっとしたらもっと若いのかも知れない。男は一人ばかりバケモノ老人を知っているだけに、老人の見た目の年齢には懐疑的だった。 と、こちらの準備が出来たのを察したのか、老人は普通に歩いて距離を詰めてきた。しかしその隙のない動きはその体にとんでもない強さを秘めていることを示している。 (そう言えば…) ふと男は昔話を思い出した。 …戦後の焼け野原で米兵相手にストリートファイトを続け無敗を誇った日本人ボクサーの話を聞いたことがある。 名前は知らない。ただ「物見櫓」(ザ・タワー)と言うニックネームだけは伝え聞いている。タワー? 見上げる高さ…? 「参るっ!」 ザッと老人が地面を蹴った。ものすごい瞬発力にその姿が捉えきれないほどだ。 男は素早く構えた。今度はそうしなければならない相手に間違いなかった。 踏み込んだ。急激な腰の回転、と同時に肘を曲げたままの拳が飛んでくる。 ビュ、ビュン! 刈り取るような左右の連打。完全に見切って男はそれをかわすが、しかし腕の戻しが速すぎて懐へ飛び込むことは出来なかった。 そして老人は自分の間合いギリギリに留まり再び連打を繰り出す。 (―チッ!) 男が思わず舌打ちした。 向こうは大岡流を知っている。こっちがカウンターに長けていることもお見通しなのだ。それだけに、短く速いショートフックで一気に流れを奪うつもりなのだろう。 (くそっ!) 当たろうが当たるまいがお構いなしに打ってくる。おまけに連打の回転速度が一向に落ちない。一体いつまで息が続くんだこのじーさん…。 思った矢先、老人が大きく後ろに下がった。一瞬呼吸のためかと思ったが、しかしその右足に重心が移るのが分かった。 (―違う) 距離を取ったのだ。大きいのが来る! 老人が拳を引き絞った。 男も乱れた構えを直し、前足の膝に力を込めた。どんなに迅くとも大きな突きならば懐を取る自信はあった。 と、放たれた矢のように老人が一気に突っ込んだ。一足で距離を詰め、そして間合いに入った瞬間右足でステップして真横に跳ぶ。 着地。同時に腰が回転し右の拳が― ゴォッ! 何という拳圧。しかし― 男が沈んだ。そして体ごとぶつかるように低く飛び込む。 拳が男の左耳をかすめて後ろへ吹き抜ける。それだけで耳を持っていかれそうだった。しかし― (―いただく!) ドォン! 踏み込んだ。右足を地面に叩き付けその力を全て拳へ― 「!!」 しかし次の瞬間、男は咄嗟に体をあらぬ方向へねじ曲げた。 ガッ! 男が弾け飛ぶ。何とかガードは間に合いはしたがその…右膝を受けきることが出来なかった。 「あたたたた…」 思わず左腕を押さえる。あっちも考えていた攻撃ではなかったのか威力はさほどでもなかったが、しかし膝は完全にノーマークだった。 明らかに一朝一夕のものではないその膝蹴り。一瞬光が迸るような鋭さだった。空手やムエタイの重いそれとは違う…。 「ずるいなぁ。ボクシングだって聞いてたのに…」 皮肉を顔にいっぱい浮かべて男が笑った。応じるように老人も笑う。嬉しくてたまらないと言った様子だった。傍目にもその体が徐々に勘を取り戻し、生気を蘇らせていくのが分かる。 「私の技はマーシャルアーツです。本場仕込みの」 「なる…」 西洋式かと男は納得した。 筋力に任せたパワーとスピードは東洋武術の思想からは外れる。それは西洋人並みに体格に恵まれた者でなければ使い物にならないものだからだ。そう、例えばこの老人のような…。 「……………」 あの長い手足にしてあの迅いショートフック。これでは懐を取ることは容易ではない。しかし―入ってしまえば逆にあのリーチは持て余すはずだ。 (入らせてくれないかなぁ…) 視線の先で老人は再び爪先立ち、ステップを踏み始めた。 「!」 突然老人が殺到した。男はするりと体を回り込ませたが、しかしその長い間合いの脚は動きを追跡して蹴りを出してくる。 突き刺さるような横蹴り。そして着地と同時に左フックが飛んでくる。 男は冷静だった。 川を流れる落ち葉が岩を避けて流れるようにす…と滑る。そして踏み込む! 「ぬっ!」 しかし老人は打ち合いを避けるかのように左膝を突き上げて懐を守り、そのまま後ろへ跳び退った。と一気に前へ出る。踏み込んだ男のまだ重心の残る足を狙う! (なんつー!) 切り裂くようなローキック。しかし男は後足を素早く引きつけると軽く膝を上げて防御した。しかし―後足の方を引きつけた分相手の間合いに深く入り込んでしまう。 (凡ミスですよ、死神殿!) 「くっ!」 至近距離からの右ストレート。男は何とか顔を逸らせて僅かにかわしたが、ほぼ同時に打ち出された左はかわしきれなかった。 電光石火のコンビネーション。瞬間的に気を打点に集め打撃のある程度は跳ね返せるが、しかし動きが止まるにはそれで十分だった。 老人が半足引く。そして急激な腰の回転力を拳へ集中させ打ち出した。渾身の右フック。―迅い! ガッ! 男は腕を交差させてそれを真正面で受け、続けてきた左を見切って避ける。が、かすっただけで体全体を薙ぎ倒すようなその威力に思わず体(たい)が乱れた。 老人の足がふわりと持ち上がるのが見えた。そして一気に加速―。 「ぐぅ…っ」 老人のミドルキックが男の脇腹を直撃した。まるで吹き飛ばされるように逆らわず男は力の方向に跳び、間合いの外へと脱出した。着地し…そしてぐらりと傾き、遂に膝から崩れ落ちる。 好機と見て取った老人が一気に行った! と突然急ブレーキを掛け再び間合いの外へ跳び退る。 (……………?) 奇妙な感覚だった。倒れた相手に立っている時よりも大きな威圧感を感じた。骸のように何もなかったが、しかしその空虚に言いしれぬ恐怖を感じた。 むくりと男が起き上がった。その目の光に、老人は背筋に悪寒が這い上がるのを感じた。 強い若者だった。よく修練を積んでいるし、実戦勘も申し分ない。しかし、とは言え今まではたかが―死神だった。そしてこれは死神のしている目ではない! もしかしたら自分は何かを檻から解き放ったのかも知れない……。 楽しかった。楽しくて仕方がなかった。 「……………」 すっ、と男が構えた。まるで後ろの景色に溶け込むように何もなく、迷いもなく、畏れもなく、ただ冷静な武道家の本能だけが、その全身から発せられていた。 ……狼。 老人は一瞬浮かんだその単語を素早く頭の隅に追いやると、男の一挙手一投足全てに意識を集中させた。狼と戦うのは―50年ぶりか。 「……………」 と、男が微かに微笑んだ。―楽しかった。こんな気持ちになるのは久しぶりだった。こんな―ヒリつくような命のやりとりが今更出来るなんて…。 この老人には礼を尽くさねばならない。その価値のある相手だ。流派の全てを尽くして―斃(たお)す価値のある相手だと思った。 「……………」 男の頭の中を幾つもの考えが巡った。 確かにあの戻しの速さは尋常ではない。あのリーチであの速さでは懐を取るのは難しい。しかし―400年もやっていれば色々なことが起こるのだ。例えば―居合道と戦った記録もある。 男が僅かに前足に重心を移した。ぎり…と膝頭を正面へ向け、そしてジリジリと足を送る。 「……………」 老人は待った。相手の方が間合いが短い分、必ず相手が先に自分の間合いに到達するのだ。ここで焦ったら負けだと自分に言い聞かせた。 空気がねっとりと絡み付くように濃度を増し、熱を帯びて二人の間に横たわった。 やがて男は老人の間合いに達し、そして足を止めた。しかしそれは男の間合いではない。 「……………」 「……………!」 先に老人が動いた! 鉤型に曲がった右腕が風を裂き、唸りを上げて男の烏兎(うと:こめかみ)に迫る! (いくら迅くとも…!) その速さは居合ほどではない。十分同じ方法で対処できる。 ―居合いを敗る術。それは最初から見えている柄を狙うことだ。 ぐっと男が前足を送った。そして間合いの外から左拳を放つ。 ―カシッ!! 硬い物同士のぶつかる乾いた音。拳同士が正面から直撃し、一瞬老人の動きを止めた。必死で腕を戻す老人。しかし― (遅い!!) 男が右足を大きく踏み込む。踏足が殆ど老人の足の間まで達するほどに肉迫する。 (深すぎる―また凡ミスですか) 老人の膝が持ち上がる。 男は右肘を直角に曲げて拳を老人に押し当てる。左手を肘に添える― 「ぬおおぉっ!」 「ハアッ!!」 そして同時に気合いが轟く― ズドッ…! 全身を揺るがす衝撃。 「ぬう…っ!」 吹き飛ぶ事すら許さない100%の打撃が、老人の水月を貫いた。 (何と…) 何という打撃か!? なぜ密着させた拳からこれほどの打撃が生じるのか老人には理解できなかった。 素晴らしい技を持つ…と改めて相手と、その流派に敬意を抱かずにいられない。しかし―倒れたりしない! 2・3歩よろめき、老人は踏み止まった。しかしそこへ砲弾が飛んでくる! 「ぬっ!」 動けなかった。男は腕を折り畳んで体ごと突っ込み、そのまま肘で老人の水月を下から突き上げた。 ずぶりと鈍い音がして体がくの字に折れ曲がる。血と胃液が込み上げ鉄の味が口いっぱいに広がる。目の前が暗くなり、無数の星が目の奥で瞬いた。 「ぐう…っ」 ズシン! 呻きをあげる老人。しかし轟く地響きにはっと我を取り戻し必死に拳を構え― 「イィヤァァッ!!」 目の前で巨大な何かが膨れ上がった。気か? それとも存在か? 時間が止まった。 老人は構えたまま動きを失い、そして男の左拳は水月へ、右拳は鎖骨の間―天突へ正確に突き込まれていた。流派の中でも最強の打撃力を持つ双手突き、飛騨大岡流《神槍》。 「……………」 老人がぐらりと揺れる。そしてぐはっと血を吐いて崩れ落ちた。さながら大木の倒れるようにゆっくりと…。 「……………」 直撃した。御止技(おとめわざ)がまともに、だ。これでまだ生きているとは考え… しかし時間は動き出した。 考えられないことが目の前で起こっていた。 老人は震える体を必死に制御して再び立ち上がろうとしていた。信じがたい驚異的なタフさと精神力だった。 しかしそれを見た男が走った。短距離選手のように低い前傾。 「ぬ…」 老人はようやく片膝を立てたところだった。そして顔を上げ、相手を探す。 が、既に男は眼前に迫っていた。立てた片膝を踏み台にし、そのまま全体重を乗せて眉間へ膝蹴りを叩き込む! ガッ!! 膝の直撃を受け勢いよく後ろへ倒れる老人。しかし半ば無意識に受け身を取ると弾かれたように立ち上がった。そしてそのまま追撃を掛けた男に体を預け、組み付いた。 (クリンチだと!?) 体力を回復させる気はない。男は頭を下げた老人の首を脇に抱え込むとそのまま後ろの地面へ叩き付けた。ハズだった。 「なっ!」 しかし持ち上がったのは男の方だった。信じられないパワー。―このまま投げる気か!? 「ぬおおぉっ!!」 そしてブリッジするようにそのまま後ろへ反り投げた。 ドスン! 「くっ」 その長身の生み出す高さから男は落とされたが、しかし綺麗に投げられたのが奏効して受け身を取り、そしてすぐさま立ち上がった。 「ぬあぁっ!」 しかし老人は速かった。全身の軸を回転させた左拳が渦を巻いて男の脇腹を抉る。 バキ……ッ! 何かが砕けた音。或いは折れた音か…。 「く…」 「ぬぅ…」 二人の額に汗が滲んだ。 男の額には危機に瀕した緊張の汗が、老人の額には血と、そして激しい痛みによる脂汗が…。 咄嗟に突き出した男の肘先が老人の拳を直撃していた。肘と拳では硬さが違う。自らの打撃力によって老人の拳は折れ、そして一つ武器を失った。 男がよろけた。いくら《槍襖》が命中したとは言えあのパワーだ、それだけでバランスが削ぎと取られる。しかし、老人もまたよろめいたのが見えた。 (―――!) 男がここぞと大きく右足を踏み込んだ。地面を踏み鳴らし渾身の力を右拳に集め― 同時に老人も踏み込む。まだ右手が残っている。足の先から肩まで全てを回しそして拳に渦を― 「イィヤァァッ!」 「ぬおおぉっ!」 激突。 一瞬光が弾けるように力がぶつかり合い、そして―二人の動きが止まった。 男の顔には老人の回転する拳が、老人の左胸には男の鉤拳が突き刺さっていた。 ぐらりと揺れ、そして同時に二人は倒れた。全身全霊を使い尽くし、もう立ち続けることが出来なかった。 (……効いた、今のは効いた。まさかここでスクリューブローとは…) しかし深く懐に入った分弱冠威力は殺したのだろう。自分には意識もあるし立てそうだった。逆に、こっちには確実な手応えがあった。確実に「崩骨点」を捉えていた。 男が立ち上がろうとする。呻き声を漏らし、全身の力を使って何とか必死に上体を起こす…。 「……………」 視界の先で老人は立っていた。両足は開き腕はだらりと下がっていたが、しかしまだ放つ気迫は衰えていなかった。まさに仁王立ちだった。 (…バケモノめ) 膝を立て、手をついて立ち上がる。ふーっと息を吐き、そして何とか構えを取った。しかしそれが「盾」ではなく形だけなのは自分が一番よく分かっていた。 (―まだいけるか?) 男は自問した。体は動くが満身創痍のこの状態で果たしてこのバケモノとやり合えるものか…? 「……………」 不意に老人が笑った。真っ赤に染まった歯を見せ、顔半分を血で覆ったまましかし不敵に。 「まさかそんな技があるとは…手加減してもらいましたね。私の―完敗です」 言い終えるや老人は咳き込み、大量の血を吐いた。洗面器いっぱいの血が地面に染み込んでいく。 「……………」 やはり折った肋骨はちゃんと肺に刺さっていたのだ。しかしそれでも立っていられる。凄まじい精神力だった。 「負けてこんなに嬉しいとは…。私ももうダメですね、引退を考えないと」 ひゅうひゅうと肺から息を漏らしながら話す老人は、充実感に満ち足りた笑顔をしていた。どうせまだ現役を続けるつもりに違いなかった。 「…楽しかったですね」 男は構えを解いた。そしてその言葉に頷く。 「ええ、本当に」 楽しかった。―勝負事は賭けるものが大きいほど面白いものだ。お互いの命を賭ける真剣勝負が楽しくないはずがない。 「久しく満足のいく戦いでした。 感謝します。死神殿…」 そして老人は静かに目を閉じると、遂に前のめりに頽(くずお)れた。 「私もです、長瀬さん」 と、気が抜けたのか男は急にバランスを失って尻餅をつき、そのまま後ろへ倒れ込んだ。 (…まったく、一体この国には何人バケモノがいるんだよ…) 自分のことを棚に上げている訳ではない。若くて強くても不思議なことではない。老いてなお強いのとは訳が違う。 …自分はこれからこんなバケモノたちを超えて行かなくてはならないのかと思うとげんなりする。 (まぁ、知ってたけどな…) 一つの道を究める。そこにいかなる困難があろうとも、どのみち道は一本しかないのだ。そこに壁があるなら打ち破るしかない。 (業の深い話だ…) 「技」という字は「業」とも書く。技を修めることとは、同時に業を背負うことでもあるのだ。 何を犠牲にしてでもでもその先へ進む覚悟。それが武道家の宿業だと男は知っている。 ―「格闘家」には分からんさ…。 その苦しみも、その喜びも。 そして男は目を閉じた。 再び目を開いた時、その景色はまた今までとは違う色をしていると、そう確信している。 そうやって一歩一歩進んでいく。 修羅の道を。 400年の誇りを背負って…。 |