a piece of poison

基本的に毒舌なコラムです。何か思い付くたびに更新してます。
あくまで私見ですが、誰か読んでいたら反響ください。

1999年までのものは、こちらです。


2001/08/19 靖国参拝雑感。 毒舌度・・・0%

いい加減書いておかないと新鮮さがなくなりますし、私自身の感想を忘れてしまいそうなので、書いておきます(^−^;;;

さて、8/13に小泉さんは靖国神社を参拝しました。

結論から言ってしまいますと、私は、参拝したこと自体を評価してます。15日云々・・・はありますが、いきなり15日、というのは所謂「大人の事情」という奴もあって難しかったと思いますし、いろいろな圧力に屈して参拝そのものを取りやめなかっただけでも、十分評価に値すると思っています。

このことについて、「是非」を論じると延々と文章が続いてしまうでしょうから、雑感だけ。

まず、国内での話なんですが、「政教一致」といって批判する人がいるようです。でも、これって、私にとってはかなり的外れに聞こえるんですよね。この理屈で考えてみると、少しでも宗教が介在する場所に政治家が個人としてではなくて政治家として出向いたら、全部「政教一致」になっちゃうと思うんですけど(^−^; 例えば、首相として個人の葬儀に参加するとか・・・(こういう事例自体があるのかは知りませんけど)。こういう方たちは、そういうときにも「政教一致だ!」と批判するんでしょうかねえ?

原点に返って考えるならば、参拝というのは誰のためにするものでしょう? そう、勿論祀られている人たちに対してでしょう(その中に戦犯が云々・・・という話については述)。その場所が、単に靖国神社という日本神道と関わるところだ、というだけの話です。行為に対しての意味を考えてみれば、「神社に参拝」=「政教一致」というのはいかにも近視眼だという気がします。

もう一つ。海外からの批判について。言っていることは良く分かります。確かに靖国神社に祀られている人たちの中には、所謂「戦犯」が含まれています。確かに、過去に侵略を受けた国にしてみれば、「戦犯を祀る神社に日本国首相が参拝するのは許せない、戦争賛美だ」と考えるのも無理はない・・・かもしれません。本当にそうだとしたら、大問題なのは事実です。ですが、先ほども言ったように、行為に対しての意味を考えてみれば、そうでないことは明らかです。だから、日本国内でこの手の批判をする人は少ないはずです。でも、他国はそうではありません。どうしても前述のような思考に進んでしまうでしょう。だから、説明をすべきなのです。理解を得られるまで、根気良く、何度でも。「首相の靖国参拝は、あくまで戦争の犠牲者に捧げるものであって、戦犯に対してではなく、勿論戦争賛美では全くもってない」と。だって、事実なんですから。これを曲げてどうするんですか? 「外圧」に負けてこれを曲げてしまったら、「靖国参拝というのは戦争賛美の意味がちょっと含まれているかもしれません」と自分から言ってるようなものだと思います。そう考えると、今回の外相(余談:個人的な感想ですが、私、この人大嫌いです。ただの「無礼なおばさん」がなんで人気あるんでしょう? 「言いたいことを言う」というのと、「単に無礼」というのを履き違えている人が多いのでしょうか?)の参拝に対する反応は残念ですね。参拝を中止するよう求められたなら、なぜ参拝そのものの意味をはっきりと説明して、逆に参拝する、という意志を表示しないのでしょう? 圧力に負けて首相に「控えていただきたい」なんて、そりゃないんじゃないかな? という気がします。確かに諸般の事情という奴で簡単なことではないかと思いますが、あれだけ期待されて外相に就いた人なんだから、それくらいは期待したかったですね。

最後に。今回については支持してますが、私は小泉さんの言うことを全部支持してるわけでは勿論ありません。郵政民営化なんて、もっての他だと思ってます。とりわけ、「小泉=すべて○」「森=すべて×」みたいな「レッテル貼り」風なものの見方が横行してる(この原因を作っているのがたちの悪いマスコミです)ようですが、私は一つ一つの政策・主張に対して○×をつけていきたいですね。

あんまり政治の話題は書きたくはないんですけどね(^−^; 一応これくらいは、ということで。


2001/01/21 復刻版ゲームって・・・。 毒舌度・・・5%

さて、ここのところ真面目かつやたら長い文章が続いていましたので、久しぶりに短めでさくっと軽めに行きましょうか(w

最近、「復刻版」系統のゲームを結構良く見かけるような気がします。泉が所有してるものですと、「ソーサリアン・オリジナル」とか、「天下統一・復刻版」(名前からしてずばりそのまんまですね)とかです。その他にもコーエーとか、アートディンクなどが出していますね。結構食指をそそられるものが多いです。

これらは、すべてが当時のまま(「天下統一・復刻版」等)か、システム・グラフィック・サウンドなどを若干手直し・・・というかアレンジ(「ソーサリアン・オリジナル」)されたものです。正直なところ、復刻されるのは過去の名作ばかりですから、やってみると非常に面白いです。最近のゲームを放り出して、しばし熱中してしまいます。

だけど、ちょっと考えてみると、これって結構やばいのかなあ、なんて思います。結局、今のゲームに昔のゲームを越える魅力がない、ということにもなりかねませんからね。復刻版って、あくまでノスタルジックに浸れる、という程度の存在であって欲しい、という気がします。昔のゲームなんか足元にも及ばないような、素晴らしいゲームがガンガン発売されて欲しいものです。

さぁて、次はどの復刻版買おうかな?(^−^; おそらくは、「THE ATLAS」か、3月にでる「ティル・ナ・ノーグ」になると思いますけど。後者はもともと即買いのつもりでしたし、前者は最近PS2で「Neo ATLAS3」をやっていたら、「軽いATLAS」がやりたくなってしまった(^−^; ので。

しかし、さすがに日本ファルコムにはちょっと引きますね。最近発売しているものは、ほとんど復刻・・・。確かに、昔はいいゲーム作ってましたが、泉は「英雄伝説」以来、どうも好きになれないのですが・・・(^−^;


2001/01/07 新春の挨拶に代えて。 毒舌度・・・10%

大変遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。今年も精一杯毒を吐いていきたいと思いますので、ご支援の程宜しくお願い申し上げます。

さて、以前より泉はここで最近のゲーム業界全体の風潮を批判してきました。所謂「映画化」、ゲームがゲームでなくなりかけているのではないか、と。ここで言ってもどうなるものではないですが、それでも言わずにはおれないです。同様に考えている方もおそらく多いのではないかと思います。

改めて一言。「ゲームつきデジタルムービー」はもう勘弁してください。

最近、ドイツ製の非電源系ゲーム、つまりボードゲームやカードゲームを遊ぶ機会がかなり増えました。

もともとのきっかけはM:tGのミニコミ誌「WIZZ」で知った「カタンの開拓者」でした。早速トライソフトで手に入れ、みんなで遊んだところ、非常に面白く、何度も何度も繰り返して楽しみました。

泉は昔、エポックやHobby Japanなどから発売されていた、ボードゲームを遊んだ経験があります。それらは確かに面白かったものの、ルールが比較的複雑で、またプレイするのにも多くの時間を必要とし、なかなか手軽に遊べるというものではありませんでした。ですが、「カタンの開拓者」は違いました。お手軽に楽しめ、しかしそれでいて戦略性があり、正直なところ、カルチャーショックを受けました。「日本ではすでに絶滅してしまったボードゲームが、ドイツには生きている」と。

その後しばらくして、人を伝って「ノイエ」というボードゲーム情報誌を入手しました。それを読んで、ドイツのボードゲーム事情を知り、感動するとともに、非常に羨ましく感じました。すぐさま通信販売を通じて数々のボードゲームを購入し、友人たちと遊びました。そして、そのほとんどは満足するに足る出来のゲームでした。それは今に至るまで続いており、「秋葉原に行ったにも関わらず買ってきたのはボードゲームばかり」ということすらあるほどです。

これらのドイツ製ボードゲーム・カードゲームは、前述したような泉の忌む日本の電源系ゲーム、所謂「ゲームつきデジタルムービー」とは対極にあります。確かに化粧箱や盤、コマの造型等、ビジュアル的な要素も全くないわけではありませんが、それはあくまで一要素、決して本質ではありません。本質はあくまでゲームデザイナーが頭を捻って創り出した、ゲームシステムそのものです。泉は、だからこそドイツ製のボードゲームを絶賛するのです。プレイヤーたちはそのシステムに真っ向から対峙し、それを理解して勝利への道を模索します。この過程がゲームそのものの攻略に他なりません。

しつこいようですが、ゲームはあくまでゲームです。遊んでいて面白くなければ、高い評価は与えられないはずなのです。その「面白さ」をどう評価するか、というのはまた個々人の問題となりますが、少なくとも「ムービーがすごい」=「ゲームが面白い」というのは成り立たない、と泉は思います。ドイツ製ゲームは遊んでいて楽しいものでした。「ゲームつきデジタルムービー」は、優れた技術によって作られた演出にこそ感心したものの、そのシステムは非常に脆弱でつまらないものでした(少なくとも、泉が遊んだことのあるものは)。泉にとってゲームとしてどちらが優れていると感じたかは、今更書く必要もありません。

「ゲームシステム>表現・演出」。この公式は絶対に崩したくないところです。今年こそはそういうゲームたちが脚光を浴びて欲しいと思います。決して、日本の電源系ゲームにそういうものが存在しないわけではないのですから。

2001年、今年は日本のゲームに期待したいところです。


2000/12/07 失言はどっちだよ? マスコミの無責任発言 毒舌度・・・85%

先日、第二次森内閣が発足しました。その途端、某大臣の発言を捕らえた「失言騒ぎ」です。

おっと、ちょっと待ってください。今回、泉はその失言とやらについて云々言いたいわけじゃないんですよ。文句が言いたいのは、その騒動の尻馬に載って馬鹿騒ぎしている愚かなマスコミのほうです。予想通りといいますか、マスコミはこの話に早速飛びついてます。「失言だ。さすがは森内閣」と言わんばかりの論調です。・・・相変わらずですね。いい加減飽きませんかね(w 大体、今回の件のどこが「失言」なんでしょうか? 少なくとも泉にはそうは解釈できないです。

そもそも、今回の騒ぎは官房長官が勝手な自己規制を発したことにあります。当大臣の発言の趣旨は考えもせず、ただ言葉尻のみを捕らえて、「被害者の神経を逆なでする『恐れがある』」とのたもうていました。『恐れがある』!? 実際にそういうことになったわけでもないのに、いきなり自分で勝手にそう解釈して、そう発表して、マスコミに格好の餌を提供してしまったわけです。

まあ、それはさておき、「発言の趣旨を考えていない」のが一番の問題でしょうね。問題になっているくだりの前後や発言全体の意味を考えれば、「いじめを容認することにつながる『恐れがある』」などという馬鹿な解釈がどうやって生まれてくるでしょうか? 文章を読み取る能力はゼロなのですか? 大切なのは、主旨です。何を言いたいのか、です。その部分を無視して軽挙妄動するとは、何とも愚かしい話です。

今回、新官房長官には失望しました。器の小ささと頭の悪さを同時に露呈した、と泉は捕らえます。

そして、真に恐ろしいのは、一端騒ぎになってしまうと、その部分だけが強調され、他の部分(特に今回は発言者の意志)は全く無関係になってしまい、ひたすら「失言、失言、失言だ!」の嵐になってしまうことです。マスコミがそうなれば、その部分しか知らされない視聴者側も当然そうなります。またも「失言、失言、失言だ!」の嵐。・・・いい加減にしてください。

ある意味、マスコミというのは無責任です。大衆を煽る記事を散々書いておいて、情勢が変わればコロッと掌を返す。読者のほうは普通昔に掲載された記事なんて覚えていることはほとんどないから、マスコミが掌を返したことに気づかない。そして、その記事にまた煽られてそうだそうだと騒ぎ立てる。・・・完全にマスコミの掌の上で遊ばされてますね。大体、人の言葉尻を捕らえて「失言、失言」と喜んでいるマスコミさん、掌を返す前の論調はそれこそ「失言」じゃないんですか? 他者に対しては強く発言に責任を求めるくせに、自分の発言に対しては責任をとろうとしない・・・というか責任の所在を見せないようにしているんですね。昔から思っていたことですが、最近は特に呆れざるを得ません。

以下、論点は少々ずれます。発言そのものに関する私見になります。

泉は、「いじめはなくならない」というのは事実だと思います。寧ろ、いじめをそう簡単になくせる問題と捕らえるほうがお門違いというもの。いじめというのは人間の深層心理に関わる問題です。以下、少し強調しておきます。

人間は弱いです。中には(素晴らしいことに)そうでない人もいますが、大抵の人は周りに気を使い、びくびくしながら生きているものです。そして同時に、ほとんどの人は、それを他人は悟られないように、見られないようにしたいと思っています。

人から「弱い」と思われないためにはどうすればよいか? そう、「強さ」を誇示すればいいのです。

では、「強さ」を誇示するためにはどうすればよいか? 実際に強くなれればそれでいいのですが、それはそう簡単にできることではありません。しかし、もっと簡単な方法が存在します。そう、強く「見せれ」ばいいのです。ここで、弱者が必要とされます。

自分より「弱い」もの、自分より「劣る」もの。この存在があれば、それとの比較によって、自らを相対的に強く見せることが出来ます。だから、人は強くありたい(見せたい)がために自分より弱いものを探し、それをあげつらい、攻撃してしまうのです。

これが、いじめの構造です。勿論、差別にも通じる部分ですね、これは。これはあくまで一個人の精神内の作用ですが、これが拡大し、組織化し、社会化し・・・という風になっていくわけです。学校でのいじめ、という表面化している問題は、まさに氷山の一角に過ぎないのです。社会的ないじめや差別は、それ以外の場所にもゴロゴロ転がっています。・・・それは皆さんの身の回りを見ても、おわかりでしょう?

だから、「うちの学校にはいじめはありません」とか「気づきませんでした」などという愚かな発言を繰り返す学校関係者は、即刻考えを改めるか、それができなければ教育者を辞めていただきたいです。いじめがあることに気づかなかったら教育者失格ですし、気づいていないふりをしているのなら人間失格です。

だから、いじめはなくならない。だけど、あってはいけない。そして、なくす努力はしていかなくてはならない。このパラドックスを踏まえたうえでの、今回の大臣の発言だったと泉は解釈します。というか、そういう解釈しか出来ません。・・・こんなつまらない騒動に巻き込まれて、そもそもする必要のないはずの「弁明」とも言えるような文章を公表せざるを得なくなった大臣のほうにこそ同情しますね(^−^;

せこい発想しか出来ない器の小さな政治家、その揚げ足を取って喜ぶマスコミ、両方とも、いい加減にしませんか?

・・・最後に一言。先に言っておきますが、「地元の大臣だからかばってるんだろう」という下衆の勘繰りは勘弁してくださいね。そんなつもりは毛頭ありません。物事を真っ直ぐに考えず、そういう方面からしか見れない下衆が必ずいるので、先に釘をば。


2000/09/18 ・・・あれは新競技ですか? 毒舌度・・・70%

先日、食事ついでにオリンピックの柔道を見ていたんですが、オリンピックの柔道は見られたものではないですね。あれはすでに柔道と呼べるものではないです。特に、男子の試合はひどかったです。泉は一応これでも有段者なので、見ていて不満が大爆発し、今回の更新と相成りました。兎に角、不満だけ並べてあります。

まず、そもそも組んでいない。別に組み手争いをしてるわけではないのに。相手を押しこくって場外注意を狙ったりしてますし・・・(相撲かいな)。両方とも頭を下げた酷い姿勢で、背中越しに帯を掴んだりしています。何ですかあれ? 柔道の組み手のつもりですか? 「柔道はちゃんと組んでから始まるもの」と言いたいわけではありません(当然、自分の有利な組み手を争いますので)が、あまりに酷いと思います。あれじゃ柔道じゃなくて、レスリングだと思うんですけど・・・。ルールとして、「柔道をしているように見えない体勢をとりつづけること」を反則扱いにしたほうがいいんじゃないかな、なんてすら思います。そして、狙う技はそこから力任せの肩車、すくい投げ・・・。どこが「柔」ですかな? これもかなり呆れました。今日見ていた海外の男性選手はほとんどこのタイプで、かなり興ざめです。ルール的にもう一つ気になったのは、片襟、片袖を平気でずっと持ってるのに、それを反則にとろうしない審判。資格ほんとにもっているのか疑わしいです。

続いて、技のかけ逃げが多い。これも見ていてかなり興ざめします。「かけ逃げ」というのは、審判に「攻め気がない」と思わせないために、いかにも全力で技をかけている振りをして、判定に対して好印象を与えようとしたり、優勢な時に時間を稼ごうとする行為のことです。口で説明するのは結構難しいんですが、見ているとよくわかります。やたら強引に背負い投げにいって失敗し、そのまま相手が立ち上がって「待て」がかかるまで、じっと縮こまってる選手、覚えがないですか? あんな感じです。で、かけ逃げされている相手がなかなか技が出せないでいると、そちら側に反則がつく。・・・なんですかこれは??? 投げる気もないのに技の真似してると判定で勝てるんですか? 実際、そういう試合が数多くありました。これって、柔道の根幹に関わる重要な問題だと思いますよ。早く何とかしないと、「作戦勝ち」ばかりが横行・・・してますね、既に。これ、審判が見る目を養わないと話になりません。

そして、寝技がない。いつから柔道は立ち技だけになったんでしょう? 全く寝技がありません。寝技のうまい人の動きは、本当にすごいです。瞬く間に決まる、締め技、関節技。力任せでそういう技術を学んでいない選手は、自分が優勢でも相手が倒れるとすぐに立ち上がってしまう。実際、寝技は難しいんですよね。泉も下手でしたし(^−^; しかし、寝技は純然として柔道の中に存在するものです。ならば、寝技を全くしない、というのは問題があると思います。勿論、選手の得手不得手の問題とは全く別次元の話です。

審判の「待て」が早すぎ。前述の「寝技がない」にも少し関わりますね。ちょっともつれるとすぐ「待て」がかかってしまうので、寝技に移行する暇がない、という意味で。何であんなに早くとめてしまうんでしょう? こうなると、もつれてからの攻防もへったくれもありません。不利になった側が相手の隙を見てちょっと挽回の機会をうかがっていると、「待て」。なんか違うような気がしませんか? だから、力任せの技術無しが通用するようになってしまってます。縁がないとは思えません。

外野にマナーがなさすぎ。特に海外の指導者系の人。後ろでギャーギャーギャーギャー騒ぐんじゃない! しかも、審判に向かって偉そうに「教育的指導をとれ」なんてゼスチャーまでして。柔道してるのは、あなたたちではないんですよ? これは、次項にもかかる部分ですが。

「道」がどこにも感じられない。勝ってはしゃいで、柔道着まで脱ぐ馬鹿がどこにいる!? そりゃあ嬉しいでしょう、決勝で勝てば。それはわかりますよ。でも、日本ではそんなことは許されないです。古臭い話ではありますが、「礼に始まり礼に終わる」というのが、良くも悪しくも柔道の本来の姿。柔道の何たるかを無視して馬鹿みたいにはしゃいだりするのならば、その人は柔道家としてすでに欠格者です。さっさと柔道から足を洗ってください。大体、試合前の礼や、試合後の礼などがいい加減な選手が多すぎます。礼をしない選手は反則負けで十分。

それもこれも、柔道が正しい過程を踏まずに国際化してしまったからでしょうね。普及させるために、そしてオリンピックの種目に祭り上げるために、海外に対してわかりづらい部分をどんどん妥協し、競技性のみを普及していった結果が、このザマです。柔道を柔道として伝播せず、Judoという別の、単なる一競技として広めてしまったがためにこういうことになってしまいました。

最後に一応断っておくと、泉は海外の選手を否定しているわけではないですよ。ちゃんと礼をし、ちゃんと組み合って正々堂々と闘い、そして礼で終わるような選手だって、ちゃんといます。少ないですが。

あんな程度の試合ならば、正直なところ、高校生辺りの試合の方が遥かに面白いですよ。TV辺りでは滅多に見れるものでもないですけど(^−^;


2000/07/26 法の原点に帰るとき? 毒舌度・・・??%

さて、選挙も終わり、少し別のことを考えてみました。4/17の「犯罪者と人権」にも通じることなりますかね?

ええと、今日、「薬害エイズ問題」に関する裁判で、安部被告に禁固3年が求刑されました。泉は、正直言って、これをニュースで見たとき、目が点になりました。

「なんでたった3年なの?」

いや、ほんとにびっくりしました。まさか3年なんて軽い刑になるとは思ってもいませんでしたから・・・。

誤解を恐れずに言い切ってしまえば、この人は立派な殺人者ですよ。この人が下した(しかも、周囲の反対を押し切って)決断の結果、数々の人が死んでいるわけで、これを殺人ではない、と言ったら、過去の数々の独裁者だって、殺人者と言えなくなってしまいます。この軽い求刑、非常に問題があると思ってます。

刑罰は、人が恐れなくないほどの弱さでは、意味が薄れます。犯罪者に対する罰、という意味でも効果は低いものになりますし、「将来起こりかねない犯罪への抑止力」という意味では、まったく効力がなくなってしまいます。

下世話な例ですが、5億円の利益(・・・変な表現ですね)が上がる犯罪があったとします。捕まる確率は五分五分。これだけだって、手を出す人はいるでしょう。50%の確率でまるまる5億円手に入るわけですから。で、捕まった時に失うのが、2億だけだったらどうなります? おそらく、犯罪が激増しますね。だって、五分五分の確率で5億丸儲け、捕まっても3億の儲け。こういう打算が成り立ってしまったら、後は良心が決壊するか否かの問題だけです。では、逆に捕まったら10億失う、となったらどうでしょう。まあ、この場合とて5億狙いで手を出す輩が出ることは避けられないでしょうが(いつの世も、そういう人はいます・・・)、前述の打算のような打算に基づいて手を出す人は、大きく減るでしょうね。簡単に言ってしまえば、「割が合わない」ですから。つまり、この場合、刑罰が重いことが犯罪を減らしているわけです。まあ、決してスマートな犯罪対策とはいえませんが、それでも犯罪が増えるよりはましです。

まあ、こんな馬鹿な例が今の世の中に成り立っているというわけではありませんが、数々の判決を見ていると、近いものを感じることがあります。冒頭の例でいえば、「自分が利益を得るために、人を殺す薬を世に出回らせても、わずか3年の禁固」ということです。しかも、無実を主張。信じられない世界の話ですね。また、泉が「少年法は改正すべき」と思っているのは、自分たちが決して死刑にならないことを知った上で悪辣な行為を繰り返す少年たちが実際に存在するからです。上で述べた、「打算的犯罪」そのものですね。これは、許せるものではないです。

思えば、今こそ、ハムラビ法典の精神に立ち返るときなのかもしれません。目には目を、歯には歯を。・・・いや、目には目と歯を。目と歯には目と歯と耳を。他人に与えた損失には、それを上回る罰を与えるべきです。そもそも、将来有る人間の命を複数奪っておいて、自分一人の命で償おうとしたって、全然足りないんですよ。こんなの単純な計算じゃないですか。なのに、なんで死刑にすらならないんでしょうか? 少なくとも、古代のほうが、刑罰と言う点に関しては、まだしも公平だったような気がします。

・・・もっとも、今の日本の司法界に、それを求められるほどの気骨が残っているとも思えないのが現実ですが・・・。


2000/06/18 選挙を控えて。毒舌度・・・??%

言いたいことが山のようにたまっているこのごろですが、こればかりはこの時期を逃すわけには行きません。選挙です。

6/25、投票日ですね。皆さんは投票に行きますか? 泉は当日選挙事務に携わらなければならないため、月曜日あたりに不在者投票をするつもりです。一応、今まで投票を欠かしたことはないです。これが唯一の政治への参加方法ですからね。行かない、ということは政治へ参加する権利を放棄したことになりますので。

でも、「投票なんか行かない」と感じるの人の気持ちだって、わかります。上に書いたこと、明らかにただの原則論です。実際には、その参加意思が即政治に反映するわけではないです。泉の場合、幸いにして投票するに値する(と固く信じている)候補者がいますので問題はないですが、そういう人がいるわけではない多くの人の場合、投票に行くつもりが起きないのも無理はないですよね。でも、できれば、原則論を信じて、投票に行ってみてください。

しかし、比例代表選挙って、さすがの泉も投票する気がなかなか起きないです。そもそも、泉は党利・党略に対して投票しているつもりはさらさらありません。理念を体現化しようとしている「人」に投票したいんですよね。人は理想の為には動かない、理想を実現しようとしている人のために動く、ということを、昔本で読みました。まさしくそのとおりだと思います。泉にも嫌いな党がありますが、その党に属している人全員が嫌いなわけではありません。「党」という括り方だけで考えていくと、全くおかしな話になります。比例代表選挙は早晩廃止してもらいたいですね。あれって、ある意味、党の偉い人が安全圏を造るためにやっているとしか思えない節も大いにありますから。全然民意が反映してないと思いますし。

さて、若干話題はずれます。よく、「政治家の腐敗」ということは問題にされますが、「有権者の腐敗」は全く問題になることはありませんね。泉としては、ある意味こちらの方が深刻なのではないか、と思っています。実際、我が桐生市でも、恥ずかしい話をよく耳にします。

例えば、候補者の取り巻き。比較的大きな企業をもってる人なんか、かなりひどいことやってます。例えば、「対立候補を応援したら、そこには仕事を回さない」とか。信じられないですね・・・。まともな神経を持つ人間のやることとは思えません。その企業主が、ある候補を応援するのは別に問題はないですが、従業員や子会社等にまでそれを強制するのは考え物ですし、対立候補を推したら制裁を加える・・・というに至っては、分別のある(はずですが・・・)大人のやることとは思えませんね。馬鹿(敢えてこう言い切ります)丸出しです。

こういうことって、田舎だから顕著なんでしょうね。全く、情けない限りです。比較的人と人との繋がりが薄い(別に悪い意味ではなく)都会では、こうまであからさまなことは起きないでしょうね。泉は田舎が、そして桐生が好きですが、こういう部分を見せ付けられると、とても嫌な気分になります。というか、反吐が出ます。本気で。

もう一つ情けない話。ここのところ、泉在住の桐生市では、選挙があるたびに不快な出来事が起きます。ある候補者を攻撃するために、事実を歪めて、「ビラ」という形で郵便受けに放り込む。泉も見たことがありますが、その内容たるや、本当にひどいものです。・・・これって、人間として最低級の行為だと思いませんか? はっきり言ってしまえば、名誉毀損ですよ。自分の掲げる政策で勝負することをせず、対立候補を貶める形で自分の票を稼ぐ。何とも情けない話ですね。

ところが、こんな低俗なやり方でも、残念ながら効果が上がってしまうのが選挙の実際なんですね。ビラを見て、「ああ、こいつはこんなひどいことしてるんだな」と疑うこともせず鵜呑みにしてしまい、その候補者の対立候補に投票してしまう有権者が多いことも、また事実なんです。こんな理由に基づいた投票なら、しないほうが遥かにましというものです。我々としては、有権者としての質を向上させ、低俗な人間の策に踊らされないよう、気をつけなければいけないな、と思います。

もう一度。大きなお世話かもしれませんが、皆さん、くれぐれもくだらない「選挙妨害者」に騙されないでください。氾濫する情報をしっかりと見極め、自分の頭で判断しましょう。

ちなみに、上で書いたようなことを、やってはならないような立場にいるような人が指図してたりします。まったく、なに考えてるんでしょうかね?


2000/04/17 犯罪者と人権。毒舌度・・・65%

どうやらさりげなく好評らしい(^−^; このコンテンツ、久々に更新です。

さて、テーマがいきなり重苦しいのですが、これはいろいろな事件の判決を聞くたび、泉が感じてることです。

「犯罪者に人権はあるのか?」。結論から言うと、泉は「ある」という考え方です。ただし、「無制限にではなく」という付帯要件付きです。これは当然だと思ってます。どうしてもこの手の問題を論じる時、結論レベルとしては「ある」「ない」という二極に傾きがちな感じがするんです。

凶悪な犯罪を犯したのに反省していないような犯罪者がいたとして、「彼には人権がある。更正させればいいのだ」なんて、泉にはとても言えません。

何よりもまず、更正できる保証がない。理想を言えば人は皆更正可能かもしれません。しかし、理想だけで動いているほど、世の中は甘くないです。実際、刑期を終えて出てきた途端、またも犯罪を犯して刑務所に逆戻り・・・というケースだって決して少なくありません。そんな時、「彼には人権があるから死刑にはしません。彼を更正させます」といって涙を飲まされた被害者側はどんな思いでしょう? また同じような目に会った被害者が増えるんですよ。「無制限の人権」を振りかざして犯罪者を救ったために、倍する人が不幸になるかもしれないんです。その辺りをどう考えているか、闇雲に「犯罪者の人権」を訴える人に聞いてみたいものです。

実際、日本の法は犯罪者に対してよく言えば寛大、率直に言わせてもらえば甘いです。古来より、刑罰というのは犯罪に対する罰則であると同時に、将来起こりかねない犯罪に対する抑止力として、定められてきています。「悪いことをすれば、叩かれる」。子供の躾の第一歩です。理を語っても子供は理解できません。だから、痛みを与えるのです。「悪いことをする」と「叩かれる」、「痛いのは嫌だから、叩かれたくない」、「だから、悪いことはしない」というわけです。これは、皆さんも経験があることでしょう。泉にも、勿論あります。

そういった抑止力の部分が、「無制限の人権」論によって、少しずつ少しずつ牙を抜かれてきているような気がするのは、泉の杞憂でしょうか? 実際、最近の犯罪は凶悪化、そして不可解化が進んできています。大した理由もなく人を殺す。昔はそうそうあったことではありません。世間がどんどん移り変わってきているというのに、法の本質は古いまま。これで裁こうということそのものに、そもそも無理があるのだと思います。法とは常に変えていかねばならないものです。

低年齢化が進む凶悪犯罪を論じる際、「少年法を変えるべきではない。それは、法の遡及適用へつながりかねない」ということを言う人がいますが、これこそ法の形骸化への道そのものです。現状に合わせて法を変えずして、何の法でしょう? 現状に合っていない法をもって無理矢理こじつけて裁くものだから、どうしても不自然な感じが拭いきれなくなります。ひいては法は信頼を失い、全く意味をなさないものになってしまうかもしれないのです。そうなる前に、そう、今こそ、手を打つべきときなのだと思います。

刑法、そして特に少年法は、明らかに見直すべきときに来ている、犯罪者の人権は、ある一定の条件下において、これを認める。偉そうな物言いですが、これが泉の結論です。

ちなみに、「無期懲役」というものに対しても、泉は懐疑的です。無期だからといって必ずしも死ぬまで入っているわけではありません。まあ、更正して服役態度優秀、ということであるならば兎も角、「恩赦」なんて胡散臭いものまであります。これが適用されて、「運悪く」更正前に世間に舞い戻ってくる犯罪者たち。そして、繰り返される犯罪。・・・これって、誰も幸せにはならないと思います。

・・・一気に書いたら疲れました。今日はとりあえず、ここまでということで。言いたいことは言えたと思います。


2000/01/06 年賀状を捨てた高校生。毒舌度・・・75%

新年早々、信じられないようなニュースですね。福井の郵便局で配達のアルバイトをしていた高校生が、「配達が嫌になった」と1,800通余りの年賀状を捨てていたそうです。

馬鹿もいい加減にしろ。です。自分の物を捨てるわけじゃないんですよ。人様が人様に、心をこめて(虚礼的なものも相当量あるだろうけど(^−^;;;)書いた年賀状です。なんで簡単に捨てることが出来るんですかね? おそらくは自分のことしか考えてないんでしょうね。全くもって信じられません。そもそも、嫌になるくらいなら最初から配達のアルバイトなんか始めるべきではないですね。この件によって被害を被った方は本当に不幸だな、と思います。

とりあえずは書類送検だそうですが、個人的には軽く済ませたくない感じの事件ですね。被害額がどうの・・・という物質的な責任問題だけではなく、徹底的に精神的なカウンセリングでもしたらどうかと思います、本当に。こういうのがそのまま大人になっても、絶対いいこと有りません。

・・・最近は、ニュースサイトを巡回しているせいか、ちっぽけながらも許せないニュースを拾えるようになった気がします(^−^;


2000/01/04 シェンムー70億。毒舌度・・・70%

ええと、シェンムーというゲームがあります。ご存知ですよね。そのCMを見ていたら、70億という数字が踊ってました。

・・・開発費ですか。思いっきり「引きました」。正直なところ、何考えてるの? という感じです。もともと泉は映画等でも何でも開発費をアピールするのは共感できません。だって、お金がかかってるからといって、出来がいいとは限らないじゃないですか。むしろ出来が悪ければ、「こんなにかけてもこの程度か」ということで、嘲笑の対象にしかなりません。そういう意味を含めても、開発費なんかをアピールするのはどうかと思います。他にもっとアピールするべきものがあると思うんですがね。

まあ、何でもシェンムーの70億にはリストラの費用等も含まれている、なんてあんまり良くない噂も聞いています。そうだとすると、退職金、失業保険・・・いろいろかかってそうですねえ(^−^;

一応、ゲーム内容についてはあれこれと噂を聞いていますが、泉は未プレイなので論評は差し控えます。食指が全く動かなかった、というのは事実です。皆さん、シェンムーは面白かったですか???

・・・まあいいさ、泉のDCはキャリバー専用機で(www


2000/01/01 新春の挨拶に代えて、最近のゲーム。毒舌度・・・30%

ゲームでの表現力というのは、日に日に高まっています。CG技術は既知の通り格段の進歩を遂げていますし、音だって一昔前とは比べ物にならないです。昔からゲームを眺めてきている(つもりの)泉は、技術の進歩という奴を本当に強く感じています。

ところで最近、ゲームというよりデジタルムービーというほうがふさわしいような代物が増えているような気がします。以前ちょっと耳にはさんだのですが、「いずれゲームは映画を超える」とかいう発言がありました。これを皆さんは、どう思いますか?

泉は、頼もしい話だな、と思うと同時に、すごく危険を感じています。ゲームとして映画を超えるのなら素晴らしい事です。泉もそれを望みます。でも、とてもゲームとはいえないような代物として映画を超えたのでは、全く意味がありません。むしろ、ただ単にゲームが映画に取り込まれてしまった、というだけの話です。ゲームを心から愛する泉としては、そうなって欲しくはないのです。

ムービーがすごい。音がすごい。大変結構な事です。ただ、それはあくまでゲームの本質ではありません。演出であり、いわば刺し身のツマです。確かに演出面というのは、各種メディア等でもはっきりと伝えやすい部分であり、メーカとしてもアピールする必要はあるでしょう。ただ、そればかりに力が入り、肝心のゲーム内容がお粗末、というのでは本末転倒です。笑い話になりません。内容が薄いゲームが売れ、業界をリードするようになり、どこもかしこもそれにならう、などという結果になったら最悪です。

昔のゲームは演出面で他のメディアと勝負する事はできませんでした。映画と比べる事など、その頃は誰も考えたなかったでしょう。だからこそ、過去に名作といわれたものはゲームの本質部分、例えば核となるゲームシステムが非常によく練られていたのです。現状で、演出に伴って本質が進歩している、とは全く思っていません。むしろ、退化している印象すら受けます。泉が勘違いしてほしくないのは、「ゲームはあくまでゲーム」なのだということです。もし、このことが忘れられた時、ゲーム業界は存在価値を失うでしょう。

そんな日がこない事を、心から祈っています。


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