丹波 亀山城

いざ、聖地巡礼の旅へ!


こんにちは、のぼです。
前回、近江水口城を紹介したときに、城跡の保存と活用について思いを巡らせたことがありました。
加賀の金沢城のように、学校が移転してくれたおかげで城郭が立派に復元された例もあれば、
近江安土城のように、調査・整備が進められた結果、立ち入り禁止のエリアが広がったり、城跡への
立ち入りが有料化されたりする例もあります。
さて、今回ご紹介する城跡は、なんと宗教法人の聖地となってしまったことで有名な丹波亀山城です。
丹波亀山城といえば、明智光秀の・・・そうです。天正十年、ここから出陣した明智光秀は本能寺へ・・・
おなじみ戦国モノのハイライトシーンですね。今回は、その亀山城なのです。





亀山城
明智光秀の丹波攻略の拠点として、天正5年(1577)から築き始めたという。明智以前にも城郭が
あったらしいのですが、現在残る亀山城の基本プランは明智氏時代のもののようです。当時明智氏は
近江坂本を本拠としており、亀山から丹波に入り、勢力伸長に従い亀山の北に周山城、宇津城などを
築いて地域を制圧していったわけですが、亀山城はそれらの丹波諸城の本陣的な役割であったと
考えられます。明智氏滅亡後は羽柴秀吉の支配下となり、羽柴秀勝(織田信長の子、秀吉の養子)、
豊臣秀勝(豊臣秀次の弟、こっちも秀吉の養子)、羽柴秀俊(後の小早川秀秋、やっぱり秀吉の養子)
と、豊臣家一門の居城となります。その後は前田玄以・茂勝が入り関ヶ原を迎えますが、豊臣時代の
亀山は豊臣家直轄のような位置づけです。徳川時代に入ってもしばらくは城代が置かれるだけでした
が、慶長14年に岡部長盛が亀山に封ぜられ、城は天下普請で大改修されます。これは前年の丹波
篠山城に続く、大坂包囲を意識した築城であると考えられています。古写真に残る層塔式天守はこの
ころのものでしょうか。豊臣家滅亡後も譜代大名が相次いで藩主となり、明治維新後に建物は取り壊さ
れます。その後は放置されていたようなのですが、大正時代に出口王仁三郎が城跡を買い取り、現在は
大本教の聖地となっています。







では、出発しましょう!


京都駅で山陰本線に乗り換えて、JR亀岡駅に到着しました。
今回も例によって駅前の風景からスタートしましょう。

JR亀岡駅

駅が無い・・・
どうやら立て替え工事中のようです。
数年後には、きっと城下町の表玄関にふさわしい立派な駅が・・・できるのかな?





石碑を発見

さっそく出てきました。
駅を出てすぐに水堀が見えはじめ、もう城跡を示す石碑が。
それにしても明智光秀ゆかりの地では、たいてい光秀の人気は高いですね。
坂本には像が建っているし、福知山では神社の祭神になっています
丹波地方の人からすれば、光秀は侵略者のはずなんですが、それだけ明智光秀の
治世が良かったということなんでしょうか。
それとも単なる町おこしのネタ・・・・
ちなみに亀岡では毎年、光秀まつりというコスプ・・・いや武者行列が行われています。





鯱のモニュメント

城跡っぽいじゃないですか。
前述の通り、現在城郭の主要部は大本教の管理地となっています。
だけど、地元の人は決して城を忘れたわけではないのです。
けっこう観光に力を入れてるかも知れない、という淡い期待が沸き上がってきます。
光秀まんじゅうとか、信長打倒と銘の入った模擬刀とか売ってたりするんだろうか?





入り口です

う・・・・ここから入るんですかぁ?
なんか、すっごく・・・・う〜ん、抵抗あるなあ。
勇気を振り絞って、入ってみます。





ここまで?

内部は、大きな神社みたいです。
一番奥まで進んでしまうと、突き抜けて市街地へ出てしまいます。
奥の方で右に曲がる道があるのですが、立ち入り禁止の高札が。
う〜ん、間違えたのかな?
もちろん城跡への案内板など無く、聖域内は明智光秀どころじゃない雰囲気です。
建物はいくつかあるのですが、どこの建物の誰に聞けばいいのかわからず、少し戻って
みました。





このあたりに人が

ええっと、これは万祥殿という建物だそうです。
なにやら結婚式場のような名前ですが、一般の神社でいうところの拝殿のようなもので
しょうか。参拝に来ていた人がいました。
ここの受付の人に、


「あの・・・お城・・・」


と、はにかみながら言うと、


「ああ、見学ですね。どうぞ」


と、簡単に通してくれました。
あ、あの、受付とか記帳とかは?
運転免許ないんで、身分証明書無いんですけど・・・
などといろんな事を考えていたのですが、建物の左奥に回って、そこから入って下さい
とのことでした。



なにやらこの建物付近、工事中らしくて作業員の人たちがうろうろしていました。
聖地へ入るというのに、意外なほどノーチェックだったのは、工事中だったため、として
おきましょう。






出ました!

おおっ、城跡!
簡単な門をくぐると、そこはもう紛れもなく城郭の世界。
聖地というくらいだから、きっと===な建物や***な像が建っているに違いない、と
思いこんでいたのですが、これは意外なほど見事な織豊期の石垣です。
五層の層塔式天守がそびえる古写真を見たことがあるので、石垣も二条城のような切石を
積んだものを想定していたのですが、いま見る本丸の石垣は慶長以前のもののようです。





石板が立っています

このあたりは作り替えられていますね。
でも、期待して・・・いや恐れていたほど怪しくないです。
調べてみると、出口王仁三郎(「わにさぶろう」じゃなく、「おにさぶろう」と読むらしい)は
亀岡の出身で、明治の廃城令以後に亀山城跡が荒廃しているのを嘆いて、城跡を買い
取ったそうです。
ここまでは他の土地でも地元の好事家がよくやっていることなのですが、亀山城の場合、
買い取った人が幸か不幸か、実力のある宗教家だったのです。
そして城跡は・・・・聖地に。





上の写真と同じ場所

小さい石がみっちり詰まっている感じのところ
の石垣は近代以降の積み直しでしょうね。
出口王仁三郎が城跡を買い取ったときに、石垣もかなり改修しているそうです。
また、昭和10年(1935)の第二次大本事件と呼ばれる政府の弾圧で教団の施設が
爆破された際にも、城跡は被害を受けているようです。





上の方は積み直し

この上にある天守台跡が月宮宝座と呼ばれる至聖所です。
さすがにそこまでは入れなかったので写真はナシです。
以前は月宮殿という建物が建っていたそうですが、政府から弾圧されたときに爆破された
とのことです。つうか爆破って・・・・城跡とか文化財という意識は全くなかったんですかね。
それにしても天守が一番神聖というあたり、わかりやすいですね。

出口王仁三郎はこの城跡を確かに愛していたようですし、明智光秀に対しても同情的な
考えを持っていたようです。今でこそ光秀は人気者ですが、忠君愛国の時代に光秀が
好きという考えは珍しかったんじゃないでしょうか。
出口王仁三郎という城好きのおかげで、これだけの遺構が残ったのは事実ですが、
それゆえに、ここが城跡として整備される可能性は無くなってしまっているわけです。
痛し痒しというところですか。





城郭の遺構はごく限られた範囲だけでしたが、思ったよりも見ごたえがありました。
もっとワンダーなことになっているかと期待して・・・いやいや恐れていたのですが。

城跡いや聖域から出てくると、万祥殿の受付は誰もいなくなっていたので、心の中で
ありがとう、と感謝してから亀山城をあとにしました。
これが京都市内なら間違いなく拝観料を取られるところです。
ありがとう、大本の人。タダで見せてくれて。
これからも城跡を大事にしてね。





城下の街並み

さあ、これから寄り道だ。
今回は駅の目前に城跡があったんで、寄り道の方があとになります。
城下をぐるっとまわります。





丹山酒造

城下町の面影は、思ったより少ないです。
道割とか、それらしいのですが、建物があまり残っていないですね。
あとクルマが多すぎ・・・
そのうえ、このサイトで取り上げる町にしては人がいっぱい歩いていました。





どこら辺だっけ?

実は今回の旅、「山陰道を歩く」というお題だったのです。
ええっ、そんな!びっくりですね。
というわけで亀岡から京を目指します。
まずは場違いな高層タワーがそびえる馬堀へ。





馬堀城付近

馬堀駅の南側一帯が馬堀城です。
う〜ん、くるしいな。
屈曲した道路と微高地が城跡の名残のようです。
本丸跡は完全に消滅しています・・・





篠村付近

亀山城で時間をかけすぎたので、ガンガン行きます。
馬堀の東、鵜の川を渡ったところに山本城があるのですが、パス。
今日は京都の西大路駅か丹波口駅あたりまで行こうと思っていたのですが、時間が
無くなってきたので阪急の桂駅を目指すことにします。
もっとも、このあたりでは全く関係ないことですが。





篠村八幡宮

とかいいながら篠村八幡宮へ寄り道。
この地名を聞いてピンと来た人は歴史の造詣が深い人ですね。
そう、ここは足利高氏が鎌倉幕府を見限り、後醍醐天皇側につくことを決めたとされる
土地です。その後、六波羅探題を攻め落としたことはご承知の通りです。





割と新しい

で、境内にはこんな石碑が。
これが南朝側の人物なら、戦前に誇大な顕彰をされていたでしょうが、
足利尊氏なんで、最近になってようやくこの程度。
明智光秀、出口王仁三郎、足利尊氏と、どうも亀岡というところは
強権支配に対し反旗を翻したくなる土地みたいですね。
境内には他に旗立て松とか矢塚とかがあります。






山陰道の道標

亀岡側は、こんな風に道標が整備されています。
もっとも、歩いている物好きさんは私しかいませんが・・・・
京都縦貫自動車道を死ぬ思いで渡ってからは、ほとんど道標がありません。
かつての山陰道も、今では縦貫自動車道に取って代わられてしまいました。





老ノ坂

老ノ坂峠は、鬱蒼と暗い・・・
つうか、日が暮れてきたんじゃあ・・・
こんなところで日が暮れてしまったら、文字通りお先真っ暗です。
桂駅までたどり着けるのだろうか?





ひっそりと

石碑を見つけたよ。
ようやく丹波脱出ですね。
それにしても旅情をかき立てるこの石碑、もっといい場所にあれば・・・・
そういや山崎にも同じようなのがありましたが、やっぱり山城国って特別なんでしょうか?
それとも他の国のものを私が見ていないだけ?





酒呑童子の首塚

ここから先、道が分からなくなりました。
小畑川沿いに進んで沓掛の関所跡へ行くはずなのですが、なにやら墓地に
出ました。ほえ〜?いかがわしいホテルがあるかと思えば、高校があったりと、
よくわからない地域ですが、例の縦貫自動車道の南側にいるみたいです。
山陰道は北側ですね。でもクルマが恐くて北側に渡れず、そのまま歩きました。

結局、桂の駅に着いた頃には真っ暗でした。
桂駅の南には革島城があるのですが・・・・
ま、またいつか機会があればということで。






トップページへもどる