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<小代(岱)焼の歴史>
 古くは、朝鮮唐津と混同されて、茶人の間でもてはやされた小代焼は、竜原焼(りゅうのはらやき)とも呼ばれていた。寛永九年(1632)加藤氏改易のあと、豊前小倉城主細川忠利が肥後五十四万石の大守として入国のとき、豊前上野の牝小路(ひんこうじ)から玉名郡小岱山の北東麓、南関手永宮尾村(現玉名郡南関町宮尾)に移り住んだ陶工源七(牝小路家初代)と上野の加津羅木山から同所に移った八左衛門(葛城家初代)に寄って始められたとされている。
 しかし、近年の調査によると、松屋会記に寛永二年に肥後焼水指、茶碗の記録があり、一方高取の古文書によれば慶長十九年(1614)に、小代葦登新九郎なるものが招かれて、高取八山のもとに移り、製陶に従事している。この葦登新九郎なる人物は高取八山の妻の父、つまり岳父である。これまで小代焼は、寛永九年細川氏の肥後入国と共に、南関の龍ノ原に開窯したとされているが、もともと龍ノ原地区には粘土層がなく、他国からきた陶工がいきなり粘土層もないところに開窯する訳がない。したがってこの地区には粘土層はないが、それまでに窯が開かれ、粘土はいずれかより運んでいたとみるべきである。
 小代焼は、茶器のほか日用雑器・火鉢・植木鉢・花生などを焼いた。胎土は花崗岩の砂混じりの粘土を用いたので、薄手のものはほとんどない。釉薬には藁灰・木灰・笹灰をおもに用いて、地釉の上に、灰白色や灰青色の灰釉を掛けた。そのために製品は、灰白色・暗灰色・暗青色・褐色・黒褐色を呈するものがあり、八代焼の初期や朝鮮唐津に類似する。(伝統工芸館資料より)
小代焼は明治維新のため藩の保護が絶え廃窯しましたが、昭和6年(1931)近重治太郎が熊本市健軍町に築窯復興しました。また、昭和21年(1946)に有田の陶工城島平次郎が小岱焼の復興を志し、荒尾市大島に築窯しました。
 現在は荒尾市に6窯元、隣町の南関町と長洲町にそれぞれ1窯元、熊本市に1窯元あり、それぞれに伝統を受け継いだ小代(岱)焼を制作されています。
 また、小代の"代"は小代氏の名前から、小岱焼の"岱"は復興させた城島氏が小岱山の一字を使われたそうです。 (自己調査)

<小代焼 太郎窯>
熊本県西北部の荒尾市にある小代焼太郎窯は、やきものを愛する窯元をはじめ夫人,娘,息子の4人による壷,花器,非常に使いやすい食器,個性的な作品が生まれるところです。
こだわりとして、すべての作業行程を手仕事でおこなっています。

<窯の特徴>
 窯は大口と3つの間からなる登り窯で、燃料となる薪には主に松を使用します。松は油分を多く含み火力が強いため薪に最適です。灯油や重油を一切使用せずに解体された家の廃材などを利用しています。本焼きは、40〜50時間行われ、窯の内部は1,300℃近くまでなり10秒と凝視できないほどの明るさになります。

窯たき(大口)の炎   海と空
<作品>
 作品は、鉄分を多く含みきめを細かくした、小代の土から作られます。釉薬はこだわりとして自然の草、木灰を使用します。作品の主な色はわら灰の流し薬を掛けることにより太郎窯のオリジナルである「茶」、「黒」、「白」、「青」になります。その中でも「青」は、特別な原料を添加する窯元が発見された調合法により作られ、確かに他には見られない鮮やかで深い青色となります。また、焼成に薪を100%使用しているため、その灰が飛散し作品に降り、灰釉となり(灰被り)自然なアクセントになっている作品も飽きることがありません。  ここにいくつかの写真を示しましたが、写真の状態,スキャナの特性により、本当の色が表現出来ませんでした。

 お近くの方は、是非一度実物を見に太郎窯まで足を運んで下さい。