review
oneline (2006) / Kenichi Waga
本来、現代の音楽というのは十二音平均律という決まりごとに沿って演奏されるものである。これはいわば「音楽」という会話を自己と他者の間で行う時に使用する「共通の言語」として音階を定めたもので、平たく言えば音楽における調律の仕方のことである。ドからその上のドまでのあいだを十二に割って、等しい幅を持った十二個の音程でオクターブが構成されるようにする、いわゆるピアノの調律のあり方。この大発明によって複数人による演奏(合奏)が可能になるわけだが、これは実は十八世紀半ばになってから西欧音楽で一般的に使われるようになった手法である。それまでの音楽の調律は、ひとつひとつの音の幅が微妙に異なっており調律は演奏者の手に完全に委ねられている状況だった。つまりそれまでの音楽は孤独であった。それゆえ合奏することはあったにせよ各々の楽器の音階は微妙に異なっていたわけだが、この十二音平均律の考案によって同時に複数の楽器と調和した音階を奏でることが可能になった。この時代から、音楽がポップというか、より大衆的に躍進した、音を記号的に処理する非常にデジタルな言語として歩み始めたといえる大転換期となったのである。
そういう音楽の変遷と照らし合わせてこのアルバムを鑑みるに、「自作テルミン」という音程の定まらない楽器を用いての独奏が、より音楽の原始的な部分に立ち返った、という感覚を想起させるのです。もともとテルミンという楽器は、磁場を手で遮断することによって変え、それを音に変換するというデジタリスティックな発想のもとに考案された電子楽器なのだが、それを使ってプリミティブな方向に音楽を立ち返すという逆説的な手法が、飽和的な現代音楽に慣らされてしまっていた僕としてはとても新鮮に聞こえ、その独創的で柔軟な発想に驚喜した。 しかもこの「自作」という部分がポイントで、本来のテルミンの音とはかけ離れてかなりノイジーな、全く新しい別の楽器になっているのもこのアルバムの魅力のひとつである。楽器といっていいのかすら怪しい感じがヤバい。いい意味でヤバい。聴こえるのはほとんどチュルチュル、チュルチュル、ピギィーといった壊れまくったレィディオのようなんだけど、それだけにそこに時折挟まれる音程のとれない音階(メロディ)に、音そのものの持つ力や美しさというものにハッと気付かされるのである。聴いていると東南アジアのどこかのマーケットの風景を喚起させるようで、聴く者をちょっとした異次元の旅へと誘ってくれる。 リズムも皆無。ここにあるのは、その時々の偶発的な音階と間のみ。一言で言えば「一期一会」という言葉がピッタリとはまる。しかし理解しようとすればする程、手から逃げ出していってしまうウナギのような音楽である。だが確かに、「今掴みかけた」という感触はおぼろげながら捉えることが出来、その不確かな、はっきりとしない余韻がこれまで味わったことのない感情として時に不安を、時に心地よさをもたらしてくれるのである。 曲名も凝っていて素晴らしい。全部を書くことはできないが、僕が気に入ったのをいくつか挙げると「ひょっとこおばさん」「燃え上がるお年玉」「人違いで襲ってきた滝の霊」「ピロリー」「無生活音の景色」など。 ディスク3は、「無動演奏」と題された1曲で47分もある大作なのだが、これはおそらくライブという感じか。曲名とは裏腹に、演奏している間中ずっと体を動かし続けていたのかと、そこにばかり関心がいってしまう。汗が大量に分泌されたことだろう。 特典として、「肩たたき無料券」がついてきます。これは作者からのファンサービスというか、「正直ずっと聴いているとそりゃ肩も凝るだろう」という心遣いがありがたい。そこらへんの抜け目のなさもK.W氏の人柄に起因するものであろう。 発端は「自作テルミン」という衝動もしくは好奇心だったであろうと推測されるのだが、それがこの3枚、時間にしてゆうに2時間を越えるアルバムに昇華する道程をさらに深く考察してみるとより面白く聴くことが出来るかもしれないが、それはまた別の機会に。作者はその新しい音を、近代的方法論と結びつけることに何がしかの可能性を見出したのであろうか。 NORI.YAEO (アンダー袋) / 2006.12.19 |