Memories of You


 ザ、ザ…。
 波の音?
 そして風。体全体で感じる風。湿度の低い、それでいてどこか懐かしい薫りのする風。
 気ままにそよぐ砂混じりの風が優しく頬を撫で、そして、僕はようやく目を覚ました。
 「うっ…」
俯せになっていた身を起こし、頬の砂を落とす。
 —砂?
 起き上がる。
 強い太陽。そして、どこまでも続く白い砂浜—。
 目を細め、陽射しに手をかざして、辺りを見渡してみた。
 果てしなく広がるエメラルドの海。青みを帯びて波は打ち寄せ、砂地で白く砕けて泡へと変わり、静かに引き、そしてまた打ち寄せる。
 人影はない。
 あるのはただ、パームツリーと南国の潮風のみ…。
 そうだ。僕はいつも願っていた。
 こんな南の島(?)でただ静かに暮らしていけたら、と。
 そんな景色の中に一人、僕はぽつんと立っていた。
 …ここは、どこだ?
 と今頃になって始めて、そんな素朴な疑問が湧いて出た。
 それにどうしてこんな所に…?
 疑問が不安に替わり、やがて不安は心いっぱいに膨れ上がってきた。
 僕は慌てて自分の体の部位と自分自身の存在とを、両手いっぱいで確かめた。腕、脚、頭、顔—
 「あぁっ!」
 頬が、陽に当たっていた側の頬だけが熱く熱を持っていた。
 触れると少しヒリヒリする。…この分だと片顔だけが日焼けしているに違いない。さぞユカイな顔になっていることだろう…。
 あぁ、どうせならこんがり綺麗に焼きたかった…。
 そんなことを思いながら、僕は汗ばむネクタイを少し緩めた。
 —ネクタイ?
 「お?」
 ど、どうしてこの僕が、こんな所でスーツのまま?
 「???」
 何が何だかさっぱり分からない。が、取り敢えず僕は大事なパーティー用のスーツから砂を払い落とした。と、もう一つ大事なことに気が付いた。
 「暑い…」
 そうだ。何もこんな格好でこんな照りっ放しの太陽の下にいることもない。
 僕は上着を脱いで小脇に抱えると、そのままパームツリーの作る日陰へと歩いていった。
 「ふぅ…」
 やっと一息つく。
 湿度が低いせいか、日陰に入ると随分と心地いい。木の根元に腰を下ろす。
 ようやく幾分か落ち着くことが出来た。これなら何とかものを考えることも出来そうだ。
 —そういえば今何時だろう?
 右手にはめた時計に目を遣った。針は11時32分を指していたが、かといって何が分かったという訳でもないような気もする。
 この状況で時計が正確である保証はないし、よしんば合っているとしても日本時間に合っている可能性が高い。そして少なくともここは日本ではなさそうだった。
 「ふぅ」
 今度は溜息。
 どうやら近くには誰もいないらしい。と言うことは、一人でいくら考え込んでいても誰も助けてはくれないと言うことだ。
 仕方なく、少しは前向きに僕は上着のポケットの中を探ってみた。
 お札よりもカードの方が多い札入れや、バイクやらマンションやらの鍵の付いたキーホルダーなど、おおよそ役に立ちそうにない物ばかりが出てくる。
 と、内ポケットに黒い革張りの手帳が入っているのを見付けた。
 書けるなら別にチラシの裏でもいいと思っている僕が、こんないい物を買う訳がない。これは今年の僕の誕生日に夕里がプレゼントしてくれた物だ。
 手触りのよいその表紙を捲ろうとすると、緑色のかけらが一片、ひらひらと落ちた。
 ……四つ葉のクローバー。
 夕里はこれをくれた時「苦労して探してきたんだからぁ」と、あの独特の母音を引っ張るようなぽわぽわした口調でそう言い添えたっけ…。
 「夕里…」
 途端に夕里が恋しくなった。
 目を閉じて、記憶の中の甘い想い出を手探りする。全てを切り離し、彼女と共に過ごしたあの時間だけをじっと思い出す。
 不意に、微かなフローラルの香りが僕の鼻腔をくすぐった。
 夕里の香り—?
 僅かに目を開く。
 「!」
 玉子形の白い小さな顔、すらりと伸びた鼻筋と愛らしい花弁のような唇。しなやかにつやつやと流れるストレートの髪…。
 「ゆ、り…」
 口が、自然に愛しいひとの名を呟いた。
 ……いや、違う。
 夕里はこんなには白くないし、髪だって今時珍しいほどの綺麗な黒髪のはずだ。こんな…グリーンじゃない。
 —あぁ…でもこの体。
 細い首もなだらかな肩も豊かな胸も、みんな夕里のものに違いない。
 でも、目は僕を見詰めていた。夕里と同じ光を帯びた黒い瞳、まるで慈愛を湛えた女神のような…。
 潤んだ、愛を求める夕里の瞳……。
 フローラルの香りと夕里の暖かな鼓動に、僕は心地よい眩暈すら感じていた。
 目を閉じる。
 瞬間ゆったりとフローラルの香りがいっぱいに広がり、そして僕の唇は柔らかく塞がれていた。
 彼女の体を強く抱き寄せた。そしてその柔らかな髪(目を瞑ってしまうとグリーンであることを忘れてしまった)を確かめるようにまさぐり、貪るようにキスをした。溢れ出る感情に胸がいっぱいだった。
 丹念に舌を絡ませ、夕里の唇、夕里の舌の動きの全てを感じようとした。
 微かに触れる夕里の睫毛が僕の目元をくすぐり、舌が口の内側を緩やかになぞっていく…。
 僕は今やはっきりと、夕里の存在をこの体全体で感じることが出来た。
 夕里は僕の全てなのだ。
 僕は彼女のために生き、彼女が僕の力の根元だった。
 夕里! 愛おしい夕里!
 彼女のしなやかな指が僕のネクタイを外し、シャツのボタンを一つ二つ外していく。微かな衣擦れの音が、僕の体を熱く反応させる―。
 「!?」
 突如、彼女の熱い舌が何かと入れ替わった。少し冷たく滑らかで、僅かに甘露な密の味のする何かと…。
 そして次から次へと、甘い、とろけるように甘い液が僕の口へと流れ込んでくる。
 「……………?」
 ゆっくり目を開いた。
 それは彼女のグリーンの髪の一束だった。彼女はまるで母乳を与える母親のような眼差しで僕を見詰めていた。
 僕は、その液を飲み込んだ。彼女が喜ばしげに微笑む。
 その液体はまるで天界の雫のように洗練された栄養の結集に思えた。
 僕の体の隅々に力が、幸福感が行き渡る—。
 と、別の髪が僕の鼻を覆った。その毛先から今度は空気が送り込まれる。
 —その何と芳 しいことか!
 そして今までに吸ったこともないような澄んだ空気が、僕の肺をいっぱいにした。
 「……………」
 僕は今、幸せだった。
 今までも、精神的には夕里が全てだった。そして今、その夕里から物理的な供給をも得て、僕は至上の幸福を感じていた…。


 今や彼女の艶やかなグリーンの髪は僕の体全体に広がり、そしてその随所に絡み付いていた。
 そして今、僕は彼女の濡れ光る黒い瞳をうっとりと見詰め、この状態が永遠に続くことを心から望んでいた。
 そうだ、僕はいつも願っていた—。
 こんな南の島で永遠に過ごせたら、と…。
 ああ、もう目を開くことも出来ない。
 だけど今、僕にははっきりと知覚することが出来る。
 柔らかな安心感と心地よい浮揚感。そして何より夕里の確かな鼓動を……。

*   *   *
 ピー…
 「…今日はかなり安定してますよ、お母さん」
医師はそう言うと、脳波や心拍を無機質に表示し続けるモニターから目を離した。
 「この子は…回復するんでしょうか…?」
そして涙を必死に抑えた、消え入りそうな母親の声。
 「ええ、ここへ来て急に脳波が太くなり始めています。—大丈夫、きっと元気になりますよ」
 そう言うと医師は後のことを看護婦に任せ、ベッドの側を離れた。母親もそれに従う。
 「これは特殊な例なのですが…」
 医師は一つの仕事を終えた満足感を噛みしめるように一息つき、そして言葉を続けた。
 「もう植物状態が続いて半年にもなるというのに急に脳波が太くなるなんて…。それにこの脳波、まるで―夢を見ているかのようです」
 淡々と事実だけを告げる医師の口調に、母親はとうとう込み上げてくるものを抑えきれなくなった。涙が一粒、その頬を伝う。
 「この子は…息子は…今、幸せなのでしょうか…?」
 母親は鼻と口からチューブで栄養補給を受け、体中に無数の配線を付けられて静かに眠る息子を、涙に潤んだ目で見詰めた。
 「ええ、きっと…。それにこの分なら、例え回復する見込みが無くなるような事になっても、彼は幸せな夢を見続ける事でしょう、ずっと……」
 そして医師はドアを開け、部屋の外へと歩を進めた。それに続く母親が振り返る。
 息子の顔を見る。
 幸せそうな寝顔だった。
 昨日持ってきた彼の大事な手帳に頬を寄せるようにして、本当に幸せそうな寝顔をしていた。
 「……………また、来るからね」
 母親はそう囁くと、そっとドアを閉めた。


 パタン…
 足音を殺した担当の看護婦が、静かに病室に入ってきた。
 「やっと空いてる花瓶、見付けてきましたよ。よかった。これでせっかくのお花、しおれなくて済みますね」
 「すいません、わざわざ…」
 「いぃえぇ。こんな綺麗なお花が飾ってあれば、私も楽しくお仕事できますもの—」
 そして静かな笑い声。
 —声?
 気が付くと、鼻や口から僕に至福を与えてくれていた髪はそこになく、その全てが、今や僕の体の中心に集中していた。
 「お母さんも大変ですわね、フィアンセの方が…その…あんなことになられて…。お気の毒に」
 花を生けていた看護婦の手が止まり、声が消え入りそうに暗くなった。と、努めて明るい声がその語尾を掬うように言葉を繋ぐ。
 「そうね…。でも、お義母様が「あの子は今幸せな夢に包まれてるから何も心配する事はない」って仰って下さるから、もぅ辛くはありませんわぁ。それに…」
 声の主が、そっと自分のお腹に手を当てた。
 「これから生まれてくるあの人の子供のためにも、いつまでも沈んでばかりもいられませんものねぇ」
 そう言うと、その手は僕の頭を優しく撫でてくれた。


 甘い記憶、甘い夢—。
 それは、溢れ出る熱い思いに包まれた一人の女性の名前。
 それが僕の始まりの記憶。僕に命をくれた誰かの大切な想い出…。
 —夕里—
 それは骨を伝って僕の耳に届く母の名に似ている。—或いは同じなのかも知れない。
 まぁ、そんな事、今はどうだっていい。
 なぜなら僕はもうすぐ産声を上げ、そしてこの記憶はまた永遠の白の中に大切に閉ざされていくのだから…。
 ゆったりとした穢れのない時の中で、僕は膝を抱え、ただそんな事を考えた。
 そして—僕はまた眠くなった。