大和 貝吹山城

栄光の越智氏! 栄光の越智館! そして栄光の貝吹山城!


こんにちは、のぼです。
今回は栄光の貝吹山城をとりあげてみました。何が栄光なのかって?それは訊かないで下さい。
とにかく越智氏は栄光なのです。ここは学生時代に少し調べたことがあって、特に思い入れの強い
城跡ですね。そのときの栄光の越智班メンバーの中には、丹波黒井城の冒頭にも登場した友人Mも
いて、特に越智館の踏査ではいくつかの伝説を残してくれました。今回は越智館には突入していない
のですが、また回を改めて紹介してゆきたいと思います。





貝吹山城
中世に活躍した越智氏の根拠地にあり、西にある越智館の詰の城として使われていたようです。
山頂から貝を吹き鳴らしたことから貝吹山と呼ばれるようになった、という伝承があり、実際に
山頂付近からは北の大和盆地が見渡せるので、物見台のような施設としてスタートしたものと
思われます。城は山頂付近と南側の山裾に多くの曲輪を配置しているのですが、虎口・土塁・堀
などはほとんどなく、石垣も主郭のごく一部に埋没した形で残るのみなので、見どころに困ります。
城内の通路も判然としない上に、山頂部以外は未整備で、竹と倒木のため遺構が確認できません。
越智氏自体は、何度も高取城に逃げ込みながらも天正10年(1582)まで生き残っていたらしい
のですが、城は天正8年(1580)の大和国の破城で廃されたようです。
山頂付近に牛頭天王社の石灯籠(竿と基壇の部分だけ)と石碑が残されているので、いつの時代か
に牛頭天王社が建てられていたようですが、城跡との関連は不明です。





では、出発しましょう!




飛鳥駅

近鉄飛鳥駅にやってきました。
以前は、駅をおりてから右手の小川に沿って中街道を歩いていたのですが、今回は寄り道があるので
左に進んで踏切を渡ります。この写真は踏切から飛鳥駅を撮ったもの。
駅を真正面から写した写真ばかりなので、今回はいつもとは少し違う雰囲気・・・・
にしたかったのですが、別に目新しい感じはしないなあ。
むしろ鉄道大好きお兄さんが運転席背後にへばりついて撮った写真のようです。





越への入り口

皇紀二千六百年記念石碑

明治天皇の行幸記念碑と並んで、やたらと頻出する皇国時代のあだ花ですね。
ちなみに去年(2006年)は皇紀2666年という6だらけの紀元だったわけですが、おおっぴらに
イベントをやってる神社はあまりなかったような。
33年後の皇紀2700年にもこんな石碑を建てたりするんだろうか?





素敵な田舎道

拳法道場や老人ホームを抜けて、ぷらぷらと。
冬なのに暖かい。
おかげで城あるきに最適の日和となりました。
もともと冬は下草がなくて山城の遺構を見やすいので、城のシーズンと謂われているらしいのですが、
私の場合は城までの道のりを歩く、という部分が多大に含まれているわけで、あまり真冬や真夏には
動きたくないのです。
冬に田舎道を歩くとさびしいし。





第一の目的地

さあ、最初の目的地に着きました。
でも早まってはいけませんよ。
ここは貝吹山城ではありません。これは・・・




どど〜んと。

牽牛子塚古墳です。
けんごしづか、と読みます。七世紀後半、いわゆる終末期古墳というやつですね。
何でもかんでも城跡に見えてきたら要注意ですよ。
・・・と自分を戒める。
実際、この付近は越智氏の城塞網があったはずなので、どこが城跡でもおかしくないのですが。





開口部

この古墳は、ただの古墳じゃない。
・・・らしいです。
解説によると、墳丘は八角形石槨が複室構造というから、なにやらとてもスゴイらしいのですが、
古墳ってのは発掘してナンボの世界なので、地表からの観察だと何が何やらさっぱりわかりません。
石室にもこうやって頑丈な柵がしてあるし。





第二の目的地

さらに奥へずんずんと。
Vの字に回り道をさせられて、ようやく見えてきましたよ、次の目的地。
巨大ブロッコリー、いやパイ包みシチュー・・・・もとい鑵子塚(かんすづか)古墳です。
また古墳かい!とお嘆きのあなた。
貝吹山城の東麓は、真弓丘陵という終末期古墳の宝庫なのですよ。
全国から物好きさんたちが集まってくるくらいすごいところなのです。





石室内部

じゃあ、ちょっくらお邪魔しましょうかね。
せっかく見学できるようになっているんだから、石室内に入るのが礼儀というものでしょう。
お墓、といわれるとそうなんですけど、私は霊感とか無いから心配しなくても大丈夫ですよ。
この写真は石室に入ってから奥の方に向かってシャッターを切ったものです。
なにかおかしいと感じませんか?
いや、霊感とかそういう意味じゃなくて。
じゃあ次の写真を。





こっちは入り口

これは私が入ってきた入り口です。
これでもうおわかりですね。
そう、この石室は両側に開口部があるのです。
どちらか片方は後世に作られたものじゃないの?と私も思ったのですが、二枚の写真を見比べて下さい。
どちらもちゃんと入り口の天井石が組まれていて、盗掘とかで後からボカンと開けたものじゃないことが
わかりますね。最初からこういう構造だったようです。
追葬できるようにするため、とかいわれていますが、それにしたって入り口を二つ作る理由としては弱い
ですね。
行き止まりになっていない古墳。
ふむ、謎です。





貝吹山城へ

さて、次はいよいよ貝吹山城です。
農免道路に出て、西へ。
この道路に平行して越智谷の幹線となる道が通っていたはずなのですが・・・
鑵子塚古墳の北側の道が越智谷の道だったんでしょうか?だとしたらあのV字の迂回は・・・・?
ちなみに越智館と貝吹山城、それに南の佐田城などをひっくるめた越智谷の城塞群は、越前朝倉氏の
一乗谷と似た形になります。
が、そうすると問題は木戸、すなわち城全体の入り口です。
東西のどこかに城虎口として木戸を設けているはずなのですが・・・
貝吹山とその東の山の間に切り通しがあるらしく、そこが木戸とされているのですが、それだと城を出た
道はどこに繋がっているのでしょう?どこかで中街道に繋がっていたと思うのですが・・・





与楽への分岐点

おお、貝吹山城への案内板が!
写真だと文字までは読みとれないですが、右矢印といっしょに貝吹山城・乾城古墳・鑵子塚古墳の文字が。
ここで城とは反対方向に行くと与楽の集落に出ます。その周囲には佐田城とその出城があって、さらに
向こうへ突き抜けると、飛鳥駅前を南北に通っていた中街道に合流します。
貝吹山城・越智館・与楽の三点が交わるところ。
ここは重要なポイントです。






ここにも謎が

あやしげな門があります。
柵で囲まれていて、後ろの建物にも繋がっていないのに明らかに故意で残されている門。
もちろん門としては機能していません。
なにかいわくがあるのでしょうね。
この門に限らず、昔のものが残るのには何か理由があります
忘れられた、壊されなかった、といったしょーもない理由であったとしても、そこに何らかの背景や意志が
あるのですよ。
また逆に、残らなかったものにも、消えてしまった理由があります
いろんな史跡に触れていると、なぜこんなものが残ったんだろう、どうしてあれは残らなかったんだろうと
考えてしまいます。
この門にも、きっと何か・・・・あるんでしょうね。





ここにも道標

謎の門のそばにも道標がありました。
貝吹山城は右、鑵子塚古墳と乾城古墳は左・・・・えっ?鑵子塚古墳は反対方向じゃあ・・・?
この道標が案内している鑵子塚古墳とは、さっきの巨大ブロッコリーとは別の古墳、与楽鑵子塚古墳
ことを指していると思います。
この道標、クレームにならないのかなあ。ま、嘘ではないんだけど・・・
そういやさっきの門の所には、昔、何が出てくるかわからない缶ジュースの自販機があって、貝吹山城
で疲れた身体に、強烈な炭酸飲料とかを出されて困惑したりもしたっけな。
ミステリー自販機も時の流れと共に消えてしまったようですが。
いや、自販機の方は、それこそクレーム喰らったのかも知れませんが・・・





乾城古墳

で、こちらは乾城古墳・・・・です。
うーむ。なにやらえらいことになっているなあ。
外光漏れ入る素敵な石室だったと記憶しているのですが、とうとう崩落したんでしょうか?





近づいてみました

やっぱり立ち入り禁止になっています。
なにがどうなってこういう状態になったのか?
そして今どういう状態なのか?
何の説明もないのでネガティブな想像に先走ってしまいます。
ところで、乾城古墳の乾城という呼称ですが、貝吹山城からみて南西の方角にあるから・・・・
だと坤になってしまうので、方角から取ったものではありませんね。
この付近の土地を「カンジョ」と呼んでいたので、そこからつけたもののようです。
越智氏時代、ここは米などの物資の集荷場になっていて、以来この土地を「勘定」と呼ぶようになった
そうです。





貝吹山頂付近

いよいよ貝吹山城に登ります。
道標に従って山道を登ると、貝吹山城の主郭部にたどり着きます。
なんだかさっきの鑵子塚古墳と大差ない光景ですが、こっちはまぎれもなく栄光の貝吹山城です。
山頂付近はきれいに草も刈られていて、なかなかよろしい。
主郭は全長10メートル程度の正方形と小さいのですが、北には主郭の倍ほどもある長方形の曲輪が
突き出しています。南には主郭と同程度の曲輪が二つ連なっています。
以上がこの城の主要部なのですが・・・・土塁も堀も、な〜んもついていません。
シンプルに曲輪だけです。






近寄りがたいトイレ

でもトイレはついています。
このトイレ、むかしからあるんですが、異様な存在感を発揮していますね。
開けたら死体でも入ってるんじゃないかと危ぶんでしまうのですが、使われているんでしょうか?
主郭から見て丑寅の方角にあるので、不吉ですねえ・・・





倒木を足場として

それでは貝吹山城の見どころをご紹介しましょう。
城の主要部をはずれると、遺構は一気に藪の中となります。
どこに突入しても笹と竹の世界なのですが、今回は山の南側に広がっている遺構群にご案内します。
この城跡は藪(ブッシュ)の他に、倒木もたくさんあって行く手を阻んでくるのですが、ここでは
倒木を橋として渡るというテクニックが必須となります。
そして橋となっている倒木は樹皮がはげているので、すぐに判別できますね。
あ、ここに書いてあることを実行に移す際には、自己責任でお願いします
なにがあっても知らないよ・・・にやり。





門跡?

ただの竹藪にしか見えません。
が、ここは下からの道が突き当たる場所で、写真右奥には大きな石が写っています。
門の跡とされているのですが、問題は門ではなく道です。
門をくぐったあと、道は右に折れているようなのですが、曲輪は行き止まりになっています
じゃあ左に行けば・・・二つくらい曲輪を横切って、現在の登山道に行けなくもないのですが、
さきほど見たとおり、道がないのです
これはいったい・・・?





門跡のちょい下

行き止まりの曲輪に通じている道を、今度は下りてみます。
ますます何が写っているのか判別できない写真ですが、写真奥がさきほどの門跡。
写真右側が行き止まりの曲輪で、左が登山道方面です。
この道がどこから来たものなのか判明すれば、行き止まりの曲輪の意味も見えてくるかも・・・
けど、この倒木だらけの現状では道を辿ることさえ容易ではありません。





土饅頭?

縦土塁のような土饅頭を乗り越えて、横向きに続いています。
現状ではこうなっているのですが、城道としては不自然ですね。
私が見たところでは、道は土饅頭を乗り越えないで、ここからつづら折りに蛇行して下に続いている
と思うのですが、さすがにこれ以上は不明としかいいようがないです。





土塁・・・のはず

もう完全にただの藪ですが、土塁の写真です。
門跡から雛壇状の曲輪を下りてゆくと、なだらかな広い曲輪に出ました。
この城で唯一、土塁状の遺構を見ることが出来る・・・はずなのですが、ここも藪になっています。
城の南側は曲輪の数こそ多いものの、曲輪の連結がいい加減で、堀や虎口もまったくありません。
思うに、防御のためというより倉庫や宅地を建てるための造成ではないでしょうか?
ひょっとすると山頂付近の主要部とは全く連結していないかも知れません。
貝吹山の南側は一見たくさんの曲輪が連なっていて防備が厳重なようですが、じつは越智氏の
城塞網の内側ということで、かなり防御は甘かったんじゃないでしょうか。





山頂の北側

うって変わって立派な山頂部の曲輪
狭く、やや奥まったところにある山頂よりも、畝傍方面を望むことが出来るこちらの曲輪の方が
重要だったはず。
城内で一番の広さを持ち、眺望に優れたこの曲輪こそ本郭というべきでしょう。
でも・・・土塁も櫓台もないんですけど・・・





牛頭天王を祀っていました

要注意なのは、この山頂付近に牛頭天王社があったことです。
越智氏時代からあったものかどうかはわかりません・・・
牛頭天王は疫病を起こすといわれるインドの神様です。
この神様が疫病を起こすんなら、こいつのご機嫌を取っておけば疫病が起きない・・・という考え方で、
疫病を防ぐ神様として日本ではおなじみですね。
ただ、わざわざ牛頭天王だけを祀る社祠を建てていたということは、疫病で痛い目にあったことがある
ということなのでしょう。それを越智氏の城跡に・・・
多くの牛頭天王社は明治の廃仏毀釈で攻撃対象とされていたので、この貝吹山頂でも明治初頭まで
天王社があったとみるべきなのでしょうか。だとしたら城跡は改変されている可能性がありますね。
ところで、この石・・・・牛頭天社になっているんですけど、それはいいのかなあ。





貝吹から北西に

主郭北西から山を下ります。
めざすは越智館。今まで一度も試したことはないのですが、貝吹山城の北西にある出郭を
辿っていけば越智館まで繋がっているということです。
今回はそのルートに挑んでみました。
そういやこのルート上には小さな古墳がいくつかあって、崩れかけた竪穴をいくつか見られた
はずなのですが・・・・





名もなき古墳

こんな感じで。
っつても、この写真じゃよくわからないですよね。
もっと見応えのある古墳が2〜3つあったと思うのですが。
今度こそ崩落した?




飛鳥病院方面への道標

ううむ、やっぱり無理か。
道が不明瞭です。とっても・・・
倒木の樹皮が剥げているところが道、というテクニックも気休め程度。
方角と勘を頼りになんとか道標までたどり着きました。
この道標のところでVの字に折れて飛鳥病院方面に抜ける道になっているのですが、
越智館方面へは直進あるのみ。
古墳とおぼしき土饅頭の上まできて・・・完全に道をロスト。
はあ、やっぱり貝吹〜越智館ルートは消滅しているのかぁ・・・
しょうがないんで飛鳥病院方面に抜けます。





なぜか立ち寄ってしまった

飛鳥病院の脇に出ました。
どっかで見たような谷間だと思ったら、乾城古墳から与楽鑵子塚古墳へ向かう道でした。
あんまり進んでなかったのね・・・・もっと越智館の近くに出ると思ったのに。
ついでだから与楽鑵子塚古墳にも寄ってみました。
この看板から開口部まで遠かったんですけど・・・
おまけに暗すぎて写真撮れなかったし。うき〜。





越智館

ようやくたどり着いた越智館。
字オヤシキ。地図上でもはっきりと判別できる冂型の山に囲まれた土地。
なだらかな三段の曲輪で、中央部を南北に道が通っています。
今回はパスしましたが、三方を取り囲む山は古墳らしき土饅頭でいっぱいです。
西側には大きな堀切が通っているのですが、軍事的というよりも北越智方面への通路
のように思われます。
ここが越智氏の本拠地・・・・
ふと思ったのですが、越智館と貝吹山城は常に同時存在していたのでしょうか?
越智館が廃され、貝吹山城のみで運用されていた時期がある・・・ような気がします。





光雲寺山門

越智氏の菩提寺、光雲寺にやって来ました。
扁額の「越智山」がいいですね。
ここの東には越智氏の氏神、在南神社がありますが、とある理由で今回は訪れていません。
ま、たいした理由でもないんですが・・・





厄よけの杉

光雲寺門前に立つ厄よけの杉です。
数少ない越智氏時代のエピソードを秘めた木ですね。
鳥屋陣羽守の息子二人が敵に追われて光雲寺に逃げ込んできたとき、この杉の木に登って
難を逃れた・・・という話なのですが、このとき助かった二人が共に厄年だったことから、
この木は厄よけの杉と呼ばれるようになったとか。
それとこれとは関係無いんじゃあ・・・とか野暮なツッコミはだめですよ。
それにしても鳥屋陣羽守って何者なんでしょう?
鳥屋というくらいだから越智氏の一族鳥屋氏の誰かだと思うのですが、陣羽守という名前は
なんでしょうね。出羽守か何かの間違いじゃないんでしょうか。
 雨は降る降る 陣羽は濡れる 越すに越されぬ 田原坂 
というのがあったような。
えっ、あれって陣羽織の陣羽じゃなく人馬のこと?



越智氏の墓

光雲寺境内にある越智氏の墓です。
なんだか今回、墓ばっかしですね。
山門脇にもあったのですが、左の石碑には「吉野朝忠臣越智氏の墓」という意味のことが
かいてあります。
南朝方の人物はなんでもかんでも忠臣というあたりに時代を感じます。
この二基の墓の隣にも越智一族の墓があるのですが、どれが誰のかわかりません。
弾正忠家栄くらいは別格にしてもいいと思うのですが。





こっちは新しい

最近つくられたっぽい越智氏の墓。
さすがにこちらは南朝忠臣とか謳ってはいません。
が、今もこうして子孫から大切にされているのは素晴らしいことです。
越智氏の活躍を忘れない・・・祖先の業績を知り、学ぶということから歴史学は始まっている
のだと思います。





上と同じ場所

斉明天皇陵へと続く道がありました。
はじめから斉明陵には寄る予定だったので、ほいほいとこの道を登ってしまいました。
この瞬間、越智氏の氏神を祀る在南神社の存在は忘却の彼方へ。
斉明陵でトレーニングをしていたおじさん曰く、
「この道は夏になるとマムシが出る」そうです。





斉明天皇陵

斉明天皇陵ですね。
越智岡上陵というそうです。
今日、最初に立ち寄った牽牛子塚古墳は、ダテに八角形をしているわけではなく副葬品も
すごかったらしくて、被葬者は斉明天皇ではないかといわれています。
じゃあ目の前にあるこれはいったい・・・?
この古墳の整備や管理のためにかかった税金はいったい・・・?





車木の集落

斉明天皇陵を下りて、右へ。
実はこの道、旧街道です。
また街道歩きか、とお嘆きの方・・・・諦めて下さい。
城とは街道との位置関係を把握しなければならないものなのです。(断言)
そして位置関係を把握するには、歩くのが一番!だと思います。(やや弱気)
この街道は御所〜薩摩〜土佐(旧国名のようですが、高取町内にある地名です)を経て
壷坂峠へと続いています。
つまり、越智と高取を結ぶ道なのです。
越智氏時代の高取城がどんなものだったのか分かりませんが、何度攻められても一度も
落城しなかったほどの堅城ですね。
ちなみに貝吹山城は・・・しょっちゅう落ちてますね。
しかし守城側が勝った戦いには、あの松永久秀を撃退したという栄えある戦いもあります。
貝吹山城を取り返しに来た越智軍が撃退されたということもありますが・・・






柏原の集落

曽我川を渡り、御所に向かいます。
このあたりは水平社運動発祥の地で、近くには水平社博物館もありました。
それにしてもこのあたりの町並みは豪壮ですね。
下手な美観地区よりもよっぽど見応えがあります。
クルマが少ないということも素敵ですね。





城郭っぽい・・

さらに寄り道して玉手の集落。
越智氏の一族、玉手氏の本拠地ですが、山の上の玉手城以外に、玉手氏がらみの史跡は
残っているんでしょうか?
実はこのあたりに来るのは初めてなもので、あまり詳しくなかったりします。ほへー。
ここもまあ立派な日本家屋がみっちりと。
堀らしき水路が通っているのも特筆すべきですね。





茅原付近

御所の市街地にたどり着きました。
ここ茅原から南へ向かう街道は、大口峠から下市へと続いています。
今でこそ御所市街地の一部と化していますが、かつては交通の要所だったんですね。
御所の町は、それだけでみっちり楽しめるスポットなので、今回の越智氏を偲ぶ旅からははずして
おくとしましょう。
この付近はまた別の機会に・・・







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