Amazing Grace


  一新連合による報告一

 2113年9月、ロムニスカ共和国に於て原困不明の爆発事故を起こした化学工場は、膨大な量の有害物質を大気中に「散布」。その被害は遥か成層圏にまで達し、有害物質(但しロムニスカ側は「無害」と主張)はジェット気流に乗って、僅か半月足らずで北半球の全てを覆い尽くすに至った。

 2113年10月、北半球全域に於て、時を同じくしてウイルス性の奇病が発生。未知のウイルスを直接吸引することによって発病すると思われるその症状は、肺動脈を通じて全身麻痺を引き起こす悪性のもので、死亡率は65%以上、治療法は目下研究中である。なお、ロムニスカ共和国側は、先の化学工場事故との因果関係を強く否定。

 2113年11月、謎のウイルス(「APV」と命名)の直接吸引以外の発病率が極めて低い事実を新連合特別研究チームが確認。全世界的規模で外出時の専用マスク着用が義務化される。

 2113年2月、ハシニコフ(ロムニスカ)大統領は、国際世諭の高まりに屈する形で、事故のあった工場が連合法に著しく反するウイルス兵器の秘密工場であった事実を認める。

 2114年3月、爆発事故により北半球全域に拡散した研究中のウイルス兵器「APV」は、突然何らかの原因によって(長期間に渡る紫外線の透過、との説が最有力)化学変化を起こし、瞬く間にほぼ死滅する。
 この事実の学術的確認により、「APV」吸引による死亡の恐怖から入類は解放された…。

 しかし数カ月の後、全人類は思い知った。
 見えない死神は後ろに伸びた影を踏んで、音もなくやって来るのだと言うことを…。

 一新連合による報告一

 2114年10月、7ヶ月前確かに死神は姿を消した。いや、そのはずだったのだ。しかし今、あの見えない死神は再び我々の前に忽然と、しかも姿を変えて現れた。
 「APV」が原因と思われるその奇病は、旧体制時代に発生したある病疾の症状と酷似しており、体の部位が次々に腐敗し遂には死に到ると言う、恐ろしくもおぞましい正に奇病であった。
 学会発表者であるJ.C.シーヴリー博士の名を取って呼ばれるその奇病「シーヴリー(氏)病」の発病後の死亡率は実に85%以上(発狂による死亡も含まれる)。感染部位の削除以外の有効手段が見つからない今、その大鎌を悠然と振るう死神を前に、世界はただ恐怖し、絶望に打ち振るえていた。

 しかし、真に人類を絶望させたのはその感染経路。―即ち、接触感染である。
 病魔に蝕まれた細胞と接触した健康な細胞は、僅かの内に染色体劣化を誘発、向じく発病に到る。結論を言えば、病魔に蝕まれた患者(例え親兄弟であったとしても)に接することは、即ち、自らの肉体が徐々に腐敗していくと言う、世にも残酷な光景を目の当たりにすることにつながるのである。
 全地上人150億の約二割がこの病に取り憑かれている今、我々は遺憾ながら認めねばなるまい。
 人類の創り出した究極の恐怖は、今や人類自らの英知を遥かに超え、種そのものの存在すらを脅かすまでに成長してしまったのだ、と。

*   *   *

 エリザベッタの病状は、日を追うごとに酷くなる一方だ。
 運が悪かった。手や足ならば、切断すれば命だけは助かっただろう。しかし、背中の皮下に発生した病腫は、素人が容易に削除出来るようなものではない。
 ならば医師の手を借りればいい、そう言うのは簡単だ。だが、どんな防御手段を講じても怯むことなく取り憑こうとする死神を前に、どこの医師が手を貸してくれると言うのか? そんな献心的な医師は、もうとっくに死神にその首を持って行かれて一人もいはしない。かと言って、最新科学の粋を集めた医療ロボットによる治療を行う大病院は、我々庶民に目を向けてくれるほど金に困っていない。
 爆発的に増えていく感染者人口の数値を前に連合政府は入類存続の危機を感じたのか、健康と思われる者の精密検査を僅かの費用で実施。その上で、健康と診断された者に「コロニー優先移住権」を与え、地球を離れることを推奨し始めた。
 …政府は、地球を広大な隔離施設にするつもりなのだ。
 しかし、私はそんなやり方を絶対に認めない。昔から問題ばかり起こし続けてきたあの酔っぱらいの国をわざわざ助けたのは、他ならぬ今の政府の前身、国際連合なのだ。
 なのに自分達はさっさと安全な所へ逃がれ、空の高みでホッと一息ついていると言う。
 そんなに彼らが地球を捨てたいと言うのなら、私はそれでも構わない。私には関係の無いことだ。
 ただ、私は一永遠にかわいそうな妹の側を離れるつもりはない。
 エリザベッタ。私と同じ顔をしたたった一人の私の妹…。
 どうして…死神は妹ではなく私の所に来なかったのだろう…。
 双子の姉、グレイスが力無くそううそぶいた。
 その目に涙、心には愛——

 もうそろそろ日が暮れる。
 西の山の稜線に沿って僅かに残る太陽の残光が、昼間の残暑の厳しさを思い起こさせる。
 それでもグレイスは今の季節、これくらいの時刻に空を跳めるのが大好きだった。遥かな高い空がゆっくりと降りて来るような錯覚に抱かれて、湿った夜の香りを心ゆくまで楽しむ。
 そして何より、夜藍色の紗幕に朱を流したような西の空。灰色の雲が細くその赤にたなびき、気の早い星が一つ二つと誇らしげに銀を散らす。
 美しい景色だ。
 もっと足を止めてこの移ろいゆく空を跳めたい衝動に駆られたが、グレイスははっと我に帰ると町外れの教会へ向かって再び歩き出した。
 そう長くは続かない景色ではあるが、そう長く見ていることもできない。
 死神に憑かれた妹にしてやれることは余り無いのだ。
 身の回りの世話(両親すら近ずきたがらないのだ)、昔と変わらない姉妹の会話、そして—毎日欠かすことのない主への祈り。
 世界が不安定な状態になると、どんな時代にも新興宗教がもてはやされたものだが、どうやら今回は勝手が違うらしい。
 金のためにでっち上げられた神は、病魔を恐れコロニーへと逃げ去った。…緒局、本当の神が何であるのか、神自身はそれを知っていたと言うことだろう。
 そんなことを思いながら、グレイスは残り僅かな今日の太陽を受けて深い紫に浮かび上がる石造りの教会へと、足を踏み入れた。
 

 情けない話だが、ここの神父は発病を恐れてさっさと宇宙へ上がってしまった。
 そのため、今この教会を取り仕切る者は誰もいない。にもかかわらず、熱心な信者たちは各個にやって来ては掃除をしたり、祈りを捧げたりしている。
 この教会には、人々が見失いかけた真の信仰が未だ存在していた。
 そんな厳かな空気に包まれて、グレイスが祈りを捧げるため祭壇の前へと進み順番を待つ信者の列に並ぶと、その前に並んでいた顔なじみの中年女性が親しげに声を掛けてきた。
 「あら、グレイス。毎日熱心ね。…どう、妹さん? 少しは良くなって…」
一瞬微笑んだグレイスの顔が再び沈むのを見て、女ははっとして口を閉ざした。
 「いえ…」
心配そうな女の表情は見もせず、グレイスは俯いたまま小さく言葉をつないだ。
 「妹は…リザは一向に良くなってません。……変ですよね。治らない病気だって分かってるのに、それなのに良くならなくって落ち込むなんて。でも…」
 「もういいわ、グレイス。もういいの。ごめんなさい、あなたの気持ちも考えずに私ったら…」
女は涙に咽ぶグレイスの肩にそっと腕を回し、続けた。
 「本当にごめんなさいね…。でも大丈夫よ。グレイスはこんなに熱心なんだもの、きっと主は願いを聞きとげて下さるわ。ね、グレイス、主に出来ないことは何一つないのよ。元気だして、きっと祈りは通じるわ」
 いつしか、その女の目にも涙があった。気休めにしかならないのは分かってる。しかし、実の親にすら見放された今、グレイスにはこの温かな気休めが何よりも嬉しかった。
 この柔らかな腕の温もり。この涙の熱い程の優しさ。
 —この感覚を少しでもリザと共にすることが出来たなら、どんなにかリザの気持ちも軽くなる事だろうに…。
 気が付くと、既に目の前に人の列はなく、ただ質素な祭壇が蝋燭の明りに静かに照らされているだけだった。
 目をしばたいて涙を払い祭壇の前へと進んだグレイスは、一つ呼吸をおいてからゆっくりと脆き、指を組んで目を閉じ、そして祈った。強く、強く—
 ”主よ、いと高き所におわす我らが父よ。どうか、どうかしもベグレイスの祈りをお聞きとげ下さい。
 …お願いです。妹を、愛する私の分身をお救い下さい。死神に憑かれたた可愛そうな私の分身を…。もし、それが叶うのならば、私はどんな試練にでも耐えるでしょう。
 どうか主よ。いと高き所におわす我らが父よ。
 妹を、エリザベッタをどうかお救い下さい。たとえ私の命と引き換えでも構いません。どうか…”

*   *   *

 「お父さん…今、何と…」
父のその言葉に、グレイスの身体が戦懐に揺れた。
 「何度も言わせる気かい、グレイス。一緒にコロニーへ上がるんだ」
教会より帰宅して早々、父に呼ばれてリビングに入ってみると、そこには神妙な面持ちをした両親が並んで座り、娘の帰宅を待ち構えていた。
 「そ、そんな…、急に」
よほどショックだったのか、血の気の引いたグレイスに心配そうな目を向けながら、今度は母が口を開いた。
 「グレイス、よく聞いて。今日お父さんとお母さんね、検査を受けに行って来たの一。結果は陰性だったわ、健康体と診断されたのよ。それで、その帰りに役所で“グリーンカード”もらってきたわ」
 「……………」
あまりの事に言葉を紡ぎ出せずにいるグレイスの前に、母は二枚の「コロニー優先移住証書」を並ぺてみせた。
 残酷な光景だった。
 磨かれたガラステーブルの光沢面に並べられた二枚の縁色のカード。死神の目を逃れた者に贈られる、天の高みへの片道切符…。
 それは我が娘エリザベッタに対する、手切れの証書でもあった。
 「ね、グレイス、あなたも検査を受けて。大丈夫、きっと健康体よ。決まってるわ。そしたら、お父さんと一緒にコロニーに上がってみんなで暮しましょ、昔みたいに」
 「……………」
グレイスは身体が恐怖にこわばり、思考回路から色彩が失われる感覚に眩暈を覚えた。
 「……リザは…?」
ようやくの事で、グレイスの唇がそう言葉を形作った。恐怖に脚がガクガクと震えていた。先ほどの衝撃的な言葉にではなく、その問いの答えが母の口から返って来ることに…。しかし—
 「リザは施設に入れるわ。グリーンカードでコロニーへ行く家族の中にシーヴリー病患者がいる場合、その患者は政府のお金で、無料で専用ホスピスに入れるんですって」
 「……………」
そう、まるで嬉しそうともとれるような口調で、母はさらりとそう言ってのけた。
 —タダで済むからリザを施設に入れる!?
 —政府の隔離政策に気付いてないって言うの!?
グレイスは奥歯をきつく噛みしめ、小さな手を力いっぱい握って、燻りだした炎の様な怒りを押し沈めようと努めた。
 グレイスの額に汗が滲む—。身体全体が恐怖ではなく怒りに震え出す—。
 しかしやがて炎は燃え上がり、グレイスの頭の中で何かが弾けるような音が聞こえた時、その炎は母に向けられた言葉となって迸り出た。
 「じゃあ…じゃあ、お母さんはリザを捨ててしまうって言うの!? どうして!? 大事な家族じゃない! 大人はよくもそんな事を平気で言えるものね! —あなたの娘でしょ!?」
 「グレイス! 母さんに向かって何て口を!」
 「お父さんもよ! どうしてそんな事が言えるの? 家族は四人じゃなかったの!?」
 感惰の震えるあまり涙をこぼしてしまったグレイスの剣幕に気押されて、両親は口を閉ざして俯き、娘の言葉を再度噛みしめようとした。
 「……………」
 暫くの間、沈黙がこの三人の全てだった。やがてグレイスが徐々に落ち着きを取り戻すと見るとゆっくりと静かな口調で父が話し始めた。まるで幼子をあやすように。
 「グレイス聞いてほしい。…父さんだって、もちろん母さんだって、お前と同じようにエリザベッタを愛している。でもなグレイス、だからこそ、お前まで失う訳にはいかないんだ。父さんも母さんも、今、お前までいなくなったら…。お前は私たちに残された最後の宝物なんだ。分かってくれ、グレイス。父さんも母さんも、生きがいを失って生きていくことなど出来ないんだ」
 「……………」
父の心からの言葉を受けて今、グレイスの心の底で泥のようなものが次第に渦を巻き始めていた。
 父の言うことはもちろん理解できる。父が私を深く愛してくれていると言うことも—。しかし…
 「……でも、お父さん。リザは…エリザベッタは、まだいなくなってないのよ」
穏やかな口調だった。冷静さを取り戻しつつあったグレイスの心の中で、混濁した思いが今、一つの結論に達しようとしていたのだ。
 「確かに今はそうだが、エリザベッタも今の状態ではそう長くはもつまい。でも、施設に入って延命措置を施せば、あるいはより長く生きることが出来るかも知れない。
 そんな事より、今はグレイス、お前が感染する前に父さんたちと一緒に来てくれる方が重要なんだよ—」
 「—”そんな事”って……」
 結諭は、出た。
 この人たちも結局(他の多くの人がそうであるように)、自分たちが良けれぱそれでいい人種だったのだ。
 同じようにこの地上に生を受けながら、ただ運の善し悪しだけで、ここまで親の態度は違えるものなのだ。……全く同じ姿の二人の娘なのに!
 それでいて「同じように愛してる」? …主は—きっとそれを愛とは呼ばれないだろう。
 そして今、心の渦の中心に出来た沈澱はもはや確固たる形を形成し、内側からグレイスの意志を突き動かしていた。
 「お父さん、お母さん—。ごめんなさい、グレイスは地上に残ります。もうどんな説得にも動かされることはありません。主の御心に従い、私はその信仰の全てを以って、ここでリザを見守り続けます。
 ごめんなさい、我が儘な娘を責めないで下さい—」


 呆然と佇みただ涙を流す両親に何とか背を向け、強く引かれる後ろ髪を振り切ってグレイスは二階へ上がり、エリザベッタの部屋に入った。
 かなり衰弱は進んでいるものの、さほど悪くない顔色のその寝顔は安らかだった。
 —たった一人の私の分身。…そうね、もうすぐ「たった一人の家族」になるわね…。
 そしてグレイスは、エリザベッタの乾いた唇にそっと自分の唇を合わせた。


 グレイスは妹の静かな寝息を確認してひと安心したのか、自分の部屋に戻る途中の廊下で立ち止まり、大きく一つ伸びをした。
 「?」
僅かな痒みを感じてグレイスが右手の袖をめくってみると、その原因は右腕の中程に出来た虫刺されと見てとれた。
 「…いやだ、もう夏も終わったのに。しぶとい蚊もいるものね」
 うそぶいてグレイスは自室に戻り、聖母像に向かって短く就寝の祈りを眩いてから、なぜか充実した思いをその胸にベッドに入った。
 グレイスは知らない。
 —死神はどんな相手であっても容赦はしない。その者がどれほど純粋だとも、どれほど慈愛深くとも。
 グレイスは知らない。
 それ故に、死神は死神たるのだ—

*   *   *

 数日の間、両親は必死になって我が娘グレイスの説得を続けたが、信仰と言う名の盾を構えたグレイスの決意が揺らぐことはもはや無かった。
 そして、どうあっても自分たちが娘の中で「信仰」以上のものになり得ないと知った時、両親はやがてグレイスと言葉を交わさなくなり、目を合わせなくなり、そして生気の失せたような目をしたまま衛星軌道へと旅立って行った。
 見送りは求められなかったし、のこのことそんなことをできる程の度胸も持ち合わせていなかったが、それでもグレイスは港より遠く離れた場所から、両親の乗った高軌道輸送機がオレンジの炎を長く引いて小さくなっていくのを、飽きることなくずっと眺めていた。
 やがてその機体も雲の彼方に去り、全ての視界が水蒸気の自煙のたゆたう景色に支配された時、グレイスは思いもかけず細い鳴咽を漏らしている自分に気が付いた。
 心の全てが今、悲しみと、そして喜びに満たされている。
 グレイスは大いなる主の慈しみによって、自分の目が熟く潤み始めるのを感じていた。
 —お父さん、お母さん、感謝します。グレイスをこんなに健やかに育ててくれて。そしてごめんなさい。そんな大切な両親を私は裏切ってしまったのですね。許してもらえるとは思っていません。ただ、せめてもの償いに、二人のために祈らせて下さい…。
 …どうか、暗黒の野にあって主よ、二人の前に闇を永遠に置かないで下さい、天空へと旅立ったお父さんお母さん、あなたのグレイスを、地獄に残ることを選んだグレイスを、いつまでも遥かな高みより見守っていて下さい…。
 そして見上げる瞳にそっと光が溢れた。


 「姉さん」
 「なぁに、リザ」
 ゆったりとしたソファに腰を下ろし、水仕事をする姉の後ろ姿をぼんやりと跳めていたエリザベッタが、その背中に言葉を投げかけた。
 「…ずっと思ってた。—姉さんは、どうして父さんたちと一緒にコロニーへ行かなかったの?」
 ここ数日、常に心に滞  っていた言葉だった。—すぐに口に出すことが出来なかった白分の体調が憎々しいほどに。
 「ん? 決まってるでしょ。私がリザを置いて行くと思う?」
 「でも、父さんたちは置いて行ったわ。どうして姉さんは行かなかったの?」
 そのどことなく棘を感じる声にグレイスが水を止め、タオルを手に振り返った。
 「リザ、一人になりたかった訳じゃないでしょう? 一人でホスピスに入った方が良かったの?」
 「一人になりたかったわよ!」
 思いもかけなかったリザの激しい語勢に、振り向いたグレイスの笑顔が凍り付いた。
 「どうしてよ!? どうして姉さんはそうやって同情を押売りするのよ! 余計なことしないでよ!
 私にそんなに惨めな思いをさせたいの!? 私なんて…私なんてどうやってももう死ぬしかないのに。どうして、どうしてそっとしといてくれないのよぉ…」
 そして、死への恐怖にうなだれるリザの瞳毛に涙が光った。
 姉が妹の隣に静かに腰を下ろし、振るえるその華奢な肩にそっと腕を回す。
 「リザ、違うわ。同情なんかじゃない。だって私たちは二人で一人じゃない。ずーっと、生まれる前から。こんな素敵なことってないわ! なのに離ればなれになるなんておかしいじゃない、そうでしょう? 一人しかいないものをどうやって離すのよ!?
 …リザは私の大切な分身じゃない。どーんと見せつけてやりましょうよ、死神に。お前なんかぜーんぜん恐くないんだよー、って」
 「……」
 「ね?」
 エリザベッタが顔を上げる。—眩しかった。誰もが自分に対する態度を変えたものだとばかり思っていたのに、この笑顔だけは決して変わらない。
 エリザベッタの目に映る涙に滲む姉の姿は、光輪をその背に抱く聖母の姿にだぶってさえ見えた。
 「姉さん、グレイス姉さん……」
そして、エリザベッタは姉の胸で幼手のように泣き出した。


 本当の意味で死神の恐怖とは、感染者に絶望を振りまいて回ることだと言われる。
 決して回復することのない致死病。
 接触感染ゆえの孤独。
 自分の手足の腐り落ちる恐怖と嫌悪。
 実際、死神に狩られる者よりも、その影に怯えて狂気に沈む者の方が多いと言われている程だ。
 —その孤独感ゆえに死神の影に飲み込まれつつあったエリザベッタ。
 しかしその影は今や信仰と愛の光に照らし出され、そしてエリザベッタは、その影を今、ようやく踏み越えたのだ。

*   *   *

 両親が旅立ってよりの一月ほどはリザの身体の調子もすこぶるよく(もちろん、内部では症状が進んでいるのだろうが)、何事もなく姉妹二人の幸せな暮しは続いたのだが、それも結局その僅か一月余りのことだった。
 幸せな時ほど早く過ぎ去るものとは言え、それは余りにも残酷な早さでしかなく、グレイスはただ絶句することしか出来なかった。
 その日、妹エリザベッタの顔色はいつもに増してよく、その表情に回復の望みすら見出せそうな、この幸せがいつまでも続きそうなそんな午後。姉と向かい合ってお茶を楽しんでいた妹が、突然何の前触れもなく血の気を失って倒れ、そのまま四日間も目を覚まさなかったのだ。
 昏睡状態に陥って三日が過ぎた頃には、さすがにグレイスも「ついに脊椎まで病腫が達したのでは」と縁起でもない事を疑わずにはいられなかったが、熱心な祈りが通じたのか、翌日、ようやくエリザベッタは目を開いた。
 「…姉さん?」
 「ん?」
 「いるの、姉さん?」
 「? ええ、ここにいるわよ…」
 …もう一つ二つリザは何か口にしたようだったが、その短い会話からグレイスの感じ取った余りの衝撃は、刹那グレイスの五感を閉ざすのに十分だった。
 —そんな…そんな!
 間違いなく自分はリザの傍らにいるし、リザもちゃんと両目を開いている。しかし—
 リザ…まさか、目が…?
 確かに眠りからは覚めた。しかし、病腫はやはり脊椎にまで達していたのだ。その僅かな病腫がリザから陽の光を奪ったのだ—
 辿り着きたくない忌まわしい結論だったが、しかし恐らく間違いあるまい。リザは姉に余計な心配をかけまいとそれを言い出せずにいるのだろう。
 「…リザ」
 「なに?」
確かに声の方に顔は向ける。しかしその視線は、やはり姉を捉えるには至っていない。
 「あなた目が……」
 「…やっぱり気付いちゃった?」
意外なことに、その姉の言葉に妹は屈託なく微笑んだ。
 「—姉さんにこれ以上心配かけたくなかったんだけど、やっぱり姉さんに隠し事は出来ないわね。
 —でも大丈夫。まだほんの少しは見えるの、真っ暗じゃないわ。だから、ね。それに姉さんを感じることが出来るから、全然恐くもないしね。だから心配しないで。大丈夫よ、ね?」
 「エリザベッタ……」
 リザの心の中にはもはや一欠片も死神の影は残っていない。その確証だけが、グレイスの心の支えであると言えた。


 双子の姉、グレイスは祈る。
 ”主よ、いと高き所におわす我らが父よ。どうかしもベグレイスの祈りをお聞きとげ下さい。
 —失ったものを今さら望んだりはしません。どうか妹エリザベッタの病状がこれ以上悪化しないようにお守り下さい。その失われた瞳の輝きをもう悔やんだりしません。ただ、私が主無くして生きることが出来ないように、また妹なくして生きることも出来ないのです。
 どうか、どうか妹エリザベッタを急いで天に召されませんように…”


 「あら、リザ、起きてて大丈夫なの?」
グレイスがお湯を満たした洗面器とタオルを持ってリザの部屋に入ってみると、近頃では珍しくリザがベッドの上で上体を起こし、窓の外の景色をぼんやりと眺めているところだった。
 尤も、実際に景色が見えているかどうかは些か疑問だが、とりあえずグレイスはその問題を頭の隅に追いやり、衰弱が急激に進んですっかり足腰が弱くなってしまったために、自分で身体を洗うことが出来なくなったリザを清拭すると言う本来の目的を遂げるべく、ベッドの傍らに歩み寄って側のワゴンに洗面器とタオルを置き、リザに服をはだけるように指示した。
 「うん、今日は久しぶりに気分がいいからね。外もいい天気みたいだし」
けれども、シャツを脱ぎながらそう答えるリザの顔色は、前のように赤みが差すことはなくなっていた。
 やがてリザがシャツを脱ぎ終わると、それを待ち構えていたかのように、グレイスが固く絞ったタオルでリザの身体を拭い始める。
 リザは常々「白分で出来るから」と主張するのだが、そのつどグレイスは「ちやんとキレイになったかどうか確認出来ない人が何言ってるのよ」と言って、決して譲ろうとしない。
 それが一理あるのも確かだが、今のリザにはこのグレイスの優しさが何よりも嬉しかった。
 「?」
身体を拭うグレイスの手付きがいつもと違うような気がする。姉の手なのはもちろん間違いないが、右手の力加減がいつもとは微妙に違うように思えるのだ。視覚を失った分、今のリザの感覚器はかなり鋭くなっている。
 「姉さん?」
 「何? リザ—」
 「右手…どうかしたの?」
 「……別に、どうもしてないわよ。どうして?」
 「うぅん、ならいい」
間違いない。グレイスの右手に何かしらの異常がある。リザの皮膚感覚が、姉の言葉尻からその確信を素早く感じ取っていた。
 何かしらの異常—。例えばそれがただの怪我なら良いのだが…。
 だが…、その次の言葉は恐くて心にも思い浮かべることが出来なかった。
 —リザは、今や目で見てそれを確かめることの出来ない自分の身体が、心底口惜しかった。
 —姉さん…。

*   *   *

 妹エリザベッタの双眸から光が失われて以来の数週間、低い位置ながらも何とか安定を保っていたその容体も、再び急変する時がやってきた。
 極限まで進んだ衰弱は視覚を失ったリザの身体から起き上がる力すら奪い、寝たきりのリザは一言二言話してはぐったりとベッドに伏せると言う状態にまで追い込まれていた。
 それは目を背けたくなるような光景だった。
 頭蓋にぴったりと張り付いているような輪郭と落ちくぼんだ目、背中を中心とした腐敗による皮膚の変色と異臭。
 傍らに取り付けられた脳波計の弱々しく波を刻む光が、リザの生命活動の微弱さを一層強調していた。
 正直、これほど症状が進んでいるとは思わなかった。
 肉体が病魔に蝕まれていく苦痛は相当のものだ。個人差は多分にあるにせよ、腐敗しつつある自分の右腕はかなりの熱と苦痛を私に与えている。全身に広がった病腫の与える苦痛など恐らくその比ではあるまい。全く想像もつかない。
 それでいて、リザは今までその苦痛を口にしたことはない。私が思っている以上に強靭な精神力を持っているのか、あるいは既に痛覚すら失っているのか…。
 どちらにせよ、もはや話すこともままならないエリザベッタ、そして彼女に触れる事の出来なくなった自分。お互いこれ以上感染箇所を増やす訳にはいかない以上、不用意な接触は厳禁だ。
 ——可愛そうな妹をこの手で抱きしめてやりたい。
 しかし、既にその手は半分失われている。
 「…そうだ。もう」
 私には祈ることしか残されていないのだ。
 ”主よ、いと高きところにおわす我らが父よ。しもべグレイスの祈りを、どうかお聞きとげ下さい。
 —私に妹と同じ試練をお与え下さったことに感謝します。これで、妹に負担を感じさせることなく、同じ立場で苦しみを分かち合えるようになりました。でも…どうかお願いです。エリザベッタの身に取り憑いた死神が、これ以上彼女の生命を吸い上げぬよう、その御光によってお守り下さい…。
 たとえ妹と身体を取り替えても構いません。腕だっていりません、命だって…。お願いです。主よ、どうか妹をお守り下さい。どうか妹をお救い下さい一どうか…”

*   *   *

 数えることすら恐ろしく思えるほどの間、リザは昏々と眠り続けた。
 そんな妹を目の当たりにして、自分の病状すら顧みる事なく、グレイスはただただ祈り続けた。
 祈ることしかできない自分の力無さが恨めしかった。
 常々「信仰こそがこの世で最も偉大な力であり、祈りはこの世で最も貴い行為だ」と思っているし、もちろん今もその気持ちに変わりはない。「主にお出来にならない事など何もない」と言うのも信じて疑ったことはない。
 しかし…、主が死神の影ごときに犯されることはありえないにしても、三億とも五億とも言われる感染者に、ましてやこのエリザベッタに救いの手を差し伸ぺて下さるまでには、かなり時間がかかるような気がしてならない。
 もちろん、この鋼の信仰に傷が付くことはない。しかし、いつまでも眠りから覚める気配を見せない双子の妹に寄り添っていると、もう二度とその口を開かないのではないか、と言う不安に今にも押し潰されそうになる。
 エリザベッタの片腕は既に死神の手にあり、それがさかんに引っぱられていることは明々白々だ。
 ならば、私は逆の腕を掴もう。もう両腕で支えることは能わないが、私の手には信仰と言う名の輝く鎖があるではないか。
 私が主の存在を忘れ去らない限り、主はリザの存在をお目にかけていて下さる。
 私は、そう信じている。
 そして、それは証明されたのだ。
 「—姉さんなの?」
 「リザ!」
グレイスは、一瞬奇蹟でも起こったかのような表惰を見せ、そしてリザの身体に覆いかぶさって大声で泣き出した。
 「リザ、リザ…、もう会えないのかと思った」
 「姉さん—」
エリザベッタは自分一人で動かせないはずの腕で、顔を伏せて泣きじゃくる姉の頭を優しく抱いた。
 「…姉さん、夢を見たわ。一どんどん、どんどん空へ昇っていく夢。そしたらね、どれくらい昇り続けたか分からないくらい上の方、光の雲の上でね、綺麗な、腰に剣を差した男の人に出会ったの。
 そして私に向かってこう言ったわ『今の影を残したあなたの魂では、これより上の更に明るい場所には耐え切れないでしょう。もう一度地上へ戻って心残りを晴らしていらっしゃい』って…。そして戻ってきたらここだった。—やっぱり、姉さんに会いたかったのね」
 「エリザベッタ…」
 「でも、もういいの…。—未練はあるけど悔いはないわ。こうして、姉さんと話ができたんだもの」
 「リザ…だめよ、まだ行ってはだめ。私…」
リザがもはや開くはずのない両目を開き、微笑んだ。病魔に侵され、半分以上がケロイド状にただれてしまった顔。それは—たとえようもなく美しい微笑みだった。
 「ごめんねグレイス姉さん。でも私、どうも自分の力だけで話しをしてる訳じゃないみたいなの。…何て言うか、こう—柔らかな空気に包まれてる感じ。大きな…とても大きな力を感じるわ。実感できる」
 …それが主の存在なのよ。グレイスは口を開こうとした。しかし、白濁した瞳からとめどもなく涙を流すリザを目の当りにして、一体どんな言葉が意味を持つであろうか?
 不意に、どこからともなく、—甘く、清らかな香りが流れてきた。腐敗臭の中にあってなお、完全な清らかさを保ち続ける鮮烈な香りだった。
 「不思議…何の香りかしら? —いい香り。……ああ、そう、百合だわ。真っ白い百合の香り…。見える、見えるわ、姉さん。真っ白い…」
リザの声が、沈みゆく秋の夕日のように小さくなっていく。
 「……愛してるわ、姉さん。私の…たった一人の……」
そして夕日は沈み、辺りに闇が訪れた—
 「私もよ…エリザベッタ…!」
そしてもう、エリザベッタが目を覚ますことはなかった。
 リザは今、白い天使の翼に抱かれているのだから。
 ”主よ、いと高き所におわす我らが父よ。
 —感謝します。エリザベッタに最期の安らぎを与えて下さって。私に最高の幸せを残して下さって。あの娘は主への祈りを棒げた事はありませんでした。なのに、明るい主の御元へ召してくださって。
 ああ、とても祈りだけではこの感謝を表し切れません。祈る事しかできない非力な私を、どうかお許し下さい。主よ、感謝します。…例え私の全てを擦げ尽くしたとしても、とても感謝しきれないでしょう。”


 教会のみんなの協力でリザの葬儀を済ませてからの数日の間、グレイスはなぜか、これほどの幸せを噛みしめた事はないと思えるほどの日々を過ごした。
 まさに、それは本来一つであったはずの魂が、元通り一つに戻ったかのような充足感だった。
 しかしその日々も長く続くことは叶わず、押し寄せる右腕の痛みが、やがてそのささやかな喜びすら打ち払っていった。
 既に手首から肘まではほぼケロイド状の腐肉と化しており、ドロドロになった肉を布で拭き取る時間だけが日増しに長くなった。
 自分のものとは言え、立ち昇る腐臭に込み上げてくる嘔吐感が、毎日の休息を大いに妨げる。いっそのこと嗅覚が侵されてしまえばいいのに、とすら思えるほどだ。
 そんな中でグレイスの疲労とストレスは極限状態に達し、結局、肉体がその意志と感覚に関わらず眠りを強制するに至ったため、皮肉にも、何とかグレイスは数日ぶりの睡眠にありつく事ができた。
 その夜、部屋いっぱいの腐敗臭に包まれながら、グレイスはこんな夢を見た。


 自分の夢の中だと言うのに、相変わらず右腕は酷い有様だった。
 場所もリザの言っていたような光の雲の上ではなく、いつもと何も変わりもない自分の部屋だ。腐臭の漂ってこない事だけが、唯一現実との境界線のように思えるが、それすら、もしかしたら「嗅覚を失った現実」であると言う可能性も考えられる。が、不思議なことに、グレイスは今自分が自分の夢の中にいることをはっきりと自覚していた。
 現実のように、血液の循環に同調して規則正しく襲って来る刺すような痛みが無いのは助かるが、そのせいか、いつもより熱が酷いように感じられる。
 意識し始めたら、余計に熱が高くなっていくようだ。—右腕が焼け付くように熱い。その上熱が転移したのか、頭までボーッとしてきた。
 地面の波打つ感覚にたまらずグレイスはベッドに腰を下ろし、ワゴンに伏せてあったグラスに水差しの水を注いだ。そして、目を瞑ってぐいーっと一気に飲み干す。
 真夏の直射日光に立てかけた鉄板に水を伝わせるような勢いで喉に吸収されていく水の感触を、グレイスは意外にもはっきりと感じることが出来た。
 目を開いた。
 と、どこがどうなったのか全身が貧血に似た眩暈に襲われ、不意に目の前が真っ白になった。
 ”一体、なんて夢なのかしら”
グレイスが二度三度と目をしばたかせる。すると不思議なことに、そこに一人の白い人影が浮かぴ上がった。
 高い背と細い手足。純白の上衣、純白のズボン。初夏の牧草のようにしなやかな金色の髪。滑らかな湖面を思わせる碧い瞳と、それをより際だたせる優しい微笑み。そして、腰から下げた銀の剣。
 若者は、無言のまま数歩グレイスに歩み寄った。
 それに呼応して、グレイスの身体がベッドから腰を上げる。
 ”?”
よく分からなかった。確かに自分の意志だが、なぜそうしたのかは自分でも理解できなかった。
 ”夢なんだから、まあ、いいよね”
それが一番楽な結論だった。
 すると、若者はグレイスの前で仰々しく脆き、手を差し伸べるとその右手を取った。そしてためらう事なく、そのケロイドに接吻しようとする。
 ”ああ、だめ。…そんなこと”
しかし裏腹に、なぜかその言葉は舌の上で溶けて無くなり、抵抗する意志も全く湧いてこなかった。
 右手に感じる、瑞々しく柔らかな唇の感触—
 自分の右手にまだ触覚が残っていたかどうかなど、もはやグレイスには関係の無いことだった。
 この、世界そのものにふわりと包み込まれるような、羊水に満たされて微睡むような不思議な感覚だけが、今のグレイスの全てだった。
 優しかった。今までに感じたどんなものよりも優しかった。
 やがてグレイスが、いつまでもこの時間が続いてくれれぱと心の端に思い始めた矢先、若者は静かに立ち上がり、昔もなく後ろに下がった。
 若者の身体が一瞬光ったように見えた。
 そしてその若者は、徐々に周りの景色と同化し、大気に溶けるようにして消え去った。
 ”…”
グレイスは絶句していた。一あれ程までに神々しい青年を見た事が無い。畏怖すべき美しさを持った、不思議な青年だった。
 ”…”
とりあえず、接吻を受けた格好のままで固まってしまった右腕をゆっくりと降ろす。
 ”!!”
グレイスの身体に戦標が走った。
 右手が…回復、いや完治している。
グレイスは我が目を疑った。
 はっとして、若者の消えた辺りの空間を凝視する。
 何も見て取ることはできなかったが、グレイスの頭に先ほどの若者の姿が朧気に浮かぴ上がった。
 ”—白い服、金の髪、碧い瞳、そして銀の剣。銀の剣……?”
 剣を腰に下げた人をグレイスは実際に見た事が無い。しかし暫く考えて、一人だけ銀の剣を持っ者の名に思い当たった。が、自分がその名を口にするのは余りにもはばかられた。
 『旅人と病人の守護者』『剣持つ天使』……。
 そして—グレイスは夢から覚めた。


 レースのカーテンごしに射し込む朝の爽やかな光に包まれ、グレイスは大急ぎで上体を起こすと、奇蹟を信じ、夢が現実であった事を願って、右腕に巻いた包帯を外しにかかった。
 片手ながら器用に慣れた手付きで、白い包帯を巻き取っていく。
 焦ってしまったために余計に時間を取ってしまったが、やっとの事で患部が姿を現した。
 グレイスの希望が自分の右腕に集中する。
 —しかし、儚い想像に思い描いていた白い腕はやはりそこにはなかった。じくじくと膿と溶けた肉の混じり合ったものが幾筋か流れ、滴る。
 涙が出そうだった。
 右腕で腐り落ちる残酷な現実にではなく、たかが夢を本気にして浮かれ踊ってしまった情けない自分の姿に…。
 泣くのは悔しかったが、それを考えると、腹立たしくも益々涙は止まらなくなった。
 グレイスが鳴咽を漏らし、ずずーっと鼻を鳴らした。
 「!?」
 右腕ばかりに気を取られていて、今まで気が付かなかったのだ。
 部屋の空気が変わっている?
 信じられないことにあのむせ返るような腐臭は全く無く、ただ甘く清らかな香りが僅かに漂っているだけだった。その醸し出す清楚な柔らかさが、この部屋中を満たしていた。
 「うそ…この香り」
この香り…。あの時、リザが天に召される直前にどこからともなく流れてきたのと同じ香りだ…。—じゃあ、これも百合? 真っ白い…。
 これは一体……?
 —百合の花などどこにもないはずだ。ならば、この香りはどこから漂ってくるのだろう。
 ある種の気味悪さを振り払えないまま、グレイスが部屋の調度類を一つ一つ頭に思い浮かべながら、ゆっくりと視線を巡らせた。
 「……」
 そして、ようやくの事でその香りの源を突き止めたが、それは更に信じられないものだった。
 「…? 右腕? —そんな、ケロイドから香ってくるなんて…」
 腐臭悪臭がすることはあれ、ただれて半ば溶けたケロイドから、僅かとはいえ花の香がするなどと言うことは考えられない…。が、それが事実だった。
 「それに…いつの間に感覚が…?」
症状は腐った肉塊のままなのに、グレイスの右腕は今や正常な機能を取り戻していた。
 グレイス自身何一つ理解できなかったが、確かなことが一つあった。
 天使は、グレイスに心からの敬意と、そしてささやかな贈り物を残していったのだ。


 グレイスは、自分の身に起こった不思議な出来事を自分一人で処理すべきではないと判断し、珍しく午前中から教会にやって来ていた。
 誰もいなくてももちろん雑務でもこなしながら誰かが来るのを待つつもりだったが、グレイスが礼拝堂に入ってみると一人の女牲が祭壇の前に跪き、—心に祈りを俸げているところだった。
 あの、何かと相談にのってくれたり世話を焼いたりしてくれた、中年女性のようだ。
 グレイスは邪魔にならないように静かに椅子に座り、長い祈りが終わるのを待った。
 どのくらい経っただろう。やがて女は祈りを終え、静かに立ち上がると振り返った。
 「あら、グレイス。今日は早いのね、どうしたの?」
 グレイスがぺこりと頭を下げる。
 rおはよう、おばさん。—ちょっと聞いて欲しいことがあって…」
そしてグレイスは礼拝堂を出、夢とその続きを詳しく話したのだった。


 「ふうん…、不思議な事ってあるものね。でも、実際に白合の香りもしている訳だし、疑う余地はないわよね。—主は何でもお出来になるんだもの、どんなに不思議な事でも起こり得るんだわ。こんな素敵な事ってないじゃない! グレイス、きっとあなたの祈りを主が聞きとげて下さった—」
失言だった。はっと口を押え、感惰に任せて一気にしゃべってしまった自分を罵った。あれほど一途な祈りにも関わらず、彼女の妹エリザベッタは死んだのだ。
 「—グレイス…ごめんなさいね。私ったら、そんなつもりじゃ…」
気まずい気持ちをなだめすかして、ゆっくりと顔を上げた女の目に映ったグレイスの表情は、予想に反して晴やかだった。
 「ううん、いいの。きっと地上はリザが住むには.穢れ過ぎてたんだわ。だから、主がリザを御元に召して下さってむしろ感謝してるの。あの娘は—あんな幸せそうな顔で息を引き取ったんですもの…。
 それより、おぱさんこそどうしたの? 随分お祈りが長かったみたいだけど」
グレイスは屈託なく微笑みかけたが、対して女はただ左手を差し上げただけだった。
 「これよ」
そう言って、女は半ぱ引きつった笑顔を浮かべながら、左手の手袋を取った。
 —手の甲にできた僅かな腫瘍。やがて死に至る死神の第一撃。
 「そんな、おばさん! …ああ、何てこと…」
ふっと膝の力が抜けたグレイスを、すかさず女のカ強い腕が支える。
 「いいのよ、グレイス。私の主人もこれで死んだわ、だから別に構わないの。むしろ待ちくたぴれたくらい。さっきのお祈りは別の事よ—。死ぬのは恐くない、ただ、その先信仰を見失わないでいられるか、その保障が無いのが恐いのよ…。だから…私には祈り続けるしかないの」
そして女が苦笑を浮かべた。
 …この人も、とても純粋な心を持ってるんだ。なのに…。せめて私が代わってあげられれば…。この優しい手—
 無意識のうちに、グレイスの右手が女の左手を愛おしむように包み込んでいた。
 「グレイス…」
グレイスの慈愛がそうさせたのか、その時女の脳裏一面に舞い踊る天使の羽が見えたような気がした。


 次の日、いつも通り夕暮れ時にグレイスが教会へ来てみると、突然グレイスをたくさんの信者たちか取り囲み、口々に何か話しだした。
 鬼気迫るほどのその調子に、さすがのグレイスもたじろぐ。
 「え? 何? なに? …」
困惑するグレイスの耳に届く人々の言葉は全く雑音に近いものだったが、その希望に満ちた目の輝きが妙に気になった。
 「ちょ、ちょっと、みんな落ち着いて。一人づつ話して…」
 「グレイス!」
不意の騒めきを突くような呼びかけにグレイスが振り返ると、人垣を割ってあの女が慌てて駆け寄ってきた。
 「ああ、グレイス!」
そして、目を白黒させるグレイスを力一杯抱きしめる。
 「お、おばさん。どうしたの?」
 「グレイス、グレイス、すばらしいわ。ああ、何てことかしら!」
感涙に濡れる頬を拭い、女は左手の手袋を取った。
 「ほら、見て、グレイス。これ」
 「!!」
そこに見たものは、混乱していたグレイスの思考をႋjႋႋ的なまでに一撃した。
 腫瘍が無い!?
 昨日ははっきりと視認できたシーヴリー氏病の腫瘍が、全く消え失せていた。多少皮膚の色が変化してその痕跡を残してはいるが、素人目には完治したように思える。しかし…。
 「なんて顔してるの。グレイス、あなたが治してくれたのよ!」
 「私が? 嘘、私何にも…」
 「本当よ。—その右手、その右手で昨日私の手を握ってくれたじゃない。ああ、主よ! なんて素晴らしいんでしょう—本当に天使は舞い降りたんだわ!」
そして、女は天を仰いで涙を流し続けた。
 グレイスは訳が分からないまま益々困乱し、何か助けを求めて辺りを見渡した。
 と、人垣の遥か向こうに見えた白い人影—
 ”…あ”
 礼拝堂の入口に、あの剣を持つ青年は立っていた。
 グレイスと目を合わせるのを待っていたかのように彼は微笑み、困惑顔のグレイスに一つ頷きかけた。
 辺りから全ての音と白い影以外の景色が消え去り、そしてグレイスもゆっくりと頷き返した。光に包まれて消え行く青年の姿を見届け、そして、全てを納得した。
 —自分は主より試練を授かったのだ。あの青年はその御使いに違いない。
 ならば…私は主の御心に従い、全ての人々に主の平和を分け与えてみせる。
 この醜い右腕なんかでいいものなら、喜んで…。
 グレイスが騒めく人垣を制して、祭壇へと歩み寄った。そして脆き、目を閉じる。
 人々もそんなグレイスを見て水を打ったように静まり、向じように祭壇に向かって跪いた。
 ”ああ、主よ、いと高き所におわす我らが父よ。
 —感謝します。
 もうこの感謝は言葉で表すことはできません。でも…主のお与え下さったこの試練、必ず主の御心に沿えますように私の全てを尽くすつもりです。その道のりがどんなに苦難に満ちたものであろうとも、主への信仰を胸に必ず乗り越えてみせます。
 どうか主よ、力無きしもベグレイスをその御光によってお照らし下さい。私たち全人類の前に、どうか闇を置かないで下さい。
 それにエリザベッタ。ありがとう、今でもあなたの純粋な心が私の信仰の糧よ。—エリザベッタ。姉さんが道に迷わないように見守っていてね。
 —愛してるわ。永遠に……”
そして、グレイスは胸で十字を切った。

*   *   *
 
 —新連合による報告—

 2116年12月、奇蹟は突如やってきた。
 旧アメリカ合衆国領アマリロの寒村に、聖母が現れたのだ。
 聖母の力は今まで何人か現れた”救世主”たちとは異なり本物で、彼女自身のただれた右手で触れられた患部は(どういう機構か)たちどころに、かつてそうであった本来の姿をほぼ取り戻すのである。その後の再発率は今のところ全くのO%(確実なデータではないが)、「二年生存率」の統計を待たずに判断するのは些か危険ではあるものの、これによって我々が、死神の恐怖におびえることなく生活できるようになる事を願って止まない。
 また今や「全人類の切札」である彼女をこの期に及んで誘拐しようとした過激派グループが現れたため、武装した連合軍一個小隊を現地に派遺、駐留してその警護に当たらせることが決定された。

 2117年1月、正に人類の新しい夜明けであろう。
 聖母は実に意欲的に治療活動を続けている。今では現地の小さなホスピスが彼女の治療院となっており、毎日数万入の患者たちが全世界から集まってくる。まるで難民のように周辺の士地にキャンプを張る患者たちにより、中都市並の規模に膨れ上がった現地の治安と衛生維持のために、更に非武装兵団の派遣を決定する。
 しかし、膨大な患者数に対して彼女が癒せる人数はせいぜい一日に百人程度。いつ果てるとも知れない悪臭を放つ行列を前にしても全く疲れを見せない彼女は、まさに聖母の名にふさわしい。
 癒しを受けた者の中には、彼女の頭に輝く光輪を見ただとか、彼女が天使と親しげに会話をしているのを見ただとか言う者もいる。もちろんそんな事はないだろうが、しかしたった一人で人類を救おうとしている彼女に対してなら、どんな美称も許されることであろう。
 ほんの数カ月前までは考えられない事であったが、やがてシーヴリー氏病は消滅する。少なくとも我々はそう信じている—。
 彼女は地上人類全ての希望。死神の影を振り払う聖なる灯火。聖なる夜に確認された彼女の力により、イスラフィールのラッパはその手から落下し、我々はやがて死神に勝利することだろう。
 影を知り光をより深く理解するに至った我々地上人類は、恐らくこれより更なる進化を始めることであろう。それは悟性の進化であり、即ち諭理レベルの進化である。つまり、聖母の御手は結果的に母なる大地を離れた者たちには及びもつかない力すら、我々に与える事となるのだ。
 彼女は新しい人類の母、清き乙女、平和の虹、星、聖なる月、そして光、光、光—。

 究極の恐怖の対象として、決して人々の記憶から死神が消えることはないだろう。しかしまた、究極の慈愛の象徴として、聖母の記憶は人々の心すら癒し、そこにはびこる死神の記憶を彼方へ追いやることができるのだ。
 我々は勝ったのだ。
 —天の扉は今開き、人類という種はそれをくぐり抜けて、更に永遠に続くと信じている。
 —同志諸君、今日だけは主のためではなく、あの今だ幼い聖母のために祈りを捧げようではないか。


 新連合が作られてより三十年。
 人類は今、新たな第一歩を踏み出そうとしているのだ。